この眼鏡っ娘マンガがすごい!第126回:清原なつの「勅使河原松生の半生」

清原なつの「勅使河原松生の半生」

集英社『ぶ~け』1987年7月号

眼鏡の物理的機能である「見える」と心理的機能である「ほんとうのわたし」を効果的に組み合わせた不思議な異色作だ。本作のようなトボけているように見えて実は味わい深い作品が描けるのは、他には川原泉くらいなものだが、眼鏡っ娘を大量に描いているのは清原なつのの方だ。

さて、眼鏡っ娘ヒロインの則天門ひすい(愛称ひーちゃん)は、極度のイケメン好き。イケメンが好きすぎて、イケメンを見ると石になってしまう。ある日、うずくまっている男性に声をかけるが、眼鏡を壊してしまったのでどんな顔なのか分からない。その男性は、実は超イケメンの勅使河原松生だった。

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勅使河原松生は、自分のイケメン顔目当てに女が寄ってくるような生活に疲れ果てていた。そんな松生が、人生で初めて自分のことをイケメン扱いしない女に出会ったのだ。喜んだ松生は、ひーちゃんとつきあい始める。しかし、ひーちゃんは実際は極度のイケメン好きだ。眼鏡をかけて松生を見たら、たちまち石になってイケメン好きということがバレてしまう。ひーちゃんは眼鏡をかけずに松生とデートを重ねる。

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二人は、「平穏な日常的青春男女交際」を続けるために、メガネを忘れようとする。しかしもちろん、メガネを邪魔者扱いするような生活は、欺瞞でしかない。二人はだんだん欺瞞性に耐えられなくなってくる。

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ひーちゃんは、松生のイケメン顔を見たくなってくる。松生のほうも、ひーちゃんが男を顔で判断しない理想の女性だと思い込むようになってくる。しかし実際に見てしまったら、ひーちゃんのイケメン好きがバレて、二人の幸せな関係が完全に壊れてしまう。
この矛盾を端的に表現したセリフが興味深い。ひーちゃんは描き文字で「いやっ見たくない」と叫んでいる。そして同時に活字で「見られたくない」と思っている。「見たくない」と「見られたくない」というセリフが同時に発せられているのだ。
本コラムに長くお付き合いいただいている方には、このセリフが極めて眼鏡的であることに、既にお気づきだと思う。改めて簡潔に説明すると、眼鏡とは「見る/見られる」の権力関係を可視化するアイテムである。男どもが女性から眼鏡を外そうとするのは、女たちを単に「見られる」ための客体に貶め、「見る」という能動性を男が独占しようとする権力的な欲望の現れである。このような眼鏡の機能を踏まえていれば、ひーちゃんが「見たくない」と「見られたくない」を同時に発していることの意味が明瞭になる。能動的な主体であることを拒否することで、同時に見られる客体であることから逃走する、ということだ。
女性が権力の側(見る立場)に立つと、貶められる。東京都知事選で石原慎太郎が小池百合子に発したセリフは、典型的である。ひーちゃんは、自分が「見る」という権力を手にしたら、同時に自分の全人格が否定されることを理解している。これは中島梓が『コミュニケーション不全症候群』で喝破したように、「やおい」の基本構造でもある。おそらく清原なつのは、そのことに自覚的だった。次に引用するシーンに出てくる「ありのままの自分」というキーワードに注目したい。

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ここで描かれているのは、男性にとっては「見られる」ことが「勇気」であり、女性にとっては「見る」ことが「希望」であるということだ。常に視線を独占してきた男性にとってみれば、眼鏡をかけた女性に「見られる」こと、つまり女性に視線を譲り渡すことは「勇気」である。一方、女性にとってみれば、権力を獲得すること=視線を回復すること=眼鏡をかけることは、「希望」である。
二人は、あらゆる勇気と希望を、眼鏡に込める。

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眼鏡をかけたひーちゃんは、イケメンの松生の顔を見て石になってしまう。しかし松生は、そんなひーちゃんをしっかり受け入れる。松生の涙は、ひーちゃんの石化を解除していく。彼らの勇気と希望は、眼鏡によって愛へと昇華したのだ!

本作は一見するとナンセンスギャグの作品にしか見えないかもしれないが、眼鏡哲学的に考察を加えると、男女間の権力構造とその変容の可能性を浮き彫りにする問題作であると言える。

書誌情報

本作は48頁の短編。単行本『アンドロイドは電気毛布の夢を見るか?』所収。本のタイトルにピンと来た方には察しが付くだろうが、そういう作家である。本作以外の作品にも、<普通の少女マンガ>とは違う、不思議な味わい深い世界が描かれている。

単行本:清原なつの『アンドロイドは電気毛布の夢を見るか?』集英社、1987年

 

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