この眼鏡っ娘マンガがすごい!第80回:平野耕太「ヘルシング」

平野耕太「ヘルシング」

少年画報社『ヤングキング アワーズ』1998年No.27~2008年11月号

眼鏡っ娘が活躍するのは確かだけれども、客観的にはオッサン眼鏡たちの存在感の方が強烈ではある。客観的に見てオッサンたちのカッコよさは太陽の牙ダグラム並だが、とりあえず個人的にオッサンには興味と関心がないので、客観的な話はしない。

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いやー、CV榊原良子は本当にいい。私には、CVを指定してもらえればその声を脳内で再生する能力があるのだが、榊原良子は本当にいい。特にこのシーンの再生が良かった。たまらない。榊原良子に褐色眼鏡っ娘を演らせるとは、天才か。

眼鏡っ娘v.s.メガネ君の最終決戦では「人間」の定義に関する勝負があった。ここは眼鏡的にも興味深い論点を含んでいる。

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少佐が今際の際に発した「私は私だ」という言葉は、極めて大陸的な響きを持つ。フランスの合理論はドイツ観念論に昇華し、「私は私だ」という論理を精緻化していった。「即自的な私」と「対自的な私」の弁証法的同一。そしてそれは1970年代の眼鏡っ娘少女マンガにも「起承転結構造」の形で引き継がれ、「私は私だ」という近代的自我は高度経済成長後の日本で肥大化していく。「私は私だ」という少佐の主張は、基本的には1970年代乙女チック眼鏡っ娘たちの「私は私」という近代的自我と響きあう。
一方でインテグラの言う「義務」には、イギリス経験論的な響きを感じる。ヒュームやアダム・スミスの市民社会論の響きがある。独我論を拒否しても不可解な現実と対峙できる経験の蓄積がある。眼鏡っ娘とメガネくんの頂上決戦においては、二つの人間論が交わることなくすれ違っている。この理論的にも決着がついていない人間論の交錯は、しばらくは様々な論争の通奏低音として響き続けるだろう。

本作にはメインヒロインの他にも魅力的な眼鏡っ娘が登場する。特にリップバーン中尉は、たまらない。この眼鏡の描写は、すごい。

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法外で無慈悲な暴力を前にして怯え震えていた小娘が、眼鏡をかけなおした途端、自分を取り戻す。これが眼鏡の力だ。
しかし残念ながら、彼我の力の差はいかんともしがたい。圧倒的な暴力の前に、眼鏡っ娘はなすすべもない。殴られ、吊り下げられ、体を貫かれ、血まみれになり、食われる。

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この食われるシーンが、ものすごい。ものすごいのは、眼鏡の描写だ。「D⑧」で中尉は殴られて、その衝撃で眼鏡が吹っ飛んだ。続けて釣り下げられ、体を貫かれるシーンでも、もちろん吹っ飛んだ眼鏡は吹っ飛んだままだ。そして食われるのは次号になるのだが、月が替わって掲載された「D⑨」では、吹き飛んだはずの眼鏡が復活しているのだ。これを見た時、一瞬、私は作画エラーかと思った。しかし思い直す。これは意図的に眼鏡をかけなおしたのだ。アーカードが眼鏡を拾って、中尉を眼鏡っ娘にしてから食ったのだ。そうでなければ、最後の戦いの最中に中尉が復活するとき、中尉が眼鏡っ娘でなくなってしまう。というか、どうせ食うなら吸血鬼だって眼鏡っ娘のほうがいいよなってことだ。

もう一人。ヘルシング本編では眼鏡姿で登場しなかったが、別作品「CROSS FIRE」では主役を張っている眼鏡っ娘の「由美子」だ。まあ、ヘルシング本編では眼鏡をかけていないことが死亡フラグになってしまったけれど。

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眼鏡の「ON/OFF」が人格の切り替わりの目印になるという眼鏡っ娘。眼鏡ONの人格が「由美子」で、OFFの人格が「由美江」だ。ところで、「由美子」という名前のマンガ家は、とても眼鏡に優しい。本blogでも取り上げた田渕由美子を筆頭に、鈴木由美子、川原由美子、前田由美子と、素晴らしい眼鏡っ娘を描く作家の名前がすぐに浮かぶ。渡辺由美子はマンガ家ではないが、もちろん眼鏡に優しい。ここで眼鏡っ娘キャラに「由美子」と名前がついているのは、なんの因果かと思ったね。

■書誌情報

単行本全10巻。セカイ系全盛のご時世の中でまっとうな作劇をしていた点でも普通に面白い作品で、ラストまでずっと興奮しっぱなしで読めるので、ぜひ単行本でまとめて読みたい。

単行本セット:平野耕太『ヘルシング』全10巻(ヤングキングコミックス)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第79回:須田さぎり「メガギフト」

須田さぎり「メガギフト」

メディアワークス『電撃帝王』2004年Vol.1~3
エンターブレイン『comic B’s-LOG』2007年9~10号

眼鏡で世界を救うために活動する男、目々澤(めめさわ)。目々澤は、日々路上で少女たちに眼鏡をかけさせている。そんな眼鏡にすべてを賭ける男が、理想の眼鏡素体と出会うところから物語が始まる。その理想素体少女に眼鏡をかけさせることができれば、目々澤の野望が達成できるのだ。

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理想素体少女の姉ミツルも、ひそかに眼鏡活動を続けていた。目々澤とミツルは「全人類に眼鏡を装着させる」という同じ理想を抱いていた。だがしかし、二人は眼鏡観が異なっていた。ミツルは、ズレ眼鏡が許せなかったのだ。眼鏡のジャスト・オンを断固主張するミツルに、目々澤が立ち向かう。

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目々澤は叫ぶ。「メガネの可能性は我々が封じてしまってよいものではない。メガネはもっと自由であるべきだ!!メガネをびくびるなっっ!!!!」。目々澤の眼鏡オーラに圧倒されるミツル。理想の眼鏡素体少女が、目々澤に圧倒的な眼鏡力を与えたのだ。戦え目々澤!世界に平和が訪れるまで、少女たちに眼鏡をかけてかけてかけまくるのだ!

この目々澤の「メガネはもっと自由であるべきだ!!」というセリフ、読んだ当時は実はあまりピンと来ていなかったけど、10年経ってようやくその味わいが分かってきた気がする。私もかつては原理主義的に「眼鏡、かくあるべし!」と信じていたけれど、それは眼鏡が秘めたポテンシャルを小さく見積もることでもあった。単行本の後書きで著者も触れているけれど、この10年で眼鏡をとりまく環境は大きく変化した。20世紀からは想像できなかった世界が、いま、眼前に広がっている。私が思っていた以上に眼鏡のポテンシャルが凄まじかったということだ。この先も、きっとそうだろう。我々自身の思い込みだけで眼鏡の可能性を閉じ込めてはいけない。その思いが目々澤の言う「メガネはもっと自由であるべきだ!!」という言葉に込められている。

というわけで、目々澤の活躍は続く。

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うむ。素晴らしい。

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うむ。素晴らしい。
しかし理想の眼鏡素体少女に目々澤が告白されたときのエピソードには、ひっくり返った。本当に眼鏡かけてない女は眼中にないのな。目々澤には幸せになってもらいたいと、心の底から思う。

■書誌情報

079_05同名単行本に全話所収。男性向媒体の『電撃帝王』で連載が始まって、女性向媒体の『comic B’s-LOG』で連載終了するという他にあまりない掲載形態だが、媒体が変わっても目々澤の活躍ぶりは一緒。
著者は強烈なメガネ君マンガも描いている。タイトルが「ひざまずいてメガネをかけろ」だからなあ。初めて見た時は本当にびっくりした。

単行本:須田さぎり『メガギフト』(B’s LOG Comics、2007年)

以下はメガネくんマンガ。
単行本:須田さぎり「ひざまずいてメガネをかけろ」(B’s-LOG COMICS、2006年)
単行本:須田さぎり「きみのくちでメガネをたたえよ」(B’s LOG Comics、2008年)

御本人が凛々しい眼鏡美人さんで、お話しするときはいつも舞い上がっていたのだった。

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第78回:石本美穂「冬の虹を見にいこう」

石本美穂「冬の虹を見にいこう」

集英社『りぼん別冊』1996年2月号

054_hyou本作は「眼鏡っ娘起承転結構造」の教科書的な美しい展開を見せると同時に、ルッキズム(見た目主義)について難しい問題を我々に投げかけている。

「起」:眼鏡っ娘女子高生の陸は、17歳になっても彼氏がいない。本人は彼氏ができないのは超ブ厚い眼鏡のせいだと思っている。

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「承」:陸の幼馴染で眼科医の息子の天才ハルくんが、なんと視力が良くなる目薬を偶然作ってしまう。その薬を浴びた陸の視力は奇跡的に回復し、眼鏡をはずしてしまう。その途端、モテモテに。

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眼鏡を外した陸に近づいてきたのが、学園一のイケメンで有名な篠崎くん。突然のモテ期に舞い上がった陸は、篠崎の告白を受け入れ、付き合うことになる。しかし天才ハルくんは、それが偽りの愛であることをしっかり見抜いていた。世界の真実が見えているハルくんは陸に忠告するが、眼鏡を外して心まで近眼になってしまった陸は、その忠告に対して感情的に反発してしまう。

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ハルくんは「そいつら君の「メガネのない顔」が気に入ったんだろ?結局は上べしか見てないってことだよな」と忠告する。まさにそのとおり。篠崎は、まさにルッキズム(見た目主義)の権化だ。人間を人格で扱わず、見た目だけで判断する最低男なのだ。しかし見た目を褒められて有頂天の陸には、ハルくんの言葉は届かない。

「転」:しかし偽りの愛は破綻する。陸は篠崎とデートを重ねるが、だんだん違和感が増幅していく。その一方で、ハルくんの存在が次第に大きなものとなっていく。どうするべきか悩んだ陸は、篠崎の本心を知ろうとして、眼鏡をかけた姿を見せる。そこで篠崎は最低のリアクションを見せた。陸は、篠崎がしょせんは上べしか見ていないクソ男だということを認識する。陸は眼鏡をかけることによって、正常な判断力を取り戻したのだ。

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「結」:陸はハルくんの忠告が正しかったことを悟り、篠崎と別れる決意をする。フラれた篠崎は逆ギレしてハルくんに襲い掛かるが、実は腕の立つハルくんは最低男をあっさり撃退。ハルくんは見事に眼鏡っ娘を守り切ったのだ。よかった、よかった。

ん?

しかし、しかしだ。そもそも思い返してみれば、この天才ハルくんは視力が良くなる薬を開発していたのだった。もしもこの研究が成功してしまったら、この世界から眼鏡が消えることを意味する。恐ろしい男、ハル。この物語も、恐ろしい方向へ進んでいく。ハルは陸に「目薬が完成したら、メガネを外して雪の虹を見にいこう」などと恐ろしいことを口走る。ああ、このまま天才の手によって世界から眼鏡が消えてしまうのか!?

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さらに恐ろしいのは、ハルくんの人間性が、篠崎だけでなく、我々にも反省を迫ってくるところだ。ハルくんは、陸がメガネのときも、しなくなってからも、同じように接していた。要するに、見た目に左右されず、陸の人格と真っ直ぐに向き合っているのだ。率直に申し上げて、私は眼鏡を外した女に対して同じように接する自信はない。見た目に左右されずに陸の人格を尊重するハルくんの姿勢を見てしまったとき。篠崎に対して放った「ルッキズム(見た目主義)」という批判は、我々に対してブーメランとなって帰ってきてしまうのだ。どうする俺!?
とりあえずこの難問は棚に上げて、本作の結末を恐る恐る確認しよう。はたしてハルくんの研究が成功して世界から眼鏡が失われてしまうのか? 陸は眼鏡を外してしまうのか!!???

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やったくれたぜハルくん! ハルくんは超うす型の眼鏡を開発して、陸にプレゼントしたのだ! よかった! 眼鏡は救われたのだ!

ということで、ハルくんは一人の眼鏡っ娘を立派に救った。が、我々に対して重い課題を残していった。ルッキズム(見た目主義)批判に対して真剣に答えるのは我々の責務だが、残念ながら紙面が足りない。機会を改めて考えていきたい。

■書誌情報

本作は48頁の中品。同名単行本に所収。

単行本:石本美穂『冬の虹を見にいこう』(りぼんマスコットコミックス、1997年)

「まんが王国」で無料で読むことができるようだ。

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第77回:鳥山明「Dr.スランプ」

鳥山明「Dr.スランプ」

集英社『週刊少年ジャンプ』1980年5・6合併号~84年39号

言わずと知れた、日本を代表する眼鏡っ娘マンガだ。仮にこの作品が無かったとしたら、日本の眼鏡文化は10年遅れたのではないか。想像するだに恐ろしい。特に1980年代は全体的に眼鏡に厳しい時代だった。80年代が眼鏡にとって最悪の暗黒期だったことは、コミケのサークルカット調査の結果から客観的にわかる。この暗黒期にあってアラレちゃんの眼鏡が燦然と輝いてくれたことは、いくら感謝してもしたりない。現在でもCMキャラクターに起用されたり、「アラレちゃん眼鏡」という言葉が普通に流通するなど、35年経ってもパワーは衰えない。
そんな国民的眼鏡作品の中身については改めて触れる必要がないので、論点を4つに絞って通覧する。まず一つ目は、「アラレちゃんが眼鏡をかけた理由」について。これについては芸人のキングコング西野が根拠のないデマを垂れ流してしまったので、事実を認識しておく必要がある。

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077_02アラレちゃんが眼鏡をかけるのは、第一話冒頭。世界が輝いた決定的瞬間だ。しかし作者の鳥山明本人の弁によれば、アラレちゃんの眼鏡はすぐに外される予定だった。この事情については単行本16巻に明記されている。それによれば、アラレちゃんに眼鏡かけさせたのは、「ロボットが近眼だったらおもしろいかな~というほんのギャグのつもり」ということだ。本人が「マジメにかたる」としたうえで言明された内容なので、韜晦とは考えにくい。
アラレちゃんの眼鏡に深い理由がなかったことを、残念に思うべきだろうか? 私はそうは思わない。むしろ重要なのは、「いつのまにかトレードマークになってしまい、メガネをはずすきっかけをうしなってしまった」という証言だ。これは眼鏡そのものに「力」があり、作者の思惑を超えて眼鏡が作品を支配したことを示している。鳥山明という代替の効かない才能の元に眼鏡が降りてきて、それを世界が承認したという事実。これをしっかり踏まえておきたい。アラレちゃんが眼鏡をかけたことは、キンコン西野が言うような技術論で済ませるべき問題ではなく、「運命」の相の元で理解すべき事態なのだ。

ところで、ここで鳥山明は「ホントはメガネをかくのはわりとめんどくさい」と言っているが、この言葉は額面通り受け取ってよいものだろうか? これについても、作者本人の弁とは別に、作品そのものから考えておく必要がある。2つ目の論点は、メガネを描くということについて。きちんと「Dr.スランプ」という作品を読めば、アラレちゃん以外にも大量にメガネキャラ、あるいはサングラスキャラが登場していることがわかる。「めんどくさい」という言葉が信じられないほど、大量に眼鏡が描かれているのだ。たとえば、単なるモブキャラとして眼鏡っ娘が登場する場面を一瞥してみよう。

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この2つのシーンは、もしも本当に「めんどくさい」のだったら、眼鏡なしで描かれるだろうシーンだ。しかし事実は、眼鏡をかける必要のないモブキャラが、しっかり眼鏡をかけている。これは、作者が眼鏡を描くことが好きだとでも考えない限り、説明がつかない。思い返してみれば、鳥山明の魅力の一つは、細部まで描きこまれたメカ類にある。本当に描くのが「めんどくさい」のなら、そもそもここまで細かいギミックにこだわる必要がないだろう。メカ類の描写を見る限り、作者は「めんどくさい」ことが好きとしか考えられない。「Dr.スランプ」に見られる大量の眼鏡描写は、細部までこだわったメカ描写を踏まえた上で理解する必要があるだろう。

しかしそんなに大量にある眼鏡描写のなかで、やはりアラレちゃんの眼鏡だけは特別な位置を占める。3つめの論点は、アラレちゃん眼鏡の特権性について。それは、眼鏡が割れるか割れないかに顕著に示されている。アラレちゃん以外のキャラの眼鏡は割れるが、アラレちゃんの眼鏡だけは割れないのだ。まず脇役の眼鏡が割れる様子を見てみよう。

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驚いたときに眼が飛び出るというマンガ的描写があるが。このとき、眼鏡やサングラスをかけていたキャラは、眼鏡を突き破って目が飛び出る。しかし、アラレちゃんだけは、眼が飛び出ても眼鏡が割れないのだ。

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やはり、アラレちゃんの眼鏡はすごいのだ。

そしてそのスゴさは、「眼鏡を外すと天罰が下る」というところに顕著に示されている。作中でアラレちゃんの眼鏡を外そうとしたのは、あかねとマシリトの二人だけだが、二人ともこっぴどく酷い目に遭っている。特に、意識的にアラレちゃんの眼鏡を外そうとしたただ一人の男であるマシリトが、同時に作中で死亡した唯一のキャラクターであることを考えれば、眼鏡っ娘の眼鏡を外すことは明らかに「死亡フラグ」なのだ。

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そして本作が決定的に重要なのは、作中で「メガネっこ」という単語を使用しているところだ。第四の論点は、「眼鏡っ娘」という言葉そのものについて。実は作中で「メガネっ子」という言葉が出てくるのは、2か所しかない。

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077_04警察屋さんは、他の箇所では「ほよよっ子」などと言っている。とはいえ、広く読まれた国民的マンガに「メガネっこ」という言葉が登場したことは、極めて重要な事実だ。言葉ができることによって、概念が定着する。「メガネっこ」という言葉が示されることによって、潜在的な意識が覚醒する契機が生まれる。ちなみにコミケサークルカットに「眼鏡っ娘」という単語が登場したのは1984年のこと(「超時空世紀オーガス」のリーアに対して)であり、もちろんアラレちゃんがテレビアニメとしても広く認知された後のことだ。厳密に考えようとするなら、1979年に西谷祥子が「サラダっ娘」という作品を発表していたり、「島っ子」(ちばてつや)や「はみだしっ子」(三原順)という例があることを考え合わせる必要がある。「メガネっこ」という表現が鳥山明オリジナルかどうかについては確定事項ではない。とはいえ、「メガネっこ」という言葉が、本作によって広く認知されたのは間違いない。

以上、4つの論点からアラレちゃん眼鏡について見てきたが、まだまだ考えるべきことが多いことがわかる。いつになっても、眼鏡っ娘の原点として立ち返るべき傑作だ。

■書誌情報

077_05単行本でも手に入るし、文庫版もある。

単行本全18巻:鳥山明『DR.スランプ』(ジャンプコミックス)
文庫版全9巻:鳥山明『Dr.スランプ』(集英社文庫)

 

 

 

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第76回:酒井美羽「通り過ぎた季節」

酒井美羽「通り過ぎた季節」

白泉社『花とゆめ』1978年9号~80年7号

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全ての人類に読んでいただきたい。眼鏡を外してコンタクトにしてはならないという教訓が込められた、超絶眼鏡傑作。単行本全3巻にわたって徹頭徹尾素晴らしい眼鏡っ娘マンガだが、特に全人類必読なのは2巻収録の「コンタクトレンズ騒動記」だ。
物語冒頭、眼鏡っ娘女子高生の亜紀子にコンタクトの魔の手が迫る。体育の授業中にクラスメイトのコンタクトが落ちて騒動が発生したのをきっかけに、亜紀子がコンタクトの存在を意識してしまうのだ。

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そこで亜紀子は自分もコンタクトにしてみようと思うのだが、もちろん友人たちは反対する。そうだ、がんばれ! 眼鏡を守るのだ!

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しかしそんな友人たちの態度にむしろ反発し、亜紀子はいよいよコンタクトにしようと決意が固まってしまう。なにやってんだ、この役立たずどもが、もっと眼鏡をちゃんと褒めろよ!
まあ、ここで亜紀子がコンタクトにしようと思った理由が、ちょっとおもしろい。亜紀子は決して眼鏡が容姿を損なうなどとは思っていない。むしろ、眼鏡をかけていた方が「ひきしまって見える」と自覚している。このあたりは「メガネが似合ってる」と言う友人たちと評価が一致している。しかし亜紀子は眼鏡を外さなければいけない場面を想像して、今のうちから眼鏡無しの顔に慣れておいた方がいいと考えてしまったのだった。なんでそんな捻じれた思考に!?マイガッ!

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そしていよいよコンタクトにしてしまった。うううう。しかし友達の評価は的確だ。「やっぱ亜紀子メガネの方がいいよ」とか「なんかちょっと足りないのよねー」という評価は、まさにそのとおり。「なにか足りない」と思った時は、だいたい眼鏡が足りてない。

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そんな友達の評価にもめげず、亜紀子はコンタクトで頑張る。が、もちろん破綻が訪れる。コンタクトのせいで角膜を痛めてしまい、学校を休むほどの傷を負ってしまうのだ。医者からはしばらくコンタクト着用を禁止される。ショックでふとんに伏せった亜紀子の脳裏には、様々な眼鏡の思い出が浮かんでくる。

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眼鏡のせいでいろんなことを言われたけれど、かつて亜紀子は「メガネの似合う笑顔の女の子になろう」と決意していたのだった。ふとんの中で、そのかつての決意を思い出す。

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かつて世界は眼鏡を中心に回っていた。「メガネの似合う笑顔の女の子」でいようと決意したときから、世界は笑顔に包まれたのだ。しかしそれを思い出しながら、亜紀子は「メガネなんかもういやだ…」と泣きじゃくる。眼鏡自体が嫌なのではない。自分には様々な可能性があったはずなのに、いろいろな選択肢を捨てて「メガネの亜紀子」にしかなれなかった。ありえたはずの「他の自分」を想像した時に、ふとんのなかで泣いている惨めな「今の自分」が嫌になったのだ。人間は、子供のころは無限の可能性を持っている。しかし時間を経るごとに少しずつ選択肢を捨てていって、最終的には一つの選択肢を受け入れるしかない。それが「大人になる」ということであり、亜紀子の場合はその象徴が「眼鏡」だった。眼鏡を拒否することは、「今の自分」を拒否すると同時に、「大人になる」ことを拒否するということだ。
だがしかし。「今の自分」を拒否したところでどうしようもないことも分かっている。ありえた可能性は所詮は可能性に過ぎず、現実は現実だ。そして現実の象徴も、眼鏡だ。眼鏡を受け入れることは、現実の自分を受け入れることを意味する。亜紀子は一晩泣き明かした後、ありえた選択肢に対する未練を捨て、ありのままの自分を受け入れようと決意する。すなわち、眼鏡をかける!

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「私は私なんだもんね」というトートロジーのモノローグで終わる「コンタクトレンズ騒動記」。この「私は私なんだもんね」というセリフの中の「主語としての私」と「述語としての私」の違いを本作の「起承転結構造」に即してしっかり考えると、「アイデンティティ」とか「自己実現」という概念の本質が見えてくる。

■書誌情報

076_09掲載誌は白泉社『花とゆめ』だが、白泉社の単行本は途中で終わっていて、角川書店から出ているものが全話収録。眼鏡っ娘女子高生の日常を卒業まで丁寧に描ききった秀作。思春期特有の漠然とした不安を具体的なエピソードを積み上げながら丁寧に描写しており、眼鏡っ娘の繊細な心の動きがとてもよく分かる。
作者の酒井美羽はマンガ技術が極めて高く、キャラクター造形、コマ割り、ストーリー構成など、匠の技が光る。が、本作のような青春ストーリーは、その後の能天気な作風から見ると、けっこう違和感があったりするかもしれない。他にも眼鏡っ娘をけっこう描いていて、ありがたい。

単行本:酒井美羽『通り過ぎた季節』1巻(白泉社、1980年)

 

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第75回:環望+榊原瑞紀「ミス・マーベリックにはさからうな」

原作:環望+漫画:榊原瑞紀「ミス・マーベリックにはさからうな」

エモーション『YOMBAN』2009年2~8月号

075_02前回に引き続き、本作も戦う変身ヒロインの眼鏡っ娘作品だ。そして本格アメコミ作家として活躍していた著者らしく、きっちりスーパーマン・オマージュになっている。
他の作品と異なる大きな特徴は、変身ヒロイン眼鏡っ娘が新米の女教師という点にある。女教師だから眼鏡、そしてスーパーマン・オマージュだから眼鏡。残念ながらスーパーマン・オマージュなので変身後は眼鏡が外れてしまうのだが、女教師モードでは素晴らしい眼鏡だ。
そして倒すべき悪が、実はクラスの教え子3人組。オテンバ3人組は、科学の力を悪用して、街中に迷惑を振りまきながら大騒ぎ。このうち一人が眼鏡っ娘で、嬉しい。そして学校では教え子のイタズラに悩まされている女教師だが、変身した後は3人組をちゃちゃっと懲らしめるのだった。
しかし本当に倒すべき相手は、他の所にいた。めちゃめちゃ盛り上がる展開。生徒3人組のピンチに現れ、「私の生徒に手を出すな」と啖呵を切る女教師が、かっこいい。まあ、欲を言えば、眼鏡をかけてこのセリフを言ってほしかったけどね。

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075_01ところで「女教師だから眼鏡」と書いたわけだが。厳密に考えていくと、真実がもう少し興味深く見えてくる。1960年から70年代初頭のマンガ作品を見ると、女教師が眼鏡をかけているのはいいとして、他に看護婦もよく眼鏡をかけていることに気がつく。そして当時はまだ女性の社会進出が進んでおらず、女性が働く場所は限られていた。実は「女教師」と「看護婦」とは、当時の女性が社会進出する際の限られた選択肢だった。だから、「看護婦」がよく眼鏡をかけているという事実を踏まえれば、「女教師だから眼鏡をかけている」というよりは、「職業婦人だから眼鏡をかけている」といったほうが正確だということが分かる。アメリカの「スーパーガール」も、変身前はOLで眼鏡。つまり眼鏡は「教師」に限らず「職業婦人」全体の目印なのだ。となると、眼鏡を外そうとする圧力の意味も見えやすくなる。そこには、女性の社会進出を阻止し、全ての女性を娼婦化しようとするマッチョ的無意識が働いているのだ。

しかしもちろん本作は、そういったマッチョ的無意識とは無縁だ。本作は変身ヒロイン物語であると同時に、眼鏡っ娘が教師としての自覚と自信を強めていく成長物語でもある。教師として成長した眼鏡っ娘が眼鏡を外す理由は、何もない。

■書誌情報

電子書籍で読むことができる。

Kindle版:環望+榊原瑞紀『ミス・マーベリックにはさからうな』(Emotion Comics、2011年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第74回:井原裕士「雪乃すくらんぶる」

井原裕士「雪乃すくらんぶる」

学研『コミックNORA』1993年7月号~95年9月号

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前回に引き続き、スーパーマン・オマージュの眼鏡っ娘作品だ。本作はヒロインの苗字が「倉久」となっており、誰がどう見てもスーパーマン・オマージュと分かる作りになっている。というわけで、普段は眼鏡で三つ編みのヒロインが、眼鏡を外して三つ編みをほどくと怪力のスーパーヒロインとなるのだった。が、物語冒頭でいきなり主人公の広崎くんに、正体がバレてしまう。

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眼鏡っ娘の正体を知った広崎くんは、愛する眼鏡っ娘を守るために身体を張って頑張るのだった。この広崎くんが、非常によくできた男だ。世間のボンクラどもは目の前の眼鏡っ娘の魅力に気が付きもせずに変身後の「白雪仮面」に夢中になっているのだが、広崎くんだけは眼鏡っ娘の魅力にしっかり気が付いている。だからこそ、主人公にふさわしい。彼はスーパーヒロインの眼鏡っ娘に釣り合う強い男になるために、努力を惜しまない。正体がばれそうになったときに臨機応変なアイデアで眼鏡っ娘を守る、その機知と機転とド根性が見事で、惚れ惚れとする。ここまで人間がしっかりできた男は、めったに見ない。こういう男とくっつけば、きっと眼鏡っ娘も幸せになれるだろう。

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ああっ、もう、かわいいなあ。幸せにしてやってくれよ、広崎!

074_04眼鏡描写の見所は、やはり黒のセルフレームを丁寧に描いているところだろう。21世紀以降はさほどレア感がないので見落としがちではあるが、90年代前半にこのようにセルフレームをきちんと描く作品は、ほとんどない。そして、見事に眼鏡が似合っている。かわいい。
もうひとつの見所は、意識的に「貼り付き眼鏡」を利用しているところだ。普段の描写でも多少の貼り付きは確認できるが、ギャグ顔になったときの貼り付き加減はすさまじい。これがアクセントになって、本物の悪人が出てこない世界観に説得力が付与されているように思う。

実はスーパーマン・オマージュ系はシリアスとコメディのバランスが難しいように思うのだが、本作は最後まで安心して楽しめる。眼鏡っ娘の日常が丁寧に描かれているためだろう。

■書誌情報

単行本全3巻。古書で手に入る。

単行本セット:井原裕士『雪乃すくらんぶる』(学研、全3巻)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第73回:岡崎つぐお「どきどきハートビート」

岡崎つぐお「どきどきハートビート」

小学館『週刊少年サンデー』1986年~87年

手を挙げろ! 眼鏡警察だ! ムダな抵抗はやめて、いますぐ眼鏡っ娘にひれ伏すんだ!

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てなわけで、眼鏡っ娘の警察官が活躍する作品だ。ところがこの眼鏡っ娘刑事がド天然のドジっ娘で、いきなり第一話で殉職してしまった……ら話が終わってしまう。拳銃で胸を撃ち抜かれたはずの眼鏡っ娘は、生きていた。しかも、並外れたパワーを発揮し、あっという間に犯人をやっつける。眼鏡っ娘は、事件が発生した研究所で謎の液体を浴びたことから、超強力パワーを発揮する特異体質になってしまったのだった。その体質を活かして、次々と悪いやつらをやっつけて、みんなの幸せを守っていくことになるのだが。

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変身の引き金は、心拍数。興奮するなどして心拍数が上がると、爆発を起こしてスーパーレディに変身するのだ。そんなわけで、好きな国立さんの言動にドキドキして心拍数が上がると爆発しそうになってしまい、まともな恋もできないのだった。かわいそうな眼鏡っ娘。

073_03さて、眼鏡的な注目は、変身するときに眼鏡が外れてしまうところだ。これはもちろん、「スーパーマン」の伝統を引き継いでいる。改めて言うまでもなく、変身前にメガネくんだったクラーク・ケントは、スーパーマンに変身した後は眼鏡が外れている。この設定は女版スーパーマン「スーパーガール」でも引き継がれ、変身前に眼鏡っ娘だったクリプトン星の生き残りの少女は、変身すると眼鏡が外れる(2015年に公開されたトレーラームービー)。本作でも、普段は眼鏡をかけているのに、変身後は眼鏡が外れる。これは、第70回で指摘しておいたように、他のアイテムと決定的に異なる眼鏡の際立った性質を利用した描写だ。つまり「眼鏡の不連続性」を「キャラクターの不連続性」とリンクさせてストーリーに説得力を持たせているわけだ。同一人物であるというアイデンティティを成立させながら、しかも性質は完全に不連続という「変身」を描写するとき、この眼鏡というアイテムほど簡単に説得力を発揮するものは、他にない。確かに悟空であれば髪の色が金色になり、ケンシロウであれば服が破れ、覚醒したウォーズマンが素顔になるのも「キャラクターの不連続性」を視覚的にわかりやすく描写している例だが、眼鏡ほど簡単に「不連続性」を表現できるものは、他にない。それゆえに、「眼鏡を外したら○○」という描写が用いられる中で、例のアレも安易に使われてしまうわけではある。
ともあれ、本作も、眼鏡の脱着によってキャラクターの不連続性を表現している作品の一つだ。非日常で眼鏡が外れるのは少し残念なわけだが、日常の眼鏡姿がとてもかわいく描かれていて、とても楽しく読める。このようなスーパーマン・オマージュの眼鏡っ娘作品は他にもいくつかあるので、機会を改めて見ていくこととしよう。

073_01てところで、7/25「ゆるいいんちょ」で、「眼鏡警察」について話題となった。夜羽さんは真面目だから、けっこう深刻に受け止めていたけれど。そしてその危惧は、われわれ自身の言動を自らが戒め、さらに次のステップに進むための反省ということでは意味があるとは思うけれど。でもそれはそれとして、「艦これ」のアレは誰がどう見ても明らかにウンコであって、もはや眼鏡警察がどうこうという問題ではない。「キャラクターの連続性と不連続性」という作品のデキ自体を決定する極めて重要な基礎・基本が悲惨なほど低レベルであったことが本質的な問題なのであって、それがたまたま「連続性と不連続性」を極めて分かりやすく視覚的に示す眼鏡というアイテムに手を出してしまったことで誰の眼にも分かりやすく下劣さが見えやすくなったというだけのことだ。あれがなくとも、ウンコだったことは間違いない。デスノートを手に入れたら、鼻くそをほじりながら、監督と脚本の名前を書き込めばいいと思うよ。
とはいえ、それはそれとして、「眼鏡警察」という言葉が流通した背景については思想史的に言語化しておく必要があるのも確かだ。夜羽さんが危惧するように、そこそこ、根が深い問題であることは確かだと思う。が、同時にスルーしていい性質のものでもあるとも思う。つっこんだ考察は、また機会を改めて。

■書誌情報

単行本も手に入りやすいし、愛蔵版も出ている。80年代の少年マンガで眼鏡っ娘がヒロインということで、とても貴重な作品。

単行本全5巻:岡崎つぐお『どきどきハートビート』(少年サンデーコミックス、全5巻セット)
愛蔵版全4巻:岡崎つぐお『どきどきハートビート』(スコラ、全4巻セット)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第72回:幸月由永「ご相談はこちらへ」

幸月由永「ご相談はこちらへ」

集英社『別マスペシャル』1991年1月号

葉澄ちゃんは眼鏡っ娘女子高生。ショートカットに黒縁セルフレームが似合っている。そんな葉澄ちゃんは、他人の恋の仲を取り持つのは得意なのに、自分のことになると不器用。そして葉澄ちゃんが一目で恋に落ちた相手は、客観的には魅力的とは言い難い大男のオッサンだった。

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しかしめちゃめちゃな美人がオッサンにキスしているところを目撃したりして、大ショック。さらにオッサンが美人を連れてトンガに移住するという噂が流れたりと、弱り目に祟り目。でも幸運の女神は、前向きに頑張る眼鏡っ娘に微笑むのだ。

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結局、美人とのキスも誤解だったということがわかり、めでたしめでたし。

ということで、ガールmeetsオッサンという他愛もない話ではある。だが、それがいい。淡泊な絵柄なのに、眼鏡っ娘の微妙な表情の変化がよく描けている。嫌な人間が一人も出てこない世界の、ほんわかしたと雰囲気が心地よく、読後はぽかぽか幸せな気分に浸れる。こんなほんわか幸福感を醸し出せる作品ってあまりないよなあと思って改めて精読してみたら、ポイントはやはり眼鏡にあった。眼鏡の描き方が、ほんわかしていたのだ。小さい絵だと分かりにくいので、ちょっと拡大して見てみよう。(14インチの画面だと、実際のマンガの4倍くらいに拡大)

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黒縁のように見えていた眼鏡は、実は墨ベタではなかった。「網掛」という技術で表現されているのだ。眼鏡のフレームに光が当たるところは網掛の密度を低くして表現するなど、芸が細かい。画面全体から漂ってくる「ほんわか感」の源泉は、このきめ細かい眼鏡表現にあったのだ。この網掛と言う技術は、そこそこ面倒くさい。それでも墨ベタではなく網掛という表現を選択したところに、本作の見所がある。少女マンガならではの、繊細で温かみのある、とても個性的な表現だと思う。

■書誌情報

本作は40頁の中品。単行本『寒さはもうすぐ去っていく』に収録。独特の雰囲気を持つ個性的な作家なので、キャリアが単行本1冊で終わっているのはとても勿体ないと思う。

単行本:幸月由永『寒さはもうすぐ去っていく』(マーガレットレインボーコミックス、1992年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第71回:奥森晴生「たわわ」

奥森晴生「たわわ」

集英社『りぼんオリジナル』2002年6月号

071_01本作は、「傍観者」の眼鏡っ娘がヒロインへと躍り出る物語だ。
眼鏡っ娘に「傍観者」の役割を与える作品を、しばしば目にする。眼鏡とは「見る」ための道具なのだから、見るという行為に特化した傍観者キャラに眼鏡をかけさせたくなるということだろう。客観的に物事を分析できる傍観者は、物語を円滑に進行させるにあたって非常に使い勝手の良い存在だ。が、もちろん傍観者だから、基本的に脇役を超えることはない。しかし稀に、そのような傍観者眼鏡っ娘が主人公ポジションに躍り出ることがある。その尊い輝きについては、第48回『星の瞳のシルエット』で少し言及した。「傍観者」から「主人公」へと躍り出ることはとても勇気を要することであり、だからこそ他に代えがたいカタルシスを読者にもたらす。本作の見所も、跳躍するヒロインの心の動きにある。

浜子は眼鏡っ娘高校生17歳。過去に付き合っていた彼氏はいたが、二股をかけられた際の男のマヌけな言動に愛想が尽き、恋愛そのものに距離を置くようになってしまった。しかしそんな浜子をずっと見ている男、沖田くんがいた。しかし浜子は沖田くんの気持ちには気づいていないし、沖田くんも素直に「好き」と言うことができない。そんな沖田くんには、恋愛に関心を持たない浜子の眼鏡が「傍観者」の象徴のように見えていた。

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一人でいることがラクチンだと思っていた眼鏡っ娘だったが、家族が旅行に出かけて家に誰もいない日、体調を崩して倒れてしまう。そのとき、朦朧とする意識の中で、「傍観者」を決め込んでいた自分の態度が、結局は臆病の裏返しの強がりだったことを自覚する。そこに現れたのが、沖田くんだった。沖田くんがお粥を作ってくれたりして、浜子は無事に回復する。浜子は沖田くんの気持ちを察して、「傍観者」を卒業していく。
で、「傍観者」を卒業するのはいいとしても、同時に「傍観者」の象徴だった眼鏡が外されてしまうケースが多いので、ひそかに心配していたのだが、本作はちゃんと眼鏡をかけ続けてくれた。興味深いのは、眼鏡をかけつづけるのと同時に「傍観者」の能力も引き続き持ち続けているところだ。眼鏡をかけているということは、物事がよく見えることを意味する。物事を客観的に認識できるので、沖田くんが自分のことを好きだということを明瞭に認識することができる。

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071_04「傍観者」の客観的認識能力を引き継いだまま、つまり眼鏡をかけたまま、浜子は恋の物語の主人公に躍り出る。「好き」だと素直に言えない沖田くんを、しょうがないなあと思いつつフォローする眼鏡っ娘の笑顔が、とても爽やかだ。この恋はきっとうまくいく。

本作のもう一つの見所は、眼鏡の描写だ。少女マンガで眼鏡が描かれる場合、フレームのラインだけ描かれることが大半だ。が、本作はフレームを省略しないでしっかり描くうえに、鼻パッドや蝶番まで丁寧に描きこんでいる。『りぼん』系列にこのようなしっかりした眼鏡作品を描いてくれたことは、とてもありがたいことだと思う。

 

■書誌情報

本作は40頁の中編。単行本『林檎の木』に所収。しっかりした絵と芯のある物語を作る作家で、高い実力があるのは明らかなので、キャリアが単行本一冊だけなのはとても勿体ない気がする。

単行本:奥森晴生『林檎の木』(りぼんマスコットコミックス、2004年)

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