この眼鏡っ娘マンガがすごい!第102回:日坂水柯・春日旬・茉崎ミユキ+結城浩「数学ガール」

日坂水柯+結城浩「数学ガール」

MEDIA FACTORY『コミックフラッパー』2008年4月~09年6月号

春日旬+結城浩「数学ガール フェルマーの最終定理」

MEDIA FACTORY『コミックフラッパー』2010年10月~13年5月号

茉崎ミユキ+結城浩「数学ガール ゲーデルの不完全性定理」

MEDIA FACTORY『コミックアライブ』2010年11月~

102_03同じ原作者の小説から、絵描きが異なるコミックが3種類出ている。それぞれ登場人物はほぼ同じで、眼鏡っ娘ヒロインが2人。クールな眼鏡っ娘ミルカさんと、元気眼鏡っ娘ユーリ。やはり数学が好きな女の子には、圧倒的に眼鏡が似合う。ちなみに主人公もメガネくんで、画面が眼鏡だらけで嬉しい。ということで、数学をテーマとした、メガネくんと眼鏡っ娘の物語。
まずは日坂水柯に眼鏡っ娘を描かせるという、コミカライズ化に際してのチョイスが素晴らしい。論理的かつミステリアスという、眼鏡っ娘ミルカさんの掴みどころのないキャラクターを表現するのに、これほど相応しい絵柄はなかなかないだろう。
もちろん春日旬と茉崎ミユキが描く眼鏡っ娘も魅力的だ。「フェルマーの最終定理」編を担当した春日旬版は、眼鏡が外れた時のミルカさんの描写がとてもよかった。右に引用したシーンでは、プールで眼鏡が外れてしまう。が、もちろん美人になるなどという非論理的な現象はおこらなかった。グッドな仕事だ。
「ゲーデルの不完全性定理」編担当の茉崎ミユキ版では、「集合」の説明で眼鏡がうまく利用されている。「眼鏡っ娘」と「女子高生」によって「集合」を表現した扉絵は、とてもかわいく、わかりやすい。

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また、ところどころに眼鏡を大きくフィーチャーする表現が登場するところにも注目したい。たとえば日坂水柯版では、「構造を見抜く心の目」というキーワードが登場する。数式の表面だけを見るのではなく、数式の背後に隠れた構造の本質を見通すことが必要だというエピソード。このシーンでは、「見る意志」という眼鏡の象徴性が非常によく効いている。眼鏡っ娘が言うことで、セリフの重みが何倍にも増す。

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また、春日旬版では、眼鏡の「反射」がエピソードとして描かれている。お互いの眼鏡に自分の姿が映るのはメガネ人同士の間にしか起きない現象で、特にメガネくんと眼鏡っ娘の間で起こった現象が非常に艶めかしく描写されている。興奮する。

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ということで、数学が苦手だったり興味が無かったりする人も、眼鏡っ娘を愛でるという理由だけで読んで楽しめる作品だ。仮にわけのわからない数式を並べられても、眼鏡っ娘がやってるというだけで喜べばよい。そして、そこから少しでも数学に興味を持つ人々が増えるのなら、眼鏡っ娘もきっと喜んでくれるだろう。

■書誌情報

日坂水柯版は全2冊。春日旬版は全3冊。茉崎ミユキ版は2巻以下続刊。すべて電子書籍で読むことができる。

Kindle版:日坂水柯+結城浩『数学ガール』(MFコミックス、2008年)
Kindle版:春日旬+結城浩『数学ガール フェルマーの最終定理』(MFコミックス、2011年)
Kindle版:茉崎ミユキ『数学ガール ゲーデルの不完全性定理』(コミックアライブ、2011年)

 

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さて、学歴自慢で恐縮だが、私は東京大学理科Ⅰ類に現役合格しており、しかもほぼ数学の得点で合格できたようなもので、微積分や三角関数、複素数や行列など高校で扱う数学は完璧にマスターし、自分は数学が得意なんだと思っていた。が、それはもちろん勘違いだった。高校生の時分にしばしば「大学に入ると物理が数学に、数学が哲学になる」という言葉を聞いていたのだが、その本当の意味を痛感したのは、数学の講義ではなく、一般教養科目の「論理学」の講義だった。「集合論」で「集合の集合」を扱ったとき、冗談ではなく、眼から鱗が落ちた。
しかし高校までの「国語」が決して「文学」ではなく、「歴史」がちっとも「歴史学」ではないのと同様に、高校までの数学は「数学」ではなく「計算」とでも呼んだ方が適切だろうと思うのだが、それでもそれを「数学」と呼んでいるからには、なにかしらの合理的な理由があるのだろう。
で、「集合論」に触れてからずっと気になっているのが、「眼鏡の排中律」という性質について、数学を究めれば深く理解できるのかどうかということだ。眼鏡は、「かけている/かけていない」という不連続値しかもたない。あるいは「排中律」を完全に満たす。おそらくその特性が、眼鏡にまつわる様々なエピソードを生み出している。眼鏡が放つ魅力は、この排中律を完全に満たすという特質に理論的根拠があるのかもしれないとすら思う。集合論の解説書等を読んでいてしばしば気になったのは、そこで使用される論法が連続量(実数)には関わらず、排中律を縦横無尽に活用していたことだ。命題の論理的な「真/偽」は、眼鏡的に「かけている/かけていない」に相当する。眼鏡の最大の論理的特性が排中律を完全に満たすことにあるとすれば、排中律に関わる諸問題を集中的に扱うことによって眼鏡に関する理解も飛躍的に進むのではないか。本書の眼鏡っ娘を見ながらそんなことを思いつつ、基礎から集合論をしっかり勉強する時間はなかなか確保できないのだった。