この眼鏡っ娘マンガがすごい!第110回:田丸浩史「ラブやん」

田丸浩史「ラブやん」

講談社『アフタヌーン』シーズン増刊2000年第4号~2015年7月号

ギャグマンガとして半端ないキレと言いしれぬ脱力感が混在した他に類のない魅力については各所で既に語られているので本コラムではスルーするとして、問題は眼鏡だ。眼鏡に関して、言及すべき論点が4つある。
(1)眼鏡の魅力をダイレクトに示している。
(2)眼鏡萌えの現実に革命を起こした。
(3)にも関わらず、あえてメガネ萌えを脱臼させている。
(4)「萌え」と「愛」の違いをド直球で描ききった。
以下、それぞれの論点について見ていこう。

(1)眼鏡の魅力をダイレクトに示している。
これは魅力的な眼鏡っ娘の絵を見れば問答無用一目瞭然でわかるわけだが。まず量的に言えば、単行本全22巻のうち眼鏡着用イラストが8巻を占めているという事実がすごい。眼鏡率.364というのは、ヒロインが眼鏡っ娘でないことを考えると尋常じゃない高打率だ。

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もちろん質も伴っていて、魅力的な眼鏡っ娘キャラがたくさん登場する。第1話から登場する青木萌ちゃんとか、第6話から登場する赤井みのりちゃんなど、小悪魔的な魅力を発散している。ちなみに第74話に登場した大家さんがかわいいことは、声を大にして主張したい。

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めぞん一刻的な展開にはならなかったけどな。
しかもカズフサが眼鏡っ娘萌えを前面に打ち出して様々な萌えシチュエーションを実現してくれるのが、とても楽しい。

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さすがカズフサ!おれたちにできないことを平然とやってのける、そこにシビれる!あこがれるゥ!
そして本作は、眼鏡っ娘萌えの起源についても貴重な証言を与えてくれている。
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眼鏡っ娘萌えの起源について確たる学術的定義があるわけではないが、本作で示された見解は一つの見識だろう。同時代を生きた人間にとっては、肌感覚でわかる見解だ。眼鏡っ娘萌えの歴史を考えるときに、ここで示された見識は確実な参照軸となる。(ちなみに1995~96年は西川魯介「屈折リーベ」が注目を浴びていた年である)

(2)眼鏡萌えの現実に革命を起こした。
110_03本作が極めて重要なのは、単に素晴らしい眼鏡っ娘キャラを多数世に送り出しただけでなく、眼鏡っ娘萌えの現実環境そのものを大きく展開させた点にある。具体的には、眼鏡萌えの人々が一同に集うイベント「メガネっ娘居酒屋「委員長」」の起点となっているのだ。
作中では、「メガネ喫茶委員長」という名前の喫茶店が第4話で登場する。意外なことだが、最初に登場したときは何の変哲もない普通の喫茶店として描かれており、ラブやんとみのっちが普通に作戦会議のために利用しただけだった(店員はちゃんと眼鏡っ娘)。こうして一発ギャグで終わるかと思われたメガネ喫茶委員長だったが、第6話で萌え妄想が暴走する。

 

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なんとメガネ喫茶委員長には「奥」があって、割増料金を払って踏み入ると、そこは夢のワンダーランドなのだった。このメガネ喫茶委員長ネタの破壊力自体が極めて高かった上に、投下されたタイミングも絶妙だった。2000年から2001年にかけてこれまでにないほど眼鏡圧が高まっていたのだが(第90回『妄想戦士ヤマモト』の項を参照のこと)、貯まりに貯まった燃料に点火したのが本作第6話(2002年2月)だった。炎は瞬く間にオタク界隈全体に燃え広がり、2002年9月の第1回「メガネっ娘居酒屋「委員長」」開催へと結びつく。その熱狂を文章で再現することは元より不可能なのだが、その一端はこちらに記録した。西川魯介、平野耕太、小野寺浩二、山本夜羽の誰が欠けても成立しなかった歴史展開だろうが、最後の決定打は田丸浩史によって刻まれたのだった。本作はフィクションを超えて現実のありようを大きく変化させる力を振るった点で、歴史に記憶されるべき記念碑となっている。

(3)にも関わらず、あえてメガネ萌えを脱臼させている。
しかし本作は、単なる萌えマンガではない。世間でもてはやされている「萌え」を敢えて脱臼させるようなエピソードを大量に盛り込んでいる。もちろんそれは「萌え」に対する敵意でもなければ、逆張りでもない。ギャグマンガだからこそ可能な、脱力感に溢れる描写となっている。最も典型的かつ衝撃的だったエピソードが青木萌ちゃんの「モッサモサ!!」であることには、衆目が一致するだろう。

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このように「萌え」を脱臼させる描写は、確かにギャグでもあるが、これが積み重なることによって別の効果を持ったように思う。「萌え」が客観的な実在ではなく、主観的な観念だという自覚を強める効果である。一時期、「萌え要素」の分析という形で、あたかも「萌え」が客観的な操作対象になり得るかのような幻想が広がった。しかし人工的に萌え要素を組み合わせることで「萌え」を作り出そうという試みが挫折するのに、そう時間はかからなかった。本作は明らかに最初からそのことに自覚的だった。本作が「萌え」を脱臼させながら積み重ねていったのは、それら全てがカズフサの主観によって構成されているという、身もふたもない事実であった。一つ一つの主観的な「萌え」が脱臼を繰り返した末に、カズフサの前に剥き出しの「他者」=ラブやんが現れる。図らずも、全てが最終回に向けての伏線の役割を果たしている。

(4)「萌え」と「愛」の違いをド直球で描ききった。

※以下、本作の最終回に関わる話なので、読んでいない人はネタバレ覚悟でどうぞ。

「萌え」と「愛」は、まるで違うものだ。このテーマについては、第101回『屈折リーベ』で言及したが、本作もド直球にこのテーマにぶつかった。
第155話、カズフサはラブやんの力で理想の眼鏡っ娘と楽しい時間を過ごす。だが、ここで「萌え」と「愛」の本質的な違いに気がついてしまう。

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ここでカズフサの言う「幸せな将来」とは何か?は事の本質に関わる大きな問題ではあるが(「萌え」という観念はそもそも「将来」を含まないから)、ともかくカズフサにとって「幸せな将来」と「萌え」とが無関係であることが明白に理解される。カズフサは、問題の核心に到達している。

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カズフサが思い描けなかったのは、「具体的な生活」だ。「眼鏡っ娘」が具体性を持たない抽象観念だからだ。「萌え」の対象である「眼鏡っ娘」とは、カズフサの脳内に主観的に構成された観念だ。本当に客観的に存在しているのは青木萌ちゃんや赤井みのりちゃんという個性ある人格なのだが、彼女たちの具体的な個性を全て消し去って「眼鏡」という共通性にのみ着目したときに初めて「眼鏡っ娘」という観念が成立する。「眼鏡っ娘」というカテゴリーを成り立たせているのはカズフサの主観的な認識能力であって、青木萌ちゃんや赤井みのりちゃんの側に「萌え要素」があるからではない。青木萌ちゃんや赤井みのりちゃんの個性を全て捨て去ってある一つの特性に注目して概括したときに初めて「眼鏡っ娘」という観念が成立するということは、逆に言えば、「眼鏡っ娘」という観念に固執している限り、青木萌ちゃんや赤井みのりちゃんの個性と向かい合うことはできないということだ。カズフサが理想の眼鏡っ娘を前にして「幸せな将来」を思い描くことができなかったのは、そこに個性を喪失した観念だけの世界を見たからに他ならない。(そしてそれは「萌え」が徹底的に「現在」であって、「過去」も「未来」も持たないことにも繋がる。)
ところで、振り返ると、ラブやんがいる。ラブやんは、カズフサの思い描く「萌え要素」とはまるで一致しない。ロリでもなければ眼鏡でもない。それは明らかに「萌え」の対象ではない。しかしそこに「存在」しているのは、他に交換がきかない唯一無二の「個性」だ。ラブやんのことは、「眼鏡っ娘」とか「ロリ」とかいう「萌え要素の組み合わせ」で呼ぶことはできない。ラブやんのことは、「ラブやん」と呼ぶしかない。一般名詞の組み合わせでは決して呼ぶことができず、固有名詞でしか指し示すことができないもの。そのようなものを人は「人格」と名付けた。カズフサが振り返ったときに見たラブやんとは、そういうものだ。そしてその固有名詞でしか呼べないようなものを客観的に「交換不可能な唯一で特別の存在」と認識することを、人は「愛」と呼ぶ。交換可能な一般名詞である「眼鏡っ娘」や「ロリ」に対する主観的な認識は「萌え」と呼ぶが、交換不可能な固有名詞を客観的に認識することは、端的に「愛」と呼ぶべきものだ。
本作がすごいのは、ラブやんが主観的には完全に萌えの対象ではないのに、客観的には完全に愛の対象であることを、154話かけて積み重ねてきて、155話ですさまじい説得力で以て描ききったことだ。まったく「萌え」ない相手だからこそ「愛」の対象として説得力を持ってしまうということ。積み重ねてきた「萌え」の脱臼が、この155話で、「愛」の説得力に全て収斂してしまうという構造。155話を読んで、私はひっくり返った。とんでもないことになったと思った。正直いって、本作がこういう着地をするとは思ってもみなかった。

だからこれは、「眼鏡萌え」にとっては非常に危険な作品である。なぜなら、「眼鏡萌え」を乗り越える思想を示しているのだから。しかしそれは同時に希望の作品でもある。なぜなら、「愛」の在処を教えてくれるから。
それは図らずも西川魯介『屈折リーベ』と同じ構造を持つ。そしてそれはもちろんパクりとかそういう次元の話ではなく、「萌え」や「愛」について真剣に取り組んだ者だけが共通にたどり着く世界の深淵なのだと思う。眼鏡萌えにとって非常に危険な作品だが、だからこそ我々も真正面から受け止める覚悟と姿勢を持つことが要求される。

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■書誌情報

ま、そういうこと抜きにして、脱力感あふれるカズフサの駄目駄目な日常をゲラゲラ笑いながら楽しめばいいと思うよ。単行本全22巻。電子書籍でも読めるぞ。

単行本・Kindle版:田丸浩史『ラブやん』第一巻、講談社アフタヌーンKC、2002年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第86回:植芝理一「ディスコミュニケーション」

植芝理一「ディスコミュニケーション」

講談社『月刊アフタヌーン』1992年2月号~2000年11月号

90年代を代表する眼鏡っ娘マンガといってよいだろう。眼鏡っ娘が9年にも渡ってヒロインとして活躍し、比類なき魅力を広く世間に知らしめた、その功績は計り知れない。魅力の一端は絵柄を一瞥するだけで感得することができるだろう。かわいい。
ただしというか。客観的には代替の効かない眼鏡っ娘傑作であることに間違いないのだが、私個人の主観的感情からすると、すんなりと腑に落ちないものもある。おそらくそのモヤモヤした主観的感情も含めて、眼鏡っ娘を語るときには外すことのできない作品と言える。
さて、私がどこにモヤモヤしているのか。次のエピソードを見れば、そのモヤモヤを共有してくれる人は多いはずだ。

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主人公の松笛は、明らかに眼鏡に対してまったく魅力を感じていない。眼鏡をかけた戸川はこんなにかわいいのに、その眼鏡ゆえの魅力を完全無視しているのだ。松笛は「変態」として、戸川に様々な行為を要求するにも関わらず、眼鏡をいじることはない。松笛の言動からは、眼鏡に対するリスペクトを一切感じ取ることはできない。松笛には眼鏡DNAが完全欠如しているのだ。
読み進めていくうちに、作者自身に眼鏡DNAが欠如しているとしか思えないエピソードが次々と登場する。

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人間のクズ登場。眼鏡っ娘のかわいさが、なぜ分からんか!
自分自身でこんなにかわいい眼鏡っ娘を描いておきながら、作者は眼鏡の魅力を自覚していなかったとしか思えない。それは、単行本で明かされた「メガネの理由」にも明らかだ。

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ということで、作者自身の弁によれば、戸川が眼鏡であることに「特に理由はない」。深読みする必要は全くなく、作品自体を読めば「そうなんだろうな」と素直に納得できる。「ただなんとなく」という理由で、戸川は眼鏡っ娘になったのだ。
だが、それでいい。
描いた作者自身が自覚しなくとも、眼鏡っ娘の魅力は確かにここに宿ったのだ。それは読者からの支持に明らかに示される。作者の意図を超えて、眼鏡の力が本作を覆うことになる。それは眼鏡への態度の変化に顕著にあらわれる。既に具体例で確認したように、本作は当初のうちは眼鏡をダサいものとして扱っていた。しかし連載が続いていくうちに、その傾向は完全に払拭される。集合的無意識の働きによって、眼鏡の力が正当に認識されていったのだ。
何の曇りもない目で見れば、どう見ても、戸川は圧倒的にかわいい。「眼鏡はダサい」という歪みきった観念で脳みそを曇らされているうちは分からないが、エポケー(フッサール現象主義の用語で、あらゆる先入観を排除して世界と対峙すること)して戸川を見てみれば、圧倒的な魅力なのだ。
このように、作者が眼鏡の魅力を意識せずにたまたま描いたにも関わらず、世間の評価によって眼鏡の魅力が明らかになる例を、我々は既に見た。鳥山明「Dr.スランプ」(第77回)も、そうだった。さらに言えば、実は眼鏡DNAを持たない作者だからこそ、ここまで魅力的な眼鏡っ娘を世に送り出すことができたのかもしれない。その諧謔の可能性に思考が及んでしまう故に、私は本作によってモヤモヤさせられてしまうのだろう。

さて、戸川の魅力は見れば分かるのでいいとして。本作は他にも眼鏡的に興味深い点がいくつかある。一つは、「貼り付き眼鏡」だ。「貼り付き眼鏡」については、第56回で解説した。デッサンが狂った眼鏡のことだ。本作では、戸川の眼鏡は貼り付いていない。ちゃんと描かれている。ところが驚くべきことに、他の眼鏡キャラの眼鏡が貼り付いているシーンがあるのだ。同じコマの中に貼り付き眼鏡と貼り付いていない眼鏡が同時に描かれる例は、他にないのではないか。引用の一コマ目に注目してほしい。左側の戸川の眼鏡は貼り付いていないが、右側にいる万賀道雄というキャラの眼鏡は貼り付いている。

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デッサンの狂い自体に、問題はない。問題は、同じコマの中に、どうして貼り付きと貼り付きじゃない眼鏡が同居できるかという、理論的にはまったく理解不可能な現実だ。つくづく不思議な作品だ。しかしこの万賀道雄というキャラが、明らかに藤子不二雄「まんが道」のパロディであることを想起すると、この貼り付き眼鏡には恐るべき意図が隠されている可能性がある。貼り付き眼鏡が忠実な藤子不二雄パロディであるとしたら、恐ろしすぎるとしか言いようがない。

もう一つは、「見る意志」についてだ。本作の結論めいたエピソードにおいて、戸川というキャラクターの特徴が「見る意志」であることが言明される。

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この「見る意志」を象徴するものがまさに眼鏡であることは、本コラムにおいて何度も言及してきた。本作作者は、戸川の眼鏡に理由はないと言っていた。しかし作品自身は、戸川の眼鏡が「見る意志の象徴」であることを明らかに示している。これが作者の韜晦なのか、それとも集合的無意識が作り上げた眼鏡の力によるものなのかはわからない。まあ、理由はどうでもよいだろう。本作が眼鏡っ娘マンガの傑作であることだけは、もはや疑いようがないのだ。

■書誌情報

単行本は、イレギュラーな形で出版されている。本編13巻+学園編1巻+精霊編3巻の、全17冊。新装版は、全7巻。

単行本セット:植芝理一『ディスコミュニケーション』全13巻
単行本セット:植芝理一『ディスコミュニケーション精霊編』全3巻
Kindle版:植芝理一『ディスコミュニケーション学園編』
新装版セット:植芝理一『ディスコミュニケーション新装版』1-7巻セット

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