この眼鏡っ娘マンガがすごい!第113回:こがわみさき「魅惑のビーム」

こがわみさき「魅惑のビーム」

ENIX『月刊ステンシル』1999年冬号

眼鏡を単なる視力補正器具ではなく、「思想」として見せてくれる作品だ。といっても堅苦しいストーリーではない。絵も可愛いし、話もわかりやすい。が、読み込んでいくと、深い。眼鏡傑作のひとつだ。

ヒロインは、演劇部の部長を務める高梨さん。クールビューティ。眼鏡っ娘に惚れ込んでいる男が亀田くん。しかしスタート時点での亀田くんは、高梨さんが眼鏡を外したところを見たいなどと思っているスカポンタンである。

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「メガネなしの高梨サンが見てみたーい」と叫ぶスカポンタン亀田。ここで注意したいのは、ここまでの亀田が一方的に高梨さんを「見る」ことを意志している点だ。

しかし、そんなスカポンタンな亀田くんの認識が次々と変化していく。それが本作の見所だ。まず印象的なのが、グラス越しに高梨さんを見たときの亀田くんの表情。世界を認識するフレーム自体が更新されたような驚きの表情を浮かべている。

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このときの亀田くんのモノローグ、「俺は高梨さんの半分しか見えてないのかもしれない」という言葉は、示唆深い。これまでは一方的に高梨さんを「見る」ことに情熱を傾けてきた亀田くんが、ここで初めて「高梨さんが見る」ということを意識している。高梨さんが単に「見られる対象」ではなく、「見る主体」であることを初めてしっかり認識したのだ。双方向的なコミュニケーションというものは、ここがスタート地点だ。

そしてある日、体育の時間に高梨さんがコケて、眼鏡が割れてしまう。それを校舎から見ていた亀田くんは、念願の眼鏡を外した高梨さんの顔を見ることができた。しかし、亀田くんはまったく嬉しくない。亀田くんは思う、「こんな場面を見たかったわけじゃない」。そして「ゴメンなさい 高梨さんのメガネ」と続ける。眼鏡を含めて高梨さんが高梨さんであったことに、ようやく気がついたのだ。

そして演劇部の最後のステージが終わり、亀田くんと高梨さんが二人。

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本作のキーワードの一つが「フィルタ」だ。高梨さんが「みんなとの間に一枚フィルタを挟んでいる」かのように見えること、ガラス越しに見る高梨さんの姿が「フィルタ」を挟んでいるような感じがすること、そして「言葉にもフィルタがあるんだ」と気がつくこと。その「フィルタ」というもの全てのイメージが眼鏡に集約される。そして割れた眼鏡にテープを貼って、微笑む高梨さん。

ややもすれば、「フィルタ」とか「バイアス」とか「ポジション・トーク」とか、何らかの「偏向」を感じさせる認識を断罪して、なんの偏りもない「純粋な認識」を持つことを他人に押しつけるような風潮が一部にある現在。しかし、何の偏りもない純粋な認識などというものが可能なのかどうか。高梨くんは「言葉にもフィルタがあるんだ」と気がついたが、実を言えば言葉は「フィルタ」そのものだ。混沌とした摩訶不思議な現実を、人間の脳みそに理解可能なように濾過してくれるのが「言葉」というものの役割だ。「言葉というフィルタ」がなければ、そもそも人間は現実を認識することができない。
そして本作の眼鏡は、世界を認識する「フィルタ」の象徴となっている。それは最後のシーンに明らかに描かれている。

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高梨さんは、自分の眼鏡を亀田くんにかけてあげる。このときの亀田くんの驚きの表情。高梨さんが見ていた景色を共有したことによって、認識にパラダイムシフトが発生している。だから亀田くんの最後のモノローグは、「フィルタを通して初めて気が付くこともある」となっている。
あまり物事をしっかり考えない人々は、「眼鏡を外して素顔になることで、良し」とか「フィルタを外して純粋な認識になることが、良し」などと素朴に表明してしまうことがある。そんなマンガ作品もいくつかある。しかしそれは、「認識とは何か」という人間的な反省を一切排除した、野蛮で原始的な思考だ。フィルタなしで見える世界は、ただの混沌に過ぎない。フィルタが機能しているからこそ、人間は世界を分節して認識することができる。眼鏡とは、そういう「認識」の象徴である。
要するに、眼鏡を外して喜んでいるやつはスカポンタンだと声を大にして言いたい。そういうスカポンタンには、本作を読んで認識を改めていただきたい。

■書誌情報

本作は36頁の短編。同名単行本に所収。単行本の表紙も高梨さん。割れた眼鏡をメンディングテープで応急手当しているのが印象的。

単行本:こがわみさき『魅惑のビーム』ステンシルコミックス、2000年

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