この眼鏡っ娘マンガがすごい!第48回:柊あおい「星の瞳のシルエット」

柊あおい「星の瞳のシルエット」

集英社『りぼん』1985年~89年

048_02脇役だからこそ、ひときわ輝く眼鏡っ娘がいる。本作の眼鏡っ娘、沙樹ちゃんは、その代表といえよう。この沙樹ちゃんのおかげで眼鏡DNAが覚醒した者も多い。たとえば、眼鏡友の会/E.Cとか。

さて、 香澄、真理子、眼鏡っ娘の沙樹は、仲良し三人組。いちおう主人公は香澄ちゃんだが、顔がかわいい以外にはたいした取柄がない。そんな香澄ちゃんには久住くんという運命の相手がいるのだが、その久住君を真理子が好きになってしまう。要するに三角関係。そこにプレイボーイの司くん(眼鏡っ娘の幼馴染)が香澄ちゃんを狙って割り込んできた。眼鏡っ娘は、外部から冷静な批評者として行動することになる。

まあ結果としては香澄と久住くんがカップルになるのだが、そんなことはどうでもよい。香澄と久住くんは、よくもまあ連載5年、単行本10巻分も、モヤモヤの関係を続けられたもんだ。見ているこっちの方がイライラする。そう、読者の立場からして、香澄ちゃんにちっとも感情移入できないのだ。一方の真理子にもイライラする。いいかげん、自分の立ち位置に気づけよ!という。感情優先の真理子にもイライラするし、道徳優先の香澄にもイライラする。そこで燦然と輝くのが、もっとも理知的な眼鏡っ娘なのだ。いや、もはや人間として尊敬できる対象が、眼鏡っ娘しかいないのだ。香澄と真理子だけではちっとも進まなかったストーリーが、眼鏡っ娘が出てきた途端に見通しが良くなる。話がすっきりして、気持ちもハレバレする。眼鏡っ娘カタルシス。こうして我々は眼鏡っ娘にハマっていく。

このシステムを、私は「キャラクター有機体構造」と呼んでいる。主人公クラスの登場人物が3人以上いる場合、それぞれのキャラクターに代表的な価値観を割り振って、役割を分担させる。もっとも分かりやすいのが、「星の瞳のシルエット」に見られるような「道徳的(香澄)/感情的(真理子)/理知的(沙樹)」という役割分担だ。すると、物語の中で「道徳的な香澄」と「感情的な真理子」が対立することは、一人の人間の心の中で起こる「道徳的な部分」と「感情的な部分」の対立に代入して理解することができる。このシステムを用いることによって、眼には見えない心の中の動きや関係を、物語という形で眼に見えるように明らかにすることが可能となる。このシステムは「星の瞳のシルエット」が初めて開発したわけではなく、今から2300年前のギリシャで活躍した哲学者プラトンが『国家』という本の中で明らかにしている。少女マンガでは1970年代後半から「キャラクター有機体構造」を採用する作品が増加し、1980年代半ばには大きな支持を得るようになる。その発達は、「熱血/クール/チビ/デブ/女」というガッチャマン型有機体構造が「熱血/クール/女」というウラシマン型有機体構造へと洗練される過程と軌を一にしている。さらに1990年代以降、「キャラクター有機体構造」は、ギャルゲーの中で独特な進化を遂げていくことになるだろう。

このような有機体構造において、眼鏡っ娘は一貫して理知的なポジションで働いてきた。有機体構造で動かすキャラクターは、あまり複雑な人格にしないほうがよい。より価値観を純粋に体現したキャラクターであるほど有機体構造の働きが見えやすくなるため、一つのキャラクターの中に複雑な価値観は同居させないほうが物語はうまく運ぶ。というとき、ある集団の中に眼鏡は一人、そして理知的なポジションをとるようになる。これは有機体構造を煮詰めた場合の必然的な結果といえる。もっとも煮詰まった形が「星の瞳のシルエット」であり、だからこそ「理知的」な人間は圧倒的に沙樹ちゃんに心惹かれるしかないのだ。ウダウダしている香澄や空気が読めない真理子は、あんぽんたんのウスノロにしか見えない。

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だからというか。沙樹ちゃんが有機体構造から抜け出して独立した一つの人格として行動したとき、それまでの世界がいっぺんに裏返ってしまうような、途方もないカタルシスを味わうことになる。最後まで有機体構造の枠の中で行動した香澄や真理子があくまでも作者の価値観を代表していたのに対し、沙樹だけは個性ある人格となった。「星の瞳のシルエット」は、沙樹の物語なのだ。

■書誌情報

全国250万乙女のバイブルだけあって、たいへんな人気があり、古本で全巻容易に手に入る。

単行本セット:柊あおい『星の瞳のシルエット』全10巻完結セット (りぼんマスコットコミックス)

ところで、「パンをくわえた遅刻少女」について、そんな実例が少女マンガの中に本当にあるかどうか疑っていた時期があったが。はい、ありました。「星の瞳のシルエット」で、沙樹がパンを咥えて登校していた。数万作の少女マンガを読んできた私であるが、実際にパンを咥えて登校するキャラを見たのは、これを含めて2例しかない。新人賞受賞のとき、一条ゆかりに「古臭い」とコメントされただけのことはある、誰にも真似のできないすごいセンスだ。そこにシビれるあこがれる。

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第14回:竹内ゆかり「おしゃべり白書」

竹内ゆかり「おしゃべり白書」

秋田書店『ひとみ』掲載(1985年頃)

眼鏡で始まった恋が、眼鏡でトラブルになり、そして眼鏡で結ばれる。すべてが眼鏡によって紡がれる物語。メガネスキーの横田先輩がまぶしい、完成度の高い感動の眼鏡マンガだ。

014_02やよいちゃんは眼鏡っ娘。あこがれの横田先輩に近づくために放送部に入部しようとするが、入り口でショッキングな話を聞いてしまう。バカ丸出しな放送部員の勝木くんが「めがねはだめだ」と言っているのを聞いて、憧れの横田先輩も眼鏡のことを嫌っていると思い込んでしまったのだ! ショック!

014_03しかし本当は、人間ができている横田先輩は、眼鏡っ娘のことが大好きだったのだ。この場面で横田先輩が言うセリフがかっこいい。「オレ、めがねの似合う子なら、ほんとは好きなんだぜ」。爽やかな笑顔でビシっと決めるに相応しいセリフだ。私もいちどドヤ顔で言ってみたい。

014_05 ゆかりちゃんが横田先輩を好きになったのは、実は眼鏡がきっかけだった。ゆかりが眼鏡をこわして困っていたときに、横田先輩が助けてくれたのだ。そして眼鏡が直ってお礼に行ったとき、ゆかりちゃんの眼鏡姿を見て、横田先輩もゆかりのことを好きになる。ここの横田先輩のセリフも素晴らしい。「めがね似合うんだね…」。どんどん使っていきたいセリフだ。

014_07そして二人が結ばれるのも、もちろん眼鏡のおかげだ。放送室に忘れていった眼鏡を、横田先輩がゆかりちゃんにかけてあげる。ここでも「めがねの似合う子は好きなんだ」という決め台詞。かっこよすぎるぜ、横田先輩!!

世の中には、少女マンガでは最終的に眼鏡を外して幸せになる話が多いだろうと思い込んでいる人がいる。確かにそういうマンガもあるにはあるが、そんなくだらない話を描いた作家は、実は人気がなくなってすぐに消えている。人気少女マンガ家は、眼鏡を外してハッピーエンドなどというつまらない話は描かない。実力がある人気作家は、ほぼ例外なく、最終的に眼鏡をかけて幸せになるという物語を描いている。なぜなら、それが世界の真理だからだ。眼鏡を外した女に近寄ってくるのは、SEXしか頭にない脳無しのチンピラだけだ。女性の本当の幸せは眼鏡と共にある。無能な作家は眼鏡を外すことしか思いつかないが、力のある作家は眼鏡を上手にストーリーやキャラクター描写に組み込んでいく。本作も、『ひとみ』誌上で看板を張った作家ならではの本領が発揮されている。

■書誌情報

014_01単行本:竹内ゆかり「おしゃべり白書」 (ひとみコミックス、1985年)に所収。ゆかりが主人公なのは第2話。

新刊では手に入らないので古本に頼るしかないが、amazonだとプレミア出品しかないなあ。古本屋を丁寧に回れば200円で手に入るとは思う。


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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第5回:小谷憲一「ショッキングMOMOKO」

小谷憲一「ショッキングMOMOKO」

集英社『月刊少年ジャンプ』1985年2月号・5月号

以下、性的表現が少々含まれるので、苦手な方は回避してください。

主人公の里中桃子ちゃんは小学5年生の眼鏡っ娘。というと現在では大人しい文学少女とか儚げな病弱少女を思い浮かべそうだが、桃子は違う。がさつで乱暴で腕っぷしが強く、言葉遣いが悪い跳ねっかえり眼鏡っ娘なのだ。下に引用したコマでは、パンツ丸出しで弟に激しく卍固めを極めている。ということで、おそらく現在の眼鏡っ娘好きたちのストライクゾーンからはけっこうズレているだろうと想像される。が、それゆえに、我々にとって眼鏡っ娘とは何か?を考える上で重要なキャラクターでもある。

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話自体はSFで味付けをしたジュヴナイル冒険ものといった趣で、宇宙人から特殊能力を与えられた三人の少年少女が悪いやつらをバッタバッタとなぎ倒していく痛快ストーリー。三人の少年少女の構成は、パワー系の男+知力系の男+色気担当の女という組み合わせで、いわゆるタイムボカン三悪構成となっている。そんなわけで、桃子はお色気担当。特殊能力のせいでメガネをはずすと美人に見えるというお決まりパターン(※1)で、悪いやつらを悩殺していくこととなる。が、こうなると不思議なのは、そもそもどうして桃子が眼鏡をかける必要があるのか?ということだ。作中では桃子が近眼になったエピソードは扱われない。また、桃子にいたずらをするワルガキどもが桃子のがさつな性格をネタにする一方で、まったく眼鏡をネタにしないのは、そうとう不自然な感じを与える。作品発表時の1985年時、小学5年で眼鏡というのはけっこうなレアキャラのはずで、いたずら好きのワルガキがメガネをネタにしないわけがない。ストーリー構成上も、桃子が眼鏡をかけている必然性はまったくない。宇宙人から与えられたお色気特殊能力を強調したいとしたら、普段のがさつで乱暴なキャラとのギャップで見せれば十分であって、日常でいじられないメガネを味付けにする必要はまったくない。それでも桃子は、現にメガネをかけている。発展途上の新人の作品であれば経験不足ゆえの詰め込みすぎということで片づけられるかもしれないが、小谷憲一のキャリアを考えると、ここでメガネを持ってきたのには何らかの裏付けがあるとしか考えられない。が、作中からはその意図を読み取ることができない。眼鏡という観点から分析しようと思った時、非常に不可解な作品に見えるのだ。
ところが、この作品には、次のシーンがあることによって、私の脳裏から一生消えることはない。

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うーむ、すごい。現在の眼鏡キャラのテンプレからは逆立ちしても出てこない、すさまじい描写だ。というか、平成の世の中ではもはや許容されない描写でもあるが。
思い返してみれば、Dr.スランプなどを想起すればすぐわかるように、1980年代少年マンガに登場する眼鏡っ娘には、現在のテンプレ眼鏡からは相当にズレたキャラが非常に多い。むしろ文学少女とか病弱少女とかいう属性自体が実は歴史が浅いものに過ぎず、もともと眼鏡っ娘はもっとテンプレから自由だったというほうが正しいだろう。テンプレというものは概念を強化して固定ファンを増やすという側面がある一方で、ありのままの現実を見えにくくするという作用も持つ。たとえば現在不幸なことにアンチ眼鏡っ娘の人々が存在するが、実際のところ、彼らは現実の眼鏡キャラをまったく知らず、単に彼らの妄想の中のテンプレ眼鏡っ娘を嫌っているにすぎないことが多い。本当に奴らは何と戦っているのだろう。馬鹿じゃないだろうか。いや、われわれにしても、テンプレによって逆に視野を狭くさせられていないだろうか。
この作品の桃子というキャラクターは、メガネというものが実はそうとう自由であったことを再確認させてくれる。キャラクターは物語構成の都合から眼鏡をかけているのではなく、単に近眼だから眼鏡をかけているのだ。乱暴でがさつだろうと、近眼だから桃子は眼鏡をかけているのだ。心のメガネのレンズを拭いて改めて見た時、桃子がとても魅力的な眼鏡っ娘に見えてくるのだ。

005_03 (※1)眼鏡を外すと美人になるというお決まりパターンが少女マンガ特有のものだと勘違いしている人が多いが、このパターンはむしろ少年マンガから広がっていったと考えるほうが合理的だ。

■書誌情報

単行本『小谷憲一短編集1 ショッキングMOMOKO」 (ジャンプコミックス、1991年)に所収。
私が確認した時点では、amazonでは品切れ。古本屋を丁寧に当たれば、200円で手に入るとは思う。

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