「めがねっ娘」を愛していなければ、めがねっ娘教団員ではない。
逆命題「めがねっ娘を愛していれば、めがねっ娘教団員である」は偽である。
「めがねっ娘」を愛していてもめがねっ娘教団員でないことは、理論上ありえる。
不幸であれば、「めがねっ娘」を愛していない。
「めがねっ娘に愛されることが、幸せ」なのではないことに注意せよ。愛せよ。
「定義」とは、物事を限定することである。しかし「無限」を限定することは不可能である。
ところで、「めがねっ娘」は「無限」である。
したがって、「めがねっ娘」を定義することは原理的に不可能である。
しばしば、ある特定の人物やキャラクターを指して、「かの者はめがねっ娘か?」と、あなたを試す者がいる。
挑発に乗ってはいけない。確かに、ある人物が「眼鏡をかけているかどうか」は判断が可能である。しかしある女性が眼鏡をかけているからといって、その女性が「めがねっ娘」であるかどうかは別の問題である。
たとえばその女性が海水浴をしたり銭湯に入ったりする時に眼鏡を外したら、「めがねっ娘」でなくなってしまうのか? そんなことはあり得ない。「めがねっ娘」は、眼鏡を外していても「めがねっ娘」のはずだ。
つまり、眼鏡をかけているかかけていないかは、その人物が「めがねっ娘」であるかどうかにとって、決定的に重要な問題ではない。
だとしたら、ある人物を、どのようにしたら「めがねっ娘」だと判断できるのか。
「眼鏡をかけているかどうか」という視覚情報に頼れないとすれば、信頼できるのは我々人間に本来的に備わった理性と良心のみである。
人間が本来的に持つ理性と良心に照らせば、ある者が「めがねっ娘」かどうかは自ずと理解される。「めがねっ娘」を判断するとき、定義は無力である。良心に目覚めよ。
しばしば、定義できないはずの「めがねっ娘」を定義しようとする欲望が生じる。
たとえば「伊達眼鏡は、めがねっ娘か?」という議論がある。しかしその問いに答えが出ることは、原理的にあり得ない。
なぜなら、「めがねっ娘」は限定できないからである。「伊達眼鏡をかけている女性」を言葉で表現したいなら、単に「伊達眼鏡をかけている女性」と言えばよい。しかし「めがねっ娘」かどうかについては、理性と良心に従って判断せよ。
つまり、あなたが「めがねっ娘」だと思えば、かの者は「めがねっ娘」である。
「めがねっ娘」が眼鏡を外したら、とても悲しいが、絶望するには及ばない。
それは単に眼鏡を外しただけであって、直ちに「めがねっ娘」でなくなったことを意味しない。心の目で見よ。
あるいはかの者は、最初から「めがねっ娘」ではなく、単に「眼鏡をかけた女性」に過ぎなかったのだ。
眼鏡を外すことはできても、「めがねっ娘」でなくなることはできない。
教義3により、「めがねっ娘」は定義できないことを確認した。
しかしそれにも関わらず、「めがねっ娘」は公共的である。なぜなら、人間の理性と良心は普遍的だからである。
あなたが「めがねっ娘」だと思わなくても、他の人が「めがねっ娘」だと思っていたら、かの者は「めがねっ娘」である。
誰か他の人が「めがねっ娘」と言っている者を、あなた独自の判断で「それはめがねっ娘ではない」と主張してはならない。それはめがねっ娘の公共性を否定する行為である。
教義4により、「めがねっ娘」が公共性をもつことを確認した。
めがねっ娘教団は、この公共性に対する全般的な福祉向上に貢献する。
教義2により、「めがねっ娘を愛することは、幸せである」ことを確認した。
よって、めがねっ娘教団が公共の福祉向上のために行う活動とは、めがねっ娘を愛する者を増やすことである。
ところで、教義3により、「めがねっ娘は、定義できない」ことを確認した。
よって、特定の「めがねっ娘」を人々に押しつけるのではなく、一人一人がそれぞれ信じる「めがねっ娘」をそれぞれが愛する活動を、支援し応援し援助し、励ますことを目指す。
個々の教団員が信じる「めがねっ娘」を強力に推し出すことを妨げるものではない。推すべし。