この眼鏡っ娘マンガがすごい!第90回:小野寺浩二「妄想戦士ヤマモト」

小野寺浩二「妄想戦士ヤマモト」

少年画報社『アワーズライト』2000年9月号~『OURs』2006年2月号

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090_01「めがねっ娘教団」は、この作品から生まれた。記念すべき初登場は、第7話。それ以来、作品の内外で圧倒的な存在感を見せつけてきた。ヤマモトやワタナベのコスプレをする奴は見たことがないが、めがねっ娘教団はつい先日地上波(2015年9月4日「有吉ジャポン」)にも映ってしまった。それだけの内在的なエネルギーがそもそも本作に備わっていたことは、内容を一瞥するだけで理解できる。圧倒的な熱量を放射しているのだ。

めがねっ娘教団は、第7話で、ヤマモトによるコンタクトレンズ弾劾演説の後に初登場する。この第7話が2001年3月号(1月発売)に描かれているのは、おそらく偶然ではない。新世紀の幕開けに教団が登場するのは、その後の展開を考えるとたいへん象徴的な事態なのだ。めがねっこ教団が登場して以降の2001年の歴史を確認しよう。その怒涛の展開に驚くはずだ。

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2001年1月 「妄想戦士ヤマモト」に、めがねっ娘教団登場。
2001年1月 西川魯介『屈折リーベ』単行本化
2001年2月 下北沢にZoff1号店がオープン。
2001年4月 眼鏡っ娘ONLY同人誌即売会「Glasses」第一回開催
2001年5月 眼鏡っ娘ONLY同人誌即売会「めがねっこフェスティバル」第一回開催
2001年6月 眼鏡ONLY同人誌即売会「眼鏡時空」第一回開催
2001年6月 『デジモノステーション』で「ビジョメガネ」連載開始
2001年7月 Tommy February6デビュー
2001年9月 門脇舞デビュー

どうだろうか。この、なにかが溢れ出したような怒涛の歴史展開。これが新世紀だ。その渦中にあった時は、何かとんでもない変化が起こりつつあったことは感じていたものの、何が起こっていたかを正確に把握することはできなかった。めがねっ娘教団が説得力を持っているのは、そのわけのわからないエネルギーの奔流を的確に形にして見せていたからだ。
090_04教祖・南雲鏡二の生き様は、わけのわからない無形のエネルギーを具体的な形にしたものだった。彼の言動の一つ一つが、「これだ!」とか「これでいいんだ!」とか「こうじゃないとだめだ!」とか「ここまでやらなきゃダメだ!」と思わせるような説得力に満ちていた。ぐるぐると渦巻いていた無定形のエネルギーの塊が、南雲鏡二の一言で形になっていく。我々が目指していた最高の境地はここにあるのだと、具体的な形で見せてくれたのだ。そうして目指すべき指針を得た人々は、教団服を身にまとう。南雲鏡二はマンガのキャラクターではあるが、人々の潜在的なエネルギーに火をつけ、具体的な行動を促すという点で、真の人格を備えている。

090_05南雲鏡二の生き様を見て思い出すのは、江戸時代中期の『葉隠』という作品だ。『葉隠』は「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という一文で高名な、武士道をテーマとした作品だ。そこでは、何か選択肢があってどのように行動していいか迷った時、「死にやすいほう」を選べば間違いないということが説かれている。実は、南雲鏡二の行動原理(あるいはヤマモトも含めた本作登場キャラすべての行動原理)は、まさにこの武士道そのものだ。なにか選択肢があったとき、彼らは常に「自分の立場を危うくするほう」なり「自分を窮地に追いつめるほう」を選ぶ。そしてその選択には合理的な理由などない。ただ単に「男だから」という理由だけで、彼らは進んで自分の立場を危うくするのだ。しかし我々は、そのような姿に痺れる憧れる。そこに武士道の精神がビンビンに漲っているからだ。彼らの合理性を欠いた行動様式は、近代人の目から見たら異様に映るだろう。が、それだからこそ武士道というものに思想的意義がある。

090_08そして『葉隠』の武士道が儒教的な観念(特に忠)で構成されている一方、本作は「萌え」という観念を中核に構成される。これは「萌え」という観念を理解しようとするときに、本作が重要な位置を占めていることを意味している。というのは、『葉隠』の非合理的な武士道は、もちろん当時の合理的な武士道を徹底批判する。武士道そのものが合理性では理解できない観念だと考えているからだ。おそらくそれは「萌え」にも通じる。「萌え」という観念を合理的に分析しようとする試みは、東浩紀等を中心として様々に行われた。しかしそれら合理的な試みが果たして成功したかどうかは、私の目から見れば疑わしい。そもそも「萌え」というものは、最初から合理的な分析を拒絶している観念ではないだろうか。「死にやすいほうを選ぶ」という、合理性を拒否した境地で初めて武士道が成立するのだとすれば。南雲鏡二の「自分を追いつめるほうを選ぶ」という生き様を見るとき、「萌え」とは分析の対象ではなく、「生きられる」ものだということを知るのだ。

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そして合理性を超越した地平に初めて「宗教」が生まれる。めがねっ娘教団が宗教団体であることは、おそらく「萌え」というものの本質に深く関わってくる事態なのだ。本作は、合理性の彼方で、「萌え」というものの深い業をまざまざと見せつけてくれる。そうであって初めて、人々が具体的な行動を起こし始める。そういうわけで、本作が「聖典」と呼ばれるようになるのだ。

■書誌情報

もちろん教団の正典(カノン)。リニューアルされて、上下巻で手に入りやすくなって、ありがたい。旧単行本もお守りとして手許に置いておきたいところではある。持っていると、ならずものに鉄砲で撃たれたとき、たぶん助けてくれる。

小野寺浩二『妄想戦士ヤマモト HDリマスター上巻』(ヤングキングコミックス、2015年)
小野寺浩二『妄想戦士ヤマモト HDリマスター下巻』(ヤングキングコミックス、2015年)

単行本セット:小野寺浩二『妄想戦士ヤマモト』1-5巻セット (ヤングキングコミックス)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第80回:平野耕太「ヘルシング」

平野耕太「ヘルシング」

少年画報社『ヤングキング アワーズ』1998年No.27~2008年11月号

眼鏡っ娘が活躍するのは確かだけれども、客観的にはオッサン眼鏡たちの存在感の方が強烈ではある。客観的に見てオッサンたちのカッコよさは太陽の牙ダグラム並だが、とりあえず個人的にオッサンには興味と関心がないので、客観的な話はしない。

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いやー、CV榊原良子は本当にいい。私には、CVを指定してもらえればその声を脳内で再生する能力があるのだが、榊原良子は本当にいい。特にこのシーンの再生が良かった。たまらない。榊原良子に褐色眼鏡っ娘を演らせるとは、天才か。

眼鏡っ娘v.s.メガネ君の最終決戦では「人間」の定義に関する勝負があった。ここは眼鏡的にも興味深い論点を含んでいる。

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少佐が今際の際に発した「私は私だ」という言葉は、極めて大陸的な響きを持つ。フランスの合理論はドイツ観念論に昇華し、「私は私だ」という論理を精緻化していった。「即自的な私」と「対自的な私」の弁証法的同一。そしてそれは1970年代の眼鏡っ娘少女マンガにも「起承転結構造」の形で引き継がれ、「私は私だ」という近代的自我は高度経済成長後の日本で肥大化していく。「私は私だ」という少佐の主張は、基本的には1970年代乙女チック眼鏡っ娘たちの「私は私」という近代的自我と響きあう。
一方でインテグラの言う「義務」には、イギリス経験論的な響きを感じる。ヒュームやアダム・スミスの市民社会論の響きがある。独我論を拒否しても不可解な現実と対峙できる経験の蓄積がある。眼鏡っ娘とメガネくんの頂上決戦においては、二つの人間論が交わることなくすれ違っている。この理論的にも決着がついていない人間論の交錯は、しばらくは様々な論争の通奏低音として響き続けるだろう。

本作にはメインヒロインの他にも魅力的な眼鏡っ娘が登場する。特にリップバーン中尉は、たまらない。この眼鏡の描写は、すごい。

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法外で無慈悲な暴力を前にして怯え震えていた小娘が、眼鏡をかけなおした途端、自分を取り戻す。これが眼鏡の力だ。
しかし残念ながら、彼我の力の差はいかんともしがたい。圧倒的な暴力の前に、眼鏡っ娘はなすすべもない。殴られ、吊り下げられ、体を貫かれ、血まみれになり、食われる。

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この食われるシーンが、ものすごい。ものすごいのは、眼鏡の描写だ。「D⑧」で中尉は殴られて、その衝撃で眼鏡が吹っ飛んだ。続けて釣り下げられ、体を貫かれるシーンでも、もちろん吹っ飛んだ眼鏡は吹っ飛んだままだ。そして食われるのは次号になるのだが、月が替わって掲載された「D⑨」では、吹き飛んだはずの眼鏡が復活しているのだ。これを見た時、一瞬、私は作画エラーかと思った。しかし思い直す。これは意図的に眼鏡をかけなおしたのだ。アーカードが眼鏡を拾って、中尉を眼鏡っ娘にしてから食ったのだ。そうでなければ、最後の戦いの最中に中尉が復活するとき、中尉が眼鏡っ娘でなくなってしまう。というか、どうせ食うなら吸血鬼だって眼鏡っ娘のほうがいいよなってことだ。

もう一人。ヘルシング本編では眼鏡姿で登場しなかったが、別作品「CROSS FIRE」では主役を張っている眼鏡っ娘の「由美子」だ。まあ、ヘルシング本編では眼鏡をかけていないことが死亡フラグになってしまったけれど。

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眼鏡の「ON/OFF」が人格の切り替わりの目印になるという眼鏡っ娘。眼鏡ONの人格が「由美子」で、OFFの人格が「由美江」だ。ところで、「由美子」という名前のマンガ家は、とても眼鏡に優しい。本blogでも取り上げた田渕由美子を筆頭に、鈴木由美子、川原由美子、前田由美子と、素晴らしい眼鏡っ娘を描く作家の名前がすぐに浮かぶ。渡辺由美子はマンガ家ではないが、もちろん眼鏡に優しい。ここで眼鏡っ娘キャラに「由美子」と名前がついているのは、なんの因果かと思ったね。

■書誌情報

単行本全10巻。セカイ系全盛のご時世の中でまっとうな作劇をしていた点でも普通に面白い作品で、ラストまでずっと興奮しっぱなしで読めるので、ぜひ単行本でまとめて読みたい。

単行本セット:平野耕太『ヘルシング』全10巻(ヤングキングコミックス)

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