この眼鏡っ娘マンガがすごい!第149回:香川祐美「みやっこちゃんの法則」

香川祐美「みやっこちゃんの法則」

小学館『別冊少女コミック増刊』1982年7月号

不思議ちゃんに見えた眼鏡っ娘が、ふつうの女の子だったと気づくお話。そして結論から言えば、この場合の「ふつう」とは、つまらないとか取るに足りないとかいう意味ではない。相手を「キャラ」としてではなく、一人の人間として理解するということなのだ。

ヒロインの眼鏡っ娘は、尾西都。高校2年生。同じクラスになった伊藤くんは、眼鏡っ娘のことが気になって仕方がない。

都は、化学のテストは学年で1番なのに、現国のテストは18点だったりする。現国には正答なんかないと言って、好きなことを書きまくって、点数が悪くなるということらしい。そんな都のことを、伊藤くんは「おもしろい子」だと思う。「なんか変わってるなあ」と思う。今風に言えば「不思議ちゃん」といったところだろう。

都の不思議ちゃんっぷりは、どんどん伊藤くんを魅了していく。眼鏡っ娘の一挙手一投足が気になって仕方がない。

が、そんな眼鏡っ娘が、実はふつうの女の子だということに気がつくときが来る。都が失恋してしまったことを、偶然、伊藤くんは知ってしまう。

都は、伊藤くんに「わたし、恋なんかしないように見えるでしょ」とか「らしくない」とか言う。都は自分のことを「変わってると見られている」と認識していたのだ。でも、伊藤くんは、都が「ふつうの女の子」だと気づいた。伊藤くんに「ふつう」であることを受け止めてもらって、都の感情が溢れ出す。

都が涙を流したのは、伊藤くんが気づいたとおり「失恋のためだけではない」だろう。おそらく、自分のことを「ふつう」に受け止めてもらい、嬉しさと恥ずかしさが入り交じった感情が溢れ出したのだ。そして、都が「ふつうの女の子」だと気がついて初めて、伊藤くんも自分の気持ちに気がつくことができる。彼女のことが、好きだったのだ。そして二人の心の交流が始まる。

眼鏡っ娘というと、マンガや小説やアニメなどのフィクションにおいて、しばしば風変わりなキャラとして描かれる。世間の価値観とズレた眼鏡っ娘がたくさんいる。それ自体は、とても良い。我々はそういう世間に流されない眼鏡っ娘のことが、大好きだ。萌え。しかし萌え要素に囚われすぎて、表面上は一風変わった眼鏡っ娘たちが、実は「ふつうの女の子」であることを見逃してしまうとしたら、勿体ない。人格相互のコミュニケーションは、表面上の風変わりなキャラから生じるのではなく、「ふつう」の部分で行われるのだから。表面上の不思議キャラは「好き」とか「萌え」の対象にはなるかもしれないが、「愛」の対象にはならないのだから。相手を「キャラ」ではなく、一人の人間として理解するところから、愛というものは生じる。それは、伊藤くんに言わせれば、都を「ただの普通の女の子」として理解するということなのだ。結論を繰り返すと、この場合の「ふつう」とは、決してつまらないとか取るに足りないという意味ではないのである。

書誌情報

本作は28頁の短編よみきり。単行本『春の扉』収録。しみじみ、抜群に温かみのある絵が上手なマンガ家だ。特に「掛け網」の使い方が心地よい。本作でも、眼鏡っ娘の髪の毛や制服の黒が掛け網で表現されているところは、すごい技術だ。惚れ惚れとする。作画のデジタルテクノロジーが進化することで、こういう温かみのある掛け網表現は絶滅に向かっていくのか、それとも逆に発展するのか。

【単行本】香川祐美『春の扉 ユミのクリスタルワールド 3』小学館、1987年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第148回:陸野二二夫「それでも世界を崩すなら」

陸野二二夫「それでも世界を崩すなら」

秋田書店『もっと!』vol.6~『Championタップ!』2015年6月

予想を心地よく裏切られる、とてもいい作品だ。

主人公の眼鏡っ娘は、黒野書子(くろのかくこ)、13歳。地球を破滅させることを目論み、悪魔を召喚することに成功する。眼鏡っ娘が地球を滅亡させるのか!? と思いきや、悪魔は眼鏡っ娘の願いを、すげなく却下する。悪魔が願いを拒否すること自体がとても面白いのだが、理由がまたふるっている。書子に友達がいないのが、気にいらないと言うのだ。

友達がいないせいで、悪魔にも見放される眼鏡っ娘。かわいそう。しかし眼鏡っ娘は食い下がる。友達ができたら地球を滅亡させる力をもらうと、条件を提示する。悪魔も、それを飲む。いよいよ地球の存亡をかけて、眼鏡っ娘の友達作りが始まるのだった。すげえ斜めな展開だな。

が、これまで友達を作ったことがない眼鏡っ娘には、友達の作り方がわからない。悪魔から「友達作りの基本は挨拶」だとアドバイスを授かるが、簡単に挨拶できるようなら最初から友達作りに苦労するわけがない。眼鏡っ娘は、どうしても挨拶をすることができない。

逡巡と葛藤の末、眼鏡っ娘は必死に勇気を絞り出す。意を決して、ようやく「おはよう」と言うことに成功するのだった。人類にとっては小さな一歩だが、書子にとっては大きな一歩だ。良かったね、書子。斜めな展開だと思っていたら、なんだかいい話に着地したぞ。

そんなわけで、コミュ障の眼鏡っ娘が主人公になっているが、決して引き込もりやコミュ障の生態を笑いの対象にするような下世話なマンガではない。書子が、逡巡と葛藤を繰り返し、矛盾と困難に直面しながら、のろのろと、しかし着実に成長していく物語だ。書子は、表面上は憎たらしいことを言うが、心根は優しい娘だ。いろいろな理由があってひねくれてしまったのだろうが、頑張っている姿を見ると、応援したくなる。書子が一歩踏み出すと、読んでいる方も嬉しくなる。おそらく、悪魔も同じ気持ちなのだろう。厳しいツッコミも、そっけない皮肉や嘲笑も、振り返ってみれば全てが書子の成長の糧となっている。愛にあふれている。外連味たっぷりの登場人物たちにも関わらず、読後感はとても爽やかだ。とてもいいマンガだ。

そして、眼鏡の象徴的な意味についても、いろいろ考えさせられる。物語の冒頭において、眼鏡は書子にとって「バリアー」の役割を果たしている。眼鏡とは、脆弱な自分を外界から守る防御壁だ。だから、そのまま何も考えずにストーリーを作ると、防御壁を取り払ってハッピーエンドというような、つまり眼鏡を外しにかかる展開に陥りやすい。が、それは必然的に駄作となる。仮に眼鏡がコンプレックスの象徴であったとしても、それを安易に取り去ることは、あたかもカップ焼きそばのお湯切りの時に麺も一緒に捨ててしまうような、愚か極まりない行為なのだ。本作は、そんな愚を犯さない。書子は最後まで眼鏡を外さない。物語の途中で眼鏡の象徴的意味が変化するから、外す必要がないのだ。変化とは、どういうことか。確かに眼鏡は、外からは防御壁のように見える。が、内側の視線から考えた場合、眼鏡は世界と繋がるための窓口なのだ。外からは防御壁だが、内からは窓口。これが眼鏡論的な要点だ。本作の眼鏡は、最終的には、世界と繋がることの象徴となる。当初は外界を拒絶していた書子は、悪魔さんのアドバイスを得ながら、自分で「世界を見る」という意志を持ち始める。眼鏡が世界と繋がる窓口に変わる。核心部分のネタバレになるから詳しくは書けないが、書子が示した「見る」という意志は、185頁で端的に確認することができる。
眼鏡は、世界を拒絶する防御壁にもなれば、世界と繋がる窓口にもなる。どちらになるかは、悪魔の言うとおり、「それを決めるのはお前である。」ということだ。この眼鏡の有り様は、「メディアとしての言葉」というものの機能とよく似ている。そして本作は、「メディアとしての言葉」の有り様を実によく描いている。言葉は世界を拒絶して内側にこもるものであると同時に、世界と繋がる窓口でもある。一見世界を拒絶しているかに見える書子の言葉は、本心では世界と繋がることを強烈に欲する表現だ。一見書子を嘲る悪魔さんの言葉は、本心では書子を応援するための表現だ。このように矛盾する「メディアとしての言葉」の有り様が、眼鏡の描写にも通底している。だから、「スカートを短くしろ」とか「眉毛を剃れ」とか「髪を染めろ」とか「大衆に迎合しろ」とか言う悪魔さんは、決して「眼鏡を外せ」とは言わなかったのだ。しみじみと、良い作品である。

書誌情報

同名単行本全一冊。電子書籍で読むこともできる。
著者のブログには、1頁眼鏡マンガや、眼鏡っ娘のイラストがたくさんある。また、「絵描くと自然と眼鏡描いてる’S」という、前世から眼鏡を書き続けているらしい面々の一員だったりするので、たぶん前世から応援してる。

【Kindle版、単行本】陸野二二夫『それでも世界を崩すなら』秋田書店、2015年

【著者ブログ】66

【同人】絵描くと自然と眼鏡描いてる’S

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第147回:宮沢由貴「双子座迷宮」

宮沢由貴「双子座迷宮」

小学館『デラックス別冊少女コミック』1996年冬の号

率直に言えば、平凡な作品である。だが、それが尊い。この尊さが分からない輩には、小一時間ほど説教を喰らわせたい。

主人公の亜衣は、眼鏡っ娘の高校生。双子の姉なのだが、妹の麻衣にはあらゆるスペックで劣っている。亜衣は眼鏡をかけているが、運動だけでなく、勉強も苦手なのだ。しかもドジっ娘。加えて、ソバカスで三つ編み。ありがとうございます。
亜衣は、そんなダメダメな自分の立場を双子座になぞらえて、カストルと呼んでいる。同じ双子座でも、ポルックスは一等星で、カストルは二等星。それがまるで麻衣と自分の差を示しているように思えるからだ。

そんな亜衣は、星が大好き。好きすぎて、プラネタリウムに通っている。その館長の息子が、本作のヒーロー、昴くん。少女マンガのヒーローだけあって、格好いいことを言う。彼によれば、カストルもポルックスも恒星で、「自分の力で耀いている天体」ということではまったく変わりがない。それと同じように、「亜衣ちゃんにも麻衣とは違った別の良さがあると思う」と言う。この言葉が、コンプレックスで弱っていた亜衣の心に深く染みわたる。

そんなイケメン昴くん、実はかなりのモテ男で、ガールフレンドがたくさん存在していた。そして、ちょっとした行き違いから、亜衣はただ昴にからかわれていただけだと勘違いしてしまう。落ち込む亜衣。
だが、麻衣の手助けもあって、亜衣は昴くんの言葉を思い出す。自分は自分なりに耀けばいいんだと。

亜衣は昴くんを信じる。走り出した亜衣を双子座流星群が導いて、昴くんのところに連れて行ってくれるのだった。うーん、ハッピーエンド。

まあ、大雑把にまとめれば、コンプレックスを持っていた主人公が、並み居る美人たちを追い越して、いい男に「そんな君が好き」と言われるストーリーだ。王道と言えば、王道。平凡と言えば、平凡。だが、それがいい。これでなくてはいけない。いつも道子みたいでは、疲れてしまう。劣等感を持っていた眼鏡っ娘が、ふつうに眼鏡のままふつうに幸せになる。そんなふつうのマンガが存在してくれないと、世の中は成り立たない。眼鏡を外して美人だなんてことは、起こるはずがないのだから。この話のように全ての眼鏡っ娘が眼鏡のまま幸せになってくれることを願うのだった。

書誌情報

本作は40頁の短編よみきり。単行本『真夜中のアダム 宮沢由貴ラブストーリーズ3』に所収。
きめ細かい作画と安定の構成、丁寧な登場人物の心情描写で、安心して読めると思いきや、他の作品はなかなかの鬱展開だったりするから油断ならない。

【単行本】宮沢由貴『真夜中のアダム 宮沢由貴ラブストーリーズ3』小学館、1997年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第146回:高橋亮子「道子」

高橋亮子「道子」

白泉社『ララ』1978年10月号、79年1月号、12月号、80年1月号

(以下、基本的に鬱展開の作品なので、鬱展開が苦手な人には離脱をお勧めします。)

横顔が印象的な眼鏡っ娘だ。これほど横顔が似合う眼鏡っ娘は、他にいない。それは、横顔であることに本質的な意味があるからだろう。結論から言えば、眼鏡は「視線」の在処を端的に示し、横顔は「視線」が彼方に向かっていることを暗示しているのだ。本作を読み解くキーワードは「視線」であり、だからこそ眼鏡は決定的に重要なアイテムとなる。

ヒロインの道子は、眼鏡っ娘作家、23歳。病弱で家事能力ゼロ。一人暮らしをしていたが、貧血で倒れてしまい、親戚の家にしばらく厄介になることになる。そして、そこで出会った高校生男子、晃史くんの人生を狂わせていくことになる。

道子本人は、色恋沙汰にまったく興味がない。結婚も最初からする気がまったくない。ファッションも女らしくないし、言動も普通ではない。しかしそんな道子に、晃史は次第に惹かれていく。

道子には「やりたいこと」がたくさんあるという。ただ、その「やりたいこと」の中身は、明確ではない。とても曖昧なものだ。その曖昧さを、道子本人は「見えそうな気がするんだけど、手をのばすと、ふっ…と遠くへ行っちゃう」と表現する。この種の話になるとき、いつも道子は横顔で描かれる。つまり、晃史くんのほうを向いていないことを示している。今ここではない、どこか遠くを見ながら、道子は掴み所のない話をする。晃史くんは、「その時の彼女の視線の遠く」が気になってしまう。その視線の先にあるのは、何か。彼女が眼鏡を通して見ているのは、どういう世界なのか。

晃史くんには実は美人のガールフレンドがいたのだが、眼鏡っ娘に惹かれつつある自分を自覚し、ガールフレンドを捨てる。眼鏡っ娘の魔力に取り付かれてしまった晃史くん。そして、晃史くんが思い浮かべる眼鏡っ娘は、いつも横顔なのだ。晃史くんを見ていないのだ。その視線は、目の前の晃史くんではなく、はるか彼方に向いている。悶々とする晃史くん。

溢れる想いをもてあます晃史くんは、もう我慢できない。思わず道子を抱きしめ、想いを打ち明ける。しかし道子はそっけない。「わたしは、だれのものにもならない」。二人は結ばれない。最初から結ばれるわけがないのだ。晃史くんが憧れていた眼鏡っ娘は、常に横顔だったのだから。その眼鏡越しの視線は、彼ではなく、彼方に向かっているのだから。

道子が眼鏡越しに見ていた視線の先には、いったい何があったのか。実のところ、彼女自身にもそれが何なのか、分かっていない。見えていない。視線を向ける先は分かっていても、その先に何があるのかは見えない。道子もそれを自覚しているから、晃史を受け入れることができない。

道子が言う「本当の何か」とは、「それがあることはわかる」けれども「見えていない」という何かだ。道子は「自分が自分でいたいだけ」と言うが、実は道子には「自分」とは何かということが分かっていない。そう、「自分」こそが「見えていない」ものの正体だ。道子が向ける視線の先に、もちろん、自分など見えるはずがない。

自分からは自分が見えない。自分を見るためには、必ず他人の視線が必要になる。「自分とは何か」を教えてくれるのは、自分ではなく、常に他の誰かだ。しかし道子が横顔であるということは、実は自分というものを教えてくれる他者と向き合えていないことを意味している。

しかし一度だけ、道子と晃史くんの人生が真正面からぶつかる。そのとき、晃史くんは真正面から道子の眼鏡を外す。その眼鏡を外す行為は、凡百の作品によく描かれるような、道子からコンプレックスやアイデンティティを奪うことの象徴ではない。それはむしろ、道子が見ていた「視線の遠く」を共有しようとする意志の表れである。道子の眼鏡は、道子の視線の方向を示すものであり、道子が見ていた世界全体を包括するアイテムだ。その眼鏡は、いつも横を向いていた。その眼鏡が、晃史くんに向けられることはなかった。が、いま、晃史くんは真正面から道子の眼鏡を取りあげる。そして眼鏡を外すという行為は、晃史くんにとっては「道子の視線」を共有する意志だが、一方の道子にとっては「自分の視線」を他者に委ねる信頼である。道子の視線=生への意志が、眼鏡の授受を通じて、初めて晃史くんの意志と交錯する。二人は心を通わせる。震える。他の作品でも私自身の象徴としての眼鏡は描かれてきたが、これほどまで眼鏡を実存的なシンボルとして描ききった作品は、他にないと思う。「視線」という目に見えないものを眼鏡を通じて描き切るという、作者の類いまれな力量が生み出す迫力である。凄い。
そして道子は、再び眼鏡をかける。道子は、自分の視線を取り戻す。道子と晃史くんの人生は、再び別れる。しかしそれは、道子が元の「ひとりよがり」の自分に戻るということではない。「視線の遠く」を共有しようとしてくれた大切な人がいることを、今、彼女は知っている。そして晃史くんは、今度は自分だけの「視線の遠く」に向かって、歩き始める。切なくも淡いラストである。

書誌情報

同名単行本全一冊。古本でしか手に入らないが、案の定プレミアがついてしまっている。こういう名作を読むことができるために、電子アーカイブ化は有効だと思う。

著者の高橋亮子は、「つらいぜ!ボクちゃん」や「がんばれ!転校生」など、夢に向かって明るく前向きに突き進む作品群で知られる傾向にあるが、実はそうとう実存的な葛藤と苦悩を抱えた作家であり、その内省的な傾向が顕著に顕れたのが本作であるように思う。ナチュラルに高踏的すぎて、ボディブローのように効いてくる鬱展開ぷりに21世紀の読者がどれだけついてこられるのか心配ではあるが、眼鏡っ娘評論的な立場から言えば、この上なく眼鏡らしい作品である。大傑作。

【単行本】高橋亮子『道子』白泉社、1980年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第145回:さと「いわせてみてえもんだ」

さと「いわせてみてえもんだ」

スクウェア・エニックス『ヤングガンガン』2006年No.14~07年No.4

眼鏡っ娘とメガネ男子の恋愛マンガで、基本的にはコメディ調。だが、最後にはうるっと来てしまう。笑いながらも泣ける名作めがねマンガだ。

まあ、厳密に言うと、眼鏡っ娘マンガというよりは、メガネ男子マンガに分類した方がいい作品なのかもしれない。主人公は、メガネ男子の吉川ヨシオ。なんだか適当な名前に思えるが、この適当な固有名詞が最後に効いてくるからバカにできない。そしてこの男、本人は自覚していないようだが、かなりのメガネフェチだ。アイテムとしての眼鏡に対するこだわりが、極めて強い。

自分のかけている眼鏡のオシャレ具合にも自信を持っているらしい。そんなメガネ男子が、たまたま遊びに行った文化祭で一人の眼鏡っ娘に出会い、人生が変わる。下の引用部の独白が、素晴らしい。

お前は秋保少年@屈折リーベか。そう思わせる、男前な独白だ。「それにしてもメガネの似合う女子だ。まるでメガネから生まれてきたような」という妄想は、並のフェチから生じることはない。素晴らしい。いいぞ、もっとやれ。
と思ったら、秋保少年が極めてポジティブなのに対し、このメガネ男子は根暗なのだった。すぐに自信を喪失してしまう。

自信を喪失したメガネ男子は、あろうことか、自分の眼鏡を捨ててしまう。それをすてるなんて、とんでもない!
が、この作品、ここからの展開が凄かった。怒濤のめがねラッシュ。実は本当にヤバかったのは、メガネ男子のフェチっぷりではなく、ヒロインの眼鏡っ娘のほうだったのだ。

そうだ、メガネとったら死んでしまうぞ。眼鏡っ娘は、自分がかけていたメガネを、ものすごい勢いでメガネ男子にかけさせる。ダイビングジャンプめがね掛けだ。メガネをかけた瞬間、メガネ男子は恋に落ちる。

「これ…この子のメガネ…」。恋に落ちるには、この理由だけで十分だ。そりゃそうだ。しかし恋に落ちてしまった彼には、この後、想像を絶する苦難と葛藤の人生が待っているのであった。そして苦難と葛藤を経た後に迎える最終話には、泣かされる。ありがとう、ありがとう。

さて、そんなわけで一見すると眼鏡ラブコメに見えるこのマンガ。実は、実存的なテーマをデリケートに扱っていて、泣かせる作品になっている。実存的なテーマとは、簡単に言い直せば「俺って何なんだろう?」という葛藤と苦悩である。そして本作は、この問いに対して、「固有名詞」の本質的な特徴を実に効果的に使って立ち向かっているのが、とても素晴らしい。
固有名詞とは、誰とも比較されず、誰とも交換されず、誰の代わりでもない、「他の誰でもない、まさにこの私」というものを指し示すものだ。メガネ男子の「吉川ヨシオ」という平凡すぎる固有名詞は、しかし彼にとってみれば誰にも代えられない「まさにこの私」のシンボルなのだ。この固有名詞をめぐって本作が描くエピソードが、切なすぎる。切実なエピソードの着実な積み重ねが、最終話の固有名詞のエピソードと、そしてタイトルとリンクすることで、強烈なカタルシスとなる。素晴らしい構成だ。実質的なデビュー作とは思えない、素晴らしい出来だ。本作をノリと勢いだけの作品だと勘違いしている向きも一部にあるようだが、構成がまったく読めていないと思う。(まあ、ノリと勢いが素晴らしいのも間違いないのだが)
このような「ほんとうのわたし」という実存的なテーマと、眼鏡というアイテムは、実に相性が良い。少女マンガにおいては、そのテーマは主に起承転結構造によって描かれてきた。少年マンガでは、西川魯介「屈折リーベ」のように、普遍と特殊の間の矛盾を突き詰める構成が代表的だ。そして本作も、眼鏡というアイテムそのものを「ほんとうのわたし」の象徴として扱っているわけではないが、やはり眼鏡と実存との相性が極めて良いことを示してくれる。そしてこのテーマは人間の本質的なところを突き刺しているので、いつまで経っても古くなることがないのである。

書誌情報

同名単行本全一冊。
もともとはwebマンガで、2005年頃に大ブレイクした。30代の人は「いわみて」ってことでよく知っている可能性が高い。特にメガネ界隈ではバズりにバズって、2005年~06年頃にかけて一つのピークを迎えたメガネ男子ブームを加速させた。個人的見解では、メガネ男子萌えの歴史を語るときに年表に載せるべき記念碑的作品であるとも思う。
もともとのwebマンガは、基本的にストーリー展開は一緒だが、ノリとテイストが異なるので、こちらもぜひ閲覧することをお勧めする。個人的な感想では、今から読むなら、単行本を読んでからwebマンガを閲覧する方が気持ちいいかもしれない。

【単行本】さと『いわせてみてえもんだ』スクウェア・エニックス、2007年
【webマンガ版】さと「いわせてみてえもんだ」
【作家サイト】99円均一

そして、商業デビュー作「キミの世界へ」は『メガネ男子』(アスペクト、2005年)という本に掲載されたのだが、この本、mixiのメガネ男子萌えコミュニティから萌え出でたことで知られている。「キミの世界へ」は7頁の短編で、メガネの先生が主人公のハートフルストーリー。

『メガネ男子』という本は、2005年頃から一般世間にメガネ男子萌えが浮上し、さらに市民権を得始めたことが分かる資料ともなっている(腐海等ディープな世界では、もちろん20世紀からメガネ萌えは存在するが)。あれから10年以上経ち、メガネ男子萌えはますます隆盛だ。メガネスキーも負けてはいられない。

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第144回:久世番子「ハーメルバーメルの侍女」

久世番子「ハーメルバーメルの侍女」

新書館『ハックルベリー』2004年vol.3

主人公の眼鏡っ娘ジオラは、メイドさん。M×M=∞(眼鏡とメイドのコラボレーションは破壊度無限大と発音)だ。
ということで、ジオラは姫様に使える侍女なのだが、秘密の任務をひとつ抱えていた。実は、姫様の影武者だったのだ。

ジオラは、眼鏡を外すと姫様に顔がそっくりで、病弱の姫様のための影武者に選ばれた。しかし実は似ているのは顔だけで、仕草や立ち居振る舞いなどは似ても似つかない。姫様に似せるための特訓を行っているが、なかなか上手くいかず、侍従長にはいつも叱られてばかりで、ジオラは自信を失っている。そんなとき、トッテムという男が現れる。

ジオラは、自分の取り柄は「姫さまに似てる」ことだけだと思い込んでいた。姫様に似ていることだけを頼りに生きてきたと。しかし、それはつまり、自分の眼鏡を否定することを意味する。眼鏡を外して、姫様になりきることだけが「取り柄」だと思っている。トッテムは、そこにツッコミを入れる。

ジオラは、ジオラだけの良さを持っている。実は姫様だって、ジオラ本来の良さをよく知っている。トッテムも、ジオラ本来の良さを見つけ出している。ジオラだけが、自分の良さを見失っている。それはあたかも、他の人からはジオラの眼鏡がよく見えるのに、眼鏡をかけているジオラ自身からは眼鏡がまったく見えないのと同じことだ。ジオラの眼鏡は、ジオラの良さの象徴だ。姫様になるときには、眼鏡を外す。眼鏡を外して姫様になりきることが自分の取り柄だと思い込んでいる。しかし、姫様もトッテムも、そうは思っていない。眼鏡をかけているときのジオラこそが本当のジオラだと分かっている。眼鏡こそが自分の取り柄であることに気づいたとき、ジオラは失っていた自分を取り戻す。

創作行為にとって、眼鏡は無限のインスピレーションの源泉である。本作の場合、眼鏡はジオラのコンプレックスの象徴でもありながら、同時に他人とは違う(特に姫様と異なる)彼女にしかない個性の象徴でもある。この相反する二重の意味を一身に担えるアイテムは、なかなか他にはない。そしてコンプレックスが個性へと反転昇華する瞬間を描くとき、眼鏡というアイテムは比類なきダイナミックな輝きを発するのだ。
だから我々も、眼鏡っ娘に、眼鏡が素敵だと言っていこう。眼鏡っ娘からは、自分の眼鏡が見えていないのだから。

書誌情報

本作は40頁の短編。単行本『甘口少年辛口少女』所収。

ちなみに表題作の「甘口少年辛口少女」は、メガネ男子が主人公。巻末のオマケまんがによると、この頃は「一作品一メガネ」というルールを自分に課していたようだ。素晴らしい。

さらにちなみに、投稿作にしてデビュー作の「NO GIRL, NO LIFE」の主人公も眼鏡っ娘。

【単行本/Kindle版】久世番子『甘口少年辛口少女』新書館、2005年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第143回:新谷明弘「未来さん」

新谷明弘「未来さん」

アスキー『月刊コミックビーム』1997年~98年

眼鏡っ娘は、どうして眼鏡をかけているのか? どうしてそんな当たり前のことを考えるのかと不思議に思うかもしれない。が、そんな疑問を改めて考えさせるのが、この作品である。

主人公は、高橋亜鉛子さん。眼鏡っ娘の大学生だ。
と言葉で説明してみても、この作品について何も語れていない。「読者を選ぶ作品」という微妙な言い回しが日本語にはあるわけだが、それで片付けたくないような、他に類がない作品であることは間違いない。マンガ図書館Zで無料で読めるので、読んでみて欲しいとしか言いようがない。

まあ、一言で言えば、SFである。SFといっても、ロケットやロボットや宇宙人が出てくるわけではない。取り立てて大きな事件が起こらない、日常SFである。生命科学と人工知能が発達して「生命」に対する常識が更新された世界、いわゆるサイバーパンクという表現手法を通じて「生命」という得体の知れないものの本質に迫っていくような作品だ。そんな不思議な世界観に、眼鏡がよく似合う。眼鏡が似合う?

亜鉛子は、どうして眼鏡っ娘なのか? なぜ彼女は普通に眼鏡をかけているのか? 本作を通じて、この疑問が常につきまとう。主人公が眼鏡っ娘であるという事実に対して、これほど真正面から向き合わなくてはならない作品は、実は他にあまりない。なぜなら、ちょっと考えれば、彼女が眼鏡っ娘であることが不自然なことに気がつくからだ。というのは、こういうふうに生命科学が進化した世界においては、近眼は遺伝子操作で克服されているはずで、視力矯正器具としての眼鏡は必要なくなっているはずだからだ。亜鉛子は、近眼が克服されたはずの世界において、それでも眼鏡なのだ。
眼鏡に関するエピソードは、作中に一つだけある。

このエピソードで少年が「眼鏡なんてレトロなもの」と言っていることから分かるように、この世界ではすでに遺伝子操作によって近眼が根絶されている。亜鉛子も眼鏡をいじって「資力10.0にまでなる」とは言っているが、それが眼鏡をかけている理由ではないだろう。それは、右耳のイヤリングの問題とリンクしている。右耳のイヤリングは、外部情報を取り入れるためのコネクタの蓋として機能している。コネクタの蓋がイヤリングでなければならない必然性がないのと同様、眼鏡をかける必然性もない。それでも亜鉛子は、イヤリングをしているし、眼鏡をかけている。では、眼鏡とは何か。なぜ、彼女は眼鏡をかけているのか?

おそらく答えは出ない。そして答えを出せないこと自体が、この作品全体の雰囲気を象徴する。独特の世界観の中に存在している亜鉛子の眼鏡が、合わせ鏡のように独特の世界観を象徴する。亜鉛子の眼鏡は、この作品自体の捉えにくさそのものを凝縮して示す、特異点のようなものになっているのだ。眼鏡は認知の特異点の象徴だからこそ「どうして眼鏡なのか?」という問いには論理的な答えが出ない。そこに気がつくと、この作品に散りばめられた認知の特異点の数々に対して、一気に視界が開けていく。高橋亜鉛子が眼鏡っ娘であるということを突き詰めることが、捉えきれない本作を捉える鍵になるのだろう。

書誌情報

同名単行本全一冊。マンガ図書館Zで、無料で読むことができる。
この作品が商業誌で出てくれたことは、眼鏡的に言って、奇跡的な幸せだったのかもしれない。あの頃の『コミックビーム』だからこそ可能だったのかもしれない。
【マンガ図書館Z】新谷明弘『未来さん』
【単行本】新谷明弘『未来さん』アスキー、1998年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第142回:松川祐里子「シンデレラ志願」

松川祐里子「シンデレラ志願」

白泉社『シルキー』1996年1月号

ある誤解と勘違いが、世間にはびこっている。「少女マンガでは、眼鏡を外すと美人になる」という勘違いである。本コラムは、そんなバカげた勘違いを修正するために活動してきたわけだが、まだ言い足りない。いくらでも具体例を出して、正しい認識を広めていきたい。正しくは、「少女マンガでは、いったん眼鏡を外したとしても、幸せになるために眼鏡をもう一度かけなおす」だ。それを定式化すると、「眼鏡っ娘起承転結」構造となる。

というわけで、本作も眼鏡っ娘起承転結構造を示してくれる良作だ。
主人公の眼鏡っ娘、名波はるかは26歳、彼氏なし。小さい頃から真面目で堅い眼鏡っ娘だった。これが起承転結の「起」。

しかし、ちょっといいなと思っていた男性が、女性を外見だけで判断していることにショックを受けて、綺麗になりたいと思ってしまう。そこにつけ込んで、莫大な金を使わせて服や化粧品を買わせ、自分の価値観に眼鏡っ娘を巻き込む友人。いちおう、見た目はハデになる。これが起承転結の「承」。少女マンガはここで終わると勘違いしている人が多いわけだが、ここまでは起承転結の起承に過ぎない。本題は、ここからだ。眼鏡を外して人生がうまくいくわけがない。

はるかは、綺麗になったと思って有頂天になり、イケメンの男性にホテルに誘われてノコノコとついていくが、無理しているのがバレバレだ。男性には「そんな格好やめちゃえよ、似合わないよ」と言われる始末。これが起承転結の「転」。

男は、はるかを街に連れ出して、もともと持っていた魅力を引き出していく。このときの男のセリフがかっこいい。「慣れないコンタクトなんて外して。君の眼鏡は?」と言いながら、自ら眼鏡をかけてあげるのだ。これだ。眼鏡をかけ直した瞬間、もはや勝利の予感しかしない。こうやって再び眼鏡をかけてハッピーエンドへと向かっていくのが起承転結の「結」だ。

畳みかけるように男は言う。「眼鏡の方が自然だよ。似合ってる」。まさにまさに。全国民の言葉だ。それでも自信がもてない眼鏡っ娘には、こう言うのだ。「それでも僕は、本当の、こっちの眼鏡の方が好きだよ」。一人のメガネスキーが、一人の眼鏡っ娘を救った瞬間だ。素晴らしい!

こうして眼鏡っ娘は、本物の自分を取り戻す。眼鏡をかけ直すことは、「自己実現」の象徴なのだ。確かに眼鏡を外したら、外見は派手になって、一瞬はチヤホヤされるかもしれない。しかしそんなものは、マヤカシの幸せに過ぎない。本物の、本質的な幸せを手に入れるためには、自分を偽ってはならない。眼鏡とは、「ほんもののわたし」を象徴するアイテムなのだ。

確かに自分を変えていく必要はあるかもしれないが、眼鏡っ娘の言うとおり、「まるっきり自分を変える必要」なんてない。変えていけないのは「自分の本質」だ。眼鏡こそ、自分の本質を象徴するものなのだ。

しかし、人間というものは、なかなか「自分の本質」には気づかない。むしろ自信を失って、自分を完全に変えてしまいたくなるときだってある。眼鏡を外すとは、そういう状態の象徴だ。しかし、自分を偽って、無理をしても、うまくいくわけがない。そういうとき、「無理しなくていいよ。そのままの君でいいんだよ」と言ってくれる人がいてくれたら、なんてありがたいだろう。しかし一方、自分を偽ってうまくいかなかった経験があって、初めて「自分の本質」を深く理解することができるようになるのかもしれない。これが「人間としての成長」というものだ。これには、男も女も関係ない。「眼鏡っ娘起承転結」は、そんな「自己実現」の有り様を見せてくれる。つまり人間の成長というものの普遍的な様式を表しているのだ。だから、「眼鏡を外して美人」などいう物理法則にも人文科学の法則にも反しているバカバカしい迷信は、人類のために消え去っていただきたい。

書誌情報

32頁の短編よみきり。単行本『学園スクープ・キッズ』所収。
ちなみに単行本表題作の「学園スクープ・キッズ」は、ショタ系メガネ男子がヒロインとなっている。

【単行本】松川祐里子『学園スクープ・キッズ』白泉社、1997年

 

 

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眼鏡文化史研究室

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第141回:夏元雅人「海底大戦争」

夏元雅人「海底大戦争」

新声社『コミックゲーメスト』1994年2月号~12月号

主人公の眼鏡っ娘は、27歳。人妻だ。しかも妊娠エンド。おっと、この情報だけで帰ってしまうのは早計というものだ。これがまた、凄い作品なのだ。眼鏡っ娘の魅力こそが地球を救う決定的な鍵だという、素晴らしいメッセージが込められた作品なのだ。

眼鏡っ娘は、高原麗。地球殲滅を企む悪の組織D.A.S(Destroy and Satsujinという凶悪な組織名)と戦う、潜水艦のパイロットだ。夫の仁と一緒に戦っているのだが、ある作戦で、少女を助けるために身代わりとして人質になってしまう。

ガラの悪いグラサン+リーゼントの男に眼鏡っ娘が手込めにされてしまいそうな、絶体絶命の大ピンチだ!

と思いきや、敵のリーゼント男に保護されて、美しいドレスを着せられたりする。リーゼントは、人質にとった眼鏡っ娘に本気で惚れてしまい、寝返るのだった。さすが眼鏡っ娘!

そして物語は最終決戦に。ラスボスは、遺伝子操作によって人間の数十倍の身体能力を手に入れた新人類だった。改造新人類の身体能力の高さに、仁もリーゼントも、まったく歯が立たない。このままでは、地球が破壊されてしまう。ラスボスはついに眼鏡っ娘に襲いかかる。危ない、眼鏡っ娘!

と思ったら、あっけなくラスボスをボコる二人。実は愛する眼鏡っ娘がピンチに陥ったとき、仁の能力はリミッター解除され、尋常じゃないパワーを発揮するのだった。リーゼント男もまた同じ。眼鏡っ娘の魅力が二人の男の真の能力を覚醒させたのだ。そして、地球と人類は救われた。ありがとう仁、ありがとうリーゼント。そしてありがとう、眼鏡っ娘!! 眼鏡っ娘の魅力こそが人類と地球の希望の光であることが徹底的に描かれた作品なのであった。

ところで本作は、アイレムが1993年にリリースしたシューティングゲーム「海底大戦争」のコミカライズ版だ。ゲームでは、眼鏡っ娘の麗が1プレイヤーで、夫の仁が2プレイヤーということになっている。が、マンガ版では仁が1コンのような立ち位置で、麗と仁のポジションが入れ替わっている。そして私が確認した限り、オリジナルゲームでは麗が眼鏡っ娘という設定は見当たらない(もし設定を知っている方がいたら、ぜひ教えてほしい)。さらにもちろん、眼鏡っ娘が人質に取られることもなければ、胸元が大きく開いたドレスを着ることもなければ、眼鏡っ娘の魅力によって世界が救われることもない。このあたりの設定と展開は、コミカライズ担当者の趣味が反映しているとしか考えようがない。ありがとう、ありがとう。

それから、27歳の人妻という設定は、1994年だからこそあり得た可能性を考慮していいかもしれない。マーケティングによって登場キャラクターを取捨選択するような現在の萌え市場では編集者に通してもらえそうもない設定なわけだが、1994年には「眼鏡っ娘ってこういうものでしょ」という通念や臆断や偏見がまだ形成されていない。本作の眼鏡っ娘も、ステロタイプの眼鏡っ娘の要素はまったく含まれていないと言える。今の時代から見れば、それがとても新鮮に見える。素敵な眼鏡っ娘だ。

書誌情報

同名単行本全一冊。
夏元氏はマンガ以外にもイラストレーターとして活躍している。氏のキャラデザの仕事で、「ガンバード2」という彩京のアーケードゲーム(1998年)に登場するキャラクター「タビア」という眼鏡っ娘も、なかなか破壊力が高い。タビア画像検索。キャラ紹介の「優等生ではあるが、地味で虚弱体質」といったあたりから、キャッチフレーズの「空飛ぶ優等生」や、CVが皆口裕子というあたりまで、どうすればいいんだ。

【単行本】夏元雅人『海底大戦争』ゲーメストコミックス、1995年

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眼鏡文化史研究室

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第140回:ハラヤヒロ「ハカセのセカイ」

ハラヤヒロ「ハカセのセカイ」

幻冬舎『コミックバーズ』2005年5月号~06年8月号

人間であれば誰しもが一度は「ドラえもんが眼鏡っ娘だったらなぁ」と妄想するものだが、その妄想を具現化してくれたのが、この作品だ。ありがとうございます。

主人公のハカセは眼鏡っ娘。制服の上に白衣を羽織っていて、誰がどう見ても科学者という格好をしている。眼鏡と白衣のコラボレーションが、実に素晴らしい。(科学者という意味では、ドラえもんというよりキテレツを思い起こす方が適切かもしれないかな)

そんな眼鏡っ娘ハカセは、科学部で発明に励んでいる。ハカセのもとに、カタナシくん(のび太ポジションだから、ちゃんとメガネ君だ)が毎回「うわぁあああん!」と泣きながら助けを求めてくるので、様々な発明品を与えてやるのだった。そこから、カネモチ(スネ夫ポジ)やオトコ(ジャイアンポジ)やタカネ(しずかちゃんポジ)などを巻き込んで、大騒動が展開し、だいたいカタナシくんが酷い目に遭って終わる。一話完結で、頭を悩ませることなく、まっすぐに楽しめる作品だ。毎回登場する秘密道具についている謎の四字熟語の名前など、小ネタもおもしろい。というか、ハカセ超かわいい。

というわけで、頭が良く、ちょっと浮き世離れして、どこか抜けている、白衣を着ているマッドサイエンティスト系眼鏡っ娘が好きで、眼鏡っ娘科学者になら自分の体を改造されても構わないような人には、ド直球ド真ん中の作品だ。他の皆様方におかれましても、理系女子には是非ともメガネ標準装備、異論は認めないということで、今後ともご理解のほど、よろしくお願いしたいと存じます。

書誌情報

同名単行本全一冊。見たことある作風だなあと思っていたら、一迅社のアンソロジーで活躍していた作家の方でした。
【単行本】ハラヤヒロ『ハカセのセカイ』幻冬舎コミックス、2006年

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