この眼鏡っ娘マンガがすごい!第50回:磨伸映一郎「TYPE-MOON作品集」

磨伸映一郎「TYPE-MOON作品集」

宙出版・一迅社・ラポート等、2002年~

我々は、現在進行形で創作世界の劇的な変化を目の当たりにしている。磨伸映一郎は、実は最も前衛的な領域を突っ走っている。自称芸術家の連中が「前衛」と称してくだらないママゴトをしている間に、磨伸映一郎は着実に世界を更新している。

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今回紹介する作品は、もともと「アンソロジー」と呼ばれる種類の本に掲載されていた作品を集めたものだ。あるオリジナル作品に対するパロディ作品を集めて一冊にまとめたものを「アンソロジー」と呼び、もともとは1990年代に女性向け作品から市場を形成し(『ガンダムW』が目立っていた)、21世紀に入る頃に男性向け市場が広く形成された(『こみっくパーティー』が火付け役だろう)。
050_03そのような「アンソロジー」の中で、極めて特異な性質を持つのが「TYPE-MOON」作品のアンソロジーで、その中でも一際異彩を放っているのが磨伸映一郎だ。まあ、ここまでは衆目が一致するところだろう。が、磨伸映一郎の仕事は、私の見立てでは、そのような世間一般の評価をはるかに凌駕する前衛的な領域を形成しつつある。作品そのものの解説については、『月の彼方、永遠の眼鏡』所収の奈須きのこによる解説に付け加える文字は一つもないので、私は外堀を埋めるような話だけ。

まず「TYPE-MOON」のありかたそのものが、TRPG的だということを指摘しておきたい。私は当初からTYPE-MOON作品にTRPGの影響を感じていたが、奈須きのこ氏御本人と一度だけ話をする機会があって、そのときに自信が確信に変わった。『月姫』はTRPG的想像力の中で可能性が最大限に引き出されたために、大きな説得力を持つ作品へと成長した。
いちおう一言添えておくと、「TRPG」とは「テーブルトーク・ロールプレイングゲーム」のことだ。コンピュータRPGでは、プレイヤーの行動に対する結果は、コンピュータが演算する。TRPGでは、プレイヤーの行動に対する結果は、人間であるゲームマスターが判断する。コンピュータでは、あらかじめ決められたアルゴリズムに沿って結果を算出するしかないが、人間が判断を下す場合、そこに人間らしい想像力が付け加わる。人間であるプレイヤーと人間であるゲームマスターがコミュニケーションを重ねる過程で、コンピュータのアルゴリズムでは思いつくはずもない、極めて斬新な結果が生まれることがある。だからTRPGは楽しい。そしてTRPGを素晴らしいものにするためには、(1)魅力ある世界観(2)ゲームマスターの采配力(3)プレイヤーの独創力が不可欠だ。
050_04このようなTRPG文化の中から生み出された最初の成果が『ロードス島戦記』や『蓬莱学園』という作品に見える。そして発展を続けるTRPG文化は、21世紀に入って、TYPE-MOONというあり方そのものを生み出すに至る。奈須きのこという希代のゲームマスターに対して、それに負けないくらいの個性的なゲームプレイヤー達が「作品そのもの」に参戦する。渡辺製作所しかり、虚淵玄しかり、磨伸映一郎しかり。彼らが個別に生み出す作品だけでなく、彼らが積み重ねるコミュニケーション全体が実はTYPE-MOON-TRPGという一つの大きな作品へと織りなされていく。ここで形成された文化が既存の「同人」と大きく異なるのは、ゲームマスターという存在がいるかいないかという点だが、創作という意味ではこれが決定的な違いとなる。
既存の近代的な批評観念では、TYPE-MOON作品のようにゲームマスターの采配のもとで大量のプレイヤーを巻き込みながら進化発展を続ける「生き物としての作品」を把握することは不可能だ。その最大の過ちを犯したのが、評論家の東浩紀だろう。彼には不幸なことに、TRPGに対するセンスが完全に欠如していた。ボードリヤール流の「複製芸術」観念を持ちだして理解しようとするのが関の山と言ったところだったが、それではTRPG的世界を一覧することはできない。磨伸映一郎の作品を理解することはできない。
結論を言えば、磨伸映一郎が一連のアンソロジーで行っていたことは、単なるパロディではない。TRPGだ。その証拠に、ゲームマスター奈須きのこからのリアクションがあり、さらにそれにたいする応答まであった。プレイヤーとマスターの間でコミュニケーションを積み重ねながら世界観がより豊かに深まっていくとき、もはやそれはパロディを超えている。二人のコミュニケーション自体が一つの世界を作る創作行為だ。
そして、重要なことは、TRPGがゲームとして成立するためには、マスターがプレイヤーをプレイヤーだと認めなければならないところだ。常識的な作品世界では、アンソロジー作家をゲームのプレイヤーと認定することはありえない。そんなことができるのは、TRPG的センスを濃厚に持ちつつ、さらにゲームマスターとしての采配を振るうだけの実力も持っているTYPE-MOONだけだ。そして、希代のゲームマスターの期待に応えられる独創的なプレイヤーは、そうゴロゴロと世の中に転がっているわけではない。磨伸映一郎は、その才能を持っていた。磨伸映一郎の仕事とは、実は極めて限定的な条件の下でしか起こりえない、前代未聞の創作活動なのだ。

(ただし言い添えておくと、プレイヤーとしての立ち位置は、今回紹介したアンソロジー集と現在連載中の『氷室の天地』ではまったく異なる。『氷室の天地』は現在進行系の作品なので、落ち着いたときにでも、また改めて。)

■書誌情報

磨伸映一郎のアンソロジー集は、2015年現在で4冊出版されている。刊行年順に、『月の彼方、永遠の眼鏡』(一迅社、2006年)、『月光はレンズを越えて』(宙出版、2007年)、『月の彼方、永遠の眼鏡2』(一迅社、2010年)、『月光はレンズを越えて改二』(一迅社、2014年)。
ちなみに本文中ではほとんど触れるヒマがなかったし、私が言うまでもないことではあるが、もちろんすべてが眼鏡愛に満ちている。

『月の彼方、永遠の眼鏡 TYPE-MOON作品集』(一迅社、2006年)
『月の彼方、永遠の眼鏡 2 TYPE-MOON作品集』 (一迅社、2010年)
『月光はレンズを越えて』 (宙出版、2007年)
『月光はレンズを越えて 改二』 (一迅社、2014年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第49回:雁須磨子「いばら・ら・ららばい」

雁須磨子「いばら・ら・ららばい」

講談社『One more kiss』2007年3月号~09年7月号

049_02茨田あいは、眼鏡っ娘24歳フリーター。とても美人で、スタイルもいいのに、要領よく世の中を渡っていけない。というのも、他人とコミュニケーションをとるのが苦手だからだ。他人の何気ない一言で傷ついて、ふつうにしていても他人の心を傷つけてしまう。そして自分が傷つくことよりも、他人を傷つけることのほうに心が痛む。そしてさらにコミュニケーションが苦手になっていく。そんな不器用な茨田さんが、新しいバイトの職場で、同じように生き辛さを抱えた人たちと一緒に、ゆっくり心を繋げていくお話し。

世間では「絆」なんてスローガンがもてはやされて、人間関係をハリウッド映画に登場する家族のように人工的に構築しようとしている勢力もあるけれど。まあ、たまにはそういうのもいいかもしれんけど。でも、人と人との繋がり方って、それだけじゃないよなあと。声の大きい体育会系が「絆」なんて言葉を元気に前面に打ち出せば打ち出すほど、隅っこで縮こまるしかないような人間だって、世の中にはいるんだよ、と。そういう生き辛さを抱えた面倒くさい人たちが、それでも自分の足で立っていられるのは、取るに足らない具体的なコミュニケーションを少しずつ積み重ねるなかで、「伝わった」という実感をほんの少しだけでも確認できるから。本作は、そんな細かなコミュニケーションの描写の一つ一つに、ずしんと説得力がある。

049_03本作は、大きな事件も起こらず、ドラマチッックな展開とも無縁で、些細なコミュニケーションが成立したりしなかったりする中で、生き辛い人がそれでもよちよち生きていく姿を描いている。それゆえにか、読んだ後、なんだかホッとする。たぶん、自分自身が抱える生き辛さも、ちょびっとだけ減ったような気がするからなんだろう。

本作の眼鏡っ娘・茨田さんのキャラクターは、造形も性格も、実はとてもユニークだ。真っ黒でボリュームのある長い髪の毛、太めの眉毛、存在感のある黒縁セルフレーム。シルエットだけで茨田さんだと分かる。特に素晴らしいのは、眼鏡を外して美人などという愚かな描写が皆無なところだ。眼鏡っ娘がメガネのまま美人として認識される。この当然と言えば当然の描写が実はできない作家が多いのだが、さすが雁須磨子の描写力は安心だ。
性格は、まあ、面倒くさい。だが、それがいい。茨田さんが幸せになってくれて、心の底から良かったと思える。

049_04雁須磨子は、そこそこ眼鏡っ娘を描いている。主な作品についてはしかるべき機会に改めてご紹介できればと思うので、ここではひとつだけ。右に引用した「保健室のせんせい」は16頁の小品だが、他の作家には出せない独特の眼鏡感が出ている佳作だ。中学校で養護教諭を務めている眼鏡先生の日常の一コマを描いた作品で、実に味わい深い。保健の先生ならではの「業」と「エロス」をコンパクトに描き切っていて、しかも眼鏡感がすごい。眼鏡あるべくして眼鏡という空気の作品に仕上がっている。こういう作品が描ける作家は、他には思いつかない。

■書誌情報

049_015年前の作品だけど、もう新刊では扱ってないのかな? いまのうちなら古書で容易に手に入れることができる。

単行本:雁須磨子『いばら・ら・ららばい』(KCデラックスKiss、2009年)

「保健室のせんせい」は単行本『あたたかい肩』に所収。電子書籍で読むことができる。単行本出版は2010年だけど、作品初出は2002年。

Kindle版:雁須磨子『あたたかい肩(ビームコミックス、2010年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第48回:柊あおい「星の瞳のシルエット」

柊あおい「星の瞳のシルエット」

集英社『りぼん』1985年~89年

048_02脇役だからこそ、ひときわ輝く眼鏡っ娘がいる。本作の眼鏡っ娘、沙樹ちゃんは、その代表といえよう。この沙樹ちゃんのおかげで眼鏡DNAが覚醒した者も多い。たとえば、眼鏡友の会/E.Cとか。

さて、 香澄、真理子、眼鏡っ娘の沙樹は、仲良し三人組。いちおう主人公は香澄ちゃんだが、顔がかわいい以外にはたいした取柄がない。そんな香澄ちゃんには久住くんという運命の相手がいるのだが、その久住君を真理子が好きになってしまう。要するに三角関係。そこにプレイボーイの司くん(眼鏡っ娘の幼馴染)が香澄ちゃんを狙って割り込んできた。眼鏡っ娘は、外部から冷静な批評者として行動することになる。

まあ結果としては香澄と久住くんがカップルになるのだが、そんなことはどうでもよい。香澄と久住くんは、よくもまあ連載5年、単行本10巻分も、モヤモヤの関係を続けられたもんだ。見ているこっちの方がイライラする。そう、読者の立場からして、香澄ちゃんにちっとも感情移入できないのだ。一方の真理子にもイライラする。いいかげん、自分の立ち位置に気づけよ!という。感情優先の真理子にもイライラするし、道徳優先の香澄にもイライラする。そこで燦然と輝くのが、もっとも理知的な眼鏡っ娘なのだ。いや、もはや人間として尊敬できる対象が、眼鏡っ娘しかいないのだ。香澄と真理子だけではちっとも進まなかったストーリーが、眼鏡っ娘が出てきた途端に見通しが良くなる。話がすっきりして、気持ちもハレバレする。眼鏡っ娘カタルシス。こうして我々は眼鏡っ娘にハマっていく。

このシステムを、私は「キャラクター有機体構造」と呼んでいる。主人公クラスの登場人物が3人以上いる場合、それぞれのキャラクターに代表的な価値観を割り振って、役割を分担させる。もっとも分かりやすいのが、「星の瞳のシルエット」に見られるような「道徳的(香澄)/感情的(真理子)/理知的(沙樹)」という役割分担だ。すると、物語の中で「道徳的な香澄」と「感情的な真理子」が対立することは、一人の人間の心の中で起こる「道徳的な部分」と「感情的な部分」の対立に代入して理解することができる。このシステムを用いることによって、眼には見えない心の中の動きや関係を、物語という形で眼に見えるように明らかにすることが可能となる。このシステムは「星の瞳のシルエット」が初めて開発したわけではなく、今から2300年前のギリシャで活躍した哲学者プラトンが『国家』という本の中で明らかにしている。少女マンガでは1970年代後半から「キャラクター有機体構造」を採用する作品が増加し、1980年代半ばには大きな支持を得るようになる。その発達は、「熱血/クール/チビ/デブ/女」というガッチャマン型有機体構造が「熱血/クール/女」というウラシマン型有機体構造へと洗練される過程と軌を一にしている。さらに1990年代以降、「キャラクター有機体構造」は、ギャルゲーの中で独特な進化を遂げていくことになるだろう。

このような有機体構造において、眼鏡っ娘は一貫して理知的なポジションで働いてきた。有機体構造で動かすキャラクターは、あまり複雑な人格にしないほうがよい。より価値観を純粋に体現したキャラクターであるほど有機体構造の働きが見えやすくなるため、一つのキャラクターの中に複雑な価値観は同居させないほうが物語はうまく運ぶ。というとき、ある集団の中に眼鏡は一人、そして理知的なポジションをとるようになる。これは有機体構造を煮詰めた場合の必然的な結果といえる。もっとも煮詰まった形が「星の瞳のシルエット」であり、だからこそ「理知的」な人間は圧倒的に沙樹ちゃんに心惹かれるしかないのだ。ウダウダしている香澄や空気が読めない真理子は、あんぽんたんのウスノロにしか見えない。

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だからというか。沙樹ちゃんが有機体構造から抜け出して独立した一つの人格として行動したとき、それまでの世界がいっぺんに裏返ってしまうような、途方もないカタルシスを味わうことになる。最後まで有機体構造の枠の中で行動した香澄や真理子があくまでも作者の価値観を代表していたのに対し、沙樹だけは個性ある人格となった。「星の瞳のシルエット」は、沙樹の物語なのだ。

■書誌情報

全国250万乙女のバイブルだけあって、たいへんな人気があり、古本で全巻容易に手に入る。

単行本セット:柊あおい『星の瞳のシルエット』全10巻完結セット (りぼんマスコットコミックス)

ところで、「パンをくわえた遅刻少女」について、そんな実例が少女マンガの中に本当にあるかどうか疑っていた時期があったが。はい、ありました。「星の瞳のシルエット」で、沙樹がパンを咥えて登校していた。数万作の少女マンガを読んできた私であるが、実際にパンを咥えて登校するキャラを見たのは、これを含めて2例しかない。新人賞受賞のとき、一条ゆかりに「古臭い」とコメントされただけのことはある、誰にも真似のできないすごいセンスだ。そこにシビれるあこがれる。

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第47回:田沼雄一郎「少女エゴエゴ魔法屋稼業」

田沼雄一郎「少女エゴエゴ魔法屋稼業」

白夜書房『ホットミルク』1988年

作品そのものに言及する前に、雑誌『ホットミルク』に関する客観的なデータを確認したい。この作品の持つ意味が明らかになる。

047_011986年から1998年の『ホットミルク』に掲載された投稿イラスト(総数は約18000枚)のうち、眼鏡っ娘がどれだけ描かれていたかを比率で算出した。結果を表とグラフにまとめたものを右に掲げておく。
まず1988年に大きな山があることがわかる。これは、1988年7月号の投稿イラストのお題として「めがねをかけた少女、実は眼鏡をはずすとすっごくかわいい」が提示されたことによる。この反動的なお題に対して、投稿者は「かわいい娘は眼鏡をかけていてもかわいい」という主張で応じた。素晴らしい。1988年の段階で、一定の眼鏡勢力が形成されていたことが分かる。
047_02その勢いを受けて、同年9月号の「早瀬たくみのうるうるしちゃった」(読者投稿コーナー)の募集要項において、「メガネの女の子好き?!」というお題が示された。同年10月号の投稿では、「メガネっ娘」という単語を2例、「めがねっ娘」という単語を2例、確認することができる。確実に眼鏡勢力が定着している。
この1988年に『ホットミルク』に登場したのが、田沼雄一郎「少女エゴエゴ魔法屋稼業」という眼鏡っ娘作品であった。この作品が眼鏡勢力の覚醒に何らかのかかわりを持っていることがうかがえるだろう。
ちなみに1997年の大躍進は、『乳居者募集』というイラストコーナーの担当が無類の眼鏡っ娘好きになったことによるものだが、この話はしかるべき機会に。
『ホットミルク』は他のエロマンガ雑誌と比較しても、読者投稿イラストの眼鏡イラストは顕著に多かった。それには『ホットミルク』ならではの理由がある。1980年代後半の眼鏡っ娘イラストは、実は同誌名物編集者O子氏の似顔絵が多かったのだ。このO子氏のイラストをきっかけにして眼鏡っ娘マンガで商業誌デビューする作家もいたくらいで、彼女が果たした眼鏡界への貢献は、実はものすごいものがある可能性がある。前回紹介した「ファントムシューター・イオ」も、O子氏がいる『ホットミルク』だったからこそヒロインが眼鏡だった可能性すらあるのではないか。

さて、前置きの方が長くて恐縮ではあるが、本題である。

※以下、性的な話が多いので、苦手な人は回避してください。

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まあ、とにかくエロかった。ほんともうエロエロでしたわー。
眼鏡っ娘が、悪いやつらにとことん酷い目に遭わされるんですわ。もう、とにかく酷い。ぐちゃぐちゃのドロドロ。げちょげちょのエロエロ。そして最後にトドメを刺されようとしたとき、眼鏡っ娘が魔法の力で大変身。必殺仕事人よろしく、悪いやつらが処刑されて、スカッとして終わる。しかしこの話、単なる勧善懲悪で終わらないところがすごい。エロいうえに、読ませる。
そんなわけで、第二回の「メガネっ娘居酒屋委員長」だったと思うけど、出演者が最も影響を受けた眼鏡っ娘マンガを持ち寄るという企画の時に、平野耕太が持ってきたのがコレだった。そうそう、これこれ、眼鏡っ娘がべろんちょのぐろんちょでハァハァですわ!ってことで、激しく同意したのだった。

■書誌情報

単行本『PRINCESS OF DARKNESS』に全編所収。でもやっぱり「少女エゴエゴ」って呼んじゃうなあ。今は新装版が手に入りやすいが、値段は古本としても下がっていない。やはりマニアの間では評価が高いようだ。
単行本:田沼雄一郎『プリンセス・オブ・ダークネス』(ホットミルクコミックス、改訂増補新装版1996年)

そして1988年のエゴエゴの後、同年9月号に銀仮面「TWO IN ONE」でデビュー、翌89年1月号にるりあ046「ファントムシューター・イオ」、89年3月号に田沼「続エゴエゴ」、89年6月号には巻頭から3連発で眼鏡っ娘マンガ魔北葵「MAKING」、新貝田鉄野郎「調教師びんびん物語」、泉拓樹「OL戦記悶絶変」)が掲載される。天竺浪人も良質な眼鏡っ娘を量産する。眼鏡っ娘躍進への大きな基盤が『ホットミルク』に作られたのであった。

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第46回:るりあ046「ファントムシューター・イオ」

るりあ046「ファントムシューター・イオ」

白夜書房『ホットミルク』1989年1月号~90年10月号

広い範囲で眼鏡っ娘がブレイクを始めたのが、客観的なデータから見た場合、1995年であることは間違いがない。その起爆剤となったルートは、おそらく主に3つある。ひとつめは伊藤伸平、西川魯介、小野寺浩二の発表の舞台となった雑誌『キャプテン』。ふたつめは解像度が上がったコンシューマ機でプレイ可能になったギャルゲーで、代表的なものが『ときめきメモリアル』。みっつめが、中村博文の中綴じカラー4Pが衝撃的だった雑誌『ホットミルク』。今回は、眼鏡黎明期における『ホットミルク』の重要性について。

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『ホットミルク』には、眼鏡黎明期を考える上で極めて重要な作品が2つある。ひとつは田沼雄一郎「少女エゴエゴ魔法屋稼業」で、もうひとつが今回紹介する作品だ。まず、絵がすごかった。

80年代後半のオタク御用達マンガと言えば、萩原一至か麻宮騎亜といったところだったが、残念なことに彼らはほとんど眼鏡っ娘を描かなかった。そんな眼鏡成分飢餓状態の中に、るりあ046は圧倒的な眼鏡っ娘を投入してきたのである。当時高校生だった私は、あっという間に心を鷲掴みされた。
046_03その絵柄は、いま見れば、80年代大友克洋の洗礼を受けた上で、かがみ♪あきら等ニューウェーブのエッセンスを良質に引き継いだ系統なんだろうと分かる。が、そこまでに蓄積された描画技術が眼鏡っ娘の形に具現化された時、これほどの威力を発揮するとは。それまでになかった魅力的な新しい眼鏡っ娘を生み出す。本来なら萩原一至や麻宮騎亜や、あるいは士郎正宗がやるべきであった仕事を、るりあ046が一人でやった。当時は単にかわいい眼鏡っ娘に心を鷲掴みにされただけだったが、いま冷静に振り返ってみたとき、それが極めて重要な創造であったと分かる。このあと、雑誌『ホットミルク』から次々と素晴らしい眼鏡っ娘が生み出されることになる。彼がいなかったら、眼鏡っ娘の歴史が数年遅れていた可能性すらあると思う。

ストーリー自体は、エヴァンゲリオンで最大限に昇華された類の、設定過剰説明不足の異能バトルだ。80年代後半からこの系統の作品が増加するわけだが、本作は眼鏡っ娘が活躍するだけでものすごく魅力的な作品になっている。特にギザジューを飛ばすシーンは、えらく印象に残った。

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そんな遠藤いおを世に送り出したるりあ046と、当時高校生で単に一ファンだった私が、15年後に同じ作品で仕事をすることになろうとは、お釈迦様でも気づかなかったのであった。いやはや。15年経っても、彼が描いた眼鏡っ娘は、やっぱりとても素敵だった。

■書誌情報

古書で手に入れるしかない。ちなみにエロマンガ雑誌に掲載されていたけれど、ちっともエロくないので、実用性には期待しないように。
単行本:るりあ046『ファントムシューター・イオ』(ホットミルクCOMICS、1991年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第45回:釣巻和「あづさゆみ」

釣巻和「あづさゆみ」

集英社『Cocohana』2012年3月~13年1月号

甘酸っぱい思春期特有の切なさと温もりを描き切った秀作だ。
ヒロインの蔦乃鳴海は、眼鏡っ娘14歳、中2で三つ編み2本。幼馴染の「はる」からは「なる」と呼ばれている。過疎化が進んで中学校が統廃合され、2年生から電車通学することになった。いつも一緒に仲良く登下校していた二人だったが、お互いを男女として意識し始めてから、関係がギクシャクしはじめる。不器用な二人は、意地を張ってしまい、なかなか素直になれない。昨今ではこういう素直になれないキャラを一律に「ツンデレ」と呼ぶようだが、この作品の澄み切った空気にはぜひとも「意地っ張り」という言葉を適用したい。大人になりつつある自分の心身の変化にとまどう思春期特有の不器用さに対しては、「ツンデレ」という言葉は似つかわしくない。
そして、昔のままではいられない二人の関係に心が揺さぶられた眼鏡っ娘は、「大人になりたい」と強く願う。このときの眼鏡っ娘の表情が、胸に響く。

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自分がまだ「子供」だと自覚した時に、人は強く「大人になりたい」と願う。往々にしてそのときに思った「大人」と実際になってみた「大人」とは違っていることが多いわけだが、そのこと自体はたいした問題ではないだろう。「大人になりたい」という感情が自分の内側から湧き上ってくること自体が、かけがえのない経験になる。

眼鏡の描写にも注目したい。セルフレームの描写が極めて立体的で、眼鏡に圧倒的な存在感を与えることに成功している。見ていて、とても心地よい。そしてフレームを透明にして眼を見せるというマンガでしかできない描写をすることで、表情がさらに豊かに見える。単行本には読み切りで描かれた眼鏡のないバージョンがあるが、それと比較すると、眼鏡があることによって表情がいかに魅力的になっているかが一目瞭然だ。

さて、眼鏡っ娘は、最終的には「はる」くんといい雰囲気になるのだが。「はる」くんは学年一番の頭脳の持ち主のうえに、スポーツもできて、極めつけに優しい。眼鏡っ娘の相手として相応しいわけだが、その「はる」くんが眼鏡フェチである可能性について言及しておきたい。それは下の引用図に見える。

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忘れていった眼鏡を届けるのはいいとして。注目したいのは、眼鏡を手渡しするのではなく、自ら顔にかけてあげて、しかも「よし」と言っているところだ。実際に相手に眼鏡をかけさせたことのある人間ならわかるのだが、これ、簡単にはできないのである。きちんと眼鏡をかけさせることは、実は極めて難易度の高いミッションなのだ。この男は、中2にして、それを易々と達成している。眼鏡をかける練習を日頃から繰り返していなければ、こうはできない。この男は、明らかにメガネストだ。
で、たいへん衝撃的なことに、単行本のオマケ描きおろしで、なるが高校生になってコンタクトにしてしまったことが明らかになった。ガッデム!!!!!!!この大馬鹿野郎が!!!!
眼鏡を外した「なる」は、おそらく「はる」に振られることになる。「はる」は眼鏡の「なる」が特別に好きだったのであって、眼鏡を外した「なる」なんて眼中になくなるだろう。そこで「なる」がどういう選択をするか。これが二人の物語の第二章になるだろう。

■書誌情報

新刊で手に入る。
こういう甘酸っぱい思春期ものは、昔から『ぶ~け』や『別マ』など集英社少女マンガが得意なジャンルなように思う。いくえみりょう、逢坂みえこ、耕野裕子あたりの集英社少女マンガの良質のエッセンスを引き継いだ、とてもセンスのいい作品だ。また男性でも抵抗なく読める絵柄とストーリーのように思う。

単行本:釣巻和『あづさゆみ』(集英社、2013年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第44回:森生まさみ「城南高校生徒会シリーズ」

森生まさみ「城南高校生徒会シリーズ」

白泉社『ララ』1988年~91年

044_02森生まさみの描く眼鏡っ娘は、男前だ。「城南高校生徒会シリーズ」のヒロイン(ヒーロー?)は、生徒会長を務める日下部圭子。恋愛沙汰がメインの話ではなく、学園で起こる様々なトラブルを眼鏡っ娘の知恵と勇気で解決する話だ。学園ドラマとして普通におもしろく、少女マンガが苦手な男子でも比較的すんなりと入っていける作品だと思う。

ストーリーがおもしろく、眼鏡っ娘をはじめとするキャラクターが活き活きと魅力的なのはともかくとして、眼鏡的に大注目したいのは、眼鏡の描き方だ。生徒会長がかけている眼鏡は黒縁セルフレームなのだが、その描写が非常に丁寧で見どころが多いのだ。特に卓越したセンスを感じるのは、ツルの描写である。実際にセルフレームを持っている人は当然知っていることなのだが、眼鏡のツルは単調な直線ではなく、なまめかしい曲線の組み合わせでできている。しかし残念ながら絵でこの曲線を丁寧に表現する作品はあまり多くない。森生まさみが描く眼鏡は、このツルの曲線がしっかりセクシーに再現されている。
注意したいのは、これが極めて高い技術に支えられているということである。そもそもツルをしっかり描くためには、その前提として眼と耳のデッサンが整っていなければならない。実はそれが非常に難しい。マンガで眼鏡のツルがあまり描かれないのは、マンガ家があえて描かないのではなく、実はデッサン上の問題で「描けない」のである。森生まさみは、この技術上の問題をあっさりとクリアしているからこそ、そのうえで眼鏡のツルの曲線をしっかりと描けるのだ。

そして下の引用図を確認していただきたい。ここまで丁寧に眼鏡のツルを描写した絵には、滅多なことでは遭遇しない。

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実に感動的な描写だ。眼鏡のツル自体が描かれることが少ないマンガ界にあって、ここまで丁寧に眼鏡を描写してくれる。本当にありがたい。会長がモテるのも、当たり前といえよう。

 

■書誌情報

044_01「城南高校生徒会シリーズ」は、単行本『生徒全員に告ぐ!』と『ヒロイズム前線』の全2巻。単行本は絶版で古本で手に入れるしかないが、人気があって大量に出回っているので手に入りやすい。文庫版を電子書籍で読むこともできる。

森生まさみには、他にも素晴らしい眼鏡っ娘作品が多い。ありがたい作家だ。

Kindle版:森生まさみ『生徒全員に告ぐ!』1巻(白泉社文庫)

Kindle版:森生まさみ『生徒全員に告ぐ!』2巻(白泉社文庫)

単行本:森生まさみ『生徒全員に告ぐ!』(花とゆめCOMICS―城南高校生徒会シリーズ、1991年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第43回:あずまきよひこ「あずまんが大王」

あずまきよひこ「あずまんが大王」

メディアワークス『コミック電撃大王』1999年2月号~02年5月号

第43回だから、「よみ」ね。
『To Heart』の委員長を描いているころから「すげえ眼鏡っ娘を描く人がいるな」とは思っていたけれど、本作の眼鏡描写はそれにも増して感動的だった。世間に広く眼鏡っ娘の魅力を広めたという点においても、非常に重要な作品だ。眼鏡描写が秀逸なのは、下の引用図に明らかだ(※レイアウト上の都合で、オリジナルとコマの配置を変えてあります)。

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体育祭でメガネを借りるというネタなのだが、眼鏡描写上の要点が2つある。ひとつは、3コマ目の光学屈折描写。ふたつは、4コマ目で視力を奪われた眼鏡っ娘がヤブニラミになっているところである。

043_02光学屈折描写の原理については、第40回「マッド彩子」で言及した。本作も、明らかな意図を以て光学屈折描写を行っている、数少ない作品の一つである。作者の眼鏡に対する深い愛情と確かな理解が伺える。

そしてヤブニラミに関しても、明らかな意図を以て描かれている。右に引用した作品に明らかなように、眼鏡ONのときには普通の眼をしていた眼鏡っ娘が、眼鏡OFFでは厳しい目つきになっている(もちろんその厳しい目つきは、体重が厳しいというオチとかかっていて、興趣倍増)。視力が低い人なら実感できることなのだが、目を細めるとモノがよく見える気がするので、なにかを凝視するとひどいヤブニラミになる。眼鏡を外して美人になるなどということは現実にはありえず、単に一人のヤブニラミが現れるに過ぎない。

ここまで確認して分かるように、本作は実は徹底的にリアルに描かれている。よく「あずまんが大王」のおもしろさはエキセントリックなキャラクターにあると言われる。その見解自体は間違っていない。しかしそのエキセントリックなキャラクターたちのひとつひとつの言葉や行動に説得力を持たせて、読者の共感の基盤になっているのは、眼鏡描写に端的に見られるような徹底的にリアルな描写だ。リアリティがないままに単に風変わりなキャラクターを描いても、読者の共感は得られない。共感の基盤であるリアリティに支えられて、はじめて我々は風変わりなキャラクターたちの言動をおもしろく感じることができるのだ。ここが、あずまきよひこ本人と、追随者たちとを決定的に分かつ重要なポイントである。

つまり、私がなにを言いたいかと言えば、眼鏡っ娘をしっかり描かないマンガに未来は決してないということを、声を大にして言いたい。眼鏡っ娘をしっかり描いて初めて、読者に共感される優れた作品となる。眼鏡を外して美人になるなどという、一切のリアリティを欠いた描写を行う愚かなマンガは、決して読者の支持を得ることはないだろう。
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■書誌情報

人気のある作品なので、様々な形で読むことができる。

単行本セット:あずまきよひこ『あずまんが大王』全4巻完結(Dengeki comics EX)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第42回:竹崎真実「死に部屋」

竹崎真実「死に部屋」

朝日ソノラマ『ほんとにあった怖い話』1993年3月号~96年3月号

042_02第42回だから、「死に部屋」ね。
ということで本作はホラーマンガなわけだが、一般的にいって、ホラーと眼鏡の相性はあまりよくない。ホラーに眼鏡キャラが少ないわけではないものの、残念ながら不幸になってしまう娘が多いなど、あまり良い役割をもらえていないのだ。が、本作は幸運な例外と言える。眼鏡っ娘にして作者のマンガ家・竹崎真実が主人公を務めることにより、眼鏡っ娘の不幸を回避できたのだ。
そして本作が素晴らしいのは、主要舞台であるマンガ家の仕事場にやってくるアシスタントたちが、ことごとく眼鏡をかけているところにある。マンガ家とアシスタントの眼鏡っ娘たちが全てのページで躍動しまくり、ホラーなのになぜか心が躍ってしまう。特に奇跡的な構図は、右に引用したカットに見られる。奥からマンガ家・竹崎真実、同居人のねこち、アシスタントのHさんと並ぶ、これはまさに眼鏡っ娘三連星。眼鏡っ娘三連星は、現実にはコミケ会場やアニメイトといった腐女子が集まりやすい場所で稀に見かけることはあるものの、マンガのカットで目の当たりにすることはまずないといってよい。本作の場合は、現実にマンガ家とアシスタントが眼鏡っ娘ばかりだったという事実が作品に反映しているわけだが、それを眼鏡っ娘三連星の構図に昇華しえた作者のツキは相当のものがある。確実に作者の頭上には眼鏡の星がある。

作者が眼鏡の星の下に生まれた証拠は、作中にしっかり描かれている。なんと我々の御本尊さま(小野寺浩二『妄想戦士ヤマモト』を参照のこと)が、眼鏡っ娘の命を守るという奇跡的なエピソードが描かれているのだ。まず、眼鏡っ娘が遮光器土偶を購入するシーンが素晴らしい。

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042_01眼鏡っ娘は遮光器土偶に「メリーちゃん」という名前を付けて、部屋に飾ろうとする。しかし部屋はマンガ資料等で埋まっていて置く場所を確保できず、しかたなくメリーちゃんをトイレに鎮座させる。ところがなんと実は眼鏡っ娘の借りた部屋は恐ろしい「死に部屋」で、鬼門から悪い気が次々と溜まってくる場所にあった。眼鏡っ娘は「死に部屋」で次々と恐ろしい目に遭う。もしもメリーちゃんが存在していなかったら、眼鏡っ娘は呪い殺されていただろう。そう、実はメリーちゃんは「死に部屋」の悪い気を吸収して自分が犠牲になることにより、眼鏡っ娘の命を守っていたのである。「死に部屋」から引っ越しした眼鏡っ娘は、今度はトイレではなく仕事部屋にメリーちゃんを鎮座させたのだった。ありがとう、御本尊様! 今後もなにとぞ眼鏡っ娘に御加護を!

■書誌情報

単行本『死に部屋』に所収。古本では微妙にプレミアがついており、入手難度はそれほど低くはない感じ。

単行本:竹崎真実『死に部屋』 (ほんとにあった怖い話コミックス、1996年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第41回:あろひろし「若奥さまのア・ブ・ナ・イ趣味」

あろひろし「若奥さまのア・ブ・ナ・イ趣味」

徳間書店『ヤングキャプテン』1988年1~3号

※以下、性的な話題を多く含むので、苦手な人は回避してください。

041_01前回の「マッド彩子」に引き続き、狂科学者の眼鏡っ娘マンガだ。

眼鏡っ娘の美衣加は、人妻マッド・サイエンティスト。手乗りのブラックホールを開発したり、夫のクローンの煮付けを作ったり、出来立て弁当を届けるために空間転移装置を作ったりと、毎日忙しい。その中でも驚天動地の発明は、自分の体を上半身と下半身に分割してしまう装置だ。なぜこんな装置を発明したかというと、美衣加はアイデアが閃くとすべてを放り出して発明に没頭してしまうのだが、それがセックスをしている最中だったら、夫を生殺しで放置してしまうことになる。そこで、自分が発明に取り組んでいる最中にも夫がフィニッシュできるように、上半身と下半身を分離させたのだった。夫が下半身だけの美衣加とズコズコやるシーンもトホホだが、膣痙攣のエピソードはマヌケ極まって衝撃だ。

041_02そんな美衣加が実は10歳だったことが第3話で明らかになる。美衣加の母もマッドサイエンティストで、なんと自分が開発した成長促進剤を実の娘で人体実験していたのだった。成長促進剤で大きくなった美衣加は、見た目は大人だが、実年齢は10歳であり、第3話で初潮を迎えることとなった。美衣加は初潮前にセックスしていたのだった。うーん、すごい。こんな話は他に見たことはない。青少年健全育成条例では、こういう例をどう判断するのだろうか??

041_03単行本には「それ行け!奥秩父研究所」も収録されている。こちらのヒロイン移木杉代もマッド・サイエンティスト。狂科学者らしく世界征服を志し、シャレにならない発明で世界をあと一歩で破滅させるところまで追い込む。とんでもない非常識なキャラだけど、だがそこがいい。こんな突拍子もないキャラクターは、あろひろしにしか描けない。

実は、ありそうであまり実例がないのが、眼鏡っ娘のマッド・サイエンティストだ。おそらく、マッド・サイエンティストをきちんと描くこと自体がそうとう難しく、大方は、アイデアを思いついても描写できないまま断念せざるをえないのだと思われる。本作の眼鏡っ娘は、あろひろしの実力なくしては生まれえなかったと言えよう。

あろひろしと聞いてすぐに思い出してしまうのは、80年代中期のコミケカタログのサークルカットだ。現在のコミケカタログでは、サークルカットをまたいで一連の絵にすることは禁止されている。実際に同じサークルが2スペース並んでいる場合でも、サークルカットは別々に描かなくてはならない。ところがそのルールは80年代半ばには存在しておらず、あろひろしのサークル「スタヂオぱらのい屋」は6カット連続で、つまり1行まるまる一繋ぎのイラスト(例の自画像のワニだが)を描いていたりする。現在の常識からは想像もできないし、当時でも他に例はほとんどなく、独創性溢れる試みだっただろうと思う。(逆に言えば、現在のサークルカットで連続イラストが禁止されているのは、ひょっとしたら、あろひろしのせいかもしれない?)。

眼鏡に関していえば、『優&魅衣』も歴史に記憶されるべき作品だろう。主人公の優はメガネ君だが、眼鏡を外すと人格が一変する。「眼鏡の不連続性」を「人格の不連続性」とリンクさせたアイデアだ。優のお姉さんも普段は厳格な眼鏡っ娘だが、眼鏡を外すと人格が一変して性欲が暴走する。この眼鏡の「不連続性」は、眼鏡の魅力を解き明かす上で極めて重要な意義を持つ(バタイユ的な意味で)ので、様々な作品を通じておいおい考えていくことになるだろう。

ただ一つ残念なのは、中期の代表作「ふたば君チェンジ」の眼鏡っ娘、酒仙洞音霧ちゃんが眼鏡を外して美人になるどころか、それが「パターン」だと描写してしまったことだ。眼鏡を外して美人だなどと世界の摂理を裏切った時点で切腹ものだが、さらにそれを「パターン」だと表現してしまったのは、返す返すも残念だ。それが起承転結の「起承」にすぎない不良品であることは、我々が繰り返し主張してきたところである。これほど独創性に秀でたマンガ家あろひろしにして、眼鏡神話(眼鏡を外して美人になるというウソ)の呪縛に囚われているとは、作家を責めるよりは、眼鏡神話が人々の心の闇につけこむ汚さを肝に銘じるべきということだろう。

■書誌情報

「若奥さまのア・ブ・ナ・イ趣味」も「それ行け!奥秩父研究所」も同じ単行本に収録されている。青少年健全育成条例にも引っかからず、現在でも入手できる。(※追記)絶版マンガ図書館にも収録されている。会員登録すれば無料で読むことができる。

単行本:あろひろし『若奥さまのア・ブ・ナ・イ趣味』 (少年キャプテンコミックススペシャル、1990年)

絶版マンガ図書館:あろひろし『若奥さまのア・ブ・ナ・イ趣味』

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