桃森ミヨシ「トンガリルート」
集英社『マーガレット』2002年No.23~03年No.1
とんでもない眼鏡傑作だ。表紙で眼鏡をかけていなかったので何気なく読み始めたのだが、途中から並々ならぬ眼鏡オーラを感じ始め、クライマックスでは全身が眼鏡オーラに包まれ、鳥肌が立ちっぱなしだった。最もすごい眼鏡少女マンガは何かといま聞かれたら、間違いなく本作を推す。
本作も「眼鏡っ娘起承転結構造」で構成されている。が、20世紀の乙女チック眼鏡マンガよりも、さらに認識論的に進化した美しい姿を見せてくれる。ストーリーを追いながら、構成の完成度の高さを確認しよう。
主人公の平方留羽は、ガリベン眼鏡っ娘。が、ガリベンにも関わらず成績は良くない。頑張ってもできない子なのだ。クラスメイトからは「ルート」とあだ名をつけられる。それは「平方(ひらかた)」という苗字が「平方根」とかかり、名前の「留羽(るう)」が「ルート」とかかっているのだが、要するにガリベンなことをバカにされているわけだ。が、バカにされていることにすら気が付かない、そんな浮いた娘だ。
留羽がガリベンなのは、実はできすぎる兄に対するコンプレックスがあるからだ。兄は東大ストレートの英才で、留羽はそんな兄を目標にして頑張っている。が、頑張っても頑張ってもできない自分に劣等感を抱いている。頑張れば頑張るほど「みじめ」になると思い込んでいる。眼鏡は、留羽のコンプレックスを可視化したものだ。バリアーとしての眼鏡なのだ。
本作をここまで読みすすめて、私は不安に陥っていた。眼鏡をコンプレックスの象徴として描く作品は数多く、そしてそのような作品は、最後にはほぼ間違いなくコンプレックス解消の証として眼鏡を外してしまう。本作もそうなるだろうと、この時点では考えていた。その予感は「承」で現実のものとなってしまう。家庭教師としてやってきた二乗くんが、留羽の眼鏡をとりあげてしまうのだ。しかも、容姿が劣るという理由なんかではなく、兄へのコンプレックスを解消するために眼鏡をとりあげたのだ。容姿が劣るという理由で眼鏡がとりあげられた場合は、そのまま起承転結構造に入っていくケースが多く、最終的には眼鏡のままで幸せになることが多い。しかしコンプレックスの象徴である眼鏡がとりあげられてから逆転したケースは、見たことがない。この時点で、私は「終わった」と思った。
二乗くんの「よけーなもの見えない方が勇気出るときもあるでしょ」というセリフ。まさに兄を追いかけすぎて劣等感をこじらせている眼鏡っ娘からコンプレックスを取り去ろうという意図の下で発せられている。ふつうは、このままコンプレックスが解消されて、終わる。実際、留羽は眼鏡を外したことで、「景色が違って見える」と感じる。このままコンプレックスから解き放たれて眼鏡なしでハッピーエンドだろうなーと思った矢先だった。いきなり、来た。「転」だ。
二乗くんは、嘘をついて留羽に近づいていた。本当は高校生なのに大学生だと偽って、兄の差し金で留羽に優しく接していたのだった。眼鏡っ娘は思う。「ああ…そうですか。変だとは思いました。だってこんな私の相手なんてだれも。慣れてます。みじめなのは、いつものこと」と。そして思う。「よくみえないのはメガネがないからです」と。
いやー、読んでてビックリしてひっくり返った。まさかこの流れで「転」が来るとは。しかし驚くのはまだ早かった。ここから「結」までの展開が美しすぎた。
眼鏡っ娘は、自分を騙していた兄と二乗くんから、彼らの本心を聞く。これまで自分の劣等感の処理で精いっぱいだった留羽は、初めて他人と関わろうと思う。きちんと二乗くんの心に向き合おうと決意する。このシーンがまず美しい。
留羽は自分の口から「眼鏡を返してほしい」と言う。そしてこう言う。「よけいなものだけでなく、ちゃんと見たいものまでぼやけてしまいます」と。留羽は、自分の眼で世界の真実と向き合うことを決意したのだ。そして「見る」ためのアイテムこそが、眼鏡なのだ。バリアーの象徴だった眼鏡が、見る意志の象徴としての眼鏡に変化したのだ! ここで鳥肌が立った。
そして、ここからがまた、美しい。「眼鏡を返せ」と言われた二乗くんは、きちんと手許に眼鏡を持っていて、留羽にかけてあげる。このときの、眼鏡のかけかたに注目してほしい。前からかけるのではなく、後ろからかけている。
眼鏡を前からかけさせてあげると、男の視線は眼鏡っ娘の顔に注がれる。眼鏡っ娘のかわいい顔を観賞するためには、前からかけなくてはならない。しかし二乗くんは後ろからかけた。これではせっかくかわいい眼鏡っ娘の顔を観賞することはできない。その代わりに、二乗くんには眼鏡っ娘が見ている景色と同じものが見える。後ろから眼鏡をかけさせることは、視線を共有することを意味している。そこで眼鏡っ娘と二乗くんが見た光景とは。
たくさんの笑顔。自分の兄が、単にパラメーターが高い男なのではなく、みんなを笑顔にする人間だと理解した眼鏡っ娘。自分がこれまで知らなかった兄の本当の魅力を、二乗くんが教えてくれたのだ。自分の眼で、眼鏡を通して真実を認識することで、コンプレックスが溶けていく。このときの眼鏡っ娘と二乗くんの笑顔が、まぶしい。劣等感のために人と関われなかった眼鏡っ娘が、視線を共有することによって、他人と世界観を共有することによって、自然な笑顔を見せる。このとき、私もものすごい笑顔だったと思う。眼鏡っ娘と二乗くんが見た光景を、私も共有していたのだから。
この感動は、眼鏡というアイテムによってキャラクターの視線と読者の視線を巧みにコントロールすることで生まれる。バリアーとしての眼鏡では、視線は常に内側に向いている。「見る意志」としての眼鏡では、視線は世界に向けられる。そしてそこに二乗くんの視線を加えることで、二乗くんの視線と読者の視線が眼鏡っ娘の視線と同化する。マンガでは、読者の視線をコントロールするために無数のテクニックが編み出されてきた。コマ割りの進化も、その一端だ。本作は、これを眼鏡で達成した。視線をコントロールするのに、「見るアイテム」としての眼鏡ほどふさわしいものはあるまい。
いやぁ、本当にいいものを見た。と思ったら、本作はまだすごかった。桁外れだ。このあと、なんと眼鏡っ娘をかばって二乗くんが交通事故に遭ってしまう。その場面の眼鏡描写が、すごい。
この眼鏡描写。本作が眼鏡を中心に回っていることを明らかに示している。
二乗くんは一命をとりとめたが、しばらく入院することになってしまう。そこで眼鏡っ娘は、二乗くんの眼の代わりになろうと、学校で授業のノートをとろうとする。が、割れたメガネではよく見えない。そのときの留羽の行動に、仰天した。
「水中メガネ」かよっ!!!
マンガに向かってツッコミを入れてしまったのは久しぶりだ。このあと、少女マンガなのに、ヒロインがずっと水中メガネ。ものすごいビジュアルだ。この水中メガネが極まるのが、最後の最後のクライマックスだ。
病院のベッドで、水中メガネからの、キス。前代未聞だろう。
キスするときに眼鏡を「じゃまこれっ」とか言って外すようなら二乗くんもダメ男決定だったが、これ、水中メガネだからなあ……。大目にみてやろう。
そして最後の眼鏡っ娘のモノローグが、「見える」。最後まで「視線」にこだわって構成していることがわかる。
ということで、「眼鏡っ娘起承転結構造」を引き継ぎつつも、認識論のレベルでそれを乗り越えていくという、パラダイムシフトを起こした作品といってよいだろう。ブラボー!!
■書誌情報
同名単行本に所収。amazonのレビューも絶賛の嵐。うむ、そりゃそうだろう。傑作だ。
単行本:桃森ミヨシ『トンガリルート』(マーガレットコミックス、2003年)
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