楠田夏子「それでも恋していいでしょ」
講談社『Kiss PLUS』2011年1月号~12年1月号
副題に「COMPLEX LOVE STORY」とあり、ヒロインが眼鏡っ娘とくれば、「はいはい、眼鏡をコンプレックスの象徴として扱うのね、OK!OK!」と先入観を持って読み始めるわけだが。いやはや、完全に、やられた。コンプレックスを持っていたのは男のほうで、眼鏡っ娘はむしろ男らしかった。とても新鮮な作品だった。
ヒロインの三ツ矢リサは、眼鏡OL。巨大眼鏡っ娘好きのみなさんには朗報だが、そうとう背が高い。この眼鏡っ娘が、偶然、主人公・氷室大介の秘密を見てしまう。氷室は市役所で将来を約束されたトップエリートとして活躍しているイケメンなのだが、実はチビでハゲだった。チビ&ハゲに極度のコンプレックスを抱えた氷室は、職場では上手に隠し通してきたのだが、眼鏡っ娘には見事にハゲを見られてしまったのだった。
だが、相手は極度の近眼だ。ハゲを目撃されたとき、眼鏡っ娘は眼鏡をかけておらず、実はちゃんと見えていなかったんじゃないか?と氷室は悶々とする。このときの近眼エピソードが、実によろしい。ギャグマンガでもないのに、眼鏡を外したら眼が「ε」になってしまうのだ。
眼鏡っ娘とコミュニケーションを重ねる過程で、氷室は次第に自分のコンプレックスと向き合いはじめる。氷室は、眼鏡っ娘の前で、久しぶりに素直になることができたのだった。
頑なに自分の殻に閉じこもっていた氷室が、素直に自分と向き合えるようになったのは、相手が眼鏡っ娘だからだ。眼鏡とは「見る」ための道具だ。人が眼鏡と向き合う時、「見られている」という意識が強く働く。男性が相手の眼鏡を外したがるのは、決して眼鏡っ娘の容姿が劣っているからではない。「見られたくない」からだ。相手が眼鏡をかけていると、否が応でも「見られている」という事実を思い知るからだ。だから、相手から「見る」という権力を剥奪するために、眼鏡を外させる。「眼鏡だと容姿が劣る」というのは、相手の権力を無化するための言い訳に過ぎない。
本作では、氷室は相手の眼鏡を通した「視線」を常に意識しなければならなかった。その視線の先にいる自分自身の姿を、いやでも意識させられた。相手が眼鏡でなければ、こうはならなかった。氷室は眼鏡っ娘を相手にして「自分が見られている」という感覚を呼び覚ますことによって、初めて素直に自分自身を「見る」ことが可能となった。それがコンプレックスの解消に結び付いていく。
コンプレックスの解消は、「自分が自分を見る」ことによって初めて成立する。少女マンガで眼鏡がコンプレックスの象徴であったのは、眼鏡こそが「見る」ためのアイテムであるからに他ならない。コンプレックスは「眼鏡を外す」ことによっては絶対に解消しない。きちんと自分を「見る」ことによってしか解消しない。つまり「眼鏡をかけたまま」で、きちんと世界を「見る」ことで、そして自分自身を「見る」ことによって、初めてコンプレックスは解消するのだ。
しかし本作は、男性のコンプレックスが「眼鏡っ娘に見られる」ことによって解消するという、新しいスタイルを提示している。眼鏡が「見る」ためのアイテムだということを再確認させ、そして眼鏡の認識論的意味をまざまざと浮き彫りにしたのだった。
この文章冒頭の「眼鏡っ娘は男らしかった」というのは、外見的な意味もあるが、それ以上に「見るという意志」において権力側のポジションに立っていたという意味がある。今後もこういうタイプの「見る意志」を打ち出してくる眼鏡っ娘を、たくさん見たい。
■書誌情報
出版されてから間もないので単行本も手に入りやすいし、電子書籍で読むこともできる。
Kindle版:楠田夏子『それでも恋していいでしょ』(講談社、2012年)
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