この眼鏡っ娘マンガがすごい!第115回:水寺葛「10ミニッツメイド」

水寺葛「10ミニッツメイド」

講談社『ITAN』2013年15号~15年25号

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「10ミニッツメイド」という缶飲料があって(表紙でメイドさんがお盆に載せてるね)、ふたを開けるとメイドさんが登場、10分間だけ命じたことをなんでもやってくれる。毎回「ぼわーん」と出てくる。

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10ミニッツメイドさん、過度な装飾を廃したストイックなメイド服。ものすごい三白眼。眼鏡がとても似合ってる。

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そして超有能。あらゆることをテキパキとこなす姿が美しい。これぞ眼鏡メイド。

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というわけで、有能な眼鏡メイドさんが、毎回違うご主人様の元に現れて10分だけ活躍する、オムニバス作品。そして毎回たかだか10分間の活動時間で、しかも基本的に家事をこなすだけなのに、いや、おそらくそれだからこそ、人間性の本質を浮き彫りにする。ものすごく感動するとか号泣するとかいう類の作品ではないけれど、それまで気にもとめなかった大切なことに気づかせてくれる、そういう繊細で温かいエピソードが集まった作品だ。読後、とても穏やかで清々しい気持ちになれる。

で、こんないい話を描く作家さんを知らないとは不勉強だと反省して、ネットで調べたら、どうやらコミティアではよく知られている方らしい。コミティアには行かないから、知らなかった。反省。そして、だ。さらに調べたところ、別のペンネームで活躍されていたことを知って、思わず「!!!」となった。変わる前のペンネーム、水人蔦楽は記憶にインプットしていたからだ。というのも、素晴らしい眼鏡っ娘マンガなのにも関わらず、なかなか単行本が出ず、仕方ないから掲載雑誌から切り取って保存している作品を描いていたのが、まさにこの作家さんだったのだ。

水人蔦楽「犬とアイドルと」講談社『Theフレンド』1999年早春号
水人蔦楽「バランス」講談社『Theデザート』2000年夏休みスペシャル

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115_0899年の「犬とアイドルと」、2000年の「バランス」は、他に類のない、不思議な印象を受ける眼鏡っ娘マンガだ。どちらの作品も眼鏡っ娘が主人公で、それぞれ性格は全く違うけれど、両方ともどこか世の中を突き放して見ている感じが、共通して不思議な読後感をもたらす。とても眼鏡っ娘にふさわしい空気感だ。ということで、水人蔦楽の単行本が出るのを待ち遠しく思いつつ、一時の保険のつもりで雑誌を切り抜いて15年。さすがにちょっと忘れかけた頃に、眼鏡っ娘マンガ「10ミニッツメイド」と出会い、「!」と思ってダンボールをひっくりかえし、切り抜きを取り出してきたというわけだ。いやほんと、とっておいて良かった。「犬とアイドルと」のほうは、インクが紙の裏に染み込んできて読みにくくなっちゃってるから、パソコンにとりこんで綺麗にしておこっと。

■書誌情報

「10ミニッツメイド」は同名単行本全1巻。電子書籍で読むこともできる。続きも「ITAN WEB」で描かれている。「犬とアイドルと」と「バランス」は、残念なことに単行本未収録。頼むから、単行本だしてくれ~。眼鏡っ娘マンガだけでもいいから!
と言いつつ、眼鏡っ娘マンガじゃないデビュー作も、衝撃的だったから切り抜いて保存してある。少女マンガ誌で民族問題に取り組んだ作品を見るとは思わなかった。かなり衝撃を受けたメガネ君マンガだ。単行本になってないのが、本当にもったいない。

単行本、Kindle版:水寺葛『10ミニッツメイド』講談社、2015年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第69回:松本救助「メガネ画報」

松本救助「メガネ画報」

芳文社『週刊漫画TIMES』2013年8月~15年2月

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「2015年は、この一冊」と後世いわれるであろう、眼鏡でやりたい放題作品。眼鏡でやりたい放題という作品は、ゲームで2009年「ベヨネッタ」、小説で2012年「境界の彼方」と盛り上がってきたが、マンガ界でも進化を続ける。いま、進化の最先端に、本作がある。
特に本作が際立っているのは、「物体としての眼鏡」を追求する姿勢だ。本コラムはこれまで幾多のマンガを見てくるなかで「概念としての眼鏡」について過剰な言葉を吐いてきたが、実は「物体としての眼鏡」を語った言葉は少ない。あまつさえ「単なる視力矯正器具を超えた」などと言ったりして、形而下の存在を軽視するような姿勢さえ示してしまった。自己批判せねばなるまい。本作は、眼鏡がまず徹底的に「視力矯正器具」であることを再確認させてくれる。
しかしそれは眼鏡が単なる物体であることは意味しない。「道具」とは、人間と動物を峻別する一つの指標である。フランスの哲学者ベルクソンは、人間を「ホモ・ファーベル(工作人)」と規定した。ベルクソンは、人間の本質とはモノを作り上げることによって自分自身をも作り上げていくところにあると言う。そしてモノを作ることによって、「よりよいモノを作りたい」という意志を発展させると同時に、モノを作ることを通じて他人との協調関係を深めていくことだと言う。さらにベルクソンは、人間のモノづくりが動物のモノづくりと決定的に異なるのは、人間だけが自分のイメージを形成するためにモノを作るところだと言う。服やアクセサリーなどを考えればわかりやすい。モノに単なる「機能」を求めるのではなく、自己イメージを形成するためにこそモノを作るのだ。
本作を読み終えて、机に置いて、まず頭に浮かんだのが、このベルクソンの「ホモ・ファーベル」の議論だった。そして読み返して、自信が確信に変わる。本作ほど「ホモ・ファーベル」という人間の本質を直截に抉り出してくる作品は、他にないのではないか。

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眼鏡は、まずは徹底的に視力矯正器具であり、人間の能力を拡張する道具だ。だが同時に自己イメージを形成するモノでもある。このモノとしての眼鏡をとことん追求することによって、むしろ「人間」の本質が浮かび上がる。
昨日(2015.7.19)行われたイベント「メガネ区民の集い」に作者の松本救助が出演しており、私はその整った眼鏡顔を拝みつつ「でれっ」としていたのだが、一つの発言によって我に返った。松本救助は自分の作品のことを「ミステリー」ではなく、「眼鏡は全てに通じる」と思ってやっていると言ったのだ。モノとしての眼鏡を追求することによって人間の本質が浮き彫りになることを、ぜんぶ分かってやっていたのだ。刹那、背筋に冷たいものが走ったのは、阿佐ヶ谷ロフトAの空調のせいではあるまい。恐るべし。

069_04私事で恐縮であるが、私も「眼鏡は全てに通じる」と思っている。思っているというか、確かな手ごたえを伴った「実感」として、ある。眼鏡をとことん追求することで、世界の真理を掴めるような気がするのだ。たとえば西洋思想史の領域がもっとも分かりやすいのだが、プラトンのイデア論を理解しようと思たら、眼鏡について具体的に考えるのが一番わかりやすい。中世の唯名論と実在論の議論について理解しようと思ったら、眼鏡について具体的に考えると分かりやすい。ドイツ観念論を理解しようと思ったら、眼鏡について具体的に考えると分かりやすい。なにか複雑な問題に直面した時は、具体的には眼鏡について考えると分かりやすくなる。眼鏡が世界の真理とつながっているという手ごたえが、確かにあるのだ。それはおそらくこういう仕組みだ。西洋の哲学者は全て「神」というものを根底に据えて物事を考えているが、日本人にはその「神」というものがわからないから、西洋思想史の本質を掴めない。が、私が具体的に眼鏡について考えると、眼鏡が「神」と等質の機能を果たし、西洋思想史の見通しがいきなりクリアになるのだ。「神」が実在するとか、「眼鏡=神」というオカルトではない。眼鏡をとことんまで考えるという「思考様式」が、神をとことんまで考えるという「思考様式」と等価という、形式論理の問題だ。私にとって「眼鏡が全てに通じる」とは、形式論理として眼鏡が「神」と等質の機能を果たすという意味だ。
松本救助が昨日どういう意図を込めて「眼鏡が全てに通じる」と発言したのかは、伺うべくもない。しかし本作が眼鏡を追求することによって「人間の本質」や「世界の真理」に迫っていることは、間違いない。だから、本作の読後感は、「何かが腑に落ちた」ような感じになるはずだ。

■書誌情報

今年出版されたばかり。おもしろすぎるので、もりもり売れるべき。電子書籍でも読める。

単行本+Kindle版:松本救助『メガネ画報』(芳文社コミックス、2015年)

いちおう、「ホモ・ファーベル」については、こちら。
文庫本:ベルクソン『創造的進化』(岩波文庫)

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