高野文子「奥村さんのお茄子」
マガジンハウス『COMICアレ!』1994年5月号
本作は、サブカル系必読の神作品ということになっている。サブカル必読の作品として、例えば、つげ義春「ねじ式」とか水野英子「ファイヤー!」など、いくつかのカノン(正典)が定まっているわけだが、高野文子の一連の作品もそういうサブカル御用達のカノンとして位置づいていて、その中でも本作は最高傑作と誉れが高い。それゆえに、サブカル系の人々は本作を解読するべく、様々な解釈を施してきている。ちょっとググってみれば、本作の解釈をめぐる考察が大量に引っかかる。しかしそれらの解釈を眺めてみても、私はまったく感心しない。問題の本質を衝いている考察が、一つとして見当たらないのだ。本作の本質は、サブカル系の人々が考察するところには存在しない。本作を読み解くためには「主人公が眼鏡っ娘」であることを前提に据えなければならないのに、誰もそのことに気が付いていないのだ。本質は、眼鏡にあるのだ。
本作の主人公は2人。奥村さんと、眼鏡っ娘の遠久田さん。ところがこの眼鏡っ娘は人間ではなく、どうやら宇宙からやってきたらしい。本体は眼鏡っ娘ではなく、地球人とコミュニケーションをとるためにこの形に形成されたようだ。このとき、眼鏡が脱着可能なものだとは分からなかったらしく、遠久田さんの眼鏡は顔と一体になるように形成されて、外すことができない。これだ。外すことのできない眼鏡!!! だからコーン油がついて眼鏡がくもってしまったときも、外して拭くことができず、布を眼鏡と顔の間に挿入してキレイにすることになる。こんな画は、高野文子以外には描けない。ここまで見ても、眼鏡なしで本作を解釈することの無意味さが分かるはずだ。
さらに眼鏡描写でものすごいのは、遠久田さんの視点を、眼鏡フレーム越しに描いたコマだ。商店街を進む遠久田さんの眼鏡のこちら側から世界を映しだす画。それまでの三人称視点から、遠久田さんの一人称視点への転換。そしてこの転換が画として可能になっているのは、眼鏡があるからだということに気を付けてほしい。もしも画面に眼鏡のフレームが描かれていなかったら、それが三人称視点なのか一人称視点なのかを判断するための材料が存在しない。眼鏡のフレームが画面内に描かれることによって、初めてそれが遠久田さんの一人称視点であることが明らかになる。この視点変更のあり方は、おそらく物語を読み解くうえで欠いてはならないものだろう。
さらに、一人称視点で電柱にぶつかった遠久田さんは、眼鏡が割れていないことを確認した後、こう言うのだ。「メガネはカッオーの、いちぶーですっ」。もはや、本作が眼鏡マンガであることは、ここに確定したといってよい。本作の狙いや意図がどこにあるかは、様々な論者がさまざまに解釈してきたが、いっこうに意味不明のままに終わっているのは、みんな眼鏡を無視してきたからに他ならない。宇宙人が自らを人間に擬するときに三つ編みの眼鏡っ娘を敢えて選択したことには、絶対に重要な意味がある。そして最後の女性、ポストの女性ユキ子さんも眼鏡っ娘であることを確認し、そのまま物語が終わったとき、私はお釈迦様の掌の上で転がされていたような、何とも言い難い不思議な感覚に襲われるのである。
■書誌情報
サブカル系の正典として読み継がれてきており、さらにこの先もマンガの古典的名作として末永く語り継がれていくだろう。マンガマニアを自認するなら、高野文子を知らないことは許されない。よって単行本も新刊で手に入る。
単行本:高野文子『棒がいっぽん』(マガジンハウス、1995年)に所収。amazonレビューを一瞥するだけでも、高野文子のサブカル的位置づけがなんとなく見える。
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