この眼鏡っ娘マンガがすごい!第77回:鳥山明「Dr.スランプ」

鳥山明「Dr.スランプ」

集英社『週刊少年ジャンプ』1980年5・6合併号~84年39号

言わずと知れた、日本を代表する眼鏡っ娘マンガだ。仮にこの作品が無かったとしたら、日本の眼鏡文化は10年遅れたのではないか。想像するだに恐ろしい。特に1980年代は全体的に眼鏡に厳しい時代だった。80年代が眼鏡にとって最悪の暗黒期だったことは、コミケのサークルカット調査の結果から客観的にわかる。この暗黒期にあってアラレちゃんの眼鏡が燦然と輝いてくれたことは、いくら感謝してもしたりない。現在でもCMキャラクターに起用されたり、「アラレちゃん眼鏡」という言葉が普通に流通するなど、35年経ってもパワーは衰えない。
そんな国民的眼鏡作品の中身については改めて触れる必要がないので、論点を4つに絞って通覧する。まず一つ目は、「アラレちゃんが眼鏡をかけた理由」について。これについては芸人のキングコング西野が根拠のないデマを垂れ流してしまったので、事実を認識しておく必要がある。

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077_02アラレちゃんが眼鏡をかけるのは、第一話冒頭。世界が輝いた決定的瞬間だ。しかし作者の鳥山明本人の弁によれば、アラレちゃんの眼鏡はすぐに外される予定だった。この事情については単行本16巻に明記されている。それによれば、アラレちゃんに眼鏡かけさせたのは、「ロボットが近眼だったらおもしろいかな~というほんのギャグのつもり」ということだ。本人が「マジメにかたる」としたうえで言明された内容なので、韜晦とは考えにくい。
アラレちゃんの眼鏡に深い理由がなかったことを、残念に思うべきだろうか? 私はそうは思わない。むしろ重要なのは、「いつのまにかトレードマークになってしまい、メガネをはずすきっかけをうしなってしまった」という証言だ。これは眼鏡そのものに「力」があり、作者の思惑を超えて眼鏡が作品を支配したことを示している。鳥山明という代替の効かない才能の元に眼鏡が降りてきて、それを世界が承認したという事実。これをしっかり踏まえておきたい。アラレちゃんが眼鏡をかけたことは、キンコン西野が言うような技術論で済ませるべき問題ではなく、「運命」の相の元で理解すべき事態なのだ。

ところで、ここで鳥山明は「ホントはメガネをかくのはわりとめんどくさい」と言っているが、この言葉は額面通り受け取ってよいものだろうか? これについても、作者本人の弁とは別に、作品そのものから考えておく必要がある。2つ目の論点は、メガネを描くということについて。きちんと「Dr.スランプ」という作品を読めば、アラレちゃん以外にも大量にメガネキャラ、あるいはサングラスキャラが登場していることがわかる。「めんどくさい」という言葉が信じられないほど、大量に眼鏡が描かれているのだ。たとえば、単なるモブキャラとして眼鏡っ娘が登場する場面を一瞥してみよう。

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この2つのシーンは、もしも本当に「めんどくさい」のだったら、眼鏡なしで描かれるだろうシーンだ。しかし事実は、眼鏡をかける必要のないモブキャラが、しっかり眼鏡をかけている。これは、作者が眼鏡を描くことが好きだとでも考えない限り、説明がつかない。思い返してみれば、鳥山明の魅力の一つは、細部まで描きこまれたメカ類にある。本当に描くのが「めんどくさい」のなら、そもそもここまで細かいギミックにこだわる必要がないだろう。メカ類の描写を見る限り、作者は「めんどくさい」ことが好きとしか考えられない。「Dr.スランプ」に見られる大量の眼鏡描写は、細部までこだわったメカ描写を踏まえた上で理解する必要があるだろう。

しかしそんなに大量にある眼鏡描写のなかで、やはりアラレちゃんの眼鏡だけは特別な位置を占める。3つめの論点は、アラレちゃん眼鏡の特権性について。それは、眼鏡が割れるか割れないかに顕著に示されている。アラレちゃん以外のキャラの眼鏡は割れるが、アラレちゃんの眼鏡だけは割れないのだ。まず脇役の眼鏡が割れる様子を見てみよう。

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驚いたときに眼が飛び出るというマンガ的描写があるが。このとき、眼鏡やサングラスをかけていたキャラは、眼鏡を突き破って目が飛び出る。しかし、アラレちゃんだけは、眼が飛び出ても眼鏡が割れないのだ。

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やはり、アラレちゃんの眼鏡はすごいのだ。

そしてそのスゴさは、「眼鏡を外すと天罰が下る」というところに顕著に示されている。作中でアラレちゃんの眼鏡を外そうとしたのは、あかねとマシリトの二人だけだが、二人ともこっぴどく酷い目に遭っている。特に、意識的にアラレちゃんの眼鏡を外そうとしたただ一人の男であるマシリトが、同時に作中で死亡した唯一のキャラクターであることを考えれば、眼鏡っ娘の眼鏡を外すことは明らかに「死亡フラグ」なのだ。

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そして本作が決定的に重要なのは、作中で「メガネっこ」という単語を使用しているところだ。第四の論点は、「眼鏡っ娘」という言葉そのものについて。実は作中で「メガネっ子」という言葉が出てくるのは、2か所しかない。

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077_04警察屋さんは、他の箇所では「ほよよっ子」などと言っている。とはいえ、広く読まれた国民的マンガに「メガネっこ」という言葉が登場したことは、極めて重要な事実だ。言葉ができることによって、概念が定着する。「メガネっこ」という言葉が示されることによって、潜在的な意識が覚醒する契機が生まれる。ちなみにコミケサークルカットに「眼鏡っ娘」という単語が登場したのは1984年のこと(「超時空世紀オーガス」のリーアに対して)であり、もちろんアラレちゃんがテレビアニメとしても広く認知された後のことだ。厳密に考えようとするなら、1979年に西谷祥子が「サラダっ娘」という作品を発表していたり、「島っ子」(ちばてつや)や「はみだしっ子」(三原順)という例があることを考え合わせる必要がある。「メガネっこ」という表現が鳥山明オリジナルかどうかについては確定事項ではない。とはいえ、「メガネっこ」という言葉が、本作によって広く認知されたのは間違いない。

以上、4つの論点からアラレちゃん眼鏡について見てきたが、まだまだ考えるべきことが多いことがわかる。いつになっても、眼鏡っ娘の原点として立ち返るべき傑作だ。

■書誌情報

077_05単行本でも手に入るし、文庫版もある。

単行本全18巻:鳥山明『DR.スランプ』(ジャンプコミックス)
文庫版全9巻:鳥山明『Dr.スランプ』(集英社文庫)

 

 

 

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