反転邪郎「思春鬼のふたり」
秋田書店『週刊少年チャンピオン』2014年11号~47号
眼鏡っ娘高校生がヒロインの、スプラッターマンガ。あらかじめいちおう注意しておくと、血と死人が大量に発生するマンガなので、苦手な人にはハードルが高いだろう。
眼鏡っ娘は主人公の侘救くんのことが大好きで、重度のストーカーになっている。侘救くんのリコーダーの先を舐めちゃうくらい。ところがその侘救くんは、司法の力が及ばない極悪人どもを秘密裏に葬る、闇の殺し屋だったのだ。ということで、『悪滅』とか『デスノート』とか『必殺仕事人』とか『ダーティーハリー』といった系列の、法治国家の範囲に納まらない正義を実現しようという主人公の行動と葛藤が話の柱となる。その設定を説得力ある物語にするためには、法治国家を無視するほどの主人公の正義がいかほどのものなのかに加え、手段の正統性がどの程度担保されるかにかかってくるわけだが、ここではとりあえずそんなものはどうでもよい。眼鏡が問題だ。そう、本作のヒロインの徹底的な眼鏡ぶりは、実に気持ちが良い。特に素晴らしいのは、呼ばれるときに名前で呼ばれず、「メガネさん」とか「眼鏡ちゃん」と呼ばれるところだ。誰も眼鏡ちゃんの眼鏡を外そうとしないところだ。眼鏡ちゃんは眼鏡をかけているからこそ眼鏡ちゃんであることを、周囲が違和感なく受け止め、本人もそれを当たり前だと思っている。その当たり前の空気感を醸し出すことは、実はけっこう難しい。ビジュアルだけでなく、性格や行動様式にも眼鏡らしさがなければならないからだ。
特に感心したのは、「見る/見られる」ということの認識論的意味をきちんと踏まえてキャラクターが作られている点だ。眼鏡ちゃんは、ふだんは侘救くんのストーカーをしている。つまり、極めて「見る」ことに特化した行動様式をとっている。そして相手から「見られる」ことはない。このような行動様式に、眼鏡という「見る」ことに特化したアイテムは、とても相応しい。
しかしそんな眼鏡ちゃんが演劇で白雪姫を演じるというとき。「今日の私はいつもとは違う!」と言う眼鏡ちゃんは、なんとコンタクトにしている。ふだんならガッカリするところだが、この作品には感心した。眼鏡ちゃんの認識では、「いつもと違う」のは、眼鏡からコンタクトにして「見た目」が変わったことではなくて、「いつも侘救くんを見てる私が、今日は見られる側になるってこと」だ。つまり、眼鏡を外すことが「見た目」を変えることではなく、「見る側」から「見られる側」へ変わることだとしっかり自覚しているのだ。ここで、眼鏡ちゃんの眼鏡が単なる外面的な記号ではく、認識論的な意味を担っていたことがわかる。眼鏡は「見る」という意志の象徴だ。眼鏡に「見る意志」が宿っているからこそ、人々は眼鏡ちゃんの人格を眼鏡と一体のものと認識せざるを得ないのである。
話や画面が非常に殺伐としていてBADENDの予感しかなかったマンガが、眼鏡ちゃんの終始一貫したブレない姿勢のおかげで、芯の強い作品となった。あと表紙の絵がなかなかエロくて思わず買ってしまったが、中身はそんなにエロくはなかった。いや、ちっとも残念じゃなかったぞ!!ほんとに!
■書誌情報
単行本は新刊で手に入るし、電子書籍でも読める。
Kindle版・単行本:反転邪郎『思春鬼のふたり』1巻 (少年チャンピオンコミックス、2014年)
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