この眼鏡っ娘マンガがすごい!第70回:西川魯介「dioptrisch!」

西川魯介「dioptrish!」

角川書店『エース桃組』2004Summer~05Winter

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ということで、徹頭徹尾、眼鏡っ娘の何たるかを追求している作品だ。そもそも西川魯介作品のすべてが何らかの形で眼鏡を追求していると言えるのだが、本作はその中でも「アジテーション」あるいは「プロパガンダ」として特化している。故に、人心を掴みやすいキャッチフレーズに満ちており、小野寺浩二「超時空眼鏡史メビウスジャンパー」と並んで、布教に用いやすい。積極的に使っていきたい。というか、実際に各所で目にする。ひょっとしたら本作と知らずに目にしていた人も多いかもしれない。

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この「メガネは皆のために!!皆はメガネのために!!」というワンフレーズは、その分かりやすさと普遍性のために、広く人口に膾炙した。原点が西川魯介ということは、今一度確認しておきたい事実だ。(まあこれ自体がパロディであることは、さておこう)
作品自体がアジテーションであるが、作中でも実際に繰り返し激しいアジテーションが展開される。我々としては、「異議なーし!」と声を張り上げるしかない。

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異議なーし! 激しく異議なーし!
とはいえ、単にアジテーションに終始している作品というわけではない。世界の真理を深く掴み取っている描写を各所に伺うことができる。第一話で提示された「見る意志と無限との合一」というテーマについては一度きちんと掘り下げたいと思っているが、今回は第三話の最後のエピソードで示されたテーマについて見てみよう。「眼鏡の不連続性」と「生の飛躍」の問題だ。

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本作は「メガネをかける/外す、その瞬間は不安定な魔の瞬間!特別なその状態」と言う。多くの人々(特に女性)が「眼鏡の脱着」にエロスを感じるという意味の発言をしているが、本作はその現象を意識的に切り取って言語化している。ここは、おそらく「世界の真理」に触れている。
070_05鏡の本質の一つは、「不連続」性にある。これが他の「萌え要素」とは決定的に異なる眼鏡の際立った特徴だ。眼鏡は「かけている」か「かけていない」か、そのどちらかの状態しかありえない。中間の状態があり得ない。そして眼鏡の「ON/OFF」という「不連続」なものが切り替わるところは、微分不可能で不連続な「特異点」に相当する。このような不連続な「特異点」のことを、フランスの思想家バタイユは「射精」と「死」として表現した。それは「生」の始まりと終わりの象徴だ。「生/死」は、眼鏡の「ON/OFF」と同様に、「不連続」なものだ。だからこそバタイユは不連続な生を連続させようとして、射精の瞬間の死を夢想した。不連続な「特異点」をどのように理解するかは、そのままそっくり「生」を理解することを意味する。つまり眼鏡の「ON/OFF」を理解することは、形式論理的には「生」を理解することと同値なのだ。ドイツの教育哲学者ボルノーは、「不連続」な生を繋げる概念として「跳躍」を構想した。繋がっていないのだから、ジャンプするしかない。そのジャンプは死を賭けた冒険であると同時に、連続的な成長では不可能なほどのパラダイムシフトを引き起こす決断でもある。そして眼鏡の脱着とは、まさにボルノーが言う「不連続の跳躍」を意味する。「眼鏡っ娘起承転結構造」の少女マンガにおいて、なぜ眼鏡を外したりかけたりすることで、少女たちの飛躍的な人格の成長が促されるのか。それは、眼鏡の脱着が「死を賭けた不連続の跳躍」を暗示しているからだ。たとえば「髪を切る」という行為も、「不連続の跳躍」を暗示する行為の一つではある。しかし、髪は脱着できない。眼鏡のような脱着できるアイテムこそ、「不連続の跳躍」を暗示するにふさわしい。またメガネ男子が眼鏡を脱着するときに腐女子がトキメキを感じるのは、そこに「不連続の跳躍」があり、そしてそれが「生」というものの本質を示しているからだ。
数年前、本作の「メガネをかける/外す、その瞬間は不安定な魔の瞬間!」というセリフを読んだ後、「ふーん」と思って風呂に入っていたとき、急に頭の中にバタイユとボルノーが出てきて、「眼鏡の不連続性」の持つ意味に思い至ったのだった。ちなみに風呂の中で「エウレーカ」とは叫んでいない。

■書誌情報

単行本『あぶない!図書委員長!』に全3話所収。表題作の「あぶない!図書委員長!」も、もちろん眼鏡っ娘マンガ。こちらはプロパガンダではなく、萌えとエロ成分が多め。ちなみに私が書いた解説文なぞも巻末に掲載されております。お目汚し、恐縮。

Kindle版:西川魯介『あぶない!図書委員長!』(白泉社、2008年)

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