山岸凉子「ミスめがねはお年ごろ」
集英社『りぼんコミック』1970年2月号
1970年発表作。眼鏡っ娘をヒロインとした、極めて早い時期の作品だ。しかしこの時点ですでに「乙女ちっく眼鏡っ娘」の原型が見えるところが興味深い。眼鏡っ娘が、歴史的登場時点から既に「眼鏡のまま愛される」という存在だったことは、世間にもっとよく知られてよい事実だ。
ヒロインの近藤咲子ちゃん(通称さっちゃん)は眼鏡っ娘。両親が亡くなり、父親の友人の家庭に引き取られることとなった。その家の息子・真一との恋愛物語だ。まずは絵に注目したい。
しっかり観察すると、眼鏡の描写が実に素晴らしいことが分かるだろう。まず横顔を見ればわかるように、「貼り付き眼鏡」にはなっていない。さすが山岸凉子、正確なデッサンだ。そしてこの時点で既に「ズレ眼鏡」であることにも注目必至だ。少年・青年マンガでは「ズレ眼鏡」はほとんど描かれることがなかったが、1990年代半ば以降に少女マンガ技法が男性向メディアに採用されて以降、急速に「萌え」として認識されていく。しかし少女マンガにおいては、45年前から既に「ズレ眼鏡」だったのだ。推測するならば、少女マンガ特有の大きな瞳に似合う眼鏡を描こうと思うと、眼鏡をまんまるに大きく描くか、ズラすか、どちらかの選択肢しかない。山岸凉子はズラす方を選択したということか。
ストーリーも興味深い。まず注意したいのは、「眼鏡を外すと美人」というエピソードが露骨に描かれている点だ。
いじわるなライバルに球技でボールをぶつけられたはずみに、さっちゃんの眼鏡が吹っ飛ぶ。しかしそれをきっかけとして、さっちゃんが美人だったことが発覚するのだ。眼鏡を外して美人になるなどとは物理的にはありえないのだが、マンガだから仕方がないと我慢しよう。問題は、「眼鏡を外して美人」になったとして、そのまま「幸せ」になるかどうかだ。そう、眼鏡を外して美人になったとしても、それがそのまま恋愛成就に結び付くことはない。結論から言えば、さっちゃんは眼鏡をかけて幸せになる。
さっちゃんは誕生日プレゼントにコンタクトレンズをもらう。1970年時点のコンタクトレンズだから、宝石ほどに高価なものだっただろう。しかし我らがヒーロー真一は、コンタクトレンズを拒否し、さっちゃんに眼鏡をかけさせる。そして決め台詞で物語を見事に終わらせるのだ。「ぼくはミスめがねのそぼくなさっちゃんが大好きさ!!」
これだ。外見にしか興味がない世間のボンクラ男どもがさっちゃんの眼鏡を外そうとするのに対し、真のヒーローである真一は「眼鏡ゆえの魅力」に気が付いている。眼鏡がさっちゃんの人格の一部であることをしっかり認識しているからこそ、眼鏡のままのさっちゃんを受け入れるのだ。眼鏡が人格の一部になっていることは、右の引用図に明らかなように、作中でもきちんと描かれている。さっちゃん本人は眼鏡をコンプレックスに思っているが、それこそが「自分自身の本質」と深く関わっている。「あたしとめがねとはきりはなせない」という、アイデンティティ認識。少女の人格性を可視化したものこそが、まさに眼鏡なのだ。だから、眼鏡をそのまま承認し、少女の人格性をそのまま包み込むことが、少女マンガのヒーローの条件となる。少女マンガは、実は当初からそういう眼鏡っ娘を描き続けてきている。「眼鏡を外して美人」になる描写が存在することも事実であるが、それがそのまま恋愛成就に直結せず、最終的に「眼鏡をかけて幸せになる」ことはしっかり認識されねばならない。
そんなわけで、本作は眼鏡っ娘の描かれ方を考える上で極めて重要な事実を示している歴史的な作品だ。しかも山岸凉子の作品ということで、たいへんな説得力を併せ持っている。いまでも「眼鏡を外して本当の私デビュー」などという愚か極まりない考えを持つ者がいるが、そんなものは1970年時点で完膚なきまでに否定されていることは声を大にして主張したい。眼鏡っ娘は眼鏡をかけたまま幸せになる。これが世界の真理だ。
■書誌情報
本作は39頁の短編。単行本『アラベスク第1部2巻』に所収。実は入手はそれほど困難ではない。「かってに改蔵」の第85話「めがねっ娘、世にはばかる。」にも本作が言及されている。
単行本:山岸凉子『アラベスク』第1部2巻(花とゆめCOMICS、1975年)
■広告■ |
■広告■ |