この眼鏡っ娘マンガがすごい!第51回:はいぼく「視力矯正めがねをかけろ」

はいぼく「視力矯正めがねをかけろ」

ラポート『ゲームコミック月姫2』2003年

出版元のラポートが2003年に倒産してしまって独占出版権が消滅しているので、著作権者の権限で全ページ掲載。

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ってことで、今回は素晴らしい眼鏡っ娘マンガの紹介じゃなくて、「あのころはこうだったよなあ」というインターネット老人会のようなノリの自分語りで恐縮しきり。

前回の磨伸さんと同じく、TYPE-MOONのアンソロジー集に掲載された作品だ。ラポート社には、ねこねこソフト『みずいろ』アンソロジーから参加していて、ねこねこ2作+月姫2作の都合4作描いたところで倒産してしまった。ラポート社が続いていたら、他の作品も全部この眼鏡ノリで押し切るつもりだったけど。DNAやエンターブレインからは声がかからなかったのでアンソロはこれっきりになった。いちおうアンケートでは人気があったようだと小耳に挟んでいて、眼鏡の野望にまた一歩近づいたと密かにほくそえんでいたんだけど、まあ仕方ない。
いちおう、4頁目の「魔人破天荒」は、磨伸さんの改名前のペンネームね。私の方は御本人に確認もとらずにしれっと描いちゃったけど、編集部の方では当然問題になって、きちんと確認してくれたようだ。このあたり、同人と商業は違うんだという意識がかなり低くて、今になって冷汗が出まくる。6頁目の西川魯介『屈折リーベ』の3コマぱくりなんて、同人にどっぷり浸かっていた当時だから恐れも知らずにやっちゃったことで、今の感覚から言えば、たとえ御本人に許してもらったとしても恐れ多くて実行できない。若かったねえ。

ラポートのビルは、新宿御苑の側にあった。JR新宿から南口を出て、甲州街道に沿って新宿御苑に向かう。新宿御苑は季節ごとの花や紅葉が美しく、歩くだけで心が躍った。ラポートビルに行くこと自体が楽しみだった。原稿はコンピュータで作成していたので、ネットで送ってしまえば一瞬で済むのに、わざわざCD-ROMに焼いて持って行った。編集部の部屋が、またワンダーランドだった。たぶん12畳くらいしかない部屋だったと思うけど、何年前からそこにあるのかわからない謎の資料が所狭しと山積していた。ここから『アニメック』とか『ファンロード』が生み出されていった、その場所に自分がいるというだけで、心が湧きたった。
編集長の小牧雅伸氏のことは「RXの人」と呼んでいた。もちろん、「RX-78」の名付け親だからだ。ちなみに当時私が使っていたコンピュータが、SONYのVAIOで型番がRX-75だったので、密かに「ガンタンク」と呼んでいたが、それはどうでもよい。小牧さんから「明るいイデオン」の話を直接聞いたりするだけで、全身の血液が沸騰する感じがした。ラポート倒産後も、ちゃんと年賀状が届いた。
ちなみに私をラポートに連れて行ったのは「歩く電波塔の会」きむら秀一だが、この話は墓場まで持っていかねばならない。

アンソロを描くとき、ラポートからはTYPE-MOONが用意した設定資料を渡された。門外不出。たとえ家族だろうと見せることは許されない。これを手にしたとき、なんだか特権階級になったかのような錯覚を覚えたが、とうぜん気のせいだ。いまでも家にある。

この頃から、樺薫の仲介を経て、私の家に高遠るいが出入りするようになった。実は彼は私の大学の後輩だったりする。当時彼はまだ「高遠るい」という名前ではなく、「しとね」と自称していた。その時はまだ世に出る前だったから当然彼の実力も知らず、「なんか絵を見せてよ」と何の期待もせずに言ったのだが、出てきたものにブッたまげた。モノが違うってのは、こういうことを言うんだろうなと。ジオンの兵士が、見たこともなかったガンダムを一目見ただけでガンダムと認識して戦慄するように、私は高遠るいの圧倒的な実力に鳥肌が立った。
ということで、私が主催していた同人誌に何冊か関わってもらったり、ラポートに紹介してねこねこアンソロジーに描かせたりしたけれど、もちろんそんな枠に収まるようなタマではないので、あっという間に各方面の編集者の目について、瞬く間に商業誌で活躍するようになった。TYPE-MOONのアンソロジーに関わった作家は何十人といるけれど、そのなかでも高遠るいと磨伸映一郎は、間違いなく変な奴ツートップだった。高遠るいが同人で描いていたシエルマンガは、他に描ける者が皆無という点で本当にすごかったが、今ではもう手に入るまい。
そんな高遠るいが、私の家で、樺薫と飽きもせずに延々と「ウンコ」の話をしていたのは、私しか知らない。

樺薫と高遠るいが「ウンコ」の話をしている横で描いていたのが、この眼鏡マンガだった。そのときは、こんな生活がしばらく続くのかなと思っていたけれど、とんでもなかった。樺薫も高遠るいもすぐに商業誌で活躍を始め、私の家からは遠ざかっていった。というか、別に私がいなくても、彼らは自分の足だけで立つことができる実力を持っている。私が関わらなくとも、いずれは世に出る才能だった。猛烈なエネルギーを蓄えたマグマが地上に噴出するとき、たまたま噴出した割れ目が私の所にあっただけの話で、それが私である必然性はなかった。が、それが私であったことに、ちょっとした誇りを感じてしまうのは、仕方ないよね。
私自身も、いまではマンガで原稿料を頂戴する機会もなく、別の道で生活している。でも、この作品を見ると、当時のことをまざまざと思い出す。現在からは想像もできないほどに眼鏡が不遇だった時代。10年以上前の絵柄だから、いまの眼から見れば当然不満だらけだ。コマ割りも拙い。でも、情熱だけはすごかった。あのときの熱量は取り戻すべくもないけれど、でも経験値を積み重ねた今だからこそできること、今しかできないことはたくさんあるはずで。やっぱり、今できることを着々と積み重ねていくことが一番大事なんだよなあと。オッサンになってみてしみじみと実感するのだった。

そんなわけで、これまでのオタク遍歴で培った眼鏡知識は、きちんと形にして残していかなくちゃと思ったのだった。

■書誌情報

全ページここに載っています。

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第50回:磨伸映一郎「TYPE-MOON作品集」

磨伸映一郎「TYPE-MOON作品集」

宙出版・一迅社・ラポート等、2002年~

我々は、現在進行形で創作世界の劇的な変化を目の当たりにしている。磨伸映一郎は、実は最も前衛的な領域を突っ走っている。自称芸術家の連中が「前衛」と称してくだらないママゴトをしている間に、磨伸映一郎は着実に世界を更新している。

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今回紹介する作品は、もともと「アンソロジー」と呼ばれる種類の本に掲載されていた作品を集めたものだ。あるオリジナル作品に対するパロディ作品を集めて一冊にまとめたものを「アンソロジー」と呼び、もともとは1990年代に女性向け作品から市場を形成し(『ガンダムW』が目立っていた)、21世紀に入る頃に男性向け市場が広く形成された(『こみっくパーティー』が火付け役だろう)。
050_03そのような「アンソロジー」の中で、極めて特異な性質を持つのが「TYPE-MOON」作品のアンソロジーで、その中でも一際異彩を放っているのが磨伸映一郎だ。まあ、ここまでは衆目が一致するところだろう。が、磨伸映一郎の仕事は、私の見立てでは、そのような世間一般の評価をはるかに凌駕する前衛的な領域を形成しつつある。作品そのものの解説については、『月の彼方、永遠の眼鏡』所収の奈須きのこによる解説に付け加える文字は一つもないので、私は外堀を埋めるような話だけ。

まず「TYPE-MOON」のありかたそのものが、TRPG的だということを指摘しておきたい。私は当初からTYPE-MOON作品にTRPGの影響を感じていたが、奈須きのこ氏御本人と一度だけ話をする機会があって、そのときに自信が確信に変わった。『月姫』はTRPG的想像力の中で可能性が最大限に引き出されたために、大きな説得力を持つ作品へと成長した。
いちおう一言添えておくと、「TRPG」とは「テーブルトーク・ロールプレイングゲーム」のことだ。コンピュータRPGでは、プレイヤーの行動に対する結果は、コンピュータが演算する。TRPGでは、プレイヤーの行動に対する結果は、人間であるゲームマスターが判断する。コンピュータでは、あらかじめ決められたアルゴリズムに沿って結果を算出するしかないが、人間が判断を下す場合、そこに人間らしい想像力が付け加わる。人間であるプレイヤーと人間であるゲームマスターがコミュニケーションを重ねる過程で、コンピュータのアルゴリズムでは思いつくはずもない、極めて斬新な結果が生まれることがある。だからTRPGは楽しい。そしてTRPGを素晴らしいものにするためには、(1)魅力ある世界観(2)ゲームマスターの采配力(3)プレイヤーの独創力が不可欠だ。
050_04このようなTRPG文化の中から生み出された最初の成果が『ロードス島戦記』や『蓬莱学園』という作品に見える。そして発展を続けるTRPG文化は、21世紀に入って、TYPE-MOONというあり方そのものを生み出すに至る。奈須きのこという希代のゲームマスターに対して、それに負けないくらいの個性的なゲームプレイヤー達が「作品そのもの」に参戦する。渡辺製作所しかり、虚淵玄しかり、磨伸映一郎しかり。彼らが個別に生み出す作品だけでなく、彼らが積み重ねるコミュニケーション全体が実はTYPE-MOON-TRPGという一つの大きな作品へと織りなされていく。ここで形成された文化が既存の「同人」と大きく異なるのは、ゲームマスターという存在がいるかいないかという点だが、創作という意味ではこれが決定的な違いとなる。
既存の近代的な批評観念では、TYPE-MOON作品のようにゲームマスターの采配のもとで大量のプレイヤーを巻き込みながら進化発展を続ける「生き物としての作品」を把握することは不可能だ。その最大の過ちを犯したのが、評論家の東浩紀だろう。彼には不幸なことに、TRPGに対するセンスが完全に欠如していた。ボードリヤール流の「複製芸術」観念を持ちだして理解しようとするのが関の山と言ったところだったが、それではTRPG的世界を一覧することはできない。磨伸映一郎の作品を理解することはできない。
結論を言えば、磨伸映一郎が一連のアンソロジーで行っていたことは、単なるパロディではない。TRPGだ。その証拠に、ゲームマスター奈須きのこからのリアクションがあり、さらにそれにたいする応答まであった。プレイヤーとマスターの間でコミュニケーションを積み重ねながら世界観がより豊かに深まっていくとき、もはやそれはパロディを超えている。二人のコミュニケーション自体が一つの世界を作る創作行為だ。
そして、重要なことは、TRPGがゲームとして成立するためには、マスターがプレイヤーをプレイヤーだと認めなければならないところだ。常識的な作品世界では、アンソロジー作家をゲームのプレイヤーと認定することはありえない。そんなことができるのは、TRPG的センスを濃厚に持ちつつ、さらにゲームマスターとしての采配を振るうだけの実力も持っているTYPE-MOONだけだ。そして、希代のゲームマスターの期待に応えられる独創的なプレイヤーは、そうゴロゴロと世の中に転がっているわけではない。磨伸映一郎は、その才能を持っていた。磨伸映一郎の仕事とは、実は極めて限定的な条件の下でしか起こりえない、前代未聞の創作活動なのだ。

(ただし言い添えておくと、プレイヤーとしての立ち位置は、今回紹介したアンソロジー集と現在連載中の『氷室の天地』ではまったく異なる。『氷室の天地』は現在進行系の作品なので、落ち着いたときにでも、また改めて。)

■書誌情報

磨伸映一郎のアンソロジー集は、2015年現在で4冊出版されている。刊行年順に、『月の彼方、永遠の眼鏡』(一迅社、2006年)、『月光はレンズを越えて』(宙出版、2007年)、『月の彼方、永遠の眼鏡2』(一迅社、2010年)、『月光はレンズを越えて改二』(一迅社、2014年)。
ちなみに本文中ではほとんど触れるヒマがなかったし、私が言うまでもないことではあるが、もちろんすべてが眼鏡愛に満ちている。

『月の彼方、永遠の眼鏡 TYPE-MOON作品集』(一迅社、2006年)
『月の彼方、永遠の眼鏡 2 TYPE-MOON作品集』 (一迅社、2010年)
『月光はレンズを越えて』 (宙出版、2007年)
『月光はレンズを越えて 改二』 (一迅社、2014年)

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