小谷憲一「ショッキングMOMOKO」
集英社『月刊少年ジャンプ』1985年2月号・5月号
以下、性的表現が少々含まれるので、苦手な方は回避してください。
主人公の里中桃子ちゃんは小学5年生の眼鏡っ娘。というと現在では大人しい文学少女とか儚げな病弱少女を思い浮かべそうだが、桃子は違う。がさつで乱暴で腕っぷしが強く、言葉遣いが悪い跳ねっかえり眼鏡っ娘なのだ。下に引用したコマでは、パンツ丸出しで弟に激しく卍固めを極めている。ということで、おそらく現在の眼鏡っ娘好きたちのストライクゾーンからはけっこうズレているだろうと想像される。が、それゆえに、我々にとって眼鏡っ娘とは何か?を考える上で重要なキャラクターでもある。
話自体はSFで味付けをしたジュヴナイル冒険ものといった趣で、宇宙人から特殊能力を与えられた三人の少年少女が悪いやつらをバッタバッタとなぎ倒していく痛快ストーリー。三人の少年少女の構成は、パワー系の男+知力系の男+色気担当の女という組み合わせで、いわゆるタイムボカン三悪構成となっている。そんなわけで、桃子はお色気担当。特殊能力のせいでメガネをはずすと美人に見えるというお決まりパターン(※1)で、悪いやつらを悩殺していくこととなる。が、こうなると不思議なのは、そもそもどうして桃子が眼鏡をかける必要があるのか?ということだ。作中では桃子が近眼になったエピソードは扱われない。また、桃子にいたずらをするワルガキどもが桃子のがさつな性格をネタにする一方で、まったく眼鏡をネタにしないのは、そうとう不自然な感じを与える。作品発表時の1985年時、小学5年で眼鏡というのはけっこうなレアキャラのはずで、いたずら好きのワルガキがメガネをネタにしないわけがない。ストーリー構成上も、桃子が眼鏡をかけている必然性はまったくない。宇宙人から与えられたお色気特殊能力を強調したいとしたら、普段のがさつで乱暴なキャラとのギャップで見せれば十分であって、日常でいじられないメガネを味付けにする必要はまったくない。それでも桃子は、現にメガネをかけている。発展途上の新人の作品であれば経験不足ゆえの詰め込みすぎということで片づけられるかもしれないが、小谷憲一のキャリアを考えると、ここでメガネを持ってきたのには何らかの裏付けがあるとしか考えられない。が、作中からはその意図を読み取ることができない。眼鏡という観点から分析しようと思った時、非常に不可解な作品に見えるのだ。
ところが、この作品には、次のシーンがあることによって、私の脳裏から一生消えることはない。
うーむ、すごい。現在の眼鏡キャラのテンプレからは逆立ちしても出てこない、すさまじい描写だ。というか、平成の世の中ではもはや許容されない描写でもあるが。
思い返してみれば、Dr.スランプなどを想起すればすぐわかるように、1980年代少年マンガに登場する眼鏡っ娘には、現在のテンプレ眼鏡からは相当にズレたキャラが非常に多い。むしろ文学少女とか病弱少女とかいう属性自体が実は歴史が浅いものに過ぎず、もともと眼鏡っ娘はもっとテンプレから自由だったというほうが正しいだろう。テンプレというものは概念を強化して固定ファンを増やすという側面がある一方で、ありのままの現実を見えにくくするという作用も持つ。たとえば現在不幸なことにアンチ眼鏡っ娘の人々が存在するが、実際のところ、彼らは現実の眼鏡キャラをまったく知らず、単に彼らの妄想の中のテンプレ眼鏡っ娘を嫌っているにすぎないことが多い。本当に奴らは何と戦っているのだろう。馬鹿じゃないだろうか。いや、われわれにしても、テンプレによって逆に視野を狭くさせられていないだろうか。
この作品の桃子というキャラクターは、メガネというものが実はそうとう自由であったことを再確認させてくれる。キャラクターは物語構成の都合から眼鏡をかけているのではなく、単に近眼だから眼鏡をかけているのだ。乱暴でがさつだろうと、近眼だから桃子は眼鏡をかけているのだ。心のメガネのレンズを拭いて改めて見た時、桃子がとても魅力的な眼鏡っ娘に見えてくるのだ。
(※1)眼鏡を外すと美人になるというお決まりパターンが少女マンガ特有のものだと勘違いしている人が多いが、このパターンはむしろ少年マンガから広がっていったと考えるほうが合理的だ。
■書誌情報
単行本『小谷憲一短編集1 ショッキングMOMOKO」 (ジャンプコミックス、1991年)に所収。
私が確認した時点では、amazonでは品切れ。古本屋を丁寧に当たれば、200円で手に入るとは思う。
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