清原なつの「花岡ちゃんの夏休み」
集英社『りぼん』1977年8月号
全てのマンガ家は一人一人かけがえのない個性を持っていて、誰もが交換の効かない存在ではあるけれども、やっぱりその中でも特に際立って特別な存在感を放つ作家がいる。清原なつのは、そういう作家の一人だろう。その理由の一つは、おそらく「性」の匂いにあると思う。特に『りぼん』という少女誌で徐々に性の匂いが排除されていくなかで(まあ一条ゆかりという鬼才は別として…)、清原なつの作品が醸し出す「性」の匂いは鼻腔の奥に残る。
そんな清原なつのが眼鏡っ娘を大量に描いているのは、おそらく偶然ではない。清原なつの作品の眼鏡っ娘を通覧して気がつくのは、共通して「大人の女になることを拒否している」ということだ。ただ「大人になる」ことを拒否しているのではなく、「大人の女になる」ことを拒否しているのだ。右の引用図のモノローグでは、母親が言う「女は嫁にゆけばいい」という世間的意見に反発している。眼鏡っ娘たちは、世間が圧力をかけてくる「女」のイメージに反発している。彼女たちの眼鏡は、自分の心を世間の圧力から守るバリケードなのだ。しかしそれにも関わらず、彼女たちの心と体は自然と「大人の女」へと変化していく。そして女性の体は、ある時期に至れば不可逆的に大人になったということを自覚させるような仕組みにできている。その心と体の危ういアンバランスが同居した存在を「少女」と呼ぶのであれば、清原なつのほど「少女」を描ききった作家は他にいないのではないか。
清原なつのと同時代の『りぼん』では、田渕由美子・太刀掛秀子・陸奥A子など「乙女チック」が活躍していた。「乙女チック」にもそれぞれ個性があるが、ここで描かれる「少女」は共通して観念論的だ。悪い意味で言っているわけではなく、それぞれ観念論的に完成度が高いことは本コラムでも解説してきた(端的に言えば「眼鏡っ娘起承転結理論」はまさにドイツ観念論、特にヘーゲル弁証法に比定できるということ)。それに対して清原なつの作品には、一つとして「眼鏡っ娘起承転結理論」に当てはまる作品が存在しない。それは清原なつの作品が観念論を採用せず、常に身体性を伴いながら物語を紡いでいることを意味する。清原なつの作品から匂い立つ「性」の源泉は、観念論を拒否した身体性にある。そうしてみると、彼女たちがかけている眼鏡は、世間の圧力からのバリケードであると同時に、彼女たちの身体を内側から変化させる力をなんとか押しとどめるための抵抗の象徴でもあるだろう。それはつまり、眼鏡が「少女」の象徴であることを意味する。外圧と内圧に挟まれたところに、レンズがある。世間がイメージする「女らしい女になれ」という外圧と、DNAに制御された身体の内側から「女になれ」という内圧、その真ん中に眼鏡のレンズがある。彼女たちの眼鏡は、彼女たちの「少女性」を体現している。「少女」を描く清原なつの作品に眼鏡っ娘がたくさん登場するのは、もはや必然と言える。
■書誌情報
単行本『花岡ちゃんの夏休み』所収。続編の花岡ちゃんシリーズとして、同単行本所収の「早春物語」と、『3丁目のサテンドール』所収の「なだれのイエス」がある。
初単行本の『花岡ちゃんの夏休み』には花岡ちゃん以外にも眼鏡っ娘がたくさん登場し、清原なつのといえば眼鏡っ娘という印象がついた。りぼんコミックスのほか、ハヤカワコミック文庫にもなっている。
単行本:清原なつの『花岡ちゃんの夏休み』(りぼんマスコットコミックス、ハヤカワコミック文庫)
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