この眼鏡っ娘マンガがすごい!第111回:太刀掛秀子「P.M.3:15ラブ♥ポエム」

太刀掛秀子「P.M.3:15ラブ♥ポエム」

集英社『りぼん』1975年10月号

111_01少女に眼鏡をもたらす男こそが少女マンガのヒーローにふさわしい。それを教えてくれる黎明期の名作だ。

主人公のアッキは、眼鏡っ娘。眼鏡をかけた自分の容姿にまったく自信が持てない。
そんなアッキは、入学式の帰り、P.M.3:15のバスに乗っていた男の子に一目惚れ。それ以来、3:15の男の子に会いたい一心で、毎日バスに乗っていた。
ここで注意したいのは、「メガネかけた顔みられたくなくて、あわててはずしちゃった」というモノローグだ。男の子の顔は見たいのに、自分の顔は見られたくない。つまり、眼鏡をかけなければいけないのに、眼鏡をかけたくない。これが本作の基本構造だ。

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ある日、3:15のバスに乗ろうと急いでいたが、誰かにぶつかって、眼鏡がポロリとはずれてしまう。ぶつかった相手の顔は近眼でまったくわからないが、佐田修くんというらしい。
そして次の日の朝、遅刻しそうになって、走ってバスに間に合ったアッキだったが。

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佐田くんに声をかけられるが、ここでもアッキは佐田くんの顔を見ていない。必死に走ってきて、汗でレンズが曇ってしまって、眼鏡を外していたのだった。
で、もちろんアッキが一目惚れしたP.M.3:15の男の子の正体は、実は佐田修くんなのだ。しかし、佐田くんと会うときはいつも眼鏡を外していて顔をちゃんと見たことがなくて、二人が実は同一人物だったとは気がつかなかった、というわけだ。
そんなピントがズレた状態を打破するのは、もちろん眼鏡だ。
まずアッキの中で次第に佐田くんの存在が大きくなっていく。P.M.3:15の男の子は外見に対して一目惚れしただけだったが、ちゃんと眼鏡を通して顔を見たことがない佐田くんに対しては、外見など関係なく、その素直で包容力のある優しい性格を好きになっていく。だんだんどっちのことが好きなのか、わからなくなっていくアッキ。しかしある日、佐田くんがいるところで、友達にP.M.3:15の男の子のことをバラされてしまう。P.M.3:15の男の子と佐田くんが同一人物だとは夢にも思わないアッキは、秘めた想いを佐田くんに知られてしまったことに動揺し、眼鏡を部室に置いたままで飛び出してしまう。
佐田くんは、置き去りにされた眼鏡に、もちろんすぐ気がついた。次の日、佐田くんは眼鏡を持ってバス停に行く。ここからの眼鏡展開が素晴らしい。眼鏡をもたらす男こそが、真の少女マンガのヒーローということが明らかに示されるのだ。

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眼鏡を渡されたアッキは、ここで初めて眼鏡のレンズを通して佐田くんの顔を見る。

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眼鏡をかけて、初めて真実が焦点を結ぶ。実は佐田くんがP.M.3:15の男の子だったのだ!
そして佐田くんのセリフ。「メガネの中のおっきな目とさらさらの髪の毛がかわいいなって」。実は佐田くんは、メガネスキーだったのだ!
111_06ここで注意したいのは、この場面で「眼鏡で見る」ことと「眼鏡を見られる」ことが同時に実現しているという事態である。それは「ほんとうの世界を見る」ことと「ほんとうの私を見られる」ことが同時にしか成立しないことを示唆している。それまで物事がうまくいかなかった原因は、「眼鏡を見られたくない」という間違った考えから「眼鏡で見ない」という間違った行動をとってしまったことにあった。眼鏡をかけないのは、世界の真実から目を背けることであると同時に、ありのままの私を否定することである。外に対して偽ることは、同時に内に対しての偽りとなる。眼鏡をかけないことは、二重の裏切り行為なのだ。物事がうまく運ぶわけがない。そこに眼鏡をもたらし、自分自身と世界の真の姿を回復させるのが、少女マンガのヒーローの役割だ。男の中の男は、少女の眼鏡を外す馬鹿野郎ではなく、少女に眼鏡をもたらす者だ。それをこの作品は教えてくれる。

■書誌情報

本編は35頁の短編。同名単行本に所収。単行本は絶版になっており、amazonで見た限り、かなりのプレミアがついていて入手は困難かもしれない。作者の太刀掛秀子については、第11回でも扱った。非常に繊細で美しい絵を描く作家で、中村博文さんが模写を繰り返したと聞いて、妙に納得したのをよく覚えている。

単行本:太刀掛秀子『P.M.3:15ラブ♥ポエム』集英社りぼんマスコットコミックス、1976年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第103回:岡野小夏「HANZO」

岡野小夏「HANZO」

集英社『りぼん』2011年4月~6月号

これ、なんてエロゲ?という少女マンガ。こんなエロゲが『りぼん』で連載されるとは時代も変わったなあ……と思いつつ、振り返ってみれば、『りぼん』は昔から岡田あーみんとか一条ゆかりの発狂系とかを載せてしまうようなアグレッシブでアバンギャルドな雑誌ではあった。

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さて、ヒロインの眼鏡っ娘くるみは中学2年生貧乳。気合いの入った乙女ゲーマニアで、いつもポータブルゲーム機を持ち歩き、常にフェイバリット乙女ゲーム「戦国鬼」をプレイしている。一番のお気に入りは忍者の服部半蔵さまだ。要するにオタク。ある日、くるみは不良グループにゲーム機を取り上げられてしまうが、颯爽と現れた超美人の服部なでしこに助けられる。
超美人でスタイル抜群の服部なでしこだったが、なんとその正体は忍者の上に、くしゃみをすると性転換して男になってしまう特異体質の持ち主だった。そして男になったなでしこは、憧れの服部半蔵さまそっくり。くるみは、いけないと思いつつも、男になったなでしこに心を鷲掴みにされていくのだった。そして何回か性転換を繰り返すうちに、どんどん女でも良くなっていって、怒濤の百合展開がはじまる。

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二人が一緒に温泉に入るシーンなど、なでしこが少女マンガ誌には絶対に出てこない類のエロゲ的超巨乳グラマーで、辛抱たまらずに「これなんてエロゲ!?」と叫ぶこと必至。温泉シーンでは、くるみも眼鏡をかけたまま入浴するなど、よくわかってらっしゃる。『りぼん』掲載作品なのに、9ページに渡って温泉セクシーシーン。なんだこれは。ありがとう。
二人が海でデートするとき、くるみが結婚を妄想するシーンなども、とても秀逸。

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海で水着なのに眼鏡をかけたままなど、非常にすばらしい。妄想の中では眼鏡をかけたまま白無垢で、『りぼん』読者の大部分を占めるであろう小学生女子への啓蒙が期待される。結婚式は眼鏡をかけたままでいいんだぜ。
そんなわけで、一切の毒がなく、眼鏡+忍者+百合が最後まで楽しめる、心地よい作品だ。

思い返してみると、忍者はともかく、眼鏡と百合の相性はすこぶる良いような気がする。経験的には、優れた百合作品には眼鏡っ娘がよく出てくる印象が強いが、なにか理論的な根拠があるかもしれない。百合と眼鏡の関係理論については、具体的な作品レビューを積み重ねる過程で帰納的に明らかにしていきたい。

■書誌情報

同名単行本全1巻。単行本は容易に手に入るし、電子書籍で読むこともできる。単行本オマケのページのノリなど、少女誌ではなくエロマンガの匂いがぷんぷんするぜ。
Kindle版・単行本:岡野小夏『HANZO』りぼんマスコットコミックス、2011年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第92回:清原なつの「花岡ちゃんの夏休み」

清原なつの「花岡ちゃんの夏休み」

集英社『りぼん』1977年8月号

092_02全てのマンガ家は一人一人かけがえのない個性を持っていて、誰もが交換の効かない存在ではあるけれども、やっぱりその中でも特に際立って特別な存在感を放つ作家がいる。清原なつのは、そういう作家の一人だろう。その理由の一つは、おそらく「性」の匂いにあると思う。特に『りぼん』という少女誌で徐々に性の匂いが排除されていくなかで(まあ一条ゆかりという鬼才は別として…)、清原なつの作品が醸し出す「性」の匂いは鼻腔の奥に残る。
そんな清原なつのが眼鏡っ娘を大量に描いているのは、おそらく偶然ではない。清原なつの作品の眼鏡っ娘を通覧して気がつくのは、共通して「大人の女になることを拒否している」ということだ。ただ「大人になる」ことを拒否しているのではなく、「大人の女になる」ことを拒否しているのだ。右の引用図のモノローグでは、母親が言う「女は嫁にゆけばいい」という世間的意見に反発している。眼鏡っ娘たちは、世間が圧力をかけてくる「女」のイメージに反発している。彼女たちの眼鏡は、自分の心を世間の圧力から守るバリケードなのだ。しかしそれにも関わらず、彼女たちの心と体は自然と「大人の女」へと変化していく。そして女性の体は、ある時期に至れば不可逆的に大人になったということを自覚させるような仕組みにできている。その心と体の危ういアンバランスが同居した存在を「少女」と呼ぶのであれば、清原なつのほど「少女」を描ききった作家は他にいないのではないか。

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092_04清原なつのと同時代の『りぼん』では、田渕由美子・太刀掛秀子・陸奥A子など「乙女チック」が活躍していた。「乙女チック」にもそれぞれ個性があるが、ここで描かれる「少女」は共通して観念論的だ。悪い意味で言っているわけではなく、それぞれ観念論的に完成度が高いことは本コラムでも解説してきた(端的に言えば「眼鏡っ娘起承転結理論」はまさにドイツ観念論、特にヘーゲル弁証法に比定できるということ)。それに対して清原なつの作品には、一つとして「眼鏡っ娘起承転結理論」に当てはまる作品が存在しない。それは清原なつの作品が観念論を採用せず、常に身体性を伴いながら物語を紡いでいることを意味する。清原なつの作品から匂い立つ「性」の源泉は、観念論を拒否した身体性にある。そうしてみると、彼女たちがかけている眼鏡は、世間の圧力からのバリケードであると同時に、彼女たちの身体を内側から変化させる力をなんとか押しとどめるための抵抗の象徴でもあるだろう。それはつまり、眼鏡が「少女」の象徴であることを意味する。外圧と内圧に挟まれたところに、レンズがある。世間がイメージする「女らしい女になれ」という外圧と、DNAに制御された身体の内側から「女になれ」という内圧、その真ん中に眼鏡のレンズがある。彼女たちの眼鏡は、彼女たちの「少女性」を体現している。「少女」を描く清原なつの作品に眼鏡っ娘がたくさん登場するのは、もはや必然と言える。

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■書誌情報

092_01単行本『花岡ちゃんの夏休み』所収。続編の花岡ちゃんシリーズとして、同単行本所収の「早春物語」と、『3丁目のサテンドール』所収の「なだれのイエス」がある。
初単行本の『花岡ちゃんの夏休み』には花岡ちゃん以外にも眼鏡っ娘がたくさん登場し、清原なつのといえば眼鏡っ娘という印象がついた。りぼんコミックスのほか、ハヤカワコミック文庫にもなっている。

単行本:清原なつの『花岡ちゃんの夏休み』(りぼんマスコットコミックス、ハヤカワコミック文庫)

 

 

 

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第85回:池野恋「ヒロインになりたい」+柊あおい「ペパーミント・グラフィティ」

池野恋「ヒロインになりたい」+柊あおい「ペパーミント・グラフィティ」

集英社『りぼん』1991年1月~3月号 集英社『りぼんオリジナル』1994年6月~12月号

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「オムニバス形式」という言葉がある。マンガに限らず、映画・小説・演劇等、フィクションに見られる様式の一つだ。主人公が異なるいくつかの独立した短編が連続する一方で、それらの短編すべてを通じて全体として世界観が一つにまとまっているようなフィクションを「オムニバス」と呼んでいる。主人公視点が複数存在することにより、一つの世界を多面的に見ることが可能になる創作様式だ。複数視点がもたらす文学的効果は芥川龍之介「藪の中」等に典型的に認めることができるが、その効果は少女マンガの中で独特な進化を遂げていく。特に我々が注目すべきなのは、少女マンガで進化したオムニバス形式においては、複数主人公のうち一人が眼鏡っ娘!というケースが非常に多いということだ。というか、オムニバス形式の本質を理解しようと思ったら、まずは眼鏡っ娘について理解しなければならない。眼鏡は全てに通ずる。今回紹介する2つのオムニバス形式の作品も、もちろん複数主人公のうち一人が眼鏡っ娘という作品だ。

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池野恋は、1980年代半ばから90年代にかけて『りぼん』の看板を張った作家。そして代表作「ときめきトゥナイト」連載中に描いたオムニバス形式の作品が、この「ヒロインになりたい」だ。主人公は3人いて、そのうち一人が眼鏡っ娘の小園沙夜子ちゃん。高身長に悩む眼鏡っ娘だ(巨大眼鏡っ娘ファンのかたには悲報だが、公式身長は168cmと大台には届かず)。仲良し3人組の女の子が、それぞれ想像していたのとはちょっと違った形で恋に目覚めていく話だ。この作品のオムニバス効果は、「想像とちょっと違った形の恋」というところに顕れている。もしも主人公が一人だけだったら、この「想像とちょっと違った形の恋」という話は、作者が意図した主題だとは分からないだろう。しかし本作は3人の主人公が3人とも「想像とちょっと違った恋」によって幸せになっていく。こうなると、この短編連作の主題がここにあることが明確になる。一話読み切り形式の掲載が多い少女マンガだからこそ、こういった主題の見せ方が発展したと言えるだろう。

もう一作は、80年代半ばの『りぼん』のヒットリーダー柊あおい。代表作「星の瞳のシルエット」も主人公クラスが3人いる物語だったが、こちらはオムニバス形式ではなかった。「ペパーミント・グラフィティ」は、主人公が4人いるオムニバス形式だ。

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本作では、映画製作を通じて4組のカップルが誕生していく。それぞれのカップル誕生の話が1話ずつ、全4話で構成されている。それぞれ個性的なヒロインたちが、その個性にマッチした相手を見つけていく。この作品から受ける「円満感」は、もしも主人公が一人だったら味わうことは難しいだろう。それぞれ個性の異なる4人のヒロインがそれぞれ違った形で幸せになるという結果を、バラバラに感じるのではなく、まとまった一つの世界として一挙に受け止めることができる。これが他の形式では味わえない、オムニバス形式の大きな特徴だ。この形式が少女マンガで独特な発展を遂げたのには、必然的な理由があるだろう。そしてヒロインの中にだいたい一人は眼鏡っ娘がいるという事実にも、なにか世界の真実が秘められているだろう。この事情については、さらに他の作品を見る中で考えていきたい。

 

■書誌情報

085_05両作とも電子書籍で読むことができる。
柊あおい『ペパーミント・グラフィティ』の眼鏡っ娘は、白黒だと分かりにくいが、カラーで見ると鼈甲ぶちであるように見える。マンガで鼈甲ぶちというのは極めてレアなので、ぜひ注目したい点だ。

Kindle版:池野恋『ヒロインになりたい』(りぼんマスコットコミックスDIGITAL)
Kindle版:柊あおい『ペパーミント・グラフィティ』(りぼんマスコットコミックスDIGITAL)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第55回:田渕由美子の眼鏡無双

田渕由美子の眼鏡無双

田渕由美子「百日目のひゃくにちそう」集英社『りぼん』1978年9月号
田渕由美子「夏からの手紙」集英社『りぼん』1979年8月号
田渕由美子「珈琲ブレイク」集英社『りぼんオリジナル』1982年冬の号
田渕由美子「浪漫葡萄酒」集英社『りぼんオリジナル』1983年秋の号

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055_02田渕由美子の眼鏡は止まらない。
単行本『夏からの手紙』と『浪漫葡萄酒』は表紙が眼鏡っ娘のうえに、それぞれ4作収録のうち2作の主人公が眼鏡っ娘。まさに眼鏡無双。もちろん、眼鏡を外して美人になるなどという物理法則に反する描写は一切ない。ここまでくれば、意図的に眼鏡を描いていると考えて間違いない。

1970年代後半の『りぼん』でトップを張った作家がこれほどまでに大量の眼鏡っ娘作品を描いていたことは、歴史の事実としてしっかり押さえておきたい。少女マンガの王道とは「眼鏡を外して美人になる」のではなく、「眼鏡のまま幸せになる」のだと。「少女マンガでは眼鏡を外して美人になる」など、少女マンガを読んだことのない人間が垂れ流す悪質なデマに過ぎない。田渕由美子の作品を読めば、何が正しい眼鏡なのかは火を見るよりも明らかなのだ。
もちろん眼鏡に優しかったのは田渕由美子だけではない。同時代『りぼん』で活躍した陸奥A子と太刀掛秀子も「眼鏡を外して美人」なんてマヌケな作品は一つたりとも描いていない。『りぼん』以外の雑誌でも、明らかに田渕由美子の影響を受けたと思われる眼鏡っ娘作品を多く見ることができる。『マーガレット』の緒形もり、『フレンド』の中里あたるなど、乙女チック眼鏡を描いた作家については、また改めて見ることにしよう。

さて、1978年9月「百日目のひゃくにちそう」は、引っ込み思案で「泣きべそ顔が印象的」と言われてしまう眼鏡っ娘が主人公。恋人だった支倉くんが交通事故で死んでしまった後、声がそっくりの植木屋さんと新しい恋に踏み出すお話。ふわふわの髪型と眼鏡がとっても素敵。

055_041979年8月「夏からの手紙」は、あだなが「委員長」の眼鏡っ娘が主人公。作中でもT大文学部に進学している。田渕由美子のヒロインは、他の『りぼん』作品と違って、大学生や予備校生が主役であることが多いのが印象的。で、このメガネ委員長が、まさにツンデレの中のツンデレ。高校の時には片想いで告白できなかった相手に憎まれ口ばかり叩いてしまっていたメガネ委員長は、大学に進学してから偶然その相手と出会う。ここからのデレかたがかわいすぎる。大学生になってからも「委員長」と呼ばれてしまう眼鏡っ娘が素直になるところは、読んでいるこっちもニッコリしてしまう。

055_051982年冬「珈琲ブレイク」は、中学生から7年間もずっと片想いを続けている眼鏡っ娘が主人公。恋の話をするときに顔が真っ赤になる眼鏡っ娘がかわいすぎる。そして片想いをふっきって、新しい恋に踏み出していく心の動きが丁寧に描かれている。
眼鏡っ娘の新しい恋の相手暮林くんが二人称で「オタク」という言葉を使っているけれど、もちろんこれは二次元が好きな人という意味での「オタク」ではなくて、単なる二人称。二次元が好きな人たちが好んで相手のことを「オタク」と呼んでいたからその名をつけたと言われているけれど、実はそれは誤解に基づいた命名だったといえる。田渕由美子や新井素子の作品を読めばすぐに分かるのだが、「オタク」とは1970年代の大学サークル界隈で使用されていた二人称だ。「二次元が好きな人たちがオタクという二人称を好んで使っていた」と主張する人々は、単に1970年代の大学サークル文化を知らないだけという可能性がかなり高い。

そして、『りぼん』時代最後の眼鏡っ娘作品となった『浪漫葡萄酒』は、眼鏡的にかなり考えさせられる作品だ。というのも、ダテメガネだからなのだが、さすが田渕由美子だけあって、そのダテメガネぶりが他の作家とはまったく違っている。ダテメガネといえば、普通はアイドルや芸能人が自分を隠すために使うアイテムとして認識されている。しかし田渕由美子は違う。「眼鏡をかけたほうがかわいい」から眼鏡をかけて写真モデルになって、大売れしているというダテメガネなのだ!

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ダテメガネで大ブレイクする写真モデル。これが平成の世なら、時東ぁみなどの実例があるから、ダテメガネで芸能人を売り出すってネタも理解できなくはない。しかしこの作品が発表された1983年とは、プラザ合意前の昭和どまんなかの時代だ。この時代に眼鏡をかけたほうがカワイイからダテメガネで写真モデルって。実際に眼鏡アイドル板谷祐美子を擁するセイント・フォーがデビューするのは、この作品が発表された翌年のことだった。あまりにも、早すぎる。本当にすごい。田渕由美子、すごすぎる眼鏡力。

■書誌情報

「百日目のひゃくにちそう」と「夏からの手紙」は単行本『夏からの手紙』に所収。「珈琲ブレイク」と「浪漫葡萄酒」は単行本『浪漫葡萄酒』に所収。全作品集は全4巻で計画されていたが、2巻で出版が止まったので、本作は収録単行本で読むしかない。が、『夏からの手紙』のプレミアが半端ない。素晴らしい眼鏡っ娘が多いので、読みやすい環境になってほしいなあ。

単行本:田渕由美子『夏からの手紙』(りぼんマスコットコミックス、1982年)

単行本:田渕由美子『浪漫葡萄酒』(りぼんマスコットコミックス、1983年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第54回:田渕由美子「聖グリーン★サラダ」

田渕由美子「聖グリーン★サラダ」

集英社『りぼん』1975年12月号

日本人が知っておくべき「新・3大 田渕由美子の”乙女チック”眼鏡っ娘マンガ」、最後は『りぼん』1975年12月号に掲載された「聖グリーン★サラダ」です。この作品で「眼鏡っ娘起承転結理論」が決定的な形で完成します。

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まず有権者に訴えたいのは、『りぼん』本誌で田渕由美子の乙女チック人気が爆発したのは1976年はじめだということ。ということは、つまり1975年12月号に発表された本作が、乙女チック人気を決定づけたということ。そしてその作品こそが、まさしく「眼鏡っ娘起承転結理論」の完成形だったということであります。

主人公の「ありみ」は眼鏡っ娘。雅志と一緒にくらしております。しかし雅志と恋人関係というわけではなく、実はありみのお姉さんが雅志と結婚したのですが、そのお姉さんが死んでしまったため、雅志とありみが二人で生活しているのであります。そんな二人の生活の中で、なんということでありましょうか、ありみは眼鏡をかけません。そこで雅志は、男らしく言うのであります。「いつもメガネをかけていたほうがいいね」と。

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しかし、ありみは何故か眼鏡をかけることを断固拒否。「美貌をそこねる」という理由に、我々は不穏な空気を感じて不安になるのであります。しかし実は「美貌をそこねる」という理由は、言い訳にすぎず、本当の理由ではなかったのであります。

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054_03そう。実は、ありみは死んだお姉さんの真似をしていたのであります。奥さんが死んでしまって悲しんでいる雅志のために、お姉さんの代わりになろうと考えていたのであります。なんと健気な眼鏡っ娘。ありみは、雅志がいないところではしっかりと眼鏡をかけているのであります。

雅志は、そんなありみの心遣いによって、心が癒されていきます。お姉さんが生きていたころとまったく変わらない自然な生活。以前と変わらない朝の献立。雅志はありみと結婚してもいいとまで思います。眼鏡っ娘は、眼鏡を外すことによって、愛を獲得したかのように見えるのであります。

しかし、お姉さんの身代わりになって獲得した愛など、まやかしの愛にすぎないのであります。

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おせっかいなおばさんが雅志の元にお見合いの話を持ってくるのですが、ありみと結婚してもいいなどと言って何も気づいていなかった雅志に真実を告げるのであります。ありみがどうして眼鏡をかけようとしなかったのか。さすがに雅志も悟るのであります。

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ありみを縛っていたことに気がついた雅志は、おばさんの持ってきたお見合いに行くことを承諾。二人の不自然な生活に終止符を打つことを決意するのであります。
しかしありみはそれを受け入れることができないのであります。ありみは単にお姉さんの身代わりをして雅志を癒したかったのではなく、本気で雅志のことを好きになっていたのであります。身代わりでいいから少しでも一緒にいたいと思って、必死の思いで眼鏡を外していたのであります。しかし、それがマヤカシの愛にすぎないことに、眼鏡っ娘も気が付いていたのであります。
そこで、眼鏡っ娘は、「ほんとうのわたし」を取り戻すために、ついに眼鏡をかけるのでありました。いよっ、待ってました!

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眼鏡をかけて、ショートカット。朝ごはんの献立も、お姉さんが得意だった洋食ではなく、和食を作るようになるのであります。そんなありみを、雅志は「メガネもよくにあってる」と、しっかり受け止めるのであります。

054_08そして雅志は、お姉さんの身代わりではない、本当のありみと結婚することを決意するのであります。そのときの眼鏡っ娘の表情が、実に素晴らしいのであります。尊い涙なのであります。

眼鏡っ娘マンガ研究家のはいぼくは、言うのです。この作品は、「眼鏡のON/OFF」と「恋愛のON/OFF」が明確に構造化されたうえで、「起承転結」の流れが作られているのだ、と。そしてそれこそが乙女チック少女マンガが作り上げた、人類史上に誇るべき偉大な創作なのだ、と。この作品を読んだ後は、「眼鏡を外して美人」などという作品はジュラ紀に描かれたのかと思えるほど時代錯誤のクソタワケに見えるのだ、と。
その構造を表にすると、起承転結の流れが一目瞭然。

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眼鏡は「かけている/かけていない」のように0か100かのデジタルな性質を持っている特異なアイテムであって、それを「愛」の状態とリンクさせることによって起承転結の物語構造を簡潔に構成することができるのであります。田渕由美子はこれを最も説得力ある形で表現することに成功し、だからこそ時代の最先端を走る作家として絶大な人気を獲得したのであります。

というわけで、この作品を「新・3大 田渕由美子の”乙女チック”眼鏡っ娘マンガ」のひとつとさせていただきます。ご清聴、ありがとうございました。

■書誌情報

054_01あんのじょう、収録単行本はプレミアがついてしまっていて、すこしだけ入手難度は高め。眼鏡っ娘マンガの正典に位置づくべき最重要の作品なので、広く読まれるような状況になってほしいなあ。

単行本:田渕由美子『あのころの風景』(りぼんマスコットコミックス、1982年)

愛蔵版:『田渕由美子全作品集 I 摘みたて野の花』(南風社、1992年)

 

 

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この眼鏡っ娘がすごい!第52回:田渕由美子「ローズ・ラベンダー・ポプリ」

田渕由美子「ローズ・ラベンダー・ポプリ」

集英社『りぼん』1977年8月号

日本人が知っておくべき新・三大「田渕由美子の”乙女チック”眼鏡っ娘マンガ」、まず一つ目は1977年『りぼん』8月号に掲載された「ローズ・ラベンダー・ポプリ」です。この作品では乙女チックの最重要概念である「ほんとうのわたし」が、ストレートに表現されている様子を見ることができます。ご覧ください。

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052_01まず有権者に訴えたいのは、田渕由美子が1970年代後半の集英社『りぼん』の看板作家だったということ。その証拠に、田渕由美子は『りぼん』の表紙を何度も担当するのであります。そのデータは、右に掲げた表に一目瞭然。大人気の田渕由美子は、同時期に『りぼん』で活躍した陸奥A子と太刀掛秀子と合わせて「乙女ちっく」と呼ばれ、少女マンガの新時代を牽引した中心作家だったのであります。
そんな田渕由美子の武器は、もちろん「眼鏡」。集英社『りぼん』レーベルから出ている単行本は7冊でありますが、なんとそのうち3冊の表紙が眼鏡っ娘。眼鏡っ娘が43%も表紙を飾るとは、同時期の少女マンガの常識では考えられない、圧倒的な眼鏡力なのであります。りぼん本誌の表紙にはさすがに眼鏡っ娘は少ないものの、1980年に担当した『りぼんオリジナル』の表紙は、なんと5回のうち4回が眼鏡なのであります!

052_02そんな田渕由美子が乙女チック人気絶頂時に発表したのが、この「ローズ・ラベンダー・ポプリ」であります。ヒロインの眼鏡っ娘・中里麦子ちゃんは、周囲からはちょっと風変わりな女の子だと思われているけれど、もうそんなのは慣れっこ。ここで注目していただきたいのは、「わたしのことをわかってくれる人なんてこの世に一人いればそれで十分よ」というセリフであります。これがそれ以前の少女マンガと乙女チックマンガとで決定的に異なる重要ポイントなのであります。従来の少女マンガのヒロインは、全ての人に愛されるようなキャラクターでありました。しかし眼鏡っ娘は、「万人うけ」を断固拒否。「ほんとうのわたし」を貫くことを決意しているのであります。これこそが田渕由美子の乙女チックの真骨頂であり、さらに言えば「眼鏡」が象徴しているのがまさに「ほんとうのわたし」なのであります。「ほんとうのわたし」とは眼鏡をかけているわたしのことであって、そんな私を眼鏡のままに「わかってくれる人」を眼鏡っ娘は待っているのであります。眼鏡を外して「ほんとうのわたしデビュー」などと言っているクソタワケには、田渕由美子の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいのであります。

しかしそんな眼鏡っ娘の態度は、外部には「素直じゃない」とか「意地っぱり」などと受け止められてしまうのであります。本当は眼鏡っ娘もコンプレックスを抱いているのであります。幼馴染の幾島静は、イケメンで頭もよく、そして優しい男の子。密かに幾島くんに恋している眼鏡っ娘は、コンプレックスのために告白することもできずに意地を張ってしまうのであります。「ツンデレ」と「意地っぱり」の違いは、このコンプレックスの有無にあります。コンプレックスゆえに素直になれない意地っ張ぱりの眼鏡っ娘を、しかし最後は幾島くんが受け止めるのであります。眼鏡っ娘を眼鏡のまま受け止めてあげられる男こそが、本当のヒーロー、乙女チックマンガのヒーローにふさわしいのであります! 眼鏡を外さないと女を受け入れられない男は、ただの外道だから地獄に落ちればいいのであります!

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最後に素直になれた眼鏡っ娘の涙は、本当に心を打つのであります。コンプレックスを解消するのではなく、それもまた自分の一部であると素直に受け入れることによって、眼鏡っ娘は眼鏡のままに幸せになるのであります。
はいぼくは言うのです。眼鏡というアイテムは「ほんとうのじぶん」という概念と結びつけられることによって、ついに思想の域に達した、と。そして、田渕由美子こそ、眼鏡を単なる外見上のアイテムから少女のアイデンティティを表現する思想へと高めた作家なのだ、と。
というわけでこの作品を、新・3大「田渕由美子の”乙女チック”眼鏡っ娘マンガ」のひとつとさせていただきます。

■書誌情報

人気作家だったので入手先としていくつかの選択肢があるが、残念ながらどれもこれもプレミアがついていて、入手難度はちょっと高め。

単行本:田渕由美子『フランス窓便り』(りぼんマスコットコミックス、1978年)

文庫本:田渕由美子『林檎ものがたり―りぼんおとめチックメモリアル選』(集英社文庫―コミック版、2005年)

愛蔵版:『田渕由美子作品集★1フランス窓便り』(南風社、1996年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第48回:柊あおい「星の瞳のシルエット」

柊あおい「星の瞳のシルエット」

集英社『りぼん』1985年~89年

048_02脇役だからこそ、ひときわ輝く眼鏡っ娘がいる。本作の眼鏡っ娘、沙樹ちゃんは、その代表といえよう。この沙樹ちゃんのおかげで眼鏡DNAが覚醒した者も多い。たとえば、眼鏡友の会/E.Cとか。

さて、 香澄、真理子、眼鏡っ娘の沙樹は、仲良し三人組。いちおう主人公は香澄ちゃんだが、顔がかわいい以外にはたいした取柄がない。そんな香澄ちゃんには久住くんという運命の相手がいるのだが、その久住君を真理子が好きになってしまう。要するに三角関係。そこにプレイボーイの司くん(眼鏡っ娘の幼馴染)が香澄ちゃんを狙って割り込んできた。眼鏡っ娘は、外部から冷静な批評者として行動することになる。

まあ結果としては香澄と久住くんがカップルになるのだが、そんなことはどうでもよい。香澄と久住くんは、よくもまあ連載5年、単行本10巻分も、モヤモヤの関係を続けられたもんだ。見ているこっちの方がイライラする。そう、読者の立場からして、香澄ちゃんにちっとも感情移入できないのだ。一方の真理子にもイライラする。いいかげん、自分の立ち位置に気づけよ!という。感情優先の真理子にもイライラするし、道徳優先の香澄にもイライラする。そこで燦然と輝くのが、もっとも理知的な眼鏡っ娘なのだ。いや、もはや人間として尊敬できる対象が、眼鏡っ娘しかいないのだ。香澄と真理子だけではちっとも進まなかったストーリーが、眼鏡っ娘が出てきた途端に見通しが良くなる。話がすっきりして、気持ちもハレバレする。眼鏡っ娘カタルシス。こうして我々は眼鏡っ娘にハマっていく。

このシステムを、私は「キャラクター有機体構造」と呼んでいる。主人公クラスの登場人物が3人以上いる場合、それぞれのキャラクターに代表的な価値観を割り振って、役割を分担させる。もっとも分かりやすいのが、「星の瞳のシルエット」に見られるような「道徳的(香澄)/感情的(真理子)/理知的(沙樹)」という役割分担だ。すると、物語の中で「道徳的な香澄」と「感情的な真理子」が対立することは、一人の人間の心の中で起こる「道徳的な部分」と「感情的な部分」の対立に代入して理解することができる。このシステムを用いることによって、眼には見えない心の中の動きや関係を、物語という形で眼に見えるように明らかにすることが可能となる。このシステムは「星の瞳のシルエット」が初めて開発したわけではなく、今から2300年前のギリシャで活躍した哲学者プラトンが『国家』という本の中で明らかにしている。少女マンガでは1970年代後半から「キャラクター有機体構造」を採用する作品が増加し、1980年代半ばには大きな支持を得るようになる。その発達は、「熱血/クール/チビ/デブ/女」というガッチャマン型有機体構造が「熱血/クール/女」というウラシマン型有機体構造へと洗練される過程と軌を一にしている。さらに1990年代以降、「キャラクター有機体構造」は、ギャルゲーの中で独特な進化を遂げていくことになるだろう。

このような有機体構造において、眼鏡っ娘は一貫して理知的なポジションで働いてきた。有機体構造で動かすキャラクターは、あまり複雑な人格にしないほうがよい。より価値観を純粋に体現したキャラクターであるほど有機体構造の働きが見えやすくなるため、一つのキャラクターの中に複雑な価値観は同居させないほうが物語はうまく運ぶ。というとき、ある集団の中に眼鏡は一人、そして理知的なポジションをとるようになる。これは有機体構造を煮詰めた場合の必然的な結果といえる。もっとも煮詰まった形が「星の瞳のシルエット」であり、だからこそ「理知的」な人間は圧倒的に沙樹ちゃんに心惹かれるしかないのだ。ウダウダしている香澄や空気が読めない真理子は、あんぽんたんのウスノロにしか見えない。

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だからというか。沙樹ちゃんが有機体構造から抜け出して独立した一つの人格として行動したとき、それまでの世界がいっぺんに裏返ってしまうような、途方もないカタルシスを味わうことになる。最後まで有機体構造の枠の中で行動した香澄や真理子があくまでも作者の価値観を代表していたのに対し、沙樹だけは個性ある人格となった。「星の瞳のシルエット」は、沙樹の物語なのだ。

■書誌情報

全国250万乙女のバイブルだけあって、たいへんな人気があり、古本で全巻容易に手に入る。

単行本セット:柊あおい『星の瞳のシルエット』全10巻完結セット (りぼんマスコットコミックス)

ところで、「パンをくわえた遅刻少女」について、そんな実例が少女マンガの中に本当にあるかどうか疑っていた時期があったが。はい、ありました。「星の瞳のシルエット」で、沙樹がパンを咥えて登校していた。数万作の少女マンガを読んできた私であるが、実際にパンを咥えて登校するキャラを見たのは、これを含めて2例しかない。新人賞受賞のとき、一条ゆかりに「古臭い」とコメントされただけのことはある、誰にも真似のできないすごいセンスだ。そこにシビれるあこがれる。

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第11回:太刀掛秀子「まりの君の声が」

太刀掛秀子「まりの君の声が」

集英社『りぼん』1980年4月号~12月号

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とにかく絵がかわいい。太刀掛秀子の描く眼鏡っ娘は、可憐だ。一昨年開催したメガネっ娘居酒屋「委員長」に中村博文氏が出演したが、そのときに太刀掛秀子の絵が好きで、練習のお手本にしたと伺った。言われてみれば、確かに髪の毛や植物の繊細な描線やコマ割りなどの画面構成に面影があるような気がしてくる。70年代少女マンガの集大成とでもいえるような繊細かつ華やかな表現技術、特に絶品の眼鏡描写技術の素晴らしさは、今見ても色あせていない。

011_02本作ヒロインの眼鏡っ娘、西崎まりのは、大学生。あたたかく魅力的な声を持つまりのは、人形劇の世界に魅せられていた。メガネくんの部長と一緒に、大学の人形劇サークルで子供たちのために公演を続ける。そんなまりのに次第に惹きつけられていく主人公のよしみ君だったが……。

1970年代後半から80年ごろまで、集英社『りぼん』誌上を「乙女ちっく」が席巻する。特に「乙女ちっく」の中心にいたのが、陸奥A子、田渕由美子、太刀掛秀子の3人だった。特に眼鏡っ娘の歴史を考えたとき、りぼん「乙女ちっく」は決定的な役割を果たしている。本コラムでも「乙女ちっく」の意義については繰り返し言及することになるだろう。
本作は、「乙女ちっく」が成熟し、作画技術が一つの極点に達したところで描かれている。眼鏡っ娘をヒロインとして9か月間連載されるという、『りぼん』誌上に燦然と輝く眼鏡っ娘マンガの代表作と言ってよいだろう。

011_03しかし同じ「乙女チック」といっても、作風はまったく異なる。陸奥A子は超ポジティブ能天気、田渕由美子は近代的自我の萌芽、太刀掛秀子は繊細シリアス。この作品も、キャラクターの内的な葛藤を繊細に描ききることで、読んでいる最中に身悶えしてしまうような作品に仕上がっている。

そんなわけで、すかっとした娯楽を求めている人には太刀掛秀子作品はお勧めしにくいのだが、キャラクターの葛藤に付き合って一緒に泣いたり笑ったり、じっくり作品を読もうという人には、ぜひ手に取ってほしい作品だ。

■書誌情報

単行本は全2巻。現在、単行本は手に入りにくいが、文庫版(全1巻)はおそらく容易に手に入る。

文庫版:太刀掛秀子『まりのきみの声が』 (集英社文庫)

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