この眼鏡っ娘マンガがすごい!第97回:吉田まゆみの眼鏡無双

吉田まゆみ「おはようポニーテール」講談社『週刊フレンド』1977年1号~4号
吉田まゆみ「からふるSTORY」講談社『週刊フレンド』1977年9号~23号
吉田まゆみ「センチメンタル」講談社『月刊ミミ』1978年3月号
吉田まゆみ「れもん白書」講談社『月刊ミミ』1979年1月~12月号
吉田まゆみ「ボーイハント」講談社『週刊フレンド』1980年13号~16号

さて、前回の吉田まゆみ「アイドルを探せ」でメインヒロインがカラッポであることを強調したが。実は吉田まゆみ作品の神髄は代表作だけ見ていてもわからない。まずは1970年代後半に吉田まゆみが眼鏡無双していたことをしっかり見ておきたい。
まず事実として指摘しておきたいことは、吉田まゆみは眼鏡っ娘とメガネくんのカップルを極めて大量に描いていることだ。そもそもメガネくんの登場率自体が非常に高いのだが、その相手が眼鏡っ娘であることが多いのは強い印象を与える。そしてそのメガネくんと眼鏡っ娘のカップルが、メインヒロイン絡みではなく「脇筋」であることも印象的な事実である。
たとえば「おはようポニーテール」の脇役眼鏡っ娘エンちゃんのエピソードは強く心に残る。メガネくんの「オワリくん」が眼鏡っ娘エンちゃんのことを大好きなのだが、クラスメイトにそれをからかわれて、エンちゃんはつい憎まれ口を叩いてしまう。

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097_05この「メガネをかけてる人はイヤよ」というセリフは、本当に衝撃的だ。あなたこそメガネじゃないかと即座にツッコミを入れたくなるわけだが、もちろん作中でもツッコまれている。このセリフにショックを受けたオワリくんは、自らメガネを壊してしまう。メガネを壊すことは、自らの目を潰すことの象徴である。オワリくんがどれほどのショックを受けたか。眼鏡っ娘から「メガネをかけてる人はイヤよ」なんて言われてたら、私でも自ら眼を潰してしまいそうだ。
しかしエンちゃんは反省して、オワリくんに謝罪する。そのときに自作の「メガネケース」を作ってプレゼントするところが素晴らしい。眼鏡っ娘から自作のメガネケースをプレゼントされた日には、昇天確実だ。メガネケースとは、眼鏡を包むものだ。自分の意志の分身である眼鏡を「包まれる」となれば、フロイトならずともその性的な意味を想起せざるを得ない。右に引用したプレゼントの場面を見ていただきたい。オワリくんは、もはや絶頂している。こうして二人は、眼鏡と眼鏡のナイスカップルになるのだった。

もうひとつ、吉田まゆみ眼鏡の具体的な例を見てみよう。「からふるSTORY」と、その続編「ぐりーん・かれんだあ」に登場する眼鏡っ娘エミちゃんのエピソードは、本当に素晴らしい。まずエミちゃんはショートカットで一人称が「ボク」のボーイッシュな眼鏡っ娘だ。この眼鏡っ娘がメインヒロインの兄と付き合っているのだが、この兄もメガネくん。ここでもやはりメガネくんと眼鏡っ娘のカップルなのだ。
「からふるSTORY」では、まずメインヒロインの視力が低下するエピソードが描かれる。ここでヒロインは眼鏡をかけるのを嫌がるのだが、メガネくんのお兄さんは、「おれ……メガネかけてる子すきだぜ」と言う。

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097_02このお兄さん、どこからどうみても完璧なメガネスキーだ。そして実際にお兄さんが家に連れてきて紹介した彼女が、眼鏡っ娘のエミちゃんだった。最初は眼鏡っ娘を受け入れることができなかった主人公だが、眼鏡っ娘の心温かさに触れて、お兄さんとの交際を認めるようになっていく。
続編では、エミちゃんとお兄さんの「キス」が話題となる。ヒロインは「おにいちゃんとのキス、メガネはじゃまにならなかったの?」と興味津々でエミちゃんに質問する。それに対するエミちゃんの答えがすごい。「じつをいうとカチッとぶつかりまして、以来……」と言って、唇を抑える。エロい。そして、キスのときに眼鏡と眼鏡カチッとぶつかって以来、いったいどうなったかは作中では何も描かれない。読者の想像にお任せという形になっている。となれば、キスをするときに一度カチッと眼鏡と眼鏡がぶつかってから、それ以来、キスするときは必ず眼鏡と眼鏡をぶつけているとしか思えないではないか!

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キスのときに眼鏡と眼鏡がぶつかることをエピソードにしているのは、竹本泉「アップルパラダイス」や岸虎次郎「マルスのキス」など眼鏡名作に多いわけだが、この眼鏡同士の接触を最初にエピソードにしたのは管見の限り吉田まゆみが最も早い。いかに吉田まゆみが眼鏡に対して意識的だったかが分かろうというものだ。

吉田まゆみはこのような眼鏡エピソードを、1970年代後半に立て続けに発表している。この時期は、集英社『りぼん』では乙女ちっくが大流行し、田渕由美子が「乙女ちっく眼鏡っ娘・起承転結構造」を集大成した時期と完全に一致する。しかし吉田まゆみは、それとは異なる様式の眼鏡を描き続けた。それは1978・79・80年に立て続けに発表された作品の表紙イラストに象徴的に示されている。

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78年「センチメンタル」、79年「れもん白書」、80年「ボーイハント」は、そのすべてにおいて表紙に複数の女の子が描かれ、そしてそのうちの一人が眼鏡っ娘だ。作品の中身も、「主要登場人物が3人以上いるときに、そのうち一人が眼鏡」という様式を採用している。これは柊あおい「星の瞳のシルエット」やCLAMP「魔法騎士レイアース」において見られる形式であることは既に指摘してきた。吉田まゆみは、りぼんで「乙女ちっく起承転結構造」が完成に向かう傍らで、実はこの「眼鏡っ娘有機体構造」を独自に展開させていたのだ。
このように吉田まゆみが70年代後半から「眼鏡っ娘有機体構造」を発展させていたことを踏まえて、初めて1984年「アイドルを探せ」の構造を見通すことが可能となる。「乙女ちっく起承転結構造」が近代的自我の物語である一方、「眼鏡っ娘有機体構造」はポストモダンの性格を色濃く示している。ポストモダンでは、近代的自我を必要とせずにシステムが自動進行する。主人公の自我がカラッポであっても、キャラクターの役割分担とシステム配置を適切に設計すれば、自動的に物語が紡ぎだされていく(ポストモダン概念でいうところの、オートポイエシスだ)。吉田まゆみ1970年代後半から試みていたのは、近代的自我を中核とする「眼鏡っ娘起承転結構造」とはまったく異なる眼鏡構造である「眼鏡っ娘有機体構造」だったのだ。「アイドルを探せ」のメインヒロインがカラッポであることは、ポストモダンと近代的自我の関係において理解するべき事態なのだ。
しかし一方で思い返してみれば、柊あおい「星の瞳のシルエット」のメインヒロインがちょっと顔がカワイイだけの極めてつまらない女であることと、吉田まゆみ「アイドルを探せ」のメインヒロインがちょっと顔がかわいいだけの極めてつまらない女であることは、両作が同じ構造であることを示している。そして「星の瞳のシルエット」が最終的には眼鏡っ娘の物語であったのと同様、「アイドルを探せ」は最終的に眼鏡っ娘の物語であった。ポストモダンが近代的自我を排除しようと、眼鏡は眼鏡そのものの力(見る意志)によって、物語を引き寄せているのだ。

■書誌情報

電子書籍で読むことができる作品が多い。また、脇筋でメガネくんと眼鏡っ娘がカップルになるのは、講談社『キャンディ・キャンディ』の伝統として理解するべき事態かどうか、検討事項だ。

Kindle版:吉田まゆみ『おはようポニーテール』
単行本:吉田まゆみ『からふるSTORY』(フレンドKC)
単行本:吉田まゆみ『センチメンタル』(MiMiKC)
Kindle版:吉田まゆみ『れもん白書』(1)
Kindle版:吉田まゆみ『ボーイハント』

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第92回:清原なつの「花岡ちゃんの夏休み」

清原なつの「花岡ちゃんの夏休み」

集英社『りぼん』1977年8月号

092_02全てのマンガ家は一人一人かけがえのない個性を持っていて、誰もが交換の効かない存在ではあるけれども、やっぱりその中でも特に際立って特別な存在感を放つ作家がいる。清原なつのは、そういう作家の一人だろう。その理由の一つは、おそらく「性」の匂いにあると思う。特に『りぼん』という少女誌で徐々に性の匂いが排除されていくなかで(まあ一条ゆかりという鬼才は別として…)、清原なつの作品が醸し出す「性」の匂いは鼻腔の奥に残る。
そんな清原なつのが眼鏡っ娘を大量に描いているのは、おそらく偶然ではない。清原なつの作品の眼鏡っ娘を通覧して気がつくのは、共通して「大人の女になることを拒否している」ということだ。ただ「大人になる」ことを拒否しているのではなく、「大人の女になる」ことを拒否しているのだ。右の引用図のモノローグでは、母親が言う「女は嫁にゆけばいい」という世間的意見に反発している。眼鏡っ娘たちは、世間が圧力をかけてくる「女」のイメージに反発している。彼女たちの眼鏡は、自分の心を世間の圧力から守るバリケードなのだ。しかしそれにも関わらず、彼女たちの心と体は自然と「大人の女」へと変化していく。そして女性の体は、ある時期に至れば不可逆的に大人になったということを自覚させるような仕組みにできている。その心と体の危ういアンバランスが同居した存在を「少女」と呼ぶのであれば、清原なつのほど「少女」を描ききった作家は他にいないのではないか。

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092_04清原なつのと同時代の『りぼん』では、田渕由美子・太刀掛秀子・陸奥A子など「乙女チック」が活躍していた。「乙女チック」にもそれぞれ個性があるが、ここで描かれる「少女」は共通して観念論的だ。悪い意味で言っているわけではなく、それぞれ観念論的に完成度が高いことは本コラムでも解説してきた(端的に言えば「眼鏡っ娘起承転結理論」はまさにドイツ観念論、特にヘーゲル弁証法に比定できるということ)。それに対して清原なつの作品には、一つとして「眼鏡っ娘起承転結理論」に当てはまる作品が存在しない。それは清原なつの作品が観念論を採用せず、常に身体性を伴いながら物語を紡いでいることを意味する。清原なつの作品から匂い立つ「性」の源泉は、観念論を拒否した身体性にある。そうしてみると、彼女たちがかけている眼鏡は、世間の圧力からのバリケードであると同時に、彼女たちの身体を内側から変化させる力をなんとか押しとどめるための抵抗の象徴でもあるだろう。それはつまり、眼鏡が「少女」の象徴であることを意味する。外圧と内圧に挟まれたところに、レンズがある。世間がイメージする「女らしい女になれ」という外圧と、DNAに制御された身体の内側から「女になれ」という内圧、その真ん中に眼鏡のレンズがある。彼女たちの眼鏡は、彼女たちの「少女性」を体現している。「少女」を描く清原なつの作品に眼鏡っ娘がたくさん登場するのは、もはや必然と言える。

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■書誌情報

092_01単行本『花岡ちゃんの夏休み』所収。続編の花岡ちゃんシリーズとして、同単行本所収の「早春物語」と、『3丁目のサテンドール』所収の「なだれのイエス」がある。
初単行本の『花岡ちゃんの夏休み』には花岡ちゃん以外にも眼鏡っ娘がたくさん登場し、清原なつのといえば眼鏡っ娘という印象がついた。りぼんコミックスのほか、ハヤカワコミック文庫にもなっている。

単行本:清原なつの『花岡ちゃんの夏休み』(りぼんマスコットコミックス、ハヤカワコミック文庫)

 

 

 

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この眼鏡っ娘がすごい!第52回:田渕由美子「ローズ・ラベンダー・ポプリ」

田渕由美子「ローズ・ラベンダー・ポプリ」

集英社『りぼん』1977年8月号

日本人が知っておくべき新・三大「田渕由美子の”乙女チック”眼鏡っ娘マンガ」、まず一つ目は1977年『りぼん』8月号に掲載された「ローズ・ラベンダー・ポプリ」です。この作品では乙女チックの最重要概念である「ほんとうのわたし」が、ストレートに表現されている様子を見ることができます。ご覧ください。

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052_01まず有権者に訴えたいのは、田渕由美子が1970年代後半の集英社『りぼん』の看板作家だったということ。その証拠に、田渕由美子は『りぼん』の表紙を何度も担当するのであります。そのデータは、右に掲げた表に一目瞭然。大人気の田渕由美子は、同時期に『りぼん』で活躍した陸奥A子と太刀掛秀子と合わせて「乙女ちっく」と呼ばれ、少女マンガの新時代を牽引した中心作家だったのであります。
そんな田渕由美子の武器は、もちろん「眼鏡」。集英社『りぼん』レーベルから出ている単行本は7冊でありますが、なんとそのうち3冊の表紙が眼鏡っ娘。眼鏡っ娘が43%も表紙を飾るとは、同時期の少女マンガの常識では考えられない、圧倒的な眼鏡力なのであります。りぼん本誌の表紙にはさすがに眼鏡っ娘は少ないものの、1980年に担当した『りぼんオリジナル』の表紙は、なんと5回のうち4回が眼鏡なのであります!

052_02そんな田渕由美子が乙女チック人気絶頂時に発表したのが、この「ローズ・ラベンダー・ポプリ」であります。ヒロインの眼鏡っ娘・中里麦子ちゃんは、周囲からはちょっと風変わりな女の子だと思われているけれど、もうそんなのは慣れっこ。ここで注目していただきたいのは、「わたしのことをわかってくれる人なんてこの世に一人いればそれで十分よ」というセリフであります。これがそれ以前の少女マンガと乙女チックマンガとで決定的に異なる重要ポイントなのであります。従来の少女マンガのヒロインは、全ての人に愛されるようなキャラクターでありました。しかし眼鏡っ娘は、「万人うけ」を断固拒否。「ほんとうのわたし」を貫くことを決意しているのであります。これこそが田渕由美子の乙女チックの真骨頂であり、さらに言えば「眼鏡」が象徴しているのがまさに「ほんとうのわたし」なのであります。「ほんとうのわたし」とは眼鏡をかけているわたしのことであって、そんな私を眼鏡のままに「わかってくれる人」を眼鏡っ娘は待っているのであります。眼鏡を外して「ほんとうのわたしデビュー」などと言っているクソタワケには、田渕由美子の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいのであります。

しかしそんな眼鏡っ娘の態度は、外部には「素直じゃない」とか「意地っぱり」などと受け止められてしまうのであります。本当は眼鏡っ娘もコンプレックスを抱いているのであります。幼馴染の幾島静は、イケメンで頭もよく、そして優しい男の子。密かに幾島くんに恋している眼鏡っ娘は、コンプレックスのために告白することもできずに意地を張ってしまうのであります。「ツンデレ」と「意地っぱり」の違いは、このコンプレックスの有無にあります。コンプレックスゆえに素直になれない意地っ張ぱりの眼鏡っ娘を、しかし最後は幾島くんが受け止めるのであります。眼鏡っ娘を眼鏡のまま受け止めてあげられる男こそが、本当のヒーロー、乙女チックマンガのヒーローにふさわしいのであります! 眼鏡を外さないと女を受け入れられない男は、ただの外道だから地獄に落ちればいいのであります!

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最後に素直になれた眼鏡っ娘の涙は、本当に心を打つのであります。コンプレックスを解消するのではなく、それもまた自分の一部であると素直に受け入れることによって、眼鏡っ娘は眼鏡のままに幸せになるのであります。
はいぼくは言うのです。眼鏡というアイテムは「ほんとうのじぶん」という概念と結びつけられることによって、ついに思想の域に達した、と。そして、田渕由美子こそ、眼鏡を単なる外見上のアイテムから少女のアイデンティティを表現する思想へと高めた作家なのだ、と。
というわけでこの作品を、新・3大「田渕由美子の”乙女チック”眼鏡っ娘マンガ」のひとつとさせていただきます。

■書誌情報

人気作家だったので入手先としていくつかの選択肢があるが、残念ながらどれもこれもプレミアがついていて、入手難度はちょっと高め。

単行本:田渕由美子『フランス窓便り』(りぼんマスコットコミックス、1978年)

文庫本:田渕由美子『林檎ものがたり―りぼんおとめチックメモリアル選』(集英社文庫―コミック版、2005年)

愛蔵版:『田渕由美子作品集★1フランス窓便り』(南風社、1996年)

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