この眼鏡っ娘マンガがすごい!第96回:吉田まゆみ「アイドルを探せ」

吉田まゆみ「アイドルを探せ」

講談社『Fortnightly mimi』1984年no.4~87年no.21

80年代を代表する少女マンガタイトルだ。懐かしの少女マンガ作品を紹介するガイド本などにも必ず取り上げられる、連載4年、単行本10巻に渡って人気を博したビッグタイトルだ。しかし、だ。この作品の本当の凄さを適切に解説できているガイド本は、皆無だと思う。眼鏡っ娘に着目しなければ、本作の本当の構造は理解できないのだ。

まず本作の何がすごいかというと、主人公(非・眼鏡)がカラッポなのだ。脳みそがカラッポなのだ。奴は何も考えていない。ちょっと顔がかわいいことだけが取柄の、やりたいこともなく、夢もなく、趣味もなく、特技もなく、コンプレックスもなく、具体的な人生の目標など何一つない、ただ単にボーイフレンドがほしいだけの、本当に心底つまらない女が主人公なところが、すごいのだ。注意してほしいのは、私は本作を決してけなしていないところだ。というのは、通常はこういう「カラッポの女」を主人公にして、物語など描けないのだ。物語を描こうと思ったら、普通は、なにかしら主人公に目標なり解決するべき課題などを与えて、起承転結のストーリー構成を考える。どのマンガ教科書にもそう書いてある。マンガの教科書によれば、主人公には強烈な個性が与えられるべきだし、ストーリーにはメリハリのある展開がなければならない。普通はそうでなければ面白い話になどなるわけがない。そのはずなのに、本作にはそれが一切ないのだ。主人公にはまったく個性がなく、ストーリーには何の起伏もない。それにもかかわらず、ちゃんと物語が進行し、おもしろく読める。なんなんだ、これは? 本作は創作のセオリーを外れているにもかかわらず、それでも成立しているところが、ものすごいのだ。

096_01さて、非・眼鏡の心底どうでもいいヒロインの話は、本当にどうでもいい。問題は、脇役で登場した眼鏡っ娘だ。まあ正確には脇役というよりは、柊あおい「星の瞳のシルエット」における沙希ちゃんやCLAMP「レイアース」の鳳凰寺風ちゃんのように、「主要登場人物が3人以上いるとき、ひとり眼鏡」という類型に入るだろう。おおかたの少女マンガガイド本が見落としているのは、この事実だ。おおかたのガイド本は、心底どうでもいい非・眼鏡ヒロインばかり見ていて、眼鏡っ娘を見ていない。これが大問題なのだ。実は、非・眼鏡の心底どうでもいいヒロインが心底くだらないエピソードを繰り広げている最中、眼鏡っ娘のほうは着々と王道少女マンガの恋愛ストーリーを紡いでいるのだ。
眼鏡っ娘の甘露寺恵(かんろじ・めぐみ)は、初登場シーンは本当に酷いものだった。顔だけはちょっとかわいいが心底つまらないメインヒロイン(非・眼鏡)が明るくアッパラパーに振る舞う一方で、眼鏡っ娘は貧乏たらしく惨めなネクラに描かれる。徹底的に惨めに描かれる。このあからさまに噛ませ犬の初登場シーンから、眼鏡っ娘が10巻後に大逆転を演じるとは、誰が予想しただろうか。そう、大逆転するのだ。
096_02非・眼鏡の本当に心底つまらないバカ女のほうは、10巻経ってもまったく成長しない。相変わらず顔だけはちょっとかわいいからいろんな男に声をかけられるが、まったく自分というものの「芯」を欠いているので、いつまでもフラフラしている。短大を卒業して適当に仕事に就いても、やりたいことすら見つからない。アホすぎる。その間に、眼鏡っ娘のほうはマンガ家になるという目標を達成してデビューを果たし、しかも彼氏もつくって、初エッチまで済ませ、同棲にまで進んでいく。この初エッチシーンが、実に美しい。本当に幸福なんだなということがしっかり伝わってくる。お互いの愛情が画面に満ち溢れている、本当に美しいシーンだ。そんな幸せな初体験をした眼鏡っ娘と比較して、メインヒロイン(非・眼鏡)のほうの初体験は、自分というものを持たずに単にその場の雰囲気に流されただけで、まったく深い考えがない場当たり的なもので、心底くだらないのはともかく、まったく学習しないという、どこまで脳みそカラッポなんだということをまざまざと見せつける酷いものに終わっている。

096_03ここまでくると、一つの疑いが浮かび上がってくるのを禁じ得ない。本作の本当の主人公は眼鏡っ娘のほうで、メインヒロインに見えた非・眼鏡の心底つまらないカラッポ女のほうが噛ませ犬だったのではないかと。第1巻で、わざわざ眼鏡っ娘を酷く描いてあたかも噛ませ犬のように見せたのは、実はこの逆転を劇的に描くための伏線だったのではないかと。引用画を比べてほしい。最初の1枚目は、単行本1巻の眼鏡っ娘だ。酷い描き方だ。2・3枚目は、単行本10巻の眼鏡っ娘だ。もはや同一人物とは思えないほど、進化している。進化したのは外面だけではなく、人間としても女としても格段に進歩している。心底つまらないメインヒロインがただの一歩も進歩していないのと比べた時、眼鏡っ娘の魅力が一段と輝くのだ。もはや断言してもいいだろう。本作のメインヒロインは、頭がカラッポでまったく成長しない非・眼鏡のバカ女ではなく、外面的にも内面的にも飛躍的な成長を遂げた眼鏡っ娘なのだ。
ほとんどの少女マンガガイド本は、この事実にまったく触れない。ちゃんとマンガを読まずに適当に文章を殴り書きしているとしか思えない。「アイドルを探せ」は、眼鏡っ娘マンガだ。その証拠にカンロちゃん以外にも主要登場人物として眼鏡っ娘が3人も登場しているのだ。

■書誌情報

単行本10巻。3人の過去を描いた番外編1巻。3年後の世界を描いた続編3巻。3年後の世界でも、やはり心底つまらないカラッポ女はカラッポのままで、ただの一歩も成長していないところが、本当にすごい。一方のカンロちゃんは、やはり、しっかり自立した女へと成長していく。

単行本:吉田まゆみ『アイドルを探せ』全10巻+番外編(講談社コミックス)
文庫本:吉田まゆみ『アイドルを探せ』全6巻(講談社漫画文庫)
続編:吉田まゆみ『夜をぶっとばせ』全3巻(講談社コミックスミミ)

しかし本当に吉田まゆみ作品のメインヒロインのカラッポぶりは徹底していて、「ガールズ」という作品ではついにメインヒロインがカラッポすぎて話が作れなくなり、途中から出てきただけのただの脇役がいつの間にか主人公に躍り出て、当初のメインヒロインは最終回にはただのモブになっているという……ちょっと類を見ない作品が、本当にすごい。いや、けなしているのではなく。本当に卓越したマンガの実力がないと成立しないことであって、他の追随を許さないものすごいことなのだ。だから本当は「メインヒロインのカラッポぶり」について合理的な言語化ができなければ、吉田まゆみ作品をちゃんと語ったことにはならない。だから、メインヒロインをカラッポだからといってただのバカ女と切り捨てるのは、批評的には許されない。が、眼鏡的にはどうでもいいので、切り捨てる。

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第61回:みやぎひろみ「ガラス玉輪舞」

みやぎひろみ「ガラス玉輪舞」

秋田書店『月刊ひとみ』1984年?

061_02繊細な描線で構成された、美しい画面の少女マンガだ。みやぎひろみが引く線は端正で美しく、惚れ惚れする。まんまる眼鏡の描線の美しさよ。
描線の美しさの他に目が吸い寄せられるのは、眼鏡デッサンの正確さだ。少女マンガでよく見られる「貼り付き眼鏡」は、本作では見られない。みやぎひろみの絵は、横顔がとても印象的だ。決定的なコマで横顔のアップになることが多い。正確なデッサンの眼鏡が、端正な画面の印象をさらに強めている。

ヒロインは、高橋槙子14歳中2。全3話で、14歳、16歳、18歳のエピソードが描かれる。恋の相手の頼近くんは、幼稚園からの幼馴染。槙子は幼稚園のころから頼近のことが好きだったのだが、そのときのエピソードが素晴らしい。槙子は幼稚園のときからちゃんと眼鏡をかけているのだ。
しかし相愛だったはずのふたりの関係は、大きくなるにしたがってギクシャクしていく。頼近はノーテンキだし、槙子はなかなか素直になれないのだ。

061_03素直になる勇気を持てなかった眼鏡っ娘だが、頼近の甥っこの赤ん坊の面倒を一緒にみるなかで、たくましく成長している頼近の姿を改めて知る。頑なに過去にとらわれている自分に気がつく。眼鏡っ娘も、少しずつ成長していくのだった。

本作の構成は、いわゆる「乙女チック」ではない。コンプレックスを「ほんとうのわたし」へと昇華していくような物語構成ではない。つまり、一気呵成に物語を急転させる「起承転結」構造というものがない。しかしそれは本作がつまらないということを意味しない。日常のエピソードを丁寧に描き、登場人物たちの感情の起伏をひとつずつ編み上げていくことで、キャラクターに寄り添っているような気持ちにさせてくれる。画面と同様に、物語も端正に作られている。
061_04それゆえに、眼鏡というアイテムに、一切の認識論的な意味が持たされていない。眼鏡っ娘は、単に近眼だから眼鏡をかけているだけであって、物語の都合に合わせて眼鏡を脱着することもない。だからキャラクターの性格にも「眼鏡らしさ」というものがない。それが本作の見所であるとも言える。空気のように眼鏡をかける、それは実は達人の境地だ。キャラクターに眼鏡をかけさせると、ついそれを使って物語を構成したくなったり、つい「眼鏡らしさ」を追求したくなってしまう。その欲求が落とし穴になる場合もある。眼鏡だから、眼鏡。その境地に到達することは、実はなかなか難しい。

みやぎひろみは、本作以外にもたくさん眼鏡っ娘を描いている。中短編集には、収録作中にだいたい一作は眼鏡っ娘マンガが含まれている。質的にも量的にも、極めて重要な眼鏡作家であることに間違いない。残念ながら現在では名前をよく知られているとは言い難いが、ぜひきちんと眼鏡史の中に名前を刻んでおきたい。

 

■書誌情報

061_01本作以外にも良質な眼鏡っ娘作品が多い。「ガラス玉輪舞」は同名単行本に全3話収録。他に、「まりこのま」が同名単行本に収録。「星降る夜に逢いたい」が同名単行本に収録。「月見る月の月」が『魚たちの午後』に収録。どれも眼鏡に認識論的意味を持たせない、端正な画面の端正な眼鏡っ娘物語。

単行本:みやぎひろみ『ガラス玉輪舞』(ひとみコミックス、1984年)
単行本:みやぎひろみ『まりこのま』(MISSY COMICS、1987年)
単行本:みやぎひろみ『星降る夜に逢いたい』(MISSY COMICS、1988年)
単行本:みやぎひろみ『魚たちの午後』(ミッシィコミックス、1988年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第22回:大和和紀「フスマランド4.5」

大和和紀「フスマランド4.5」

講談社『週刊少女フレンド』1984年第3号~第8号

022_01本作は「眼鏡っ娘起承転結理論」の代表と言ってもよい重要作品だ。

(起)全寮制の高校に通う主人公のカチコさんは、超がつくカタブツ眼鏡っ娘ちんちくりん。流行にはいっさい目もくれず、朝は毎日乾布摩擦。同級生はみんなカチコさんのことを時代錯誤の情緒欠陥とバカにしていた。しかし、星也くんだけは、そんなカチコさんをバカにせず、優しく接してくれた。カチコさんのなかに星也くんへの仄かな恋心が芽生える。

(承)そんなカチコさんが生活する女子寮の和室は、実は異世界への入り口になっていた。異世界への扉を開く和歌の暗号を唱えたカチコさんは、「フスマランド」へと吸い込まれていく。そこは隠された願望が実現してしまう世界。なんとカチコさんは超美人になってしまった! フスマランドのイケメンたちと、てんわやわんやの大騒動を引き起こすカチコさん。
022_03このときフスマランドでなくなった眼鏡を探すエピソードは、他に類例がなく、おもしろい。たくさんの眼鏡虫の群れに「直立不動!」と命令すると、カチコさんの眼鏡だけピタっと止まる。眼鏡にも持ち主の人格が沁み込んでいたのだ。

(転)ところが大騒動を繰り広げるうちに、フスマランドの住人たちが現実世界に飛び出し始める。カチコさんが美人になった姿も、星也くんにバレてしまう。星也くんは、そんなカチコさんに幻滅する。「きみはほかの女の子とはちがうと思ってた」から星也くんは眼鏡のカチコさんのことが好きだったのだ。しかし眼鏡を外したいという邪悪な心を抱いたカチコさんに対して「人を見る目のない自分がいやになった」と言って、カチコさんから去っていく。

(結)星也は、実は以前からフスマランドに出入りして、大きな木に変身していた。人間不信になって、静かに暮らしたかったのだ。このままだと、星也くんは永久にフスマランドから出てこない。
そこで、カチコさんは自分の意志でフスマランドの魔力を打ち破り、本当の自分に戻る。眼鏡を取り戻す。

022_04

本当の自分を取り戻し、眼鏡をかけたカチコさんを見て、星也くんも本来の姿を取り戻す。眼鏡こそが「本当の自分」の象徴であり、アイデンティティの源である。眼鏡を失った偽りの姿には、偽りの幸せしかやってこない。「ほんとのあたし」は、眼鏡とともにあるのだ。

巨匠、大和和紀だからこそ、安易に眼鏡を外して美人などというくだらない物語は作らず、「眼鏡っ娘起承転結構造」によって世界の真実を描き出す。邪悪なコンタクトレンズのCMに騙されてはいけない。眼鏡を外すのは起承転結の「承」の段階に過ぎない。その先、必ず「転」で価値観の転回が発生し、「結」で「本当の私」を取り戻すために必ず眼鏡をかけなおすことになるだろう。それが世界の真理だ。

■書誌情報

022_02単行本:大和和紀『フスマランド 4.5』(講談社コミックスフレンド、1985年)

文庫本:大和和紀『フスマランド4.5』(KCデラックス―ポケットコミック、1998年)

人気があって数が大量に出回っているので、古本で手に入りやすい。

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