西川魯介「屈折リーベ」
徳間書店『月刊少年キャプテン』1996年1月~7月号
本作抜きでは眼鏡っ娘マンガの歴史を語ることは不可能な、押しも押されぬ金字塔。本作の凄さについてはあらゆる機会に何度も主張してきたので、ここでは改めて2点に絞ってまとめてみよう。屈折リーベの画期的なところの一つ目は「眼鏡っ娘萌えの全面展開」にあり、二つ目は「萌えを自ら否定してみせたこと」にある。一つ目だけなら「よくできたおもしろい萌えマンガ」になっていたところだが、二つ目があることによって比類ない作品となっている。
(1)眼鏡っ娘萌えの全面展開
眼鏡っ娘のことが好きという主張自体は、本作が初めて試みたわけではない。作品が発表された1995年暮れの段階で、メガネスキーたちの存在自体は各所に確認されている。眼鏡っ娘の素晴らしいところを言語化する試みも既に行われていた。しかし本作が著しく画期的だったのは、「一つの作品のテーマ」として、様々な角度から眼鏡っ娘の素晴らしさをアグレッシブに言語化していったところにある。散発的な言語化も貴重なものではあるが、「一つの作品」としてまとまることによって、主張の純度と説得力が格段に上昇する。
だいたい当時の少年マンガのラブコメというものは、高橋留美子作品を見れば分かりやすいのだが、男のほうがツンデレだったり鈍感だったりすることによって成り立っていた。あるいはBASTARD!やCITY HUNTERに分かりやすく示されているように、主人公が女好きのスケベだが実は一途というところでラブコメが成立することが普通だった。主人公が自分の特殊な一点集中的性癖をアグレッシブに繰り広げるラブコメというもの自体が画期的だったと言える。
主人公・秋保によって言語化された「眼鏡っ娘の素晴らしさ」は、眼が覚めるような鋭さに満ち溢れていた。上に引用した図では、視覚上の素晴らしさが言語化されている。「柔肌と硬質なフレームの調和による至上の美」は、眼鏡っ娘を考える上でスタート地点に置くべき基本事項だ。どうして眼鏡同士のキスが興奮するかなど、この基本事項を踏まえていないと理解できるはずがない。しかしこの眼鏡っ娘の美に関する基礎・基本が明瞭に言語化されるのは、本作が最初だ。
また、眼鏡が単なる外見的な異化効果を発揮するだけでなく、人格にも深く関わってくるという見解が明瞭に示されているのも大きな成果だ。それまでにも眼鏡っ娘に共通して見られる性格(読書好き、大人しいなど)に対する言及は散発的に見られたが、もっと本質的に「人格そのもの」に関わることを言語化したのは著しく画期的な仕事だ。実は篠奈先輩は、よくある眼鏡っ娘の性格とは大きくズレている。大人しくないし、暴力的だし、本をたくさん読んでいるような感じもない。要するに、篠奈先輩はステロタイプ眼鏡っ娘ではない。だから眼鏡の内面性といったときも、それはステロタイプな眼鏡っ娘の性格を指して言っているわけではない。秋保が「かける人間の内面のさらなる延長」というのは、眼鏡っ娘のステロタイプを称揚しているのではなく、眼鏡が「人格性」と深く関わるアイテムであるということを主張している。ステロタイプとは無関係に眼鏡と人格性の関係を打ち出したのは、本作の極めて大きな成果だ。
また、こういうと若干失礼ではあるが、篠奈先輩が眼鏡を外した姿は、本当に「たいしたことがない」。秋保少年も「思ったほどじゃないや」と言っているが、本当に「なんともない」。これは、描写上、極めてものすごいことであることは、もっと注目されていい。最近では、『境界の彼方』のヒロイン栗山さんがそうだった。栗山さんは眼鏡をかけているとかわいいけれど、眼鏡を外すと単なるモブキャラになってしまう。京アニが敢えて狙ってそういうキャラデザにしたことが明らかになっている。主観的な感想から言えば、本作の篠奈先輩の造形は、京アニの仕事に匹敵していると思う。篠奈先輩は眼鏡をかけていると、とてもかわいい。とても目立つ。ヒロインとして輝いているように見える。しかし眼鏡を外した途端に、単なるモブキャラの顔になっている。かわいくもなければ、かといってブスでもない、「いてもいなくても変わらない、どうでもいい」ような顔。失礼な言い方で恐縮ではある。が、マンガにおいて、かわいい顔や、ブスの顔を描くことはそれほど難しくない。「どうでもいい顔」を描くのがいちばん難しい。しかもそれに眼鏡をかけたら輝くという造形美。この、眼鏡の時はヒロインの輝きを放っている篠奈先輩が、眼鏡を外したとたんに単なるモブキャラになる描写力は、当時も驚いたが、今見てもびっくりだ。同じ描写を見るためには、20年後の『境界の彼方』まで待たねばならない。これは単なる技術力の問題ではなく、眼鏡っ娘をどのように描写するかという意志の反映の問題と言える。
(2)萌えを自ら否定してみせたこと
しかし本作が凄いのは、そこまで力を込めて描いて積み上げてきた「眼鏡萌え」を、自ら否定してみせたことだ。これには心底、驚いた。魂の根幹が揺さぶられたと言っていい。雲行きが怪しくなるのは、非・眼鏡キャラの唐臼が登場して以降のことだ。主人公・秋保は、唐臼を「メガネじゃない」という理由で振っていた。
この秋保の態度が、後に大きな問題となる。唐臼の「人格」を見ず、いや、見ようともせずに、単に眼鏡の「ON/OFF」だけで機械的に物事を判断する姿勢。ここで秋保が唐臼の「人格」と向き合ったうえで結論を出していれば、たとえ結果が同じであっても後の悲劇を招くことはなかっただろう。この「人格と向き合っていない」という事実が、唐臼だけでなく、秋保と篠奈先輩の関係にも影を落とす。秋保が唐臼の人格と向き合っていなかったのならば、篠奈先輩の人格とも向き合っていないのではないか。そして「人格と向き合う」かどうかという問題は、そのまま「眼鏡萌え」の問題と直結する。「眼鏡萌え」ということが、そのまま「人格と向き合ってない」ということを意味してしまうのだ。
秋保は、篠奈先輩を「眼鏡」という理由で選んだ。篠奈先輩の「人格」としっかり向き合ったうえで、篠奈先輩を好きになったわけではなかった。唐臼の「あんたなんかたまたまメガネだっただけじゃない」というセリフは、その焦点を的確に突いている。うすうすそのことに気が付いていた篠奈先輩も、自覚せざるを得ない。秋保と篠奈先輩は、極めて「脆弱な基盤」の上に結び付いているに過ぎない。そしてそれは篠奈先輩だけでなく、秋保自身に跳ね返ってくる。
この修羅場で篠奈先輩が叫ぶ「眼鏡掛けようが外そうが私は私なのに…」というセリフ。これは1970年代に乙女ちっく少女マンガが積み上げてきた「ほんとうのわたし」という概念だ。つまり、「人格」に関する意識だ。しかし少女マンガでは、「眼鏡をかけたほうが本当の私」という物語を繰り返してきた。本作がメガネスキーにとって極めて恐ろしいのは、「眼鏡を外しても本当の私」というテーマがマンガ史上に初めて登場したところにある。メガネスキーのお前は、眼鏡を外した女性としっかり向き合えるのかと、覚悟を突きつけられていのだ。本作では、秋保は眼をそむけてしまう。篠奈先輩の人格から眼を背けてしまう。もしも秋保がなにもないただの男であったら、そんなところで悩むはずがない。悩む理由がない。ただ篠奈先輩を取ればいいだけの話だ。しかし、ふつうの男には簡単に出せる結論を、秋保は出すことができなかった。彼は「メガネスキー」なのだ。「眼鏡を外した女」を受け入れることは、逆に秋保自身のアイデンティティを崩壊させるのだ。
ここに見えるのが、「人格」が問題となったときに露わになる、「眼鏡萌え」の限界と矛盾だ。ただの萌えマンガでは、ここまで描くことはない。ただの萌えマンガがこの領域に届かない理由は2つある。一つ目の理由は、危険領域にあえて踏み込んで「萌え」の限界と矛盾を露呈させることは、萌えマンガとして自殺行為だからだ。二つ目の理由は、そもそも凡百の萌えマンガでは、「萌え」を危険に曝すような「人格」をそもそも描けないからだ。本作がその限界領域に真っ直ぐに突き進んでいったということは、すなわち「人格」をしっかり描いており、そのうえで危険水域に突入する「覚悟」を兼ね備えていたということを意味する。
こうして、本作は自らが切り開いたはずの「眼鏡萌え」を、自ら危険に曝す。「自己否定」といってよい展開を見せるのだ。そしてこの「自己否定」という契機こそが、本作を眼鏡っ娘マンガの金字塔に押し上げている。それが思想的にどういう意味を持つかは、また改めて後編で。(第101回に続く)
■書誌情報
同名単行本全1冊。本作が単行本になる経緯もなかなかに伝説的だ。本作が終了してから、本誌『月刊キャプテン』が休刊してしまい、本作は長らく単行本化されることがなかった。しかし全国のメガネスキーたちからの熱いリクエストによって、連載終了からしばらくたってようやく21世紀に入る頃に単行本化が実現する。こういう経緯で単行本化に至った作品は、他にほとんど類を見ないはずだ。本作がどれだけ人々の心に深い印象を残したかが、この単行本化のエピソードだけでもよくわかる。
現在はありがたいことにKindle版など電子書籍で読むこともできる。
Kindle版・単行本:西川魯介『屈折リーベ』(白泉社、2001年)
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