ゆうきまさみ「究極超人あ~る」
小学館『週刊少年サンデー』1985年34号~87年32号
厳密に言えば「眼鏡っ娘マンガ」とは呼びにくいが、眼鏡描写の展開を考える上で極めて重要な作品なので、しっかり確認しておきたい。
本作で注目すべき眼鏡描写とは、「光学屈折」である。本作第一話から引用した下のコマを見ていただきたい。
教師の顔の輪郭が、眼鏡のレンズでズレていることがわかるだろう。レンズによって光の進行方向が曲がるために起きる現象で、近眼矯正なら顔の輪郭は内側に、老眼や遠視矯正なら顔の輪郭は外側にズレたように見える。これを「光学屈折」と呼んでいる。(光学屈折については、本コラム第40回:伊藤伸平「マッド彩子」や第43回:あずまきよひこ「あずまんが大王」も参照していただきたい)
光学屈折自体は、日常的にありふれた現象である。ある程度の訓練を積めば、眼鏡を見て顔の輪郭がどのくらいズレているかで視力も判断できるようになる。また、それほど訓練を積まなくとも、原理さえ知っていれば、本気眼鏡かダテ眼鏡かの区別くらいは一瞬でできるようになる。この「本気眼鏡とダテ眼鏡の区別」は、ゆうきまさみ「パトレイバー」を読み解く上でも有効なので、次回確認したい。
さて、この光学屈折描写がなぜ凄いかというと、「敢えてマンガ表現で再現しようとする者がほとんどいない」からだ。ふつうのマンガにおいて眼鏡を描写するとき、たいていは「フレーム」のみが描かれて、「レンズによる光の屈折」が表現されることは滅多にない。それはマンガでわざわざ「レンズによる光の屈折」を表現する意味や理由が見えにくいからだ。キャラクターが眼鏡をかけていることさえ読者に伝われば、それで十分なのである。そのキャラが「どの程度の近眼なのか?」を敢えて情報として提示する意味は、考えられない。だから、現実には光学屈折によって顔の輪郭がズレて見えているはずなのにも関わらず、マンガ表現の絶対的大多数は顔の輪郭をズレるようには描かない。それにも関わらず、極めて限られた少数のマンガ家だけが、この光学屈折表現に取り組んでいる。伊藤伸平は、顔の輪郭をズラす理由を、「だってそう見えるじゃん」と言った。「そう見える」とおりに絵を描けるマンガ家(あるいはどんなジャンルの画家でもよい)など、ほぼ存在しないにも関わらず、だ。ゆうきまさみがなぜ敢えて光学屈折を実装しているのか、ぜひとも聞いてみたいものである。(1976年に御徒町のメガネ卸会社に就職したことが関係あるかどうか?)
この光学屈折描写は、西園寺まりいの眼鏡描写に効いてくる。
西園寺まりいに眼鏡をかけるように迫る鴨池くんにも、光学屈折。
そして眼鏡をかけた西園寺まりいが極度の近眼であることは、文字による説明などなくとも、光学屈折描写によって解るようになっているのだ。なぜ極度の近眼だと「牛乳瓶の底」のような眼鏡になるのか、それは光学屈折の原理さえ理解していれば簡単に理解できる。しかし「牛乳瓶の底」のような眼鏡を登場させてくるマンガの大半は、光学屈折の何たるかを理解していていないので、ただのグルグル眼鏡になっていることが多い。しかし本作だけは違う。西園寺まりいの眼鏡は、光学屈折的にあり得る「牛乳瓶の底」になっているのだ。
しかし真に凄いのは、このシーンの次のコマである。
西園寺まりいがどれほどの近眼なのかが解るように、眼鏡の光学屈折を「裏側」から見せているのである。「厚さ」を絵で表現することはとても難しいのだが、このコマからはレンズの厚さが伝わってくる。(同じような描写は「パトレイバー」にもあるので、次回にご紹介)。こんな描写をするマンガ家が、ゆうきまさみの他にいるだろうか?
これがあるからこそ、西園寺まりいの近眼描写にも説得力が生じる。
西園寺まりいには、ぜひとも眼鏡をかけつづけていただきたいものだ。
そしてもう一人、眼鏡と言って忘れてはならない魅力的なキャラクターが鳥坂センパイだ。ここではただ一つ、鳥坂センパイの描写には、光学屈折描写はおろか、ただ一人だけ正確な眼鏡デッサンすら放棄しているということだけは指摘しておきたい(正確な眼鏡デッサンについては第56回:大友克洋を参考していただきたい)。それは彼があの世界の中ですら「物理法則をねじ曲げている」ことを意味しているということかもしれない。
書誌情報
単行本やワイド版が今でも手に入るほか、電子書籍で読むこともできる。カメラのレンズと眼鏡のレンズは親戚だから、もともと眼鏡と相性はいいはずだ。
Kindle版:ゆうきまさみ『究極超人あ~る』(少年サンデーBOOKS)
単行本全9巻:ゆうきまさみ『究極超人あーる』
ワイド版全4巻:ゆうきまさみ『究極超人あーる』
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