高遠るい「SCAPE-GOD」
メディアワークス『電撃帝王』2005年VOLUME5~11
今回はセカイ系と眼鏡の関係について考えてみよう。
本作は、眼鏡っ娘ヒロインのもとに神(すがたかたちは少女)がやってきたところから話が始まる。
化け物をやっつけたり、アメリカが世界制覇を狙って案の定返り討ちにあったり、スペックオーバーの偽物が出たりと伝奇ものとしてスカッと読めるし、地球上のあらゆる神話を包括する過剰な設定が笑えるし、細かいギャグとパロディは満載だし、オマケの前田久の解説までもしっかり読ませて、全体としてふつうに娯楽作品として面白いのだけど、とりあえずそれはどうでもいい。問題は、眼鏡だ。
セカイ系は、主人公の生活圏の問題が、社会などの中間項をすっ飛ばして、世界全体の運命と直結するところに特徴がある。しかし単に日常生活を無際限に世界全体に拡大するだけなら荒唐無稽になるだけだが、世界全体の状況を日常思考の変革にフィードバックできたとき、セカイ系としての説得力が出る。世界と生活の間で往還が繰り返され、フィードバックによって互いに状況が変更され、次第に融合していくことでセカイ系作品が成立する。が、この往還を具体的なエピソードで成立させることが、きわめて難しい。成功しているセカイ系はこの具体的なエピソード描写が上手なわけだが、本作では眼鏡っ娘の「いま」を肯定する姿勢がきわどくそれを可能としているように見える。眼鏡っ娘は、自分の生活圏にあるもの全てに対する激しい愛憎の振幅にも関わらず、常に「いま」を肯定する強さを持つ。その眼鏡っ娘の強い意志が最後の最後まで貫徹されることが、この作品の肝だ。だから眼鏡は絶対に割れない。
世界と日常を往還するのが眼鏡っ娘というのは、作者が意図したかどうかは作中から伺うことはできないが、作品的な必然性を持つ。なぜなら、中間項を持たない眼鏡というアイテムこそが、世界と日常を中間項なしに直結させることの象徴だからだ。本コラムでもしばしば指摘してきたように、眼鏡の現象学的本質は「排中律」にある。眼鏡は「かけている」か「かけていない」かどちらかの値しか持たず、中間値をとることが論理的にあり得ない。このような眼鏡の排中律という現象学的本質を用いて様々なマンガが様々なエピソードを描いてきたことは、すでに指摘してきたとおりである(たとえば「眼鏡を外したら○○」なんてのは、排中律が適用されたほんの一例に過ぎない)。世界と日常の間に中間値を持たないセカイ系という構造の中に、排中律を本質とする眼鏡っ娘が企投されるという「出来事」が、本作の原構造なのだ。
だから、本作では眼鏡は割れない。どんなに激しいバトルシーンだろうが、眼鏡は割れない。注意深く読んでみると分かるのだが、眼鏡っ娘が激しい返り血を浴びるシーンで、顔面が血まみれになっているシーンで、眼鏡には一滴も血がついていない。作者が意図したかどうかはともかく、世界と生活を往還するものの象徴としての眼鏡が表現されている。世界と日常の往還的融合がセカイ系だとすれば、眼鏡と娘の往還的融合こそが眼鏡っ娘だ(だから単に眼鏡をかけただけの女を眼鏡っ娘とは呼ばない、決して)。この作品を通じて眼鏡に対する現象学的還元を遂行したときに、牧原綠が眼鏡っ娘であることの意味が見えてくるのだ。
ところで、この眼鏡っ娘、百合。
いやまあ、百合というよりは、かなりガチ。アイドルビデオを見ながら女子にあるまじき衝撃的なマスターベーションシーンをする他に類を見ないシーンもあって、驚愕する。すげえな。
■書誌情報
同名単行本全1巻。高遠るいの作品の中では、あまり読まれていないほうなのかな。せっかく眼鏡っ娘が主人公なので、広く読まれてほしい作品だ。とりあえず私は「著者による評論の操作」の試みに乗ってみた。
単行本:高遠るい『ScapeーGod』電撃コミックス、2007年
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