この眼鏡っ娘マンガがすごい!第139回:岩岡ヒサエ「オトノハコ」

岩岡ヒサエ「オトノハコ」

講談社『Beth』2006年vol.1~07年vol.8

眼鏡っ娘は脇役の部長として登場する。が、ほとんど主人公を食って活躍する。これは眼鏡っ娘の物語だ。

いちおうの主人公きみは、高校生になって、憧れの合唱部に入部する。しかし合唱部は、ほとんど廃部同然の状態だった。その合唱部の部長を務めているのが、眼鏡っ娘だ。物語序盤、部長はかなり不気味に描かれている。

回を追うごとに部長の奇行は加速していく。「キシャー」て。大怪獣か。

が、同時に味も出てくる。一人の人間としての魅力が、尋常ではないほど、画面からにじみ出てくる。合唱への愛情、部員への気配り、目標に向かって挫けない根性、自分たちはできるという信念。一人の人間として自分の足で立っているのは、眼鏡っ娘だけだ。だから、他の部員も部長を信じてついていける。部長の愛情と気配りと根性と信念が、廃部寸前だった合唱部に奇跡を起こす。大感動だ。

で、そんな魅力的な人格に成長した眼鏡っ娘だからだろう。単行本巻末のオマケ4コマまんがで、例のアレが描かれそうになった。そう、「眼鏡を外したら美人になる」という、例の忌まわしいアレだ。感激して部長が泣いて眼鏡を取りそうになったとき、部員は「部長の素顔が見られる!?」ということに強烈な興味を持つ。まあ、オチとしては素顔を見ることはできないわけだが。しかし「眼鏡を取ったら、あんな奇行ばかりの部長が、実は美少女なのか?」という興味関心が確かに描かれていることは間違いない。問題は、どうしてそういう物理的にはあり得ないような関心を持ってしまうかということだ。

まあ、若かった頃は大いに憤慨したものだった。眼鏡を外して美人などということは物理的にありえないと、拳を振り上げて主張したものだった。その思い自体は変わらないが、大人になって丸くなったからかどうか、もう少し冷静に事態を眺められるようになった。事の本質が「眼鏡っ娘が人格的に極めて素晴らしい」というところにあるのではないか、と思うようになってきたのだ。

本作でも、部長は極めて人格的な魅力に溢れている。が、一方で作画上では、大怪獣のように扱われている。この人格と見た目の間のギャップを一身に背負っているのが眼鏡というアイテムなのだ。眼鏡以外では、このギャップを表現することができないのだ。「眼鏡を外して美少女」という例の忌まわしいアレではあるが、それはひょっとしたら眼鏡っ娘が人格的に決定的な魅力を発しているときにこそ沸き上がってくる欲望なのかもしれない。しかし、「眼鏡も人格の一部である」ということを自覚するとき、その欲望は挫折せざるを得ない。本作でも、最終的に部長が眼鏡を外した姿を見ることはできない。なぜなら、眼鏡は彼女の人格の一部だからだ。

人格の一部であるにも関わらず、人格から分割できるアイテム。このあたりに、眼鏡がインスピレーションの源泉となる秘密があるように思う。

書誌情報

同名単行本全一冊。Kindleでは(1)が無料で読めて、(2)が108円。

【単行本】岩岡ヒサエ『オトノハコ 』講談社、2008年

【Kindle版】岩岡ヒサエ『オトノハコ』(1)
【Kindle版】岩岡ヒサエ『オトノハコ』(2)

 

 

 

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眼鏡文化史研究室