この眼鏡っ娘マンガがすごい!第101回:西川魯介「屈折リーベ」(後)

西川魯介「屈折リーベ」

徳間書店『月刊少年キャプテン』1996年1月~7月号

前回に続いて「屈折リーベ」について。「好き」という言葉と「愛してる」という言葉の違いについて考えながら見ていく。

本作で描かれた葛藤から見えるのは、「好き」と「愛してる」という言葉の意味の違いだ。物語冒頭、いきなり秋保は篠奈先輩に「好きです」と告白する。その告白に対して篠奈先輩が「何故私なのだ」と質問する。それに対して、秋保は満面の笑みで「そりゃあ大滝先輩がメガネっ娘だからっスよ」と宣言する。

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それに対して、篠奈先輩はすぐに次の質問を放っている。「眼鏡なら他にもいるだろう。何故私をつけねらう!」と。この質問は、問題の核心を鋭く突いている。が、秋保はそのことに気が付かない。秋保はさらに「ショートでスリム体型の胸はナシ」と条件を付け加えて、回答した気になっている。しかしそれはまったく篠奈先輩の質問に対する回答になっていない。なぜなら、篠奈先輩は「ショートでスリム体型で胸がない眼鏡なら、他にもいるだろう。何故私なのだ?」と、さらに質問することが可能だからだ。

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秋保の説明は、「篠奈先輩ただ一人を好きだ」という理由にはなっていない。もしも「ショートカット」+「スリム」+「微乳」+「眼鏡」という条件を満たす女性が現れれば、秋保は必ずその女性のことも好きになるに違いないからだ。秋保が篠奈先輩を好きな理由をどれだけ重ねようとも、条件をさらに付け加えようとも、「篠奈先輩ただ一人を好きだ」ということを説明することはできない。どれだけ条件が増えたとしても、必ず常に「代わりがいる」という状態を覆すことはできない。
この事態は、「好き」という日本語の構造に関わっている。「好き」という日本語は、常に「代わりがある」ものに対して使用する。「ミカンが好きだ」と言えば、和歌山のミカンだろうが愛媛のミカンだろうが輸入ミカンだろうが好きであることを意味する。八百屋で買ったミカンだろうが自分で収穫したミカンだろうが拾ったミカンだろうが、どのミカンも好きであることを意味する。「好き」という日本語は、「いま目の前にあるこのミカン」だけを特別に好きだということを表現できないのだ。だから秋保が「メガネっ娘が好き」と表明したとしても、それは篠奈先輩ただ一人を好きなこととはまったく無関係な事態に過ぎない。たとえ「ショートカット」やら「スリム」やら「微乳」という条件を付け加えていっても、篠奈先輩ただ一人を好きなこととまったく無関係であるという事態は変わらない。秋保はこのことに冒頭では気が付いていない。
また、「好き」という感情は、条件が変われば変化する。眼鏡をかけている今は篠奈先輩のことを好きかもしれないが、眼鏡を外した途端に好きでなくなる。篠奈先輩は最初からその事実に引っかかっていた。

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若いときの可愛い顔は好きかもしれないが、オバサンになったら好きでなくなる。スリムだったときは好きだったが、太ったら好きでなくなる。条件が変われば、「好き」という感情は変化する。「好き」という日本語が話者の主観的な「感情」を意味する言葉である以上、それが「変化する」ことは避けられない。秋保はこのことにも無自覚だった。
まとめると、日本語の「好き」という言葉には、「対象に常に代わりがある」と「感情だから変化する」という特徴がある。そして秋保の言葉と行動は、まさに「好き」という言葉の意味をそのままそっくり体現していた。メガネっ娘には常に「代わりがいる」し、眼鏡は「外すことができる」。篠奈先輩の不安の根源は、ここにある。

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「好き」という言葉に対して「愛してる」という日本語がある。「愛してる」という言葉は、しばしば単に「好き」の上位互換だと勘違いされる。しかし、「好き」と「愛してる」は言い表している事態がまったく異なっている。「好き」は話者の感情を表現している言葉だ。しかし「愛してる」は、話者の感情を表現する言葉ではない。「愛してる」という日本語は、「代わりがないもの」に対して使用する。というか、「代わりがない存在」であるということを「愛してる」という言葉で表現する。また、「愛してる」という日本語は、対象の条件がどのように変化しようとも「変わらない存在」であることを表現する。眼鏡をかけていようがいまいが、若かろうが年を取ろうが、痩せていようが太っていようが、そしてたとえ死んでしまったとしても、自分自身にとってそれがかけがえのない「ただ一つの存在」であるという時に、「愛してる」という日本語を使用する。つまり「愛してる」という言葉は、話者の主観的な感情とはまったく関係なく、「相手の存在様式」に向かって発せられている。だから言葉本来の使われ方からして、「愛してる」の対象は「代わりがない」ものであり「変わらない」ものだ。だからそれは「ミカン」とか「メガネっ娘」のような「常に代わりがある一般名詞」ではなく、この世にひとつしか存在しない固有名詞でなければならない。

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秋保の矛盾は、常に「一般名詞」で思考を組み立てていたところにある。「篠奈先輩」や「唐臼」といった固有名詞ではなく、「メガネ」という一般名詞で言葉を積み上げていったところに矛盾が生じる。一般名詞をいくら大量に積み上げたとしても、決して「愛」には辿り着かない。どれだけ条件を増やそうとも、常に必ず「代わり」が現れるし、条件は簡単に「変化」してしまう。秋保は、固有名詞を根底に据えて言葉を組み立てなければならない。それが「人格」と向き合うということだ。

ここまでくると、「眼鏡萌え」の自己否定の意味が思想史的に分かりやすく見えてくる。「萌え」という言葉は固有名詞ではなく、一般名詞によって組み立てられている。「眼鏡萌え」にしろ「ネコミミ萌え」にしろ「いもうと萌え」にしろ、なんでもよいが、それらは一般名詞だ。仮に「○○たん萌え」というように固有名詞が使用されているように見えても、それは「萌え要素の束」を表しているに過ぎない。「萌え」も、「好き」と同じく、話者の心の中に生じる「知覚」のカテゴリーに属している。「萌え」という言葉は、知覚の対象が「かけがえのない唯一の存在」であることを示す言葉ではない。もしも「精神」が自分の内面を超えて真の対象にたどり着こうとしたら、一般名詞に支配された「知覚」をいったん否定しなければならない。それを正面からテーマにしたのがドイツ観念論哲学者ヘーゲルの主著『精神現象学』だ。そこで中心的な課題にされたのが、「自己否定」の契機だ。屈折リーベにおける「眼鏡萌えの自己否定」は、単なる否定ではなく、真の対象に辿り着くために「精神」が必ず経験しなければならない弁証法的な否定だ。「メガネっ娘」という一般名詞を廃棄するのは、目の前に確かに存在する真のメガネっ娘を掴みとるために必要不可欠な「否定」だ。本書の展開全体が「精神の弁証法」を示している。

弁証法構造は、田渕由美子など「乙女ちっく眼鏡っ娘起承転結構造」にも典型的に見られるものだった。ただし、少女マンガではメガネスキーの視点が透明だったのに対し、「屈折リーベ」の弁証法構造はメガネスキーの立場から打ち立てられたところが決定的に斬新だった。メガネスキー自身のアイデンティティをダイレクトに揺さぶり、「眼鏡っ娘」という概念そのものを危険に曝すという、一歩間違えば総スカンになるチャレンジだ。しかし危険領域に大胆に踏み込んでいるにも関わらず、同時に皆から愛される作品になったという事実が、本作を金字塔の位置に押し上げている。

■書誌情報

Kindle版・単行本:西川魯介『屈折リーベ』(白泉社、2001年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第100回:西川魯介「屈折リーベ」(前)

西川魯介「屈折リーベ」

徳間書店『月刊少年キャプテン』1996年1月~7月号

本作抜きでは眼鏡っ娘マンガの歴史を語ることは不可能な、押しも押されぬ金字塔。本作の凄さについてはあらゆる機会に何度も主張してきたので、ここでは改めて2点に絞ってまとめてみよう。屈折リーベの画期的なところの一つ目は「眼鏡っ娘萌えの全面展開」にあり、二つ目は「萌えを自ら否定してみせたこと」にある。一つ目だけなら「よくできたおもしろい萌えマンガ」になっていたところだが、二つ目があることによって比類ない作品となっている。

(1)眼鏡っ娘萌えの全面展開

眼鏡っ娘のことが好きという主張自体は、本作が初めて試みたわけではない。作品が発表された1995年暮れの段階で、メガネスキーたちの存在自体は各所に確認されている。眼鏡っ娘の素晴らしいところを言語化する試みも既に行われていた。しかし本作が著しく画期的だったのは、「一つの作品のテーマ」として、様々な角度から眼鏡っ娘の素晴らしさをアグレッシブに言語化していったところにある。散発的な言語化も貴重なものではあるが、「一つの作品」としてまとまることによって、主張の純度と説得力が格段に上昇する。

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だいたい当時の少年マンガのラブコメというものは、高橋留美子作品を見れば分かりやすいのだが、男のほうがツンデレだったり鈍感だったりすることによって成り立っていた。あるいはBASTARD!やCITY HUNTERに分かりやすく示されているように、主人公が女好きのスケベだが実は一途というところでラブコメが成立することが普通だった。主人公が自分の特殊な一点集中的性癖をアグレッシブに繰り広げるラブコメというもの自体が画期的だったと言える。
100_05主人公・秋保によって言語化された「眼鏡っ娘の素晴らしさ」は、眼が覚めるような鋭さに満ち溢れていた。上に引用した図では、視覚上の素晴らしさが言語化されている。「柔肌と硬質なフレームの調和による至上の美」は、眼鏡っ娘を考える上でスタート地点に置くべき基本事項だ。どうして眼鏡同士のキスが興奮するかなど、この基本事項を踏まえていないと理解できるはずがない。しかしこの眼鏡っ娘の美に関する基礎・基本が明瞭に言語化されるのは、本作が最初だ。
また、眼鏡が単なる外見的な異化効果を発揮するだけでなく、人格にも深く関わってくるという見解が明瞭に示されているのも大きな成果だ。それまでにも眼鏡っ娘に共通して見られる性格(読書好き、大人しいなど)に対する言及は散発的に見られたが、もっと本質的に「人格そのもの」に関わることを言語化したのは著しく画期的な仕事だ。実は篠奈先輩は、よくある眼鏡っ娘の性格とは大きくズレている。大人しくないし、暴力的だし、本をたくさん読んでいるような感じもない。要するに、篠奈先輩はステロタイプ眼鏡っ娘ではない。だから眼鏡の内面性といったときも、それはステロタイプな眼鏡っ娘の性格を指して言っているわけではない。秋保が「かける人間の内面のさらなる延長」というのは、眼鏡っ娘のステロタイプを称揚しているのではなく、眼鏡が「人格性」と深く関わるアイテムであるということを主張している。ステロタイプとは無関係に眼鏡と人格性の関係を打ち出したのは、本作の極めて大きな成果だ。
また、こういうと若干失礼ではあるが、篠奈先輩が眼鏡を外した姿は、本当に「たいしたことがない」。秋保少年も「思ったほどじゃないや」と言っているが、本当に「なんともない」。これは、描写上、極めてものすごいことであることは、もっと注目されていい。最近では、『境界の彼方』のヒロイン栗山さんがそうだった。栗山さんは眼鏡をかけているとかわいいけれど、眼鏡を外すと単なるモブキャラになってしまう。京アニが敢えて狙ってそういうキャラデザにしたことが明らかになっている。主観的な感想から言えば、本作の篠奈先輩の造形は、京アニの仕事に匹敵していると思う。篠奈先輩は眼鏡をかけていると、とてもかわいい。とても目立つ。ヒロインとして輝いているように見える。しかし眼鏡を外した途端に、単なるモブキャラの顔になっている。かわいくもなければ、かといってブスでもない、「いてもいなくても変わらない、どうでもいい」ような顔。失礼な言い方で恐縮ではある。が、マンガにおいて、かわいい顔や、ブスの顔を描くことはそれほど難しくない。「どうでもいい顔」を描くのがいちばん難しい。しかもそれに眼鏡をかけたら輝くという造形美。この、眼鏡の時はヒロインの輝きを放っている篠奈先輩が、眼鏡を外したとたんに単なるモブキャラになる描写力は、当時も驚いたが、今見てもびっくりだ。同じ描写を見るためには、20年後の『境界の彼方』まで待たねばならない。これは単なる技術力の問題ではなく、眼鏡っ娘をどのように描写するかという意志の反映の問題と言える。

(2)萌えを自ら否定してみせたこと

しかし本作が凄いのは、そこまで力を込めて描いて積み上げてきた「眼鏡萌え」を、自ら否定してみせたことだ。これには心底、驚いた。魂の根幹が揺さぶられたと言っていい。雲行きが怪しくなるのは、非・眼鏡キャラの唐臼が登場して以降のことだ。主人公・秋保は、唐臼を「メガネじゃない」という理由で振っていた。

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この秋保の態度が、後に大きな問題となる。唐臼の「人格」を見ず、いや、見ようともせずに、単に眼鏡の「ON/OFF」だけで機械的に物事を判断する姿勢。ここで秋保が唐臼の「人格」と向き合ったうえで結論を出していれば、たとえ結果が同じであっても後の悲劇を招くことはなかっただろう。この「人格と向き合っていない」という事実が、唐臼だけでなく、秋保と篠奈先輩の関係にも影を落とす。秋保が唐臼の人格と向き合っていなかったのならば、篠奈先輩の人格とも向き合っていないのではないか。そして「人格と向き合う」かどうかという問題は、そのまま「眼鏡萌え」の問題と直結する。「眼鏡萌え」ということが、そのまま「人格と向き合ってない」ということを意味してしまうのだ。

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秋保は、篠奈先輩を「眼鏡」という理由で選んだ。篠奈先輩の「人格」としっかり向き合ったうえで、篠奈先輩を好きになったわけではなかった。唐臼の「あんたなんかたまたまメガネだっただけじゃない」というセリフは、その焦点を的確に突いている。うすうすそのことに気が付いていた篠奈先輩も、自覚せざるを得ない。秋保と篠奈先輩は、極めて「脆弱な基盤」の上に結び付いているに過ぎない。そしてそれは篠奈先輩だけでなく、秋保自身に跳ね返ってくる。

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この修羅場で篠奈先輩が叫ぶ「眼鏡掛けようが外そうが私は私なのに…」というセリフ。これは1970年代に乙女ちっく少女マンガが積み上げてきた「ほんとうのわたし」という概念だ。つまり、「人格」に関する意識だ。しかし少女マンガでは、「眼鏡をかけたほうが本当の私」という物語を繰り返してきた。本作がメガネスキーにとって極めて恐ろしいのは、「眼鏡を外しても本当の私」というテーマがマンガ史上に初めて登場したところにある。メガネスキーのお前は、眼鏡を外した女性としっかり向き合えるのかと、覚悟を突きつけられていのだ。本作では、秋保は眼をそむけてしまう。篠奈先輩の人格から眼を背けてしまう。もしも秋保がなにもないただの男であったら、そんなところで悩むはずがない。悩む理由がない。ただ篠奈先輩を取ればいいだけの話だ。しかし、ふつうの男には簡単に出せる結論を、秋保は出すことができなかった。彼は「メガネスキー」なのだ。「眼鏡を外した女」を受け入れることは、逆に秋保自身のアイデンティティを崩壊させるのだ。
ここに見えるのが、「人格」が問題となったときに露わになる、「眼鏡萌え」の限界と矛盾だ。ただの萌えマンガでは、ここまで描くことはない。ただの萌えマンガがこの領域に届かない理由は2つある。一つ目の理由は、危険領域にあえて踏み込んで「萌え」の限界と矛盾を露呈させることは、萌えマンガとして自殺行為だからだ。二つ目の理由は、そもそも凡百の萌えマンガでは、「萌え」を危険に曝すような「人格」をそもそも描けないからだ。本作がその限界領域に真っ直ぐに突き進んでいったということは、すなわち「人格」をしっかり描いており、そのうえで危険水域に突入する「覚悟」を兼ね備えていたということを意味する。
こうして、本作は自らが切り開いたはずの「眼鏡萌え」を、自ら危険に曝す。「自己否定」といってよい展開を見せるのだ。そしてこの「自己否定」という契機こそが、本作を眼鏡っ娘マンガの金字塔に押し上げている。それが思想的にどういう意味を持つかは、また改めて後編で。(第101回に続く)

■書誌情報

100_01同名単行本全1冊。本作が単行本になる経緯もなかなかに伝説的だ。本作が終了してから、本誌『月刊キャプテン』が休刊してしまい、本作は長らく単行本化されることがなかった。しかし全国のメガネスキーたちからの熱いリクエストによって、連載終了からしばらくたってようやく21世紀に入る頃に単行本化が実現する。こういう経緯で単行本化に至った作品は、他にほとんど類を見ないはずだ。本作がどれだけ人々の心に深い印象を残したかが、この単行本化のエピソードだけでもよくわかる。
現在はありがたいことにKindle版など電子書籍で読むこともできる。

Kindle版・単行本:西川魯介『屈折リーベ』(白泉社、2001年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第60回:速水螺旋人「靴ずれ戦線 魔女ワーシェンカの戦争」

速水螺旋人「靴ずれ戦線 魔女ワーシェンカの戦争」

徳間書店『月刊COMICリュウ』2010年12月号~13年2月号

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その人を除いては絶対に描けないマンガというものがある。本作は、あらゆる意味で速水螺旋人にしか描けない、極めて個性的な作品だ。
060_02もちろん独ソ戦、スラブ民話、ロシア正教といった題材に対する深い知識、かわいらしい絵柄、フリーハンドで引かれたような背景の描線が醸し出す柔らかい世界観なども独特の個性を作り出しているが、仮にたとえ同じような知識と技術を持った作家がいたとしても、この独特の作品を生み出すことはできないだろう。戦争を通じて垣間見える「人間というもの」への洞察が、これほど冷徹でありながら同時に慈愛に満ちているということは、ほとんど奇跡のように思える。たとえば冷徹な面は、具体的には人間の死を描写するところに顕れている。描写が、乾いている。人間の死というものに、深い意味を持たせない。人は、突然、意味もなく死ぬ。多くのフィクションは、勢い、人間の死というものに何らかの意味を持たせながら物語を作り上げていく。感動的な「死」でなければ、人は「死」というものを耐えることができないからだ。だが、本作はそれを拒否して、人の死を無感動なものとして描く。死を無感動に描ける作家としては、他に伊藤伸平や高遠るいを思いつくが、そんなにたくさんいるわけではない。しかし死を冷徹に描くからといって、冷酷というわけではない。それを可能にしているのは、戦争というものに対する首尾一貫した姿勢にある。本作は、決して戦争を「抽象化」しない。徹底的に具体的に描き続ける。現在、集団的安全保障に関わって戦争に関する議論が喧しいが、右にしろ左にしろ、抽象化された議論は常に上滑りしている。抽象化されてキレイゴトとなった地に足のつかない議論同士の空中戦は、お互いに噛み合わずに永遠に空転し続ける。本作では、抽象化された戦争は常に揶揄の対象となっている。事態は常に具体的で細かなコミュニケーションの積み重ねから動いていく。私はミリタリーや安全保障に関する知識は世間並みにしかもっていないのだが、それでも本作を通じて「戦争というもの」に対する様々な感情が掻き立てられるし、さらに「人間というもの」の存在様式そのものに対する慈しみを感じ取ることができる。単に知識や技術があるだけでは、こういった感情を掻き立てられることはないだろう。作者の人格が作品に反映されているからこそ、題材や描写が極めて殺伐としているのに、温かみを感じるのだと思う。

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が、とりあえずそのあたりのことはどうでもよい。眼鏡が問題だ。ナージャ、超かわいい。眼鏡のズレっぷりが絶妙。ここまで眼鏡のズレを極めたキャラクターは、そう滅多に見られるものではない。しかも眼鏡を主張せずに、ごくごく自然に眼鏡であることも素晴らしい。お風呂に入るときに眼鏡を外すシーンがあるのだが、そのときの「おまえ誰?」感がすごいのも素晴らしい。性格も眼鏡っぽい。根は生真面目なのに、ときどき素でとんでもないことをやらかす。超かわいい。しかも百合要素が多くて大興奮。女の子同士のキスシーンも、眼鏡っ娘が関わると興奮度256倍(当社比)。眼鏡っ娘の最後の戦いには、思わずほろっとしてしまった。眼鏡っ娘には幸せになってほしいなあ・・・と思いつつ、この後のソ連で生き抜くのは大変なんだよな・・・

■書誌情報

単行本全2巻。新刊で手に入る。ミリタリーやメカが好きな場合は、単行本収録のコラムはかなりおもしろいはず。

単行本:速水螺旋人『靴ずれ戦線』1巻 (リュウコミックス、2012年)
単行本:速水螺旋人『靴ずれ戦線』2巻 (リュウコミックス、2013年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第41回:あろひろし「若奥さまのア・ブ・ナ・イ趣味」

あろひろし「若奥さまのア・ブ・ナ・イ趣味」

徳間書店『ヤングキャプテン』1988年1~3号

※以下、性的な話題を多く含むので、苦手な人は回避してください。

041_01前回の「マッド彩子」に引き続き、狂科学者の眼鏡っ娘マンガだ。

眼鏡っ娘の美衣加は、人妻マッド・サイエンティスト。手乗りのブラックホールを開発したり、夫のクローンの煮付けを作ったり、出来立て弁当を届けるために空間転移装置を作ったりと、毎日忙しい。その中でも驚天動地の発明は、自分の体を上半身と下半身に分割してしまう装置だ。なぜこんな装置を発明したかというと、美衣加はアイデアが閃くとすべてを放り出して発明に没頭してしまうのだが、それがセックスをしている最中だったら、夫を生殺しで放置してしまうことになる。そこで、自分が発明に取り組んでいる最中にも夫がフィニッシュできるように、上半身と下半身を分離させたのだった。夫が下半身だけの美衣加とズコズコやるシーンもトホホだが、膣痙攣のエピソードはマヌケ極まって衝撃だ。

041_02そんな美衣加が実は10歳だったことが第3話で明らかになる。美衣加の母もマッドサイエンティストで、なんと自分が開発した成長促進剤を実の娘で人体実験していたのだった。成長促進剤で大きくなった美衣加は、見た目は大人だが、実年齢は10歳であり、第3話で初潮を迎えることとなった。美衣加は初潮前にセックスしていたのだった。うーん、すごい。こんな話は他に見たことはない。青少年健全育成条例では、こういう例をどう判断するのだろうか??

041_03単行本には「それ行け!奥秩父研究所」も収録されている。こちらのヒロイン移木杉代もマッド・サイエンティスト。狂科学者らしく世界征服を志し、シャレにならない発明で世界をあと一歩で破滅させるところまで追い込む。とんでもない非常識なキャラだけど、だがそこがいい。こんな突拍子もないキャラクターは、あろひろしにしか描けない。

実は、ありそうであまり実例がないのが、眼鏡っ娘のマッド・サイエンティストだ。おそらく、マッド・サイエンティストをきちんと描くこと自体がそうとう難しく、大方は、アイデアを思いついても描写できないまま断念せざるをえないのだと思われる。本作の眼鏡っ娘は、あろひろしの実力なくしては生まれえなかったと言えよう。

あろひろしと聞いてすぐに思い出してしまうのは、80年代中期のコミケカタログのサークルカットだ。現在のコミケカタログでは、サークルカットをまたいで一連の絵にすることは禁止されている。実際に同じサークルが2スペース並んでいる場合でも、サークルカットは別々に描かなくてはならない。ところがそのルールは80年代半ばには存在しておらず、あろひろしのサークル「スタヂオぱらのい屋」は6カット連続で、つまり1行まるまる一繋ぎのイラスト(例の自画像のワニだが)を描いていたりする。現在の常識からは想像もできないし、当時でも他に例はほとんどなく、独創性溢れる試みだっただろうと思う。(逆に言えば、現在のサークルカットで連続イラストが禁止されているのは、ひょっとしたら、あろひろしのせいかもしれない?)。

眼鏡に関していえば、『優&魅衣』も歴史に記憶されるべき作品だろう。主人公の優はメガネ君だが、眼鏡を外すと人格が一変する。「眼鏡の不連続性」を「人格の不連続性」とリンクさせたアイデアだ。優のお姉さんも普段は厳格な眼鏡っ娘だが、眼鏡を外すと人格が一変して性欲が暴走する。この眼鏡の「不連続性」は、眼鏡の魅力を解き明かす上で極めて重要な意義を持つ(バタイユ的な意味で)ので、様々な作品を通じておいおい考えていくことになるだろう。

ただ一つ残念なのは、中期の代表作「ふたば君チェンジ」の眼鏡っ娘、酒仙洞音霧ちゃんが眼鏡を外して美人になるどころか、それが「パターン」だと描写してしまったことだ。眼鏡を外して美人だなどと世界の摂理を裏切った時点で切腹ものだが、さらにそれを「パターン」だと表現してしまったのは、返す返すも残念だ。それが起承転結の「起承」にすぎない不良品であることは、我々が繰り返し主張してきたところである。これほど独創性に秀でたマンガ家あろひろしにして、眼鏡神話(眼鏡を外して美人になるというウソ)の呪縛に囚われているとは、作家を責めるよりは、眼鏡神話が人々の心の闇につけこむ汚さを肝に銘じるべきということだろう。

■書誌情報

「若奥さまのア・ブ・ナ・イ趣味」も「それ行け!奥秩父研究所」も同じ単行本に収録されている。青少年健全育成条例にも引っかからず、現在でも入手できる。(※追記)絶版マンガ図書館にも収録されている。会員登録すれば無料で読むことができる。

単行本:あろひろし『若奥さまのア・ブ・ナ・イ趣味』 (少年キャプテンコミックススペシャル、1990年)

絶版マンガ図書館:あろひろし『若奥さまのア・ブ・ナ・イ趣味』

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