この眼鏡っ娘マンガがすごい!第155回:かやまゆみ「そうっと…リフレイン」

かやまゆみ「そうっと…リフレイン」

講談社『別フレDXジュリエット』1985年3月号

ヒロインは転校生の眼鏡っ娘なのです。転校早々、眼鏡を落としてしまったヒロインの前に、格好いい男子が現われます。さすがヒーロー、眼鏡を拾って、「すっ」とかけてあげるのです。これこそ少女マンガ。こんな出会いをしてみたい!

ということで、眼鏡をきっかけとして、恋愛ストーリーが始まるのでありました。
本作の眼鏡っ娘は、特に勉強ができるわけでもなく、委員長だったりするのでもない、ふつうの女の子です。ただ近眼で眼鏡をかけているだけです。強調したいのは、実は少女マンガのヒロインの多くが、こういった何の変哲もない眼鏡っ娘だったりすることです。

さて、そんな素敵な出会いをする眼鏡っ娘でしたが、残念ながら、第一印象は最悪なのでした。「メガネしてっとデメキンそっくり」なんてあだ名をつけられてしまうのです。眼鏡をからかっては、いけません!

第一印象が最悪だったせいなのか、二人の関係は卒業までギクシャクしてしまいます。しかし最後に二人を結びつけるのは、やはり眼鏡なのです。眼鏡を落としてしまったヒロインにもういちど眼鏡をかけてあげられるのは、少女マンガヒーローだけの特権です。

眼鏡の絆で結ばれたお二人さん、末永くお幸せに!!

ちなみに注目したいのは、本作のビジュアルです。講談社系眼鏡っ娘の洗練された姿が見られるように思うのです。同じ眼鏡っ娘といっても、雑誌ごとにカラーの違いがあるように思います。特に集英社系と講談社系は、けっこう雰囲気が異なっています。どこがどう違うかを言語化するのはなかなか困難なのですが、本作のビジュアルは講談社系の良質な部分を代表しているように思います。

書誌情報

本編は46頁の短編。単行本『としした恋人』所収。まだ古書で手に入ります。
作者のかやまゆみさんは、残念なことに2005年に病気で亡くなっています。現役でばりばり活躍していた作家さんでしたので、とても残念です。素晴らしい作品の数々は、ぜひ後世まで語り継いでいきたいものです。
【単行本】かやまゆみ『としした恋人』講談社、1985年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第154回:克・亜樹/原案=八立肇、河森正治「天空のエスカフローネ」

克・亜樹/原案=八立肇、河森正治「天空のエスカフローネ」

角川書店『月刊・少年エース』1994年12月号~1998年1月号

本作は、異世界転生ファンタジーものの一種であります。ヒロインは異世界の救世主として召喚されるのですが、それは比較的どうでもいいことです。最大のポイントは、その救世主がまさに眼鏡っ娘だということであります。

そして本作の最大の見所は、異世界に召喚された直後にあります。というのは、異世界に召喚されるとき、身につけていた衣服等は、なんと眼鏡も含めてすべて剥ぎ取られてしまうのですが。眼鏡は異世界に持って行けないのですが。だが。だが、しかし。「この惑星にもメガネはあるのね…」、なのであります!

物語の舞台は、完全に中世です。それにも関わらず、この中世的な異世界にも、眼鏡は存在していたのです! なんとありがたいことではないですか!!

そんなわけで、眼鏡っ娘は敵に捕まって縄で縛られたりと、縦横無尽の大活躍を見せるのでした。

もしも眼鏡がない世界だったら、この大活躍もありえなかったところです。ありがとうございます、ありがとうございます。

そしてなんと、敵のほうもヒロインのことを「眼鏡の娘」と呼び始めるのです。これは凄いことです。というのは、この中世的な異世界であっても、ある女性を「眼鏡ON/眼鏡OFF」で区別するという認知枠組が成立していることが分かるからであります。ある人物を「眼鏡の娘」と呼ぶことは、ガンダムを「連邦の白いMS」と呼ぶのと同じくらいのハイセンスな呼称だと言えるでしょう。


あるいはカタカナで「メガネ娘」と呼んだりしますが、どちらにせよ女性を個体認識するときに「眼鏡ON/眼鏡OFF」が決定的に重要であることが示されているセリフと言えましょう。

さて、そんな眼鏡っ娘ですが、物語中盤(単行本では4巻)で、いちど地球に戻ってきます。嬉しいのは、このときに眼鏡の着替えをしているところです。もともとスペアの眼鏡があったのか、新しく買ったのかは作中からは伺うことができませんが、ヒロインが眼鏡に対して高い意識を持っていることがわかります。素晴らしい!

が。だが、しかし。
そう喜んだ矢先に、我々に悲劇が襲いかかるのでありました。第18話の扉絵で素晴らしい眼鏡姿を拝んで安堵した我々に突きつけられるのは、18話から最終話まで、ヒロインがメガネレスになってしまうという悲しい事実なのでありました。なんてこった!!

どうしてヒロインが眼鏡なしでいられるのか、その理由が作中で語られることは、ありません。ヒロインは近眼なはずなのに、どうして眼鏡なしで日常生活を営むことができるのか、まったく説明されることは、ありません。伊達眼鏡であったという説明なども、ありません。なにもなく、ただ単に、眼鏡だけなくなってしまうのでした。な、なにが起こったのだ!?

こうして途方に暮れ、悲しみに沈んだまま最終話まで惰性で読み進めるのですが、最後の最後で、やっと一筋の光りが差し込むのです。地球に戻ってきたヒロインは、眼鏡をかけ直しているのです。ああ、眼鏡をかけ直しているのです。

その眼鏡はまるで、輝く黄金の聖宝石。異世界を背景に、神々しい姿で我々に微笑みかける眼鏡っ娘。途中で放り出したりしないで、最後まで読んで良かったと心底思える、素晴らしいラストシーンでありました。

ちなみに単行本8巻のラストには、作画の克と原案の河森の対談が収録されていて、きわめて重要な証言が記録されております。アニメ版のヒロインが眼鏡をかけていないのは、どうやら赤根監督の思想に問題があったからのようなのです。……。

無念であります。…………。なにしてくれとんねん。

書誌情報

同名単行本全8巻。電子書籍で読むことができます。
本作は角川書店『月刊・少年エース』創刊号から連載され、3年あまりで完結しました。アニメ版のエスカフローネもよく知られていると思いますが、マンガ版は単にアニメをコミカライズしたものではありません。まるで別の作品と言ってよいでしょう。マンガはアニメ放映の半年前から連載が開始され、物語の筋もけっこう違っていますが、やはり決定的な違いは、ヒロインが眼鏡をかけているかかけていないかです。もはやまったく似たところのない、タイトルだけがたまたま同じの別の作品と断言してよいでしょう。もしもヒロインが眼鏡をかけていなかったら、歯牙にもかけられなかったわけですからね。
まあ、眼鏡的観点なしで読んだ場合、主人公バァンのビルドゥングス・ロマン、あるいはボーイ・ミーツ・ガールものとして、かなりよくできた話だと思いますけども、比較的どうでもいいことではあります。

【単行本・Kindle版】克・亜樹/原案=八立肇、河森正治『天空のエスカフローネ』1~8、角川書店、1995年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第153回:石井まゆみ「フラッシュ・バック」

石井まゆみ「フラッシュ・バック」

集英社『ヤングユー』1999年8・9月号

オフィスで働いている、あまり目立たないけれども地味に有能な眼鏡さんって、素敵だと思いませんか。私は素敵だと思います。洒落っ気が薄くて丈の長いスーツで、髪を無造作に束ねているだけの眼鏡さんを見ると、全力で応援したくなりませんか。私は全力で応援したくなります。
そんな眼鏡さんを描かせたらピカイチなのが、本作の作者、石井まゆみなのです。

ああっ、仕草がとてもかわいいですね。
そしてそんな眼鏡さんは、密かにめちゃめちゃ有能なわけです。そして有能なのに、それをまったく鼻にかけない、素っ気ない態度も、たまらないんです。

しかしなんと、ただの派遣社員かと思われた眼鏡さんは、実は物の怪を払う秘密の力を持っているスーパーヒロインなのでした。裏のミッションをこなした眼鏡さんは、たくさんのファンを作って、どことも知らず颯爽と去って行くのでありました。掴み所がないのも、眼鏡さんの魅力の一つかもしれません。

ヒロインの九十九さんは、ビジュアル的にも素晴らしいのです。というのは、少女マンガ伝統のズレ眼鏡を正統に引き継ぎつつ、アダルトな魅力を醸し出すビジュアルに進化しているからです。このタイプの眼鏡さんを描かせたら、石井まゆみの右に出る人は、そうはいません。

表紙が眼鏡レスなのが、返す返すも惜しまれるところではあります。残念。でも、中表紙見返しの眼鏡姿など、惚れ惚れとします。今後も格好いい眼鏡さんを、どんどん描いていって欲しいです。

書誌情報

同名単行本に収録。本編は80頁の中編。講談社時代には眼鏡を外して美人になって幸せなどという残念な作品も描いているけれども、集英社時代の作品は、代表作「ロッカーのハナコ」さんを初めとして、かなり眼鏡力が高い作家さんです。
【単行本】石井まゆみ『フラッシュ・バック』集英社、1999年

 

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第152回:鈴木信也「Mr.FULLSWING」

鈴木信也「Mr.FULLSWING」

集英社『週刊少年ジャンプ』2001年23号~06年23号

基本的に野球マンガではありますが、まあ、それは比較的どうでもよいことであります。本作が極めて重要なのは、『週刊少年ジャンプ』のヒロインに眼鏡っ娘を据えてきたという一点にあるのです。後世まで賞め讃えられるべき作品なのです。

本作のヒロインは、野球部マネージャーの鳥居凪さん。主人公の猿野は、眼鏡っ娘に惹かれて野球部入部を決意するのでした。眼鏡っ娘がマネージャーをやっていたら、猿野でなくても野球部に入っちゃうね。

メガネをかけてる娘、最高だと思います!

そしてこの作品がとても素敵なのは、めがねLOVEなネタをぶちこんでくるあたりにあるのです。たとえば単行本8巻では、練習試合の対戦相手が「音瓶(ねがめ)高等学校」なのです。

このNEGAME高校が、たいへん素敵。

こ、ここは鯖江なのか!?
いや、本作が描かれたのは、鯖江に眼鏡ベンチ等が設置される前のことなのです。こうなったら、さらに鯖江でも植込みを眼鏡の形にしてもいいかもしれません。

そして音瓶高校に来て、眼鏡っ娘も活き活きするのです。

うわあ、「メガネマーガレット」読みてえ!

そして音瓶高校のキャプテンは、別紅飴理(べっこうあめり)という名前のキャラなのです。このキャラがまたたいへん素敵なのであります。

残念ながら、このNEGAME高校は、主人公たちとの練習試合で負けてしまいます。
このままフェイドアウトなのかなあと思ったら、実はこの後、なかなか胸熱な展開になるのです。具体的には、単行本13巻で、飴理キャプテンが極めて重要な働きをしてくれます。

猿野たちがピンチに陥って困っていたところに、「メガネの事でお困りかな」というセリフと共に、飴理キャプテンが現われます。うおお、すげえカッコいい。一度は言ってみたいセリフじゃないですか、「メガネの事でお困りかな」

ケースに満載した眼鏡の中から素敵メガネを見繕ってくれる飴理キャプテン。お、おまえ、実は西川魯介師だったのか!?

そして飴理キャプテンがもたらしたメガネによって、猿野たちのチームは見事に逆転勝利を収めるのでありました。メガネ最高!
まあ、このエピソードについて岩城とかなんとか言う向きもあるようですが、「勝負は最後のメガネをかけるまでわからないぜ」なんて決めセリフを言ってくれるのは、確実にこのマンガのオリジナルなので、まったく問題ありません。

そんなわけで、眼鏡っ娘ヒロインは最後まで眼鏡を外すことなく活躍してくれるので、安心していただきたいのであります。週刊少年ジャンプで長期にわたって眼鏡っ娘がヒロインを張り続けた事実は、とても尊いものです。いくら感謝してもしたりません。ありがとう、ありがとう! 牧村南さんがジャンプのヒロインに!と言って大喜びしていたのは、秘密だ。
ちなみに凪さん、眼鏡だからといって勉強ができるとかオタクだとかいう属性はついていないようです。

書誌情報

同名単行本全24巻。文庫版では全15巻で、電子書籍で読むこともできる。

【単行本】鈴木信也「Mr.FULLSWING」1巻、集英社、2001年
【Kindle版・文庫版】鈴木信也『Mr.FULLSWING』1巻

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第151回:いでまゆみ「うっふん♥探偵日記」

いでまゆみ「うっふん♥探偵日記」

講談社『なかよし』1980年7月号

ヒロインの眼鏡っ娘・原田右子は、おカタい風紀委員長。今日も朝から全校生徒をビシビシと風紀指導しております。まさに委員長の鑑なのです。痺れる!

そんな委員長の前に、転校生が颯爽とバイクで登場するのであります。マイペースな転校生の振る舞いに、さすがのカタブツ委員長もペースを乱されてしまいます。

転校生をギャフンと言わせるため、なんとか弱みを握ろうとして後をつけ回す眼鏡っ娘なのです。が、転校生の日常を改めて見てみると、実はいい奴だということがだんだん分かってきます。しかしイジけてしまって自分に自信がもてない委員長なのです。転校生のたわいもない一言に過剰反応して、ついついネガティブな感情をぶつけてしまいます。昭和の当時は、これを「ツンデレ」と言わず、「意地っ張り」と言っておりました。意地っ張りの眼鏡っ娘、これこそ昭和の少女マンガが誇る文化遺産なのです。

意地っ張りの眼鏡っ娘でしたが、しかしそこはやはり転校生は少女マンガのヒーローなのでした。自分の方から非を認め、「テレくさかった」と謝って、眼鏡っ娘に告白するのです。そんな素直なヒーローの前に、かたくなな委員長の心も溶けていくのでありました。

そんなわけで、70年代少女マンガのド真ん中王道「そんな意地っ張りの君が好きなんだ」を真っ直ぐに行く作品です。何度でも言いますが、眼鏡を外して綺麗になってモテモテになるようなマンガなど、昭和の少女マンガでは傍流です。眼鏡っ娘がメガネのまま「そんな君が好きなんだ」と受け入れられるのが少女マンガの王道なのです。だから我々も自信を持って「眼鏡のままでいいんだ」と言い続けていきましょう。

書誌情報

単行本『野性の君に首ったけ』所収。35頁の短編。
残念ながら新刊では手に入らないが、とても人気があって単行本の数が出ている(手許のは9刷)ので、古本で比較的容易に手に入れることができる。

【単行本】いでまゆみ『野性の君に首ったけ 』講談社、1982年

 

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第150回:西川魯介「野蛮の園」

西川魯介「野蛮の園」

白泉社『ヤングアニマル増刊Arasi』2002年vol.3~05年no.4

「西川魯介が増えすぎた眼鏡フェチをマンガに描くようになって、既に四半世紀が過ぎた。西暦2002年、新宿ロフトプラスワンで開催されたトークイベントはメガネっ娘居酒屋委員長を名乗り、西川魯介に出演要請を挑んできた。人々は自らの行為に恐怖した。」

「眼鏡がただの萌え要素でないところを見せてやる!」
「魯介め! やるようになった!」

「見事だな。しかし小娘、自分の力で勝ったのではないぞ。その眼鏡の性能のおかげだということを忘れるな!」

「裸眼に比べ、我が眼鏡っ娘の数は30分の1である。にもかかわらず、今日まで戦い抜いてこられたのはなぜか。諸君、我が眼鏡っ娘萌えの目的が正義だからだ。これは諸君らが一番知っている。」

「眼鏡っ娘が嫌いな人がいるのかしら? それが眼鏡を外して滅びていくのを見るのは悲しいことじゃなくて?」

「なぜ魯介をエロに巻き込んだのだ!? 魯介はエロを描く人ではなかった! 貴様が魯介をエロに引き込んだ!」
「それが許せんというなら間違いだ。」
「な、なに?」
「エロがなければ魯介の眼鏡への目覚めはなかった。」
「それは理屈だ!」
「しかし正しいものの見方だ。」

「魯介は自分がいかに危険な人間か分かっていない。野蛮の園は、眼鏡っ娘萌えの有り様を素直に示しすぎた。」
「だから、なんだと言うんだ!」
「人は、流れに乗ればいい。だから私は、野蛮の園で抜く!」

「屈折リーベで魯介が言った、眼鏡っ娘は抜くための道具ではないって。」
「今という時では、人は眼鏡っ娘をエロの道具にしか使えん。魯介はエロを描く運命だったのだ。」
「貴様だって、眼鏡フェチだろうに!」
「えぇい、なら同志になれ。そうすれば魯介も喜ぶ。」
「正気か?」

国民よ!
悲しみを萌えに変えて立てよ、国民よ!
眼鏡っ娘こそが選ばれた民であることを忘れないでほしいのだ!
優良児たる眼鏡っ娘こそ、人類を救い得るのである!
ジーク眼鏡っ娘! ジーク眼鏡っ娘!

書誌情報

同名単行本全3巻。「僕がいちばん眼鏡っ娘をうまく描けるんだ。」

【単行本/Kindle版】西川魯介『野蛮の園 1』白泉社、2003年
【単行本/Kindle版】西川魯介『野蛮の園 2』白泉社、2004年
【単行本/Kindle版】西川魯介『野蛮の園 3』白泉社、2005年

 

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第149回:香川祐美「みやっこちゃんの法則」

香川祐美「みやっこちゃんの法則」

小学館『別冊少女コミック増刊』1982年7月号

不思議ちゃんに見えた眼鏡っ娘が、ふつうの女の子だったと気づくお話。そして結論から言えば、この場合の「ふつう」とは、つまらないとか取るに足りないとかいう意味ではない。相手を「キャラ」としてではなく、一人の人間として理解するということなのだ。

ヒロインの眼鏡っ娘は、尾西都。高校2年生。同じクラスになった伊藤くんは、眼鏡っ娘のことが気になって仕方がない。

都は、化学のテストは学年で1番なのに、現国のテストは18点だったりする。現国には正答なんかないと言って、好きなことを書きまくって、点数が悪くなるということらしい。そんな都のことを、伊藤くんは「おもしろい子」だと思う。「なんか変わってるなあ」と思う。今風に言えば「不思議ちゃん」といったところだろう。

都の不思議ちゃんっぷりは、どんどん伊藤くんを魅了していく。眼鏡っ娘の一挙手一投足が気になって仕方がない。

が、そんな眼鏡っ娘が、実はふつうの女の子だということに気がつくときが来る。都が失恋してしまったことを、偶然、伊藤くんは知ってしまう。

都は、伊藤くんに「わたし、恋なんかしないように見えるでしょ」とか「らしくない」とか言う。都は自分のことを「変わってると見られている」と認識していたのだ。でも、伊藤くんは、都が「ふつうの女の子」だと気づいた。伊藤くんに「ふつう」であることを受け止めてもらって、都の感情が溢れ出す。

都が涙を流したのは、伊藤くんが気づいたとおり「失恋のためだけではない」だろう。おそらく、自分のことを「ふつう」に受け止めてもらい、嬉しさと恥ずかしさが入り交じった感情が溢れ出したのだ。そして、都が「ふつうの女の子」だと気がついて初めて、伊藤くんも自分の気持ちに気がつくことができる。彼女のことが、好きだったのだ。そして二人の心の交流が始まる。

眼鏡っ娘というと、マンガや小説やアニメなどのフィクションにおいて、しばしば風変わりなキャラとして描かれる。世間の価値観とズレた眼鏡っ娘がたくさんいる。それ自体は、とても良い。我々はそういう世間に流されない眼鏡っ娘のことが、大好きだ。萌え。しかし萌え要素に囚われすぎて、表面上は一風変わった眼鏡っ娘たちが、実は「ふつうの女の子」であることを見逃してしまうとしたら、勿体ない。人格相互のコミュニケーションは、表面上の風変わりなキャラから生じるのではなく、「ふつう」の部分で行われるのだから。表面上の不思議キャラは「好き」とか「萌え」の対象にはなるかもしれないが、「愛」の対象にはならないのだから。相手を「キャラ」ではなく、一人の人間として理解するところから、愛というものは生じる。それは、伊藤くんに言わせれば、都を「ただの普通の女の子」として理解するということなのだ。結論を繰り返すと、この場合の「ふつう」とは、決してつまらないとか取るに足りないという意味ではないのである。

書誌情報

本作は28頁の短編よみきり。単行本『春の扉』収録。しみじみ、抜群に温かみのある絵が上手なマンガ家だ。特に「掛け網」の使い方が心地よい。本作でも、眼鏡っ娘の髪の毛や制服の黒が掛け網で表現されているところは、すごい技術だ。惚れ惚れとする。作画のデジタルテクノロジーが進化することで、こういう温かみのある掛け網表現は絶滅に向かっていくのか、それとも逆に発展するのか。

【単行本】香川祐美『春の扉 ユミのクリスタルワールド 3』小学館、1987年

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眼鏡文化史研究室

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第148回:陸野二二夫「それでも世界を崩すなら」

陸野二二夫「それでも世界を崩すなら」

秋田書店『もっと!』vol.6~『Championタップ!』2015年6月

予想を心地よく裏切られる、とてもいい作品だ。

主人公の眼鏡っ娘は、黒野書子(くろのかくこ)、13歳。地球を破滅させることを目論み、悪魔を召喚することに成功する。眼鏡っ娘が地球を滅亡させるのか!? と思いきや、悪魔は眼鏡っ娘の願いを、すげなく却下する。悪魔が願いを拒否すること自体がとても面白いのだが、理由がまたふるっている。書子に友達がいないのが、気にいらないと言うのだ。

友達がいないせいで、悪魔にも見放される眼鏡っ娘。かわいそう。しかし眼鏡っ娘は食い下がる。友達ができたら地球を滅亡させる力をもらうと、条件を提示する。悪魔も、それを飲む。いよいよ地球の存亡をかけて、眼鏡っ娘の友達作りが始まるのだった。すげえ斜めな展開だな。

が、これまで友達を作ったことがない眼鏡っ娘には、友達の作り方がわからない。悪魔から「友達作りの基本は挨拶」だとアドバイスを授かるが、簡単に挨拶できるようなら最初から友達作りに苦労するわけがない。眼鏡っ娘は、どうしても挨拶をすることができない。

逡巡と葛藤の末、眼鏡っ娘は必死に勇気を絞り出す。意を決して、ようやく「おはよう」と言うことに成功するのだった。人類にとっては小さな一歩だが、書子にとっては大きな一歩だ。良かったね、書子。斜めな展開だと思っていたら、なんだかいい話に着地したぞ。

そんなわけで、コミュ障の眼鏡っ娘が主人公になっているが、決して引き込もりやコミュ障の生態を笑いの対象にするような下世話なマンガではない。書子が、逡巡と葛藤を繰り返し、矛盾と困難に直面しながら、のろのろと、しかし着実に成長していく物語だ。書子は、表面上は憎たらしいことを言うが、心根は優しい娘だ。いろいろな理由があってひねくれてしまったのだろうが、頑張っている姿を見ると、応援したくなる。書子が一歩踏み出すと、読んでいる方も嬉しくなる。おそらく、悪魔も同じ気持ちなのだろう。厳しいツッコミも、そっけない皮肉や嘲笑も、振り返ってみれば全てが書子の成長の糧となっている。愛にあふれている。外連味たっぷりの登場人物たちにも関わらず、読後感はとても爽やかだ。とてもいいマンガだ。

そして、眼鏡の象徴的な意味についても、いろいろ考えさせられる。物語の冒頭において、眼鏡は書子にとって「バリアー」の役割を果たしている。眼鏡とは、脆弱な自分を外界から守る防御壁だ。だから、そのまま何も考えずにストーリーを作ると、防御壁を取り払ってハッピーエンドというような、つまり眼鏡を外しにかかる展開に陥りやすい。が、それは必然的に駄作となる。仮に眼鏡がコンプレックスの象徴であったとしても、それを安易に取り去ることは、あたかもカップ焼きそばのお湯切りの時に麺も一緒に捨ててしまうような、愚か極まりない行為なのだ。本作は、そんな愚を犯さない。書子は最後まで眼鏡を外さない。物語の途中で眼鏡の象徴的意味が変化するから、外す必要がないのだ。変化とは、どういうことか。確かに眼鏡は、外からは防御壁のように見える。が、内側の視線から考えた場合、眼鏡は世界と繋がるための窓口なのだ。外からは防御壁だが、内からは窓口。これが眼鏡論的な要点だ。本作の眼鏡は、最終的には、世界と繋がることの象徴となる。当初は外界を拒絶していた書子は、悪魔さんのアドバイスを得ながら、自分で「世界を見る」という意志を持ち始める。眼鏡が世界と繋がる窓口に変わる。核心部分のネタバレになるから詳しくは書けないが、書子が示した「見る」という意志は、185頁で端的に確認することができる。
眼鏡は、世界を拒絶する防御壁にもなれば、世界と繋がる窓口にもなる。どちらになるかは、悪魔の言うとおり、「それを決めるのはお前である。」ということだ。この眼鏡の有り様は、「メディアとしての言葉」というものの機能とよく似ている。そして本作は、「メディアとしての言葉」の有り様を実によく描いている。言葉は世界を拒絶して内側にこもるものであると同時に、世界と繋がる窓口でもある。一見世界を拒絶しているかに見える書子の言葉は、本心では世界と繋がることを強烈に欲する表現だ。一見書子を嘲る悪魔さんの言葉は、本心では書子を応援するための表現だ。このように矛盾する「メディアとしての言葉」の有り様が、眼鏡の描写にも通底している。だから、「スカートを短くしろ」とか「眉毛を剃れ」とか「髪を染めろ」とか「大衆に迎合しろ」とか言う悪魔さんは、決して「眼鏡を外せ」とは言わなかったのだ。しみじみと、良い作品である。

書誌情報

同名単行本全一冊。電子書籍で読むこともできる。
著者のブログには、1頁眼鏡マンガや、眼鏡っ娘のイラストがたくさんある。また、「絵描くと自然と眼鏡描いてる’S」という、前世から眼鏡を書き続けているらしい面々の一員だったりするので、たぶん前世から応援してる。

【Kindle版、単行本】陸野二二夫『それでも世界を崩すなら』秋田書店、2015年

【著者ブログ】66

【同人】絵描くと自然と眼鏡描いてる’S

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眼鏡文化史研究室

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第147回:宮沢由貴「双子座迷宮」

宮沢由貴「双子座迷宮」

小学館『デラックス別冊少女コミック』1996年冬の号

率直に言えば、平凡な作品である。だが、それが尊い。この尊さが分からない輩には、小一時間ほど説教を喰らわせたい。

主人公の亜衣は、眼鏡っ娘の高校生。双子の姉なのだが、妹の麻衣にはあらゆるスペックで劣っている。亜衣は眼鏡をかけているが、運動だけでなく、勉強も苦手なのだ。しかもドジっ娘。加えて、ソバカスで三つ編み。ありがとうございます。
亜衣は、そんなダメダメな自分の立場を双子座になぞらえて、カストルと呼んでいる。同じ双子座でも、ポルックスは一等星で、カストルは二等星。それがまるで麻衣と自分の差を示しているように思えるからだ。

そんな亜衣は、星が大好き。好きすぎて、プラネタリウムに通っている。その館長の息子が、本作のヒーロー、昴くん。少女マンガのヒーローだけあって、格好いいことを言う。彼によれば、カストルもポルックスも恒星で、「自分の力で耀いている天体」ということではまったく変わりがない。それと同じように、「亜衣ちゃんにも麻衣とは違った別の良さがあると思う」と言う。この言葉が、コンプレックスで弱っていた亜衣の心に深く染みわたる。

そんなイケメン昴くん、実はかなりのモテ男で、ガールフレンドがたくさん存在していた。そして、ちょっとした行き違いから、亜衣はただ昴にからかわれていただけだと勘違いしてしまう。落ち込む亜衣。
だが、麻衣の手助けもあって、亜衣は昴くんの言葉を思い出す。自分は自分なりに耀けばいいんだと。

亜衣は昴くんを信じる。走り出した亜衣を双子座流星群が導いて、昴くんのところに連れて行ってくれるのだった。うーん、ハッピーエンド。

まあ、大雑把にまとめれば、コンプレックスを持っていた主人公が、並み居る美人たちを追い越して、いい男に「そんな君が好き」と言われるストーリーだ。王道と言えば、王道。平凡と言えば、平凡。だが、それがいい。これでなくてはいけない。いつも道子みたいでは、疲れてしまう。劣等感を持っていた眼鏡っ娘が、ふつうに眼鏡のままふつうに幸せになる。そんなふつうのマンガが存在してくれないと、世の中は成り立たない。眼鏡を外して美人だなんてことは、起こるはずがないのだから。この話のように全ての眼鏡っ娘が眼鏡のまま幸せになってくれることを願うのだった。

書誌情報

本作は40頁の短編よみきり。単行本『真夜中のアダム 宮沢由貴ラブストーリーズ3』に所収。
きめ細かい作画と安定の構成、丁寧な登場人物の心情描写で、安心して読めると思いきや、他の作品はなかなかの鬱展開だったりするから油断ならない。

【単行本】宮沢由貴『真夜中のアダム 宮沢由貴ラブストーリーズ3』小学館、1997年

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眼鏡文化史研究室

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第146回:高橋亮子「道子」

高橋亮子「道子」

白泉社『ララ』1978年10月号、79年1月号、12月号、80年1月号

(以下、基本的に鬱展開の作品なので、鬱展開が苦手な人には離脱をお勧めします。)

横顔が印象的な眼鏡っ娘だ。これほど横顔が似合う眼鏡っ娘は、他にいない。それは、横顔であることに本質的な意味があるからだろう。結論から言えば、眼鏡は「視線」の在処を端的に示し、横顔は「視線」が彼方に向かっていることを暗示しているのだ。本作を読み解くキーワードは「視線」であり、だからこそ眼鏡は決定的に重要なアイテムとなる。

ヒロインの道子は、眼鏡っ娘作家、23歳。病弱で家事能力ゼロ。一人暮らしをしていたが、貧血で倒れてしまい、親戚の家にしばらく厄介になることになる。そして、そこで出会った高校生男子、晃史くんの人生を狂わせていくことになる。

道子本人は、色恋沙汰にまったく興味がない。結婚も最初からする気がまったくない。ファッションも女らしくないし、言動も普通ではない。しかしそんな道子に、晃史は次第に惹かれていく。

道子には「やりたいこと」がたくさんあるという。ただ、その「やりたいこと」の中身は、明確ではない。とても曖昧なものだ。その曖昧さを、道子本人は「見えそうな気がするんだけど、手をのばすと、ふっ…と遠くへ行っちゃう」と表現する。この種の話になるとき、いつも道子は横顔で描かれる。つまり、晃史くんのほうを向いていないことを示している。今ここではない、どこか遠くを見ながら、道子は掴み所のない話をする。晃史くんは、「その時の彼女の視線の遠く」が気になってしまう。その視線の先にあるのは、何か。彼女が眼鏡を通して見ているのは、どういう世界なのか。

晃史くんには実は美人のガールフレンドがいたのだが、眼鏡っ娘に惹かれつつある自分を自覚し、ガールフレンドを捨てる。眼鏡っ娘の魔力に取り付かれてしまった晃史くん。そして、晃史くんが思い浮かべる眼鏡っ娘は、いつも横顔なのだ。晃史くんを見ていないのだ。その視線は、目の前の晃史くんではなく、はるか彼方に向いている。悶々とする晃史くん。

溢れる想いをもてあます晃史くんは、もう我慢できない。思わず道子を抱きしめ、想いを打ち明ける。しかし道子はそっけない。「わたしは、だれのものにもならない」。二人は結ばれない。最初から結ばれるわけがないのだ。晃史くんが憧れていた眼鏡っ娘は、常に横顔だったのだから。その眼鏡越しの視線は、彼ではなく、彼方に向かっているのだから。

道子が眼鏡越しに見ていた視線の先には、いったい何があったのか。実のところ、彼女自身にもそれが何なのか、分かっていない。見えていない。視線を向ける先は分かっていても、その先に何があるのかは見えない。道子もそれを自覚しているから、晃史を受け入れることができない。

道子が言う「本当の何か」とは、「それがあることはわかる」けれども「見えていない」という何かだ。道子は「自分が自分でいたいだけ」と言うが、実は道子には「自分」とは何かということが分かっていない。そう、「自分」こそが「見えていない」ものの正体だ。道子が向ける視線の先に、もちろん、自分など見えるはずがない。

自分からは自分が見えない。自分を見るためには、必ず他人の視線が必要になる。「自分とは何か」を教えてくれるのは、自分ではなく、常に他の誰かだ。しかし道子が横顔であるということは、実は自分というものを教えてくれる他者と向き合えていないことを意味している。

しかし一度だけ、道子と晃史くんの人生が真正面からぶつかる。そのとき、晃史くんは真正面から道子の眼鏡を外す。その眼鏡を外す行為は、凡百の作品によく描かれるような、道子からコンプレックスやアイデンティティを奪うことの象徴ではない。それはむしろ、道子が見ていた「視線の遠く」を共有しようとする意志の表れである。道子の眼鏡は、道子の視線の方向を示すものであり、道子が見ていた世界全体を包括するアイテムだ。その眼鏡は、いつも横を向いていた。その眼鏡が、晃史くんに向けられることはなかった。が、いま、晃史くんは真正面から道子の眼鏡を取りあげる。そして眼鏡を外すという行為は、晃史くんにとっては「道子の視線」を共有する意志だが、一方の道子にとっては「自分の視線」を他者に委ねる信頼である。道子の視線=生への意志が、眼鏡の授受を通じて、初めて晃史くんの意志と交錯する。二人は心を通わせる。震える。他の作品でも私自身の象徴としての眼鏡は描かれてきたが、これほどまで眼鏡を実存的なシンボルとして描ききった作品は、他にないと思う。「視線」という目に見えないものを眼鏡を通じて描き切るという、作者の類いまれな力量が生み出す迫力である。凄い。
そして道子は、再び眼鏡をかける。道子は、自分の視線を取り戻す。道子と晃史くんの人生は、再び別れる。しかしそれは、道子が元の「ひとりよがり」の自分に戻るということではない。「視線の遠く」を共有しようとしてくれた大切な人がいることを、今、彼女は知っている。そして晃史くんは、今度は自分だけの「視線の遠く」に向かって、歩き始める。切なくも淡いラストである。

書誌情報

同名単行本全一冊。古本でしか手に入らないが、案の定プレミアがついてしまっている。こういう名作を読むことができるために、電子アーカイブ化は有効だと思う。

著者の高橋亮子は、「つらいぜ!ボクちゃん」や「がんばれ!転校生」など、夢に向かって明るく前向きに突き進む作品群で知られる傾向にあるが、実はそうとう実存的な葛藤と苦悩を抱えた作家であり、その内省的な傾向が顕著に顕れたのが本作であるように思う。ナチュラルに高踏的すぎて、ボディブローのように効いてくる鬱展開ぷりに21世紀の読者がどれだけついてこられるのか心配ではあるが、眼鏡っ娘評論的な立場から言えば、この上なく眼鏡らしい作品である。大傑作。

【単行本】高橋亮子『道子』白泉社、1980年

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眼鏡文化史研究室