この眼鏡っ娘マンガがすごい!第87回:えにぐまなみ「よよぎのじじょう」

えにぐまなみ「よよぎのじじょう」

集英社『ぶ~け』1994年10月~95年6月

眼鏡の「ON/OFF」の不連続性という特徴を存分に活用した作品。
ヒロインの「上原よよぎ」は眼鏡っ娘。ひょんなことから幽霊の「八幡よよぎ」と同調し、一つの体の中に二人の「よよぎ」の人格が入ってしまう。人格の切り替わりのスイッチが眼鏡だ。眼鏡ONの時は「上原よよぎ」の人格、眼鏡OFFの時は「八幡よよぎ」の人格になってしまうのだ。この世に未練を残して幽霊になっていた八幡よよぎは、生身の体を手に入れて大暴れ。ヒーローの渋谷道玄くんは、よよぎの不審な挙動の原因が眼鏡OFFにあると見抜き、よよぎに眼鏡をかけさせようとする。この眼鏡をかけさせようとするシーンを見ると、とても心が躍る。

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「さあっ、おとなしくこのメガネをかけるんだ」というセリフは、ぜひあらゆる場面で使用していきたい。
さて、無事に眼鏡をかけると、元の「上原よよぎ」の人格に戻る。

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こうして、二人の「よよぎ」に渋谷道元くんが翻弄されて、おもしろおかしいドタバタコメディが繰り広げられる。
しかしこの不安定な状態をいつまでも続けられるわけがない。上原よよぎと八幡よよぎがどちらとも道玄くんのことを好きになってしまったことから、人格のバランスが急激に崩れていく。特に眼鏡がなくなってしまってから、上原よよぎの声が聞こえなくなってしまう。眼鏡は幽霊の八幡よよぎを封印すると同時に、上原よよぎと八幡よよぎの心を繋ぐ「媒体」の役割を果たしていたのだった。その眼鏡が失われてしまったために、上原よよぎの人格が戻らないどころか、声すら聞こえなくなってしまったのだ。

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眼鏡が「心と心を繋ぐ媒体」の象徴として描かれたことには、非常に深い意味が込められている。八幡よよぎと道玄くんは、上原よよぎとの絆を取り戻すために、必死に失われた眼鏡を探す。

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眼鏡を捜索する過程で、道玄くんと八幡よよぎは、自分の本当の気持ちに気が付いていく。彼らは失われた眼鏡を探していたと思っていたが、本当は自分の気持ちを探していたのだった。本当に大切なことに気が付いた八幡よよぎは、自ら身を引くことを決意する。

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結局、眼鏡は見つかり、上原よよぎの人格も戻ってくる。このとき、道玄くんが後ろから眼鏡をかけてあげていることに注意したい。後ろから眼鏡をかけることは、「視線を共有する」ことを意味する(当コラム第68回参照)。ここで二人が共有しているのは、もちろん八幡よよぎへの思いだ。たとえ八幡よよぎが成仏し、この世から消えてしまったとしても。この眼鏡がある限り、絆は繋がり続けるのだ。
眼鏡の「ON/OFF」の切り替わりを人格変化のスイッチにする作品は、他にもいくつかある。が、それをさらに「絆」というテーマに昇華させたところに、この作品独特の凄さがある。

■書誌情報

単行本全2巻。作者の名前は、「えにぐま」が苗字。掲載誌は『ぶ~け』だが、コミックスはマーガレットレーベル。なんだかamazonで検索しても出てこないけれど、他の古本通販サイトではちゃんと出てくるはず。

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第85回:池野恋「ヒロインになりたい」+柊あおい「ペパーミント・グラフィティ」

池野恋「ヒロインになりたい」+柊あおい「ペパーミント・グラフィティ」

集英社『りぼん』1991年1月~3月号 集英社『りぼんオリジナル』1994年6月~12月号

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「オムニバス形式」という言葉がある。マンガに限らず、映画・小説・演劇等、フィクションに見られる様式の一つだ。主人公が異なるいくつかの独立した短編が連続する一方で、それらの短編すべてを通じて全体として世界観が一つにまとまっているようなフィクションを「オムニバス」と呼んでいる。主人公視点が複数存在することにより、一つの世界を多面的に見ることが可能になる創作様式だ。複数視点がもたらす文学的効果は芥川龍之介「藪の中」等に典型的に認めることができるが、その効果は少女マンガの中で独特な進化を遂げていく。特に我々が注目すべきなのは、少女マンガで進化したオムニバス形式においては、複数主人公のうち一人が眼鏡っ娘!というケースが非常に多いということだ。というか、オムニバス形式の本質を理解しようと思ったら、まずは眼鏡っ娘について理解しなければならない。眼鏡は全てに通ずる。今回紹介する2つのオムニバス形式の作品も、もちろん複数主人公のうち一人が眼鏡っ娘という作品だ。

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池野恋は、1980年代半ばから90年代にかけて『りぼん』の看板を張った作家。そして代表作「ときめきトゥナイト」連載中に描いたオムニバス形式の作品が、この「ヒロインになりたい」だ。主人公は3人いて、そのうち一人が眼鏡っ娘の小園沙夜子ちゃん。高身長に悩む眼鏡っ娘だ(巨大眼鏡っ娘ファンのかたには悲報だが、公式身長は168cmと大台には届かず)。仲良し3人組の女の子が、それぞれ想像していたのとはちょっと違った形で恋に目覚めていく話だ。この作品のオムニバス効果は、「想像とちょっと違った形の恋」というところに顕れている。もしも主人公が一人だけだったら、この「想像とちょっと違った形の恋」という話は、作者が意図した主題だとは分からないだろう。しかし本作は3人の主人公が3人とも「想像とちょっと違った恋」によって幸せになっていく。こうなると、この短編連作の主題がここにあることが明確になる。一話読み切り形式の掲載が多い少女マンガだからこそ、こういった主題の見せ方が発展したと言えるだろう。

もう一作は、80年代半ばの『りぼん』のヒットリーダー柊あおい。代表作「星の瞳のシルエット」も主人公クラスが3人いる物語だったが、こちらはオムニバス形式ではなかった。「ペパーミント・グラフィティ」は、主人公が4人いるオムニバス形式だ。

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本作では、映画製作を通じて4組のカップルが誕生していく。それぞれのカップル誕生の話が1話ずつ、全4話で構成されている。それぞれ個性的なヒロインたちが、その個性にマッチした相手を見つけていく。この作品から受ける「円満感」は、もしも主人公が一人だったら味わうことは難しいだろう。それぞれ個性の異なる4人のヒロインがそれぞれ違った形で幸せになるという結果を、バラバラに感じるのではなく、まとまった一つの世界として一挙に受け止めることができる。これが他の形式では味わえない、オムニバス形式の大きな特徴だ。この形式が少女マンガで独特な発展を遂げたのには、必然的な理由があるだろう。そしてヒロインの中にだいたい一人は眼鏡っ娘がいるという事実にも、なにか世界の真実が秘められているだろう。この事情については、さらに他の作品を見る中で考えていきたい。

 

■書誌情報

085_05両作とも電子書籍で読むことができる。
柊あおい『ペパーミント・グラフィティ』の眼鏡っ娘は、白黒だと分かりにくいが、カラーで見ると鼈甲ぶちであるように見える。マンガで鼈甲ぶちというのは極めてレアなので、ぜひ注目したい点だ。

Kindle版:池野恋『ヒロインになりたい』(りぼんマスコットコミックスDIGITAL)
Kindle版:柊あおい『ペパーミント・グラフィティ』(りぼんマスコットコミックスDIGITAL)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第64回:惣領冬実「あたしきれい?」

惣領冬実「あたしきれい?」

小学館『別冊少女コミック』1994年3月号

054_hyou「眼鏡っ娘起承転結構造」については、田渕由美子を紹介するところ(第54回)で詳しく見た。起承転結構造は、その後も少女マンガのスタンダードとして描き続けられていく。それは物語構成が真似をされているということを意味しない。なぜなら、「ほんとうのわたし」と「ほんものの愛」について真剣に突き詰めて考えると、だいたいこの結論に行きつくからだ。起承転結構造は人類の普遍的な思考様式なのであって、だからこそ説得力があるのだ。それは思想史的には「弁証法」という形式で説明されるのだが、思想史的論理は機会を改めて確認するとして、まずは豊富にある実例を確認していきたい。

本作の眼鏡っ娘は、16歳。眼鏡のうえに、身長172cmもコンプレックス。片思いの先輩にも、告白なんてできっこない。対照的に、友達のまゆみは背が小さくてとてもかわいい。憧れの先輩とも普通に話すことができる。眼鏡っ娘は一念発起して努力してキレイになろうとしてみたものの、憧れの先輩には顔のことで笑われてしまう。「起」は、眼鏡をかけて、愛が無いところから始まる。結局、憧れの先輩は可愛いまゆみとつきあうようになる。

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そんなこんなで、高校生時代はまったくモテなかった眼鏡っ娘だったが、東京の大学に進学してから環境が大きく変わる。背が高いところに目をつけられてモデルに勧誘されて、これが大当たり。プロのメイクさんが手を加えたところ、びっくりするような美人になる。憧れの先輩も、この美人があの眼鏡っ娘だったとは気がつかない。そして、まゆみにフラれたらしい憧れの先輩からも、とうとう告白される。眼鏡っ娘は、眼鏡を外してモテモテになってしまったのだ。「承」では、眼鏡を外して愛を獲得する。先輩は「人間見た目じゃないね」などと言って、なかなかデキた人間かのように思われた。

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だが、そんな眼鏡を外した愛など、欺瞞に満ちていた。高校の同級生だったまゆみが先輩のことを追いかけて東京までやってくるのだが、太ってブスになってしまったまゆみに、先輩は酷い言葉をかける。「オレは見た目の悪い女とはかかわりたくないんだ」なんてセリフ、どんだけクズなんだ、この男。実は先輩がまゆみにフラれたというのはウソで、ブスになったまゆみはお払い箱になっていたのだった。そんな場面を偶然目にした眼鏡っ娘は、これがマヤカシの愛だったことを知り、再び眼鏡をかけ直す。「転」では、眼鏡なしの愛など、ただのマヤカシだと知る。

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ウンコのような男に幻滅した眼鏡っ娘は、男になんか頼らない女性のための女性の美しさを目指して、プロのメーキャップ師を目指す。もちろん眼鏡をかけたまま働く。田舎の母は、眼鏡無しの写真をひそかにお見合写真に使って逆玉を狙っているが、眼鏡っ娘の方はもちろん見た目に寄って来る男と結婚するつもりなどない。お見合い本番は眼鏡で登場し、写真の美人と眼鏡の自分とは別人だと言って、顔目当てでやってきたクズ男をギャフンと言わせてやるのが常だった。そして次のお見合いも、そうなるはずだったのだが。そこに思いがけなく、真のヒーローがやってくる。女を見た目で選ぶのではなく、人格で好きになった男がやってくる。この男がメガネくんであるところに、運命を感じざるを得ない。こうして眼鏡っ娘が「ほんとうのわたし」と「ほんものの愛」を獲得して、「結」となる。

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惣領冬実は、強弱のない淡泊な描線で構成された白い画面が魅力的な、都会派センスに溢れたストーリーを紡ぎだす優れた作家。コマ割りも非常に読みやすく、一見しただけでも卓越した画面構成力を持つことが分かる。そんな実力作家が、眼鏡を外して美人でハッピーエンドなどというマヌケなマンガを描くわけがないのだ。真剣に人間を描くことを追求したとき、必ず起承転結構造が降りてくる。世界の真実を求めた時、眼鏡っ娘は眼鏡をかけたまま幸せになるのだ。

■書誌情報

単行本『天然の娘さん』2巻に収録。長編をきっちり描ききることで定評のあった惣領冬実が短編連作を試みたという意味でも、興味深い作品。電子書籍で読むことができる。

Kindle版:惣領冬実『天然の娘さん』2巻(フラワーコミックス、1994年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第39回:小山田いく「ドリーマーの季節=ショウの妖精=」

小山田いく「ドリーマーの季節=ショウの妖精=」

秋田書店『月刊少年チャンピオン』1994年2月号

前回に続いて小山田いく作品。後味が悪い作品ではあるが、眼鏡的にはかなりおもしろい。
主人公のショウは、中一のころから夢の中で理想の女の子とセックスをして夢精を繰り返していた。ヤリチンの友人は、そんな夢を見るのは童貞のせいだと考えて、ショウに現実の女の子を紹介する。ショウの初体験の相手は、眼鏡っ娘で、処女だった。いよいよセックスに突入というときのシーンが、すごい。

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眼鏡っ娘のことを美人じゃないと思っていたのはともかく、眼鏡をはずしたら美人になるんじゃないかと思って試しに外してみて、やっぱり「そんなに美人じゃないんだ」と確認してしまうなんてエピソードは、ちょっと見たことがない。眼鏡を外して美人になるわけがないのは、物理的な真実ではある。が、主人公が敢えてそれを確認しにいくというエピソードは、なかなか強烈だ。

039_02しかしショウくんは、このあと眼鏡っ娘とデートを繰り返して、当初は気づいていなかった眼鏡っ娘の魅力を次々と発見していく。眼鏡っ娘はその存在自体が尊いのであって、顔が美人かどうかは些細なことであることに、ようやくショウも気が付き始める。そうなんだぞ、眼鏡っ娘はやることの一つ一つがいちいちかわいいんだぞ。
が、残念ながらショウはまだ子供だった。眼鏡っ娘の本当の尊さについに辿り着くことなく、夢の中に登場する理想の女にこだわって、眼鏡っ娘と別れることとなる。すると、ヤリチンの友人が眼鏡っ娘と付き合い始める。彼は、外見ではわからない眼鏡っ娘の本当の魅力に気が付いていた。いっぽうのショウは、失って初めて眼鏡っ娘の本当の素晴らしさに気が付く。外見にこだわっていた自分の愚かさにようやく気が付く。が、時すでに遅し。幸せそうな眼鏡っ娘を見送ったショウは、大人の階段を登っていくのだった。

まあ、ショウはどうしようもないやつだが、最後に眼鏡っ娘が幸せそうに笑ってくれたのは大きな救いだった。

■書誌情報

単行本『むじな注意報』第5巻に収録。が、どうも5巻だけ単独で手に入れるのは容易ではなさそうだ。全5巻セットもプレミアがついていて、入手難度はちょっと高めかもしれない。

単行本全巻セット:小山田いく『むじな注意報!』全5巻(少年チャンピオン・コミックス)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第26回:高野文子「奥村さんのお茄子」

高野文子「奥村さんのお茄子」

マガジンハウス『COMICアレ!』1994年5月号

026_06本作は、サブカル系必読の神作品ということになっている。サブカル必読の作品として、例えば、つげ義春「ねじ式」とか水野英子「ファイヤー!」など、いくつかのカノン(正典)が定まっているわけだが、高野文子の一連の作品もそういうサブカル御用達のカノンとして位置づいていて、その中でも本作は最高傑作と誉れが高い。それゆえに、サブカル系の人々は本作を解読するべく、様々な解釈を施してきている。ちょっとググってみれば、本作の解釈をめぐる考察が大量に引っかかる。しかしそれらの解釈を眺めてみても、私はまったく感心しない。問題の本質を衝いている考察が、一つとして見当たらないのだ。本作の本質は、サブカル系の人々が考察するところには存在しない。本作を読み解くためには「主人公が眼鏡っ娘」であることを前提に据えなければならないのに、誰もそのことに気が付いていないのだ。本質は、眼鏡にあるのだ。

026_07本作の主人公は2人。奥村さんと、眼鏡っ娘の遠久田さん。ところがこの眼鏡っ娘は人間ではなく、どうやら宇宙からやってきたらしい。本体は眼鏡っ娘ではなく、地球人とコミュニケーションをとるためにこの形に形成されたようだ。このとき、眼鏡が脱着可能なものだとは分からなかったらしく、遠久田さんの眼鏡は顔と一体になるように形成されて、外すことができない。これだ。外すことのできない眼鏡!!! だからコーン油がついて眼鏡がくもってしまったときも、外して拭くことができず、布を眼鏡と顔の間に挿入してキレイにすることになる。こんな画は、高野文子以外には描けない。ここまで見ても、眼鏡なしで本作を解釈することの無意味さが分かるはずだ。

026_08さらに眼鏡描写でものすごいのは、遠久田さんの視点を、眼鏡フレーム越しに描いたコマだ。商店街を進む遠久田さんの眼鏡のこちら側から世界を映しだす画。それまでの三人称視点から、遠久田さんの一人称視点への転換。そしてこの転換が画として可能になっているのは、眼鏡があるからだということに気を付けてほしい。もしも画面に眼鏡のフレームが描かれていなかったら、それが三人称視点なのか一人称視点なのかを判断するための材料が存在しない。眼鏡のフレームが画面内に描かれることによって、初めてそれが遠久田さんの一人称視点であることが明らかになる。この視点変更のあり方は、おそらく物語を読み解くうえで欠いてはならないものだろう。

026_09さらに、一人称視点で電柱にぶつかった遠久田さんは、眼鏡が割れていないことを確認した後、こう言うのだ。「メガネはカッオーの、いちぶーですっ」。もはや、本作が眼鏡マンガであることは、ここに確定したといってよい。本作の狙いや意図がどこにあるかは、様々な論者がさまざまに解釈してきたが、いっこうに意味不明のままに終わっているのは、みんな眼鏡を無視してきたからに他ならない。宇宙人が自らを人間に擬するときに三つ編みの眼鏡っ娘を敢えて選択したことには、絶対に重要な意味がある。そして最後の女性、ポストの女性ユキ子さんも眼鏡っ娘であることを確認し、そのまま物語が終わったとき、私はお釈迦様の掌の上で転がされていたような、何とも言い難い不思議な感覚に襲われるのである。

■書誌情報

サブカル系の正典として読み継がれてきており、さらにこの先もマンガの古典的名作として末永く語り継がれていくだろう。マンガマニアを自認するなら、高野文子を知らないことは許されない。よって単行本も新刊で手に入る。

単行本:高野文子『棒がいっぽん』(マガジンハウス、1995年)に所収。amazonレビューを一瞥するだけでも、高野文子のサブカル的位置づけがなんとなく見える。

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