この眼鏡っ娘マンガがすごい!第60回:速水螺旋人「靴ずれ戦線 魔女ワーシェンカの戦争」

速水螺旋人「靴ずれ戦線 魔女ワーシェンカの戦争」

徳間書店『月刊COMICリュウ』2010年12月号~13年2月号

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その人を除いては絶対に描けないマンガというものがある。本作は、あらゆる意味で速水螺旋人にしか描けない、極めて個性的な作品だ。
060_02もちろん独ソ戦、スラブ民話、ロシア正教といった題材に対する深い知識、かわいらしい絵柄、フリーハンドで引かれたような背景の描線が醸し出す柔らかい世界観なども独特の個性を作り出しているが、仮にたとえ同じような知識と技術を持った作家がいたとしても、この独特の作品を生み出すことはできないだろう。戦争を通じて垣間見える「人間というもの」への洞察が、これほど冷徹でありながら同時に慈愛に満ちているということは、ほとんど奇跡のように思える。たとえば冷徹な面は、具体的には人間の死を描写するところに顕れている。描写が、乾いている。人間の死というものに、深い意味を持たせない。人は、突然、意味もなく死ぬ。多くのフィクションは、勢い、人間の死というものに何らかの意味を持たせながら物語を作り上げていく。感動的な「死」でなければ、人は「死」というものを耐えることができないからだ。だが、本作はそれを拒否して、人の死を無感動なものとして描く。死を無感動に描ける作家としては、他に伊藤伸平や高遠るいを思いつくが、そんなにたくさんいるわけではない。しかし死を冷徹に描くからといって、冷酷というわけではない。それを可能にしているのは、戦争というものに対する首尾一貫した姿勢にある。本作は、決して戦争を「抽象化」しない。徹底的に具体的に描き続ける。現在、集団的安全保障に関わって戦争に関する議論が喧しいが、右にしろ左にしろ、抽象化された議論は常に上滑りしている。抽象化されてキレイゴトとなった地に足のつかない議論同士の空中戦は、お互いに噛み合わずに永遠に空転し続ける。本作では、抽象化された戦争は常に揶揄の対象となっている。事態は常に具体的で細かなコミュニケーションの積み重ねから動いていく。私はミリタリーや安全保障に関する知識は世間並みにしかもっていないのだが、それでも本作を通じて「戦争というもの」に対する様々な感情が掻き立てられるし、さらに「人間というもの」の存在様式そのものに対する慈しみを感じ取ることができる。単に知識や技術があるだけでは、こういった感情を掻き立てられることはないだろう。作者の人格が作品に反映されているからこそ、題材や描写が極めて殺伐としているのに、温かみを感じるのだと思う。

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が、とりあえずそのあたりのことはどうでもよい。眼鏡が問題だ。ナージャ、超かわいい。眼鏡のズレっぷりが絶妙。ここまで眼鏡のズレを極めたキャラクターは、そう滅多に見られるものではない。しかも眼鏡を主張せずに、ごくごく自然に眼鏡であることも素晴らしい。お風呂に入るときに眼鏡を外すシーンがあるのだが、そのときの「おまえ誰?」感がすごいのも素晴らしい。性格も眼鏡っぽい。根は生真面目なのに、ときどき素でとんでもないことをやらかす。超かわいい。しかも百合要素が多くて大興奮。女の子同士のキスシーンも、眼鏡っ娘が関わると興奮度256倍(当社比)。眼鏡っ娘の最後の戦いには、思わずほろっとしてしまった。眼鏡っ娘には幸せになってほしいなあ・・・と思いつつ、この後のソ連で生き抜くのは大変なんだよな・・・

■書誌情報

単行本全2巻。新刊で手に入る。ミリタリーやメカが好きな場合は、単行本収録のコラムはかなりおもしろいはず。

単行本:速水螺旋人『靴ずれ戦線』1巻 (リュウコミックス、2012年)
単行本:速水螺旋人『靴ずれ戦線』2巻 (リュウコミックス、2013年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第59回:大島弓子「季節風にのって」

大島弓子「季節風にのって」

小学館『週刊少女コミック』1973年9月号

059_01「ほんとうのわたし」概念が少女マンガに定着する過程を考える上で、決定的に重要な作品だ。特に眼鏡に関わって、「ほんとうのわたし」概念が二段階に展開していく物語構成は、見事と言うしかない。

主人公は、眼鏡っ娘のアン。自分はブサイクだと思い込んで、おしゃれにはまったく関心がない。三つ編みが左右でメチャクチャでも、まったく気にしない。美しい母が身だしなみの注意をするが、眼鏡っ娘のほうは「どんなに綺麗に編んだって、あたしは変わりゃしないよ」と無頓着。しかしそれはやはり劣等感ゆえの行動だ。眼鏡っ娘は心の中で「綺麗な母様、私の悲劇が分かるまい。みんな私をおかしいと言う、みんな私を見て笑う」とつぶやく。オシャレをしたって自分が惨めになるだけだと思っているのだ。しかし、「美容師」というあだ名の男の子は、実はアンのことが好きで、自分の手でアンを美しくしてあげたいと思っていたりする。が、もちろんアンはそのことに気が付いていない。

059_02そんななか、超イケメン教師が学園にやってくる。女生徒たちは大騒ぎするが、なんとそのイケメン教師は、アンを初めて見るや否や、いきなりキスをしたのだ。どうやらアンのことを一目見て大好きになったらしい。いきなりキスされた眼鏡っ娘は、顔を真っ赤にして逃げてしまう。愛されているという現実をなかなか受け入れることができない。「ソバカス、ドキンガン、ひっつれたおさげ」の不細工な自分が愛されるわけがないと思い込んでいたのだ。
しかしイケメン教師は、全身でアンへの好意を示し続ける。激しく好意を示され続けたアンは、どうして自分のようなブサイクが好かれるのか、疑問に思う。「いったいあの人、わたしのどこに魅力を感じたのだろう?」 その問いに対する母親の答えが、「ほんとうのわたし」概念を掴む上で極めて重要だ。「あなたがあなたであれば、誰だって魅力的なのよ」。
これは、「好き」と「愛」の違いを端的に示した言葉だ。「好き」と「愛」の決定的な違いは、「代わりがある」か「代わりがない」かという点にある。
059_03たとえば、「愛しているタイプ」という言葉が日本語として不自然な一方で、「好きなタイプ」という言葉には違和感がないことを考えると、分かりやすい。「好きなタイプはショートカットだ」と言えば、ショートカットならA子だろうがB子だろうがZ子だろうが、誰だって「好き」ということになる。「好き」という言葉は、A子でもB子でもZ子でも誰でもいいという、「代わりがある」という状況で使う言葉なわけだ。逆に「愛しているタイプ」という日本語がありえないのは、「愛」とは「代わりがない」ものに使う言葉だからだ。A子を愛していると言ったとき、A子がショートカットだろうがロングヘアだろうが愛しているし、巨乳だろうが微乳だろうが関係なく愛している。「A子には他に代わりがいない」という存在のありかたそのものが「愛」の対象なのであって、なんらかの条件に適合するから「愛」が生まれるわけではない。我々は、交換不可能なかけがえのない存在に対して「愛」という言葉を使うから、「愛しているタイプ」という言葉には違和感が生じるのだ。
母が言った「あなたがあなたであれば誰だって魅力的なのよ」という言葉は、交換不可能な唯一の存在であれば必ず「愛」の対象になるということを説明している。逆に言えば、流行を追いかけて誰かの真似をすることは、自らを交換可能な存在へと貶め、「愛」の対象から外れてしまう行為だ。たとえ「好きなタイプ」の範囲内に入ることは可能であっても、かけがえのない唯一の存在として「愛」の対象となることは不可能なのだ。眼鏡を外すことは、自らを「愛」の対象から外すことなのだ。本作では、アンは他の女どもと違ってオシャレに関心を持たずに眼鏡をかけ続けたことによって、イケメン教師にとって交換不可能な唯一無二の存在となっていたのだった。

ここに「ほんとうのわたし」概念が明らかになったように見えるが、本作がすごいのは、ここからさらに一歩踏み出していったところにある。実はイケメン教師がアンのことを好きだったのは、17年前に眼鏡でおさげでソバカスの女性を好きになったからだった。初恋の女性にそっくりだったために、アンのことも好きになったのだ。そう、つまり、アンは交換不可能な唯一無二の存在ではなかった。イケメン教師の初恋の女性の「代わり」として好かれたにすぎなかった。それは交換可能であるから、「愛」ではない。アンはそれが「愛」ではなかったことに気が付く。だからイケメン教師との恋を断念するのだ。

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まあ、イケメン教師の17年前の初恋の相手、眼鏡でおさげでソバカスの女性とは、実は眼鏡っ娘の母親だったわけだけど。そしてイケメン教師も、そのことを最初から知っていた。アンに対する恋が「代わり」であることも自覚していた。だからそれは自発的に終わりにしなければならない。「眼鏡として代わりがある」というところから、一つの恋が終わったのだ。「愛」には「代わり」があってはいけないのである。

物語構成を整理すると、(1)誰とも違っているから好きになってもらえない→(2)誰とも違っているから愛される→(3)代わりだったから愛が終わる、ということになる。が、登場人物の中に一人、アンを交換不可能な、かけがえのない、唯一無二の存在として想っている人物がいた。つまり「愛」している人物がいた。「美容師」だ。ここから、新しい「愛」の物語が始まる。(2)で「ほんとうのわたし」概念が示されながら、それで終わらず、さらに(3)から「ほんとうのわたし」概念が深まっていくところが見事な構成だ。
最後に、実はこの物語構成は、西川魯介「屈折リーベ」の構成と相似形にある。もちろん西川魯介が大島弓子の作品をパクったのではない。また物語構成が相似形にあることは、プロットが似ていることも意味しない。作品の個別性を捨象して、物語構成を極度に抽象化したときに、初めて浮かび上がってくる相似形だ。両作品に共通しているのは、どちらも「愛」とは何かを真剣に追及した結果、「ほんとうのわたし」概念が美しく結晶化されていくという点にある。「ほんとうのわたし」概念をとことんまで突き詰めた時、着地点はきっとそんなに遠くにはならない。「屈折リーベ」については、しかるべきタイミングで改めて考えたい。

■書誌情報

単行本『F式蘭丸』に所収。ちょっとしたプレミアはついているが、昔の大島弓子作品ということを考えれば手に入りやすい部類か。

単行本:大島弓子『F式蘭丸』(サンコミックス、1976年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第58回:反転邪郎「思春鬼のふたり」

反転邪郎「思春鬼のふたり」

秋田書店『週刊少年チャンピオン』2014年11号~47号

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眼鏡っ娘高校生がヒロインの、スプラッターマンガ。あらかじめいちおう注意しておくと、血と死人が大量に発生するマンガなので、苦手な人にはハードルが高いだろう。

058_02眼鏡っ娘は主人公の侘救くんのことが大好きで、重度のストーカーになっている。侘救くんのリコーダーの先を舐めちゃうくらい。ところがその侘救くんは、司法の力が及ばない極悪人どもを秘密裏に葬る、闇の殺し屋だったのだ。ということで、『悪滅』とか『デスノート』とか『必殺仕事人』とか『ダーティーハリー』といった系列の、法治国家の範囲に納まらない正義を実現しようという主人公の行動と葛藤が話の柱となる。その設定を説得力ある物語にするためには、法治国家を無視するほどの主人公の正義がいかほどのものなのかに加え、手段の正統性がどの程度担保されるかにかかってくるわけだが、ここではとりあえずそんなものはどうでもよい。眼鏡が問題だ。そう、本作のヒロインの徹底的な眼鏡ぶりは、実に気持ちが良い。特に素晴らしいのは、呼ばれるときに名前で呼ばれず、「メガネさん」とか「眼鏡ちゃん」と呼ばれるところだ。誰も眼鏡ちゃんの眼鏡を外そうとしないところだ。眼鏡ちゃんは眼鏡をかけているからこそ眼鏡ちゃんであることを、周囲が違和感なく受け止め、本人もそれを当たり前だと思っている。その当たり前の空気感を醸し出すことは、実はけっこう難しい。ビジュアルだけでなく、性格や行動様式にも眼鏡らしさがなければならないからだ。

058_03特に感心したのは、「見る/見られる」ということの認識論的意味をきちんと踏まえてキャラクターが作られている点だ。眼鏡ちゃんは、ふだんは侘救くんのストーカーをしている。つまり、極めて「見る」ことに特化した行動様式をとっている。そして相手から「見られる」ことはない。このような行動様式に、眼鏡という「見る」ことに特化したアイテムは、とても相応しい。
しかしそんな眼鏡ちゃんが演劇で白雪姫を演じるというとき。「今日の私はいつもとは違う!」と言う眼鏡ちゃんは、なんとコンタクトにしている。ふだんならガッカリするところだが、この作品には感心した。眼鏡ちゃんの認識では、「いつもと違う」のは、眼鏡からコンタクトにして「見た目」が変わったことではなくて、「いつも侘救くんを見てる私が、今日は見られる側になるってこと」だ。つまり、眼鏡を外すことが「見た目」を変えることではなく、「見る側」から「見られる側」へ変わることだとしっかり自覚しているのだ。ここで、眼鏡ちゃんの眼鏡が単なる外面的な記号ではく、認識論的な意味を担っていたことがわかる。眼鏡は「見る」という意志の象徴だ。眼鏡に「見る意志」が宿っているからこそ、人々は眼鏡ちゃんの人格を眼鏡と一体のものと認識せざるを得ないのである。

話や画面が非常に殺伐としていてBADENDの予感しかなかったマンガが、眼鏡ちゃんの終始一貫したブレない姿勢のおかげで、芯の強い作品となった。あと表紙の絵がなかなかエロくて思わず買ってしまったが、中身はそんなにエロくはなかった。いや、ちっとも残念じゃなかったぞ!!ほんとに!

■書誌情報

単行本は新刊で手に入るし、電子書籍でも読める。

Kindle版・単行本:反転邪郎『思春鬼のふたり』1巻 (少年チャンピオンコミックス、2014年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第57回:楠田夏子「それでも恋していいでしょ」

楠田夏子「それでも恋していいでしょ」

講談社『Kiss PLUS』2011年1月号~12年1月号

副題に「COMPLEX LOVE STORY」とあり、ヒロインが眼鏡っ娘とくれば、「はいはい、眼鏡をコンプレックスの象徴として扱うのね、OK!OK!」と先入観を持って読み始めるわけだが。いやはや、完全に、やられた。コンプレックスを持っていたのは男のほうで、眼鏡っ娘はむしろ男らしかった。とても新鮮な作品だった。

057_01ヒロインの三ツ矢リサは、眼鏡OL。巨大眼鏡っ娘好きのみなさんには朗報だが、そうとう背が高い。この眼鏡っ娘が、偶然、主人公・氷室大介の秘密を見てしまう。氷室は市役所で将来を約束されたトップエリートとして活躍しているイケメンなのだが、実はチビでハゲだった。チビ&ハゲに極度のコンプレックスを抱えた氷室は、職場では上手に隠し通してきたのだが、眼鏡っ娘には見事にハゲを見られてしまったのだった。
だが、相手は極度の近眼だ。ハゲを目撃されたとき、眼鏡っ娘は眼鏡をかけておらず、実はちゃんと見えていなかったんじゃないか?と氷室は悶々とする。このときの近眼エピソードが、実によろしい。ギャグマンガでもないのに、眼鏡を外したら眼が「ε」になってしまうのだ。

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眼鏡っ娘とコミュニケーションを重ねる過程で、氷室は次第に自分のコンプレックスと向き合いはじめる。氷室は、眼鏡っ娘の前で、久しぶりに素直になることができたのだった。

頑なに自分の殻に閉じこもっていた氷室が、素直に自分と向き合えるようになったのは、相手が眼鏡っ娘だからだ。眼鏡とは「見る」ための道具だ。人が眼鏡と向き合う時、「見られている」という意識が強く働く。男性が相手の眼鏡を外したがるのは、決して眼鏡っ娘の容姿が劣っているからではない。「見られたくない」からだ。相手が眼鏡をかけていると、否が応でも「見られている」という事実を思い知るからだ。だから、相手から「見る」という権力を剥奪するために、眼鏡を外させる。「眼鏡だと容姿が劣る」というのは、相手の権力を無化するための言い訳に過ぎない。
本作では、氷室は相手の眼鏡を通した「視線」を常に意識しなければならなかった。その視線の先にいる自分自身の姿を、いやでも意識させられた。相手が眼鏡でなければ、こうはならなかった。氷室は眼鏡っ娘を相手にして「自分が見られている」という感覚を呼び覚ますことによって、初めて素直に自分自身を「見る」ことが可能となった。それがコンプレックスの解消に結び付いていく。

057_03コンプレックスの解消は、「自分が自分を見る」ことによって初めて成立する。少女マンガで眼鏡がコンプレックスの象徴であったのは、眼鏡こそが「見る」ためのアイテムであるからに他ならない。コンプレックスは「眼鏡を外す」ことによっては絶対に解消しない。きちんと自分を「見る」ことによってしか解消しない。つまり「眼鏡をかけたまま」で、きちんと世界を「見る」ことで、そして自分自身を「見る」ことによって、初めてコンプレックスは解消するのだ。

しかし本作は、男性のコンプレックスが「眼鏡っ娘に見られる」ことによって解消するという、新しいスタイルを提示している。眼鏡が「見る」ためのアイテムだということを再確認させ、そして眼鏡の認識論的意味をまざまざと浮き彫りにしたのだった。
この文章冒頭の「眼鏡っ娘は男らしかった」というのは、外見的な意味もあるが、それ以上に「見るという意志」において権力側のポジションに立っていたという意味がある。今後もこういうタイプの「見る意志」を打ち出してくる眼鏡っ娘を、たくさん見たい。

■書誌情報

出版されてから間もないので単行本も手に入りやすいし、電子書籍で読むこともできる。

Kindle版:楠田夏子『それでも恋していいでしょ』(講談社、2012年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第56回:大友克洋「危ない!生徒会長」

大友克洋「危ない!生徒会長」

みのり書房『コミックアゲイン』1979年11月号

正真正銘、大友克洋の絵だ。同姓同名の別人ではなく、「童夢」や「AKIRA」の大友克洋だ。

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もちろん素で描いたのではない。わざと少女マンガの絵柄を真似しているのである。本人の弁によると、「まともなデッサンがない絵って難しくて。これを描くために少女誌いっぱい買ってきて、ずいぶん少女漫画の文法とか技法とか研究しました。」(単行本のあとがき)とのことだ。つまり本作は少女マンガ技法を客観的に分析して再構成した上で描かれており、要するに少女マンガ技法に対する「批評」となっている。そのような「分析したうえで再構成する批評」スタイルは、夏目房之介が縦横無尽に駆使して新しいマンガ批評の地平を広げたことでよく知られている。本作は、あの大友克洋が手掛けているだけあって、批評としての見どころは非常に多い。特に眼鏡デッサンに対する批評は、執拗と言える。いわゆる「貼り付き眼鏡」が、これでもかというくらい繰り返し登場するのである。具体的には、次に引用する眼鏡っ娘の「横顔」に注目していただきたい。デッサンが狂っている。

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もちろんデッサンが狂っているのは大友克洋の絵が下手なわけではなく、少女マンガの文法にのっとってワザと歪めている。実際に多くの少女マンガにおいて眼鏡デッサンが狂っていることを踏まえた上で、意図的に狂ったデッサンの眼鏡を描いているのである。
この「貼り付き眼鏡」のどこが狂ったデッサンなのか、少し丁寧に見ておく。下の図をご覧いただきたい。

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もし「横」から見たとき、眼鏡のワクが眼を囲むように見えるとしたならば。立体にしたとき、上から見たら頭部のラインに沿ってフレームがべったりと顔に貼り付いているように見えるはずだ。もちろんこれは一般的な眼鏡のフレームでは、ありえない。寝る時もメタルフレームの眼鏡を外さなかったとき、寝返りを打って眼鏡を潰してフレームを曲げてしまって顔に貼り付くことはあるかもしれないが、一般的にはありえない。これは要するに、横顔のデッサンが間違っているのである。このようなデッサンの狂いを「貼り付き眼鏡」と呼んでいる。正しいデッサンで眼鏡を描こうとしたら、次のようになるべきところだ。

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横から見たとき、眼鏡のフレームは眼を囲むように円で描いてはいけない。正しくは直線で描くところなのだ。

大友克洋がどうしてワザと眼鏡のデッサンを狂わせたかだが、それは少女マンガ文法に理由がある。当時、多くの少女マンガが狂ったデッサンで眼鏡を描いていたのである。狂った眼鏡デッサンとして最も目立っていたのは、52回~55回にわたって詳説した、田渕由美子だ。(確認してもらえば、すべての眼鏡が「貼り付き」であることがすぐにわかる)。人気作家として目立っていた田渕由美子は、描いた眼鏡の量も極めて多かったために、大友克洋が少女マンガ文法を研究するときに参照した可能性は極めて高い。よく見れば、眼鏡のレンズの輝きも田渕由美子っぽい。
「貼り付き眼鏡」を採用すれば画面が少女マンガっぽくなるだろうという大友克洋の目論見は、みごとに当たったといえる。実は作品全体を通じて見ると、少女マンガではありえないカメラ位置からの描写(特に俯瞰のアングルは上手すぎる)が多く、作者が本当には少女マンガ文法には精通していないことがわかる。が、それにもかかわらず全体として少女マンガの雰囲気を作ることに成功した要因は、少女マンガ特有に狂ったデッサンの「貼り付き眼鏡」を採用した点にある。大友克洋は本作に少女マンガの空気を醸すためだろう、しつこくしつこく何度も何度も不自然なほどに大量の「貼り付き眼鏡」を描いている。

056_01さて、ところで、そもそもマンガの絵のデッサンが狂っていることは悪いことだろうか? 結論から言えば、まったく悪くない。実は第40回ですでに指摘しているのだが、あの藤子・F・不二雄も「貼り付き眼鏡」を描いているのだ。
乙女チック眼鏡を分析するところで詳しく見たように、少女マンガにおける眼鏡は、単なる視力矯正器具を超えて、少女の内面を表現するアイテムとなっていた。これは眼鏡が「モノ」ではなく、「概念」となっていることを意味する。逆に言えば、眼鏡は「概念」として読者に伝われば問題ないのであって、「モノ」としてデッサンを正確にとる必要はない。この「概念」としての眼鏡に対してデッサンが狂っていると言ったところで、なんの意味もない。
残念なことだが、大友克洋は少女マンガにおける眼鏡デッサンの狂いは正確に再現した一方で、眼鏡の「概念性」に対しては一切の配慮を見せていない。本作は「モノ」としての眼鏡デッサンに注目したことによって少女マンガ文法の批評として成功しているが、「概念」としての眼鏡に配慮しなかったことによって、所詮は単なるパロディであることも明らかになっていると言える。そして、少女マンガで積み重ねられた眼鏡の「概念性」を完全に無視して表面的な文法だけが独り歩きした時に、あの「眼鏡を外して美人」などという唾棄すべき発想が生じるのだが、さすがに大友克洋はそこまでの愚を犯してはいない。

■書誌情報

単行本『SOS大東京探検隊』に所収。「あとがき」から作者の意図を推し量ることができる。

大友克洋『SOS大東京探検隊』(KCデラックス ヤングマガジン、1996年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第55回:田渕由美子の眼鏡無双

田渕由美子の眼鏡無双

田渕由美子「百日目のひゃくにちそう」集英社『りぼん』1978年9月号
田渕由美子「夏からの手紙」集英社『りぼん』1979年8月号
田渕由美子「珈琲ブレイク」集英社『りぼんオリジナル』1982年冬の号
田渕由美子「浪漫葡萄酒」集英社『りぼんオリジナル』1983年秋の号

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055_02田渕由美子の眼鏡は止まらない。
単行本『夏からの手紙』と『浪漫葡萄酒』は表紙が眼鏡っ娘のうえに、それぞれ4作収録のうち2作の主人公が眼鏡っ娘。まさに眼鏡無双。もちろん、眼鏡を外して美人になるなどという物理法則に反する描写は一切ない。ここまでくれば、意図的に眼鏡を描いていると考えて間違いない。

1970年代後半の『りぼん』でトップを張った作家がこれほどまでに大量の眼鏡っ娘作品を描いていたことは、歴史の事実としてしっかり押さえておきたい。少女マンガの王道とは「眼鏡を外して美人になる」のではなく、「眼鏡のまま幸せになる」のだと。「少女マンガでは眼鏡を外して美人になる」など、少女マンガを読んだことのない人間が垂れ流す悪質なデマに過ぎない。田渕由美子の作品を読めば、何が正しい眼鏡なのかは火を見るよりも明らかなのだ。
もちろん眼鏡に優しかったのは田渕由美子だけではない。同時代『りぼん』で活躍した陸奥A子と太刀掛秀子も「眼鏡を外して美人」なんてマヌケな作品は一つたりとも描いていない。『りぼん』以外の雑誌でも、明らかに田渕由美子の影響を受けたと思われる眼鏡っ娘作品を多く見ることができる。『マーガレット』の緒形もり、『フレンド』の中里あたるなど、乙女チック眼鏡を描いた作家については、また改めて見ることにしよう。

さて、1978年9月「百日目のひゃくにちそう」は、引っ込み思案で「泣きべそ顔が印象的」と言われてしまう眼鏡っ娘が主人公。恋人だった支倉くんが交通事故で死んでしまった後、声がそっくりの植木屋さんと新しい恋に踏み出すお話。ふわふわの髪型と眼鏡がとっても素敵。

055_041979年8月「夏からの手紙」は、あだなが「委員長」の眼鏡っ娘が主人公。作中でもT大文学部に進学している。田渕由美子のヒロインは、他の『りぼん』作品と違って、大学生や予備校生が主役であることが多いのが印象的。で、このメガネ委員長が、まさにツンデレの中のツンデレ。高校の時には片想いで告白できなかった相手に憎まれ口ばかり叩いてしまっていたメガネ委員長は、大学に進学してから偶然その相手と出会う。ここからのデレかたがかわいすぎる。大学生になってからも「委員長」と呼ばれてしまう眼鏡っ娘が素直になるところは、読んでいるこっちもニッコリしてしまう。

055_051982年冬「珈琲ブレイク」は、中学生から7年間もずっと片想いを続けている眼鏡っ娘が主人公。恋の話をするときに顔が真っ赤になる眼鏡っ娘がかわいすぎる。そして片想いをふっきって、新しい恋に踏み出していく心の動きが丁寧に描かれている。
眼鏡っ娘の新しい恋の相手暮林くんが二人称で「オタク」という言葉を使っているけれど、もちろんこれは二次元が好きな人という意味での「オタク」ではなくて、単なる二人称。二次元が好きな人たちが好んで相手のことを「オタク」と呼んでいたからその名をつけたと言われているけれど、実はそれは誤解に基づいた命名だったといえる。田渕由美子や新井素子の作品を読めばすぐに分かるのだが、「オタク」とは1970年代の大学サークル界隈で使用されていた二人称だ。「二次元が好きな人たちがオタクという二人称を好んで使っていた」と主張する人々は、単に1970年代の大学サークル文化を知らないだけという可能性がかなり高い。

そして、『りぼん』時代最後の眼鏡っ娘作品となった『浪漫葡萄酒』は、眼鏡的にかなり考えさせられる作品だ。というのも、ダテメガネだからなのだが、さすが田渕由美子だけあって、そのダテメガネぶりが他の作家とはまったく違っている。ダテメガネといえば、普通はアイドルや芸能人が自分を隠すために使うアイテムとして認識されている。しかし田渕由美子は違う。「眼鏡をかけたほうがかわいい」から眼鏡をかけて写真モデルになって、大売れしているというダテメガネなのだ!

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ダテメガネで大ブレイクする写真モデル。これが平成の世なら、時東ぁみなどの実例があるから、ダテメガネで芸能人を売り出すってネタも理解できなくはない。しかしこの作品が発表された1983年とは、プラザ合意前の昭和どまんなかの時代だ。この時代に眼鏡をかけたほうがカワイイからダテメガネで写真モデルって。実際に眼鏡アイドル板谷祐美子を擁するセイント・フォーがデビューするのは、この作品が発表された翌年のことだった。あまりにも、早すぎる。本当にすごい。田渕由美子、すごすぎる眼鏡力。

■書誌情報

「百日目のひゃくにちそう」と「夏からの手紙」は単行本『夏からの手紙』に所収。「珈琲ブレイク」と「浪漫葡萄酒」は単行本『浪漫葡萄酒』に所収。全作品集は全4巻で計画されていたが、2巻で出版が止まったので、本作は収録単行本で読むしかない。が、『夏からの手紙』のプレミアが半端ない。素晴らしい眼鏡っ娘が多いので、読みやすい環境になってほしいなあ。

単行本:田渕由美子『夏からの手紙』(りぼんマスコットコミックス、1982年)

単行本:田渕由美子『浪漫葡萄酒』(りぼんマスコットコミックス、1983年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第54回:田渕由美子「聖グリーン★サラダ」

田渕由美子「聖グリーン★サラダ」

集英社『りぼん』1975年12月号

日本人が知っておくべき「新・3大 田渕由美子の”乙女チック”眼鏡っ娘マンガ」、最後は『りぼん』1975年12月号に掲載された「聖グリーン★サラダ」です。この作品で「眼鏡っ娘起承転結理論」が決定的な形で完成します。

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まず有権者に訴えたいのは、『りぼん』本誌で田渕由美子の乙女チック人気が爆発したのは1976年はじめだということ。ということは、つまり1975年12月号に発表された本作が、乙女チック人気を決定づけたということ。そしてその作品こそが、まさしく「眼鏡っ娘起承転結理論」の完成形だったということであります。

主人公の「ありみ」は眼鏡っ娘。雅志と一緒にくらしております。しかし雅志と恋人関係というわけではなく、実はありみのお姉さんが雅志と結婚したのですが、そのお姉さんが死んでしまったため、雅志とありみが二人で生活しているのであります。そんな二人の生活の中で、なんということでありましょうか、ありみは眼鏡をかけません。そこで雅志は、男らしく言うのであります。「いつもメガネをかけていたほうがいいね」と。

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しかし、ありみは何故か眼鏡をかけることを断固拒否。「美貌をそこねる」という理由に、我々は不穏な空気を感じて不安になるのであります。しかし実は「美貌をそこねる」という理由は、言い訳にすぎず、本当の理由ではなかったのであります。

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054_03そう。実は、ありみは死んだお姉さんの真似をしていたのであります。奥さんが死んでしまって悲しんでいる雅志のために、お姉さんの代わりになろうと考えていたのであります。なんと健気な眼鏡っ娘。ありみは、雅志がいないところではしっかりと眼鏡をかけているのであります。

雅志は、そんなありみの心遣いによって、心が癒されていきます。お姉さんが生きていたころとまったく変わらない自然な生活。以前と変わらない朝の献立。雅志はありみと結婚してもいいとまで思います。眼鏡っ娘は、眼鏡を外すことによって、愛を獲得したかのように見えるのであります。

しかし、お姉さんの身代わりになって獲得した愛など、まやかしの愛にすぎないのであります。

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おせっかいなおばさんが雅志の元にお見合いの話を持ってくるのですが、ありみと結婚してもいいなどと言って何も気づいていなかった雅志に真実を告げるのであります。ありみがどうして眼鏡をかけようとしなかったのか。さすがに雅志も悟るのであります。

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ありみを縛っていたことに気がついた雅志は、おばさんの持ってきたお見合いに行くことを承諾。二人の不自然な生活に終止符を打つことを決意するのであります。
しかしありみはそれを受け入れることができないのであります。ありみは単にお姉さんの身代わりをして雅志を癒したかったのではなく、本気で雅志のことを好きになっていたのであります。身代わりでいいから少しでも一緒にいたいと思って、必死の思いで眼鏡を外していたのであります。しかし、それがマヤカシの愛にすぎないことに、眼鏡っ娘も気が付いていたのであります。
そこで、眼鏡っ娘は、「ほんとうのわたし」を取り戻すために、ついに眼鏡をかけるのでありました。いよっ、待ってました!

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眼鏡をかけて、ショートカット。朝ごはんの献立も、お姉さんが得意だった洋食ではなく、和食を作るようになるのであります。そんなありみを、雅志は「メガネもよくにあってる」と、しっかり受け止めるのであります。

054_08そして雅志は、お姉さんの身代わりではない、本当のありみと結婚することを決意するのであります。そのときの眼鏡っ娘の表情が、実に素晴らしいのであります。尊い涙なのであります。

眼鏡っ娘マンガ研究家のはいぼくは、言うのです。この作品は、「眼鏡のON/OFF」と「恋愛のON/OFF」が明確に構造化されたうえで、「起承転結」の流れが作られているのだ、と。そしてそれこそが乙女チック少女マンガが作り上げた、人類史上に誇るべき偉大な創作なのだ、と。この作品を読んだ後は、「眼鏡を外して美人」などという作品はジュラ紀に描かれたのかと思えるほど時代錯誤のクソタワケに見えるのだ、と。
その構造を表にすると、起承転結の流れが一目瞭然。

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眼鏡は「かけている/かけていない」のように0か100かのデジタルな性質を持っている特異なアイテムであって、それを「愛」の状態とリンクさせることによって起承転結の物語構造を簡潔に構成することができるのであります。田渕由美子はこれを最も説得力ある形で表現することに成功し、だからこそ時代の最先端を走る作家として絶大な人気を獲得したのであります。

というわけで、この作品を「新・3大 田渕由美子の”乙女チック”眼鏡っ娘マンガ」のひとつとさせていただきます。ご清聴、ありがとうございました。

■書誌情報

054_01あんのじょう、収録単行本はプレミアがついてしまっていて、すこしだけ入手難度は高め。眼鏡っ娘マンガの正典に位置づくべき最重要の作品なので、広く読まれるような状況になってほしいなあ。

単行本:田渕由美子『あのころの風景』(りぼんマスコットコミックス、1982年)

愛蔵版:『田渕由美子全作品集 I 摘みたて野の花』(南風社、1992年)

 

 

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第53回:田渕由美子「雪やこんこん」

田渕由美子「雪やこんこん」

1975年『りぼん増刊号』お正月

日本人が知っておくべき「新・3大 田渕由美子の”乙女チック”眼鏡っ娘マンガ」、続いては、1975年『りぼんお正月増刊号』に掲載された、「雪やこんこん」です。少女の内面を表すアイテムとして自由自在に眼鏡を描く卓越した技術を味わうことができます。

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053_03まず有権者に訴えたいのは、さすがの田渕由美子も最初から人気があったわけではないということ。デビューからしばらく描いていたのは「乙女チック」ではなく、1960年代からの伝統的な「母もの」と呼ばれるジャンル。掲載される雑誌も、『りぼん』本誌ではなく、もっぱら増刊号。しばらくは修行の時代が続いていたのであります。
そんな田渕由美子が大躍進を遂げるきっかけになったのは、やはり「眼鏡」でありました。本作「雪やこんこん」が掲載されたのは1975年お正月の「増刊号」でありましたが、ここでのブレイクをきっかけに、同年3月には『りぼん』本誌へと進出。そして瞬く間に人気を獲得し、翌年からは表紙に起用されるまでになるのであります。本作の眼鏡っ娘マンガが田渕由美子ブレイクの大きな足掛かりになっているのは間違いないのであります。そして本作の重要性は自他ともに認めるものであり、その証拠に田渕由美子の初単行本の表題は『雪やこんこん』となっており、眼鏡っ娘が見事に表紙を飾っているのであります。

053_04本作でまず注目したいのは、いきなり眼鏡っ娘の唯ちゃんがメガネを外してしまうところ。もしもこれが凡百のクソマンガだったとしたら、そのまま美人と認定されて彼氏ができてしまうところでありますが、そこはさすがに田渕由美子、そんな愚は犯さないのであります。唯は眼鏡を外したことで「昌平なんていうかな早くこないかな」と、幼馴染の昌平くんに褒めてもらえると思い込んでいるのですが、やってきた昌平くんは、そんな唯の期待にはいっさい応えてやらないのであります。眼鏡を外したところでいいことなんてちっとも起こらない。唯は世界の真実をここで思い知るのであります。
そう、眼鏡を外した女をチヤホヤするのは、所詮はただの脇役ども。本当の乙女チック少女マンガのヒーローは、眼鏡を外した女を褒めることなど、絶対にありえないのであります。そんなわけで、唯はもういちど眼鏡をかけなおすのであります、よかったよかった。

053_05しかしそんな眼鏡っ娘を陰から狙っていた香椎先輩に、眼鏡っ娘はいきなり襲われてしまい、眼鏡っ娘大ピンチ。香椎先輩に襲われたとき、唯の眼鏡は弾き飛ばされて、無残にも割れてしまうのであります。物語上、唯の眼鏡が外れるのはこれが2回目。1回目のときは、昌平くんは眼鏡がなかったことに対して、完全スルーで対峙しておりました。しかしこの2回目のときは、昌平くんは優しく「おまえメガネは?」と声をかけているのであります。眼鏡を外して美人になったなどと勘違いしているときにはスルーしてやるべきでありますが、不可抗力で眼鏡がなくなってしまった時には、なにがなんでももう一度きちんと眼鏡を発見しなくてはならないのであります。「コンタクト」などと口走った唯の言動に不自然さを嗅ぎ取った昌平は、唯の眼鏡を探しにでかけるのであります。

053_06そして昌平は、香椎先輩を見つけるのでありますが、その手にあるのは、眼鏡。そして素晴らしいことに、一目見ただけで、それが唯の眼鏡だと気が付くのであります。好きな女の眼鏡がどういうものかは、男として絶対に知っていなければならないのであります。見た瞬間にそれが好きな女の眼鏡であることに気が付かなければならないのであります。まさにそれこそが、乙女チック少女マンガのヒーローとしての存在理由なのであります。

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053_08そうして眼鏡を見つけた昌平は、寂しがっている唯の元へ駆けつけるのでありますが、この登場シーンが、また実にすばらしいのであります。香椎先輩から取り戻した唯の眼鏡を、なんと自らかけて唯の前に登場するのであります。こんなことされたら、惚れてまうやろ! こうして昌平は、眼鏡によって自分と唯の間にかけがえのない絆が結ばれているということを確認するのです。
そして昌平は、自ら唯の顔に眼鏡をかけてあげるのであります。実にうらやましいのであります。こうやって眼鏡っ娘の元に再び眼鏡が戻るということは、破滅しかけた世界がもう一度復活することの象徴なのであります。
眼鏡っ娘研究家のはいぼくは、言うのです。本作は、(眼鏡有)→(眼鏡無)→(眼鏡有)→(眼鏡無)→(眼鏡有)というように進行するが、その眼鏡のON・OFFの切り替えは「起承転結」という物語構造の転換に対応しているのだ、と。そして単に外面的なアイテムだと思われていた眼鏡は、実は物語構造の根幹をコントロールする最も重要な鍵の役割を果たしているのだ、と。まさにこの眼鏡に支えられた内面の描写力によって田渕由美子の人気は大爆発し、本作発表直後から本誌で縦横無尽の大活躍をするようになったのであります。

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こうして眼鏡が結ぶ二人の恋を、我々は温かい気持ちで応援することができるのであります。本当に、うらやましい、私もこんな恋がしたいのであります。
というわけで、この作品を「田渕由美子の”乙女チック”眼鏡っ娘マンガ」のひとつとさせていただきます。

■書誌情報

微妙にプレミアがついているけれど、手に入らないわけでもない。単行本『雪やこんこん』と、愛蔵版『全作品集Ⅰ』に所収。

単行本:田渕由美子『雪やこんこん』(りぼんマスコットコミックス、1976年)

愛蔵版:『田渕由美子全作品集 I 摘みたて野の花』(南風社、1992年)

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この眼鏡っ娘がすごい!第52回:田渕由美子「ローズ・ラベンダー・ポプリ」

田渕由美子「ローズ・ラベンダー・ポプリ」

集英社『りぼん』1977年8月号

日本人が知っておくべき新・三大「田渕由美子の”乙女チック”眼鏡っ娘マンガ」、まず一つ目は1977年『りぼん』8月号に掲載された「ローズ・ラベンダー・ポプリ」です。この作品では乙女チックの最重要概念である「ほんとうのわたし」が、ストレートに表現されている様子を見ることができます。ご覧ください。

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052_01まず有権者に訴えたいのは、田渕由美子が1970年代後半の集英社『りぼん』の看板作家だったということ。その証拠に、田渕由美子は『りぼん』の表紙を何度も担当するのであります。そのデータは、右に掲げた表に一目瞭然。大人気の田渕由美子は、同時期に『りぼん』で活躍した陸奥A子と太刀掛秀子と合わせて「乙女ちっく」と呼ばれ、少女マンガの新時代を牽引した中心作家だったのであります。
そんな田渕由美子の武器は、もちろん「眼鏡」。集英社『りぼん』レーベルから出ている単行本は7冊でありますが、なんとそのうち3冊の表紙が眼鏡っ娘。眼鏡っ娘が43%も表紙を飾るとは、同時期の少女マンガの常識では考えられない、圧倒的な眼鏡力なのであります。りぼん本誌の表紙にはさすがに眼鏡っ娘は少ないものの、1980年に担当した『りぼんオリジナル』の表紙は、なんと5回のうち4回が眼鏡なのであります!

052_02そんな田渕由美子が乙女チック人気絶頂時に発表したのが、この「ローズ・ラベンダー・ポプリ」であります。ヒロインの眼鏡っ娘・中里麦子ちゃんは、周囲からはちょっと風変わりな女の子だと思われているけれど、もうそんなのは慣れっこ。ここで注目していただきたいのは、「わたしのことをわかってくれる人なんてこの世に一人いればそれで十分よ」というセリフであります。これがそれ以前の少女マンガと乙女チックマンガとで決定的に異なる重要ポイントなのであります。従来の少女マンガのヒロインは、全ての人に愛されるようなキャラクターでありました。しかし眼鏡っ娘は、「万人うけ」を断固拒否。「ほんとうのわたし」を貫くことを決意しているのであります。これこそが田渕由美子の乙女チックの真骨頂であり、さらに言えば「眼鏡」が象徴しているのがまさに「ほんとうのわたし」なのであります。「ほんとうのわたし」とは眼鏡をかけているわたしのことであって、そんな私を眼鏡のままに「わかってくれる人」を眼鏡っ娘は待っているのであります。眼鏡を外して「ほんとうのわたしデビュー」などと言っているクソタワケには、田渕由美子の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいのであります。

しかしそんな眼鏡っ娘の態度は、外部には「素直じゃない」とか「意地っぱり」などと受け止められてしまうのであります。本当は眼鏡っ娘もコンプレックスを抱いているのであります。幼馴染の幾島静は、イケメンで頭もよく、そして優しい男の子。密かに幾島くんに恋している眼鏡っ娘は、コンプレックスのために告白することもできずに意地を張ってしまうのであります。「ツンデレ」と「意地っぱり」の違いは、このコンプレックスの有無にあります。コンプレックスゆえに素直になれない意地っ張ぱりの眼鏡っ娘を、しかし最後は幾島くんが受け止めるのであります。眼鏡っ娘を眼鏡のまま受け止めてあげられる男こそが、本当のヒーロー、乙女チックマンガのヒーローにふさわしいのであります! 眼鏡を外さないと女を受け入れられない男は、ただの外道だから地獄に落ちればいいのであります!

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最後に素直になれた眼鏡っ娘の涙は、本当に心を打つのであります。コンプレックスを解消するのではなく、それもまた自分の一部であると素直に受け入れることによって、眼鏡っ娘は眼鏡のままに幸せになるのであります。
はいぼくは言うのです。眼鏡というアイテムは「ほんとうのじぶん」という概念と結びつけられることによって、ついに思想の域に達した、と。そして、田渕由美子こそ、眼鏡を単なる外見上のアイテムから少女のアイデンティティを表現する思想へと高めた作家なのだ、と。
というわけでこの作品を、新・3大「田渕由美子の”乙女チック”眼鏡っ娘マンガ」のひとつとさせていただきます。

■書誌情報

人気作家だったので入手先としていくつかの選択肢があるが、残念ながらどれもこれもプレミアがついていて、入手難度はちょっと高め。

単行本:田渕由美子『フランス窓便り』(りぼんマスコットコミックス、1978年)

文庫本:田渕由美子『林檎ものがたり―りぼんおとめチックメモリアル選』(集英社文庫―コミック版、2005年)

愛蔵版:『田渕由美子作品集★1フランス窓便り』(南風社、1996年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第51回:はいぼく「視力矯正めがねをかけろ」

はいぼく「視力矯正めがねをかけろ」

ラポート『ゲームコミック月姫2』2003年

出版元のラポートが2003年に倒産してしまって独占出版権が消滅しているので、著作権者の権限で全ページ掲載。

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ってことで、今回は素晴らしい眼鏡っ娘マンガの紹介じゃなくて、「あのころはこうだったよなあ」というインターネット老人会のようなノリの自分語りで恐縮しきり。

前回の磨伸さんと同じく、TYPE-MOONのアンソロジー集に掲載された作品だ。ラポート社には、ねこねこソフト『みずいろ』アンソロジーから参加していて、ねこねこ2作+月姫2作の都合4作描いたところで倒産してしまった。ラポート社が続いていたら、他の作品も全部この眼鏡ノリで押し切るつもりだったけど。DNAやエンターブレインからは声がかからなかったのでアンソロはこれっきりになった。いちおうアンケートでは人気があったようだと小耳に挟んでいて、眼鏡の野望にまた一歩近づいたと密かにほくそえんでいたんだけど、まあ仕方ない。
いちおう、4頁目の「魔人破天荒」は、磨伸さんの改名前のペンネームね。私の方は御本人に確認もとらずにしれっと描いちゃったけど、編集部の方では当然問題になって、きちんと確認してくれたようだ。このあたり、同人と商業は違うんだという意識がかなり低くて、今になって冷汗が出まくる。6頁目の西川魯介『屈折リーベ』の3コマぱくりなんて、同人にどっぷり浸かっていた当時だから恐れも知らずにやっちゃったことで、今の感覚から言えば、たとえ御本人に許してもらったとしても恐れ多くて実行できない。若かったねえ。

ラポートのビルは、新宿御苑の側にあった。JR新宿から南口を出て、甲州街道に沿って新宿御苑に向かう。新宿御苑は季節ごとの花や紅葉が美しく、歩くだけで心が躍った。ラポートビルに行くこと自体が楽しみだった。原稿はコンピュータで作成していたので、ネットで送ってしまえば一瞬で済むのに、わざわざCD-ROMに焼いて持って行った。編集部の部屋が、またワンダーランドだった。たぶん12畳くらいしかない部屋だったと思うけど、何年前からそこにあるのかわからない謎の資料が所狭しと山積していた。ここから『アニメック』とか『ファンロード』が生み出されていった、その場所に自分がいるというだけで、心が湧きたった。
編集長の小牧雅伸氏のことは「RXの人」と呼んでいた。もちろん、「RX-78」の名付け親だからだ。ちなみに当時私が使っていたコンピュータが、SONYのVAIOで型番がRX-75だったので、密かに「ガンタンク」と呼んでいたが、それはどうでもよい。小牧さんから「明るいイデオン」の話を直接聞いたりするだけで、全身の血液が沸騰する感じがした。ラポート倒産後も、ちゃんと年賀状が届いた。
ちなみに私をラポートに連れて行ったのは「歩く電波塔の会」きむら秀一だが、この話は墓場まで持っていかねばならない。

アンソロを描くとき、ラポートからはTYPE-MOONが用意した設定資料を渡された。門外不出。たとえ家族だろうと見せることは許されない。これを手にしたとき、なんだか特権階級になったかのような錯覚を覚えたが、とうぜん気のせいだ。いまでも家にある。

この頃から、樺薫の仲介を経て、私の家に高遠るいが出入りするようになった。実は彼は私の大学の後輩だったりする。当時彼はまだ「高遠るい」という名前ではなく、「しとね」と自称していた。その時はまだ世に出る前だったから当然彼の実力も知らず、「なんか絵を見せてよ」と何の期待もせずに言ったのだが、出てきたものにブッたまげた。モノが違うってのは、こういうことを言うんだろうなと。ジオンの兵士が、見たこともなかったガンダムを一目見ただけでガンダムと認識して戦慄するように、私は高遠るいの圧倒的な実力に鳥肌が立った。
ということで、私が主催していた同人誌に何冊か関わってもらったり、ラポートに紹介してねこねこアンソロジーに描かせたりしたけれど、もちろんそんな枠に収まるようなタマではないので、あっという間に各方面の編集者の目について、瞬く間に商業誌で活躍するようになった。TYPE-MOONのアンソロジーに関わった作家は何十人といるけれど、そのなかでも高遠るいと磨伸映一郎は、間違いなく変な奴ツートップだった。高遠るいが同人で描いていたシエルマンガは、他に描ける者が皆無という点で本当にすごかったが、今ではもう手に入るまい。
そんな高遠るいが、私の家で、樺薫と飽きもせずに延々と「ウンコ」の話をしていたのは、私しか知らない。

樺薫と高遠るいが「ウンコ」の話をしている横で描いていたのが、この眼鏡マンガだった。そのときは、こんな生活がしばらく続くのかなと思っていたけれど、とんでもなかった。樺薫も高遠るいもすぐに商業誌で活躍を始め、私の家からは遠ざかっていった。というか、別に私がいなくても、彼らは自分の足だけで立つことができる実力を持っている。私が関わらなくとも、いずれは世に出る才能だった。猛烈なエネルギーを蓄えたマグマが地上に噴出するとき、たまたま噴出した割れ目が私の所にあっただけの話で、それが私である必然性はなかった。が、それが私であったことに、ちょっとした誇りを感じてしまうのは、仕方ないよね。
私自身も、いまではマンガで原稿料を頂戴する機会もなく、別の道で生活している。でも、この作品を見ると、当時のことをまざまざと思い出す。現在からは想像もできないほどに眼鏡が不遇だった時代。10年以上前の絵柄だから、いまの眼から見れば当然不満だらけだ。コマ割りも拙い。でも、情熱だけはすごかった。あのときの熱量は取り戻すべくもないけれど、でも経験値を積み重ねた今だからこそできること、今しかできないことはたくさんあるはずで。やっぱり、今できることを着々と積み重ねていくことが一番大事なんだよなあと。オッサンになってみてしみじみと実感するのだった。

そんなわけで、これまでのオタク遍歴で培った眼鏡知識は、きちんと形にして残していかなくちゃと思ったのだった。

■書誌情報

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