寿限無「マニー」
新書館『ウイングス』1989年第68号・73号・79号
さすがに時代を感じるアイテムだなあ。βデッキはともかく、29インチテレビが昭和の終わり頃にどれほどすごかったかは、21世紀に生きる人々にはわからないだろう……。ともかく、これはすごいことだったのだ。
ということで、本作は「マニア」をテーマとしている。これまた21世紀に生きる我々にはわからないことだが、当時は「マニア」と「オタク」と「コレクター」をかなり明確に峻別していた。この場合の「オタク」とは、いわば東浩紀言うところの「動物化」した人々で、受動的な消費に特化している(現在の用法と違うことには重々注意)。一方「マニア」とは、本作の主題となっているように、ひとつのことにこだわり、熱中して、その結果として人類の進歩を促す人々を意味する。今では「オタク」という言葉が一定程度この意味を担っているようだが、1989年当時は宮崎勤事件で「オタク」という言葉が氾濫していたため、自分たちを「Mくん」と峻別しようという意識が働いていた可能性があるかもしれない。
さて、マニーの首領であるメガネくん遠藤に立ち向かう女マニーは、眼鏡っ娘だ。ここに眼鏡っ娘v.s.メガネくんの熾烈な戦いが幕を開ける。戦いのテーマは、「杏仁豆腐のおいしい作り方」だ。恐るべし、遠藤。メガネくんは杏仁豆腐のおいしい作り方にも熟練していた!
こうして眼鏡っ娘は、遠藤たちの仲間になるのだった。
そこに新たな敵「妥教」が襲ってくる。すべての人々の心の中にある「マニアックな部分」を破壊し、「妥協」する心を植え付ける、恐ろしい集団だ。妥教に支配された人々は気力を失い、世界はたちまち荒廃してしまう。戦えマニー! ぼくらの平和を守れるのは君たちしかいない!
そんなマニーの首領・遠藤は、眼鏡っ娘がメガネを外したらどうなるかに興味津々なのだった。
ところで「マニア」とはプラトン哲学の中で重要な位置を占める概念だ。周知のとおりプラトンの「イデア論」は、人間の感覚では掴むことのできない「イデア」のみを真の実在とし、我々の感覚に触れるものは全てイデアの「影」にすぎない偽物と言う。プラトンによれば、真実を知るということは、人間の感覚に頼らず、ものごとの真の姿を魂で捉えることだ。しかし五感に頼らずに魂で物事を見るためにどうすればいいのか。プラトンはここで「マニア」が重要だという。「マニア」とは、ギリシア語で「狂気」を意味する。プラトンによれば、常識的な感覚ではものごとの真の姿を捕えることは不可能だ。人々は「狂気」に陥った時、初めて真の姿を把握することができる。その事情は、たとえば「恋愛」という現象に最も顕著に表れる。「あばたもエクボ」という言葉があるが、客観的に見ればさほど美しくない女性に対して熱狂的に恋に陥ることがある。プラトンは言う。それは人間の感覚で捉えられる女性の表面上の姿を見ているのではなく、狂気に陥って、物理的な女性の姿のはるか彼方の「美そのもの」を見ている状態であると。客観的に見るとただの「あばた」が、狂気に陥った時に「エクボ」となる。そしてそれこそが「美そのもの」を捉えるための唯一の道なのだ。
本作で描かれている「マニー」たちも、プラトンが言う「狂気」を通じて「ものごとの本質そのもの」を捉える人々だ。そしてそれが他の動物にはない、人類の力だ。この「マニア」の力を押さえつけ、去勢しようとする人々が後を絶たない。そんな「妥教」に対して、我々は戦い続けなければならない。めがねっ娘教団は、だから、全ての眼鏡っ娘と眼鏡っ娘を愛する人々のために戦い、世界の本質を求め続けるのだ。
ちなみに自慢だが、私は小学生の時にZ80のハンドアセンブルができた。RETがC9てのはいまだに覚えていたり。小学生の時に組んだプログラムが『マイコンBASICマガジン』に掲載されたりしたんだぜ。しかし21世紀では「マシン語」どころか「BASIC」も死語じゃのう。
■書誌情報
同名単行本に3話所収。著者の「寿限無」は、アニメーターの新岡浩美さん。マンガ単行本は新書館から4冊出ている。本作は、80年代にマニアをやっていた人が読むと、たぶん、とても楽しい。
単行本:寿限無『マニー』(ウィングス・コミックス、1990年)
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