この眼鏡っ娘マンガがすごい!第94回:寿限無「マニー」

寿限無「マニー」

新書館『ウイングス』1989年第68号・73号・79号

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さすがに時代を感じるアイテムだなあ。βデッキはともかく、29インチテレビが昭和の終わり頃にどれほどすごかったかは、21世紀に生きる人々にはわからないだろう……。ともかく、これはすごいことだったのだ。
094_03ということで、本作は「マニア」をテーマとしている。これまた21世紀に生きる我々にはわからないことだが、当時は「マニア」と「オタク」と「コレクター」をかなり明確に峻別していた。この場合の「オタク」とは、いわば東浩紀言うところの「動物化」した人々で、受動的な消費に特化している(現在の用法と違うことには重々注意)。一方「マニア」とは、本作の主題となっているように、ひとつのことにこだわり、熱中して、その結果として人類の進歩を促す人々を意味する。今では「オタク」という言葉が一定程度この意味を担っているようだが、1989年当時は宮崎勤事件で「オタク」という言葉が氾濫していたため、自分たちを「Mくん」と峻別しようという意識が働いていた可能性があるかもしれない。
さて、マニーの首領であるメガネくん遠藤に立ち向かう女マニーは、眼鏡っ娘だ。ここに眼鏡っ娘v.s.メガネくんの熾烈な戦いが幕を開ける。戦いのテーマは、「杏仁豆腐のおいしい作り方」だ。恐るべし、遠藤。メガネくんは杏仁豆腐のおいしい作り方にも熟練していた!

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こうして眼鏡っ娘は、遠藤たちの仲間になるのだった。
そこに新たな敵「妥教」が襲ってくる。すべての人々の心の中にある「マニアックな部分」を破壊し、「妥協」する心を植え付ける、恐ろしい集団だ。妥教に支配された人々は気力を失い、世界はたちまち荒廃してしまう。戦えマニー! ぼくらの平和を守れるのは君たちしかいない!
そんなマニーの首領・遠藤は、眼鏡っ娘がメガネを外したらどうなるかに興味津々なのだった。

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ところで「マニア」とはプラトン哲学の中で重要な位置を占める概念だ。周知のとおりプラトンの「イデア論」は、人間の感覚では掴むことのできない「イデア」のみを真の実在とし、我々の感覚に触れるものは全てイデアの「影」にすぎない偽物と言う。プラトンによれば、真実を知るということは、人間の感覚に頼らず、ものごとの真の姿を魂で捉えることだ。しかし五感に頼らずに魂で物事を見るためにどうすればいいのか。プラトンはここで「マニア」が重要だという。「マニア」とは、ギリシア語で「狂気」を意味する。プラトンによれば、常識的な感覚ではものごとの真の姿を捕えることは不可能だ。人々は「狂気」に陥った時、初めて真の姿を把握することができる。その事情は、たとえば「恋愛」という現象に最も顕著に表れる。「あばたもエクボ」という言葉があるが、客観的に見ればさほど美しくない女性に対して熱狂的に恋に陥ることがある。プラトンは言う。それは人間の感覚で捉えられる女性の表面上の姿を見ているのではなく、狂気に陥って、物理的な女性の姿のはるか彼方の「美そのもの」を見ている状態であると。客観的に見るとただの「あばた」が、狂気に陥った時に「エクボ」となる。そしてそれこそが「美そのもの」を捉えるための唯一の道なのだ。
本作で描かれている「マニー」たちも、プラトンが言う「狂気」を通じて「ものごとの本質そのもの」を捉える人々だ。そしてそれが他の動物にはない、人類の力だ。この「マニア」の力を押さえつけ、去勢しようとする人々が後を絶たない。そんな「妥教」に対して、我々は戦い続けなければならない。めがねっ娘教団は、だから、全ての眼鏡っ娘と眼鏡っ娘を愛する人々のために戦い、世界の本質を求め続けるのだ。

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ちなみに自慢だが、私は小学生の時にZ80のハンドアセンブルができた。RETがC9てのはいまだに覚えていたり。小学生の時に組んだプログラムが『マイコンBASICマガジン』に掲載されたりしたんだぜ。しかし21世紀では「マシン語」どころか「BASIC」も死語じゃのう。

■書誌情報

同名単行本に3話所収。著者の「寿限無」は、アニメーターの新岡浩美さん。マンガ単行本は新書館から4冊出ている。本作は、80年代にマニアをやっていた人が読むと、たぶん、とても楽しい。

単行本:寿限無『マニー』(ウィングス・コミックス、1990年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第93回:西炯子「ひとりで生きるモン!」

西炯子「ひとりで生きるモン!」

小学館パレット文庫しおり、1997年11月~

(※以下、シモネタを扱っているので、苦手な方はご注意ください。)

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093_02西炯子というと、私にとっては眼鏡っ娘というよりもメガネ君のイメージの方が強烈だった。やはりプチフラワーの嶽野くんシリーズと、ウイングスの三番町萩原屋の美人の印象が強かったのだろう。当初は、不安定な青春時代の感性の上澄みを掬い取ってくる切れ味鋭い作風が鮮烈だったが、大量の作品を生み出す過程で大人の作風に進化し、それに伴って眼鏡っ娘の登場頻度も上がっていった。その眼鏡っ娘たちは、20世紀少女マンガの眼鏡とは、ほぼ無縁だ。アクの強い眼鏡っ娘たちが、予想の斜め上を行く。だが、それがいい。
093_03本作は、オムニバス4コママンガ。特に決まった主人公はおらず、様々にアクが強いキャラクターが入り乱れながら、日常が脱臼したようなシュールコントを繰り広げる。流れで言えば、新井理恵『X』とか立花晶『サディスティック19』が大きな可能性を示したような、少女マンガ文法に則った上でのシニカルでシュールな4コマ作品に位置づくのだろう。当初は「あの西炯子が4コマ!?」と驚いたけれど、読んでみると実にツボにハマっている。本当に何を描いても上手で、びっくりする。
だが何といってもこの作品が決定的に素晴らしいのは、森川さんという強烈な眼鏡っ娘キャラを生み出したことだ。森川さんの強烈さは、他にも様々にシュールなキャラがたくさんいるにも関わらず、表紙に一際大きく描かれたのが森川さんだったというところに端的に表れている。ニコリともせず、クールにシモネタを言い放つ森川さんの姿は、神々しい。いい加減な気持ちでシモネタを言うのではなく、吹っ切った覚悟を持って空気のようにシモネタを放つところが、カッコよすぎる。
が、もっとも強烈なのは、1巻の扉カバーでフィギュアになっている森川さんの姿だ。森川さんは立体になってもいつものクールビューティーなのだが、そのポージングが恐ろしすぎる。恐ろしすぎて、どこからか検閲が入った形跡もある。よう許されたなあ、これ。ぜひ自分の目で確かめていただければと思う。

■書誌情報

既刊単行本5巻。当初はパレット文庫の栞に連載?されていた作品だったけど、途中から雑誌連載になっているのかな。桶狭間麗華先生も眼鏡で素敵。

単行本:西炯子『ひとりで生きるモン!』(キャラコミックス、2003年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第92回:清原なつの「花岡ちゃんの夏休み」

清原なつの「花岡ちゃんの夏休み」

集英社『りぼん』1977年8月号

092_02全てのマンガ家は一人一人かけがえのない個性を持っていて、誰もが交換の効かない存在ではあるけれども、やっぱりその中でも特に際立って特別な存在感を放つ作家がいる。清原なつのは、そういう作家の一人だろう。その理由の一つは、おそらく「性」の匂いにあると思う。特に『りぼん』という少女誌で徐々に性の匂いが排除されていくなかで(まあ一条ゆかりという鬼才は別として…)、清原なつの作品が醸し出す「性」の匂いは鼻腔の奥に残る。
そんな清原なつのが眼鏡っ娘を大量に描いているのは、おそらく偶然ではない。清原なつの作品の眼鏡っ娘を通覧して気がつくのは、共通して「大人の女になることを拒否している」ということだ。ただ「大人になる」ことを拒否しているのではなく、「大人の女になる」ことを拒否しているのだ。右の引用図のモノローグでは、母親が言う「女は嫁にゆけばいい」という世間的意見に反発している。眼鏡っ娘たちは、世間が圧力をかけてくる「女」のイメージに反発している。彼女たちの眼鏡は、自分の心を世間の圧力から守るバリケードなのだ。しかしそれにも関わらず、彼女たちの心と体は自然と「大人の女」へと変化していく。そして女性の体は、ある時期に至れば不可逆的に大人になったということを自覚させるような仕組みにできている。その心と体の危ういアンバランスが同居した存在を「少女」と呼ぶのであれば、清原なつのほど「少女」を描ききった作家は他にいないのではないか。

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092_04清原なつのと同時代の『りぼん』では、田渕由美子・太刀掛秀子・陸奥A子など「乙女チック」が活躍していた。「乙女チック」にもそれぞれ個性があるが、ここで描かれる「少女」は共通して観念論的だ。悪い意味で言っているわけではなく、それぞれ観念論的に完成度が高いことは本コラムでも解説してきた(端的に言えば「眼鏡っ娘起承転結理論」はまさにドイツ観念論、特にヘーゲル弁証法に比定できるということ)。それに対して清原なつの作品には、一つとして「眼鏡っ娘起承転結理論」に当てはまる作品が存在しない。それは清原なつの作品が観念論を採用せず、常に身体性を伴いながら物語を紡いでいることを意味する。清原なつの作品から匂い立つ「性」の源泉は、観念論を拒否した身体性にある。そうしてみると、彼女たちがかけている眼鏡は、世間の圧力からのバリケードであると同時に、彼女たちの身体を内側から変化させる力をなんとか押しとどめるための抵抗の象徴でもあるだろう。それはつまり、眼鏡が「少女」の象徴であることを意味する。外圧と内圧に挟まれたところに、レンズがある。世間がイメージする「女らしい女になれ」という外圧と、DNAに制御された身体の内側から「女になれ」という内圧、その真ん中に眼鏡のレンズがある。彼女たちの眼鏡は、彼女たちの「少女性」を体現している。「少女」を描く清原なつの作品に眼鏡っ娘がたくさん登場するのは、もはや必然と言える。

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■書誌情報

092_01単行本『花岡ちゃんの夏休み』所収。続編の花岡ちゃんシリーズとして、同単行本所収の「早春物語」と、『3丁目のサテンドール』所収の「なだれのイエス」がある。
初単行本の『花岡ちゃんの夏休み』には花岡ちゃん以外にも眼鏡っ娘がたくさん登場し、清原なつのといえば眼鏡っ娘という印象がついた。りぼんコミックスのほか、ハヤカワコミック文庫にもなっている。

単行本:清原なつの『花岡ちゃんの夏休み』(りぼんマスコットコミックス、ハヤカワコミック文庫)

 

 

 

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第91回:松乃美佳「ビターな恋を攻略せよ」

松乃美佳「ビターな恋を攻略せよ」

集英社『りぼん大増刊号』2003年春

眼鏡で「委員長」というと、一般的には保科智子のように男性向メディアで人気が出たキャラクターを思い浮かべるかもしれない。しかし実は少女マンガにも眼鏡で委員長の魅力的なキャラクターがたくさん主人公として登場することは、もっと広く認知されていいように思う。本作も、眼鏡で委員長でツンデレなヒロインが健気に頑張る話だ。

ヒロインの長岡手毬は、眼鏡っ娘委員長13歳。抜群の学力で一目を置かれている存在だが、密かにサッカー部の矢田部くんに恋をしていた。いつもグラウンド脇で読書するふりをしながら谷田部くんを応援していたのだった。

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しかし手毬ちゃんは不器用で、好意を素直に伝えることができない。それどころか矢田部君が近づくとパニックに陥って逆に悪態をついてしまう始末。素直になれない手毬ちゃんは、谷田部くんのいつも素直なところに惹かれていたのだった。そんな手毬ちゃんを見かねた親友が、おせっかいを焼いて、なんとか手毬ちゃんを素直にさせようとする。しかし、ようやくうまくいったと思ったところで、やはり素直になれない手毬ちゃん。だがここは谷田部くんが、さすがに少女マンガのヒーロー。しっかり男を見せる。

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委員長の視線に、谷田部くんはしっかり気が付いていた。素直に言葉を出せない手毬ちゃんの気持ちも、レンズを通した視線によってしっかりと伝わっていたのだ。おめでとうおめでとう!

091_02本コラムで何度も指摘してきたが、これが眼鏡の力だ。眼鏡とは「見る意志」を象徴している。そして物語の中では、眼鏡は「読者の視線をコントロールするアイテム」として機能する。上に引用した絵では小さくてわかりにくいが、樹の傍に座って矢田部君を見ている委員長の顔に眼は描かれていない。眼鏡だけが描かれている。手毬ちゃんの「視線」は、眼鏡によって可視化されている。そして視線が眼鏡によって可視化されることにより、読者のほうも手毬ちゃんの視線をしっかり認識することができる。谷田部君の「視線が俺のはげみになっていた」というセリフは、こうした積み重ねがあって、初めて説得力を持つのだ。
口では嫌いと言っても、眼鏡は嘘をつけない。レンズを通した視線は、いつも真実を伝えている。眼鏡委員長の魅力は、そんなところにもある。

■書誌情報

本作は42頁の中編。単行本『あいレベル』に収録。新刊では手に入らないようだが、単行本が大量に出回ったので、古書で比較的容易に手に入る。

単行本:松乃美佳『あいレベル』(りぼんマスコットコミックス、2003年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第90回:小野寺浩二「妄想戦士ヤマモト」

小野寺浩二「妄想戦士ヤマモト」

少年画報社『アワーズライト』2000年9月号~『OURs』2006年2月号

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090_01「めがねっ娘教団」は、この作品から生まれた。記念すべき初登場は、第7話。それ以来、作品の内外で圧倒的な存在感を見せつけてきた。ヤマモトやワタナベのコスプレをする奴は見たことがないが、めがねっ娘教団はつい先日地上波(2015年9月4日「有吉ジャポン」)にも映ってしまった。それだけの内在的なエネルギーがそもそも本作に備わっていたことは、内容を一瞥するだけで理解できる。圧倒的な熱量を放射しているのだ。

めがねっ娘教団は、第7話で、ヤマモトによるコンタクトレンズ弾劾演説の後に初登場する。この第7話が2001年3月号(1月発売)に描かれているのは、おそらく偶然ではない。新世紀の幕開けに教団が登場するのは、その後の展開を考えるとたいへん象徴的な事態なのだ。めがねっこ教団が登場して以降の2001年の歴史を確認しよう。その怒涛の展開に驚くはずだ。

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2001年1月 「妄想戦士ヤマモト」に、めがねっ娘教団登場。
2001年1月 西川魯介『屈折リーベ』単行本化
2001年2月 下北沢にZoff1号店がオープン。
2001年4月 眼鏡っ娘ONLY同人誌即売会「Glasses」第一回開催
2001年5月 眼鏡っ娘ONLY同人誌即売会「めがねっこフェスティバル」第一回開催
2001年6月 眼鏡ONLY同人誌即売会「眼鏡時空」第一回開催
2001年6月 『デジモノステーション』で「ビジョメガネ」連載開始
2001年7月 Tommy February6デビュー
2001年9月 門脇舞デビュー

どうだろうか。この、なにかが溢れ出したような怒涛の歴史展開。これが新世紀だ。その渦中にあった時は、何かとんでもない変化が起こりつつあったことは感じていたものの、何が起こっていたかを正確に把握することはできなかった。めがねっ娘教団が説得力を持っているのは、そのわけのわからないエネルギーの奔流を的確に形にして見せていたからだ。
090_04教祖・南雲鏡二の生き様は、わけのわからない無形のエネルギーを具体的な形にしたものだった。彼の言動の一つ一つが、「これだ!」とか「これでいいんだ!」とか「こうじゃないとだめだ!」とか「ここまでやらなきゃダメだ!」と思わせるような説得力に満ちていた。ぐるぐると渦巻いていた無定形のエネルギーの塊が、南雲鏡二の一言で形になっていく。我々が目指していた最高の境地はここにあるのだと、具体的な形で見せてくれたのだ。そうして目指すべき指針を得た人々は、教団服を身にまとう。南雲鏡二はマンガのキャラクターではあるが、人々の潜在的なエネルギーに火をつけ、具体的な行動を促すという点で、真の人格を備えている。

090_05南雲鏡二の生き様を見て思い出すのは、江戸時代中期の『葉隠』という作品だ。『葉隠』は「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という一文で高名な、武士道をテーマとした作品だ。そこでは、何か選択肢があってどのように行動していいか迷った時、「死にやすいほう」を選べば間違いないということが説かれている。実は、南雲鏡二の行動原理(あるいはヤマモトも含めた本作登場キャラすべての行動原理)は、まさにこの武士道そのものだ。なにか選択肢があったとき、彼らは常に「自分の立場を危うくするほう」なり「自分を窮地に追いつめるほう」を選ぶ。そしてその選択には合理的な理由などない。ただ単に「男だから」という理由だけで、彼らは進んで自分の立場を危うくするのだ。しかし我々は、そのような姿に痺れる憧れる。そこに武士道の精神がビンビンに漲っているからだ。彼らの合理性を欠いた行動様式は、近代人の目から見たら異様に映るだろう。が、それだからこそ武士道というものに思想的意義がある。

090_08そして『葉隠』の武士道が儒教的な観念(特に忠)で構成されている一方、本作は「萌え」という観念を中核に構成される。これは「萌え」という観念を理解しようとするときに、本作が重要な位置を占めていることを意味している。というのは、『葉隠』の非合理的な武士道は、もちろん当時の合理的な武士道を徹底批判する。武士道そのものが合理性では理解できない観念だと考えているからだ。おそらくそれは「萌え」にも通じる。「萌え」という観念を合理的に分析しようとする試みは、東浩紀等を中心として様々に行われた。しかしそれら合理的な試みが果たして成功したかどうかは、私の目から見れば疑わしい。そもそも「萌え」というものは、最初から合理的な分析を拒絶している観念ではないだろうか。「死にやすいほうを選ぶ」という、合理性を拒否した境地で初めて武士道が成立するのだとすれば。南雲鏡二の「自分を追いつめるほうを選ぶ」という生き様を見るとき、「萌え」とは分析の対象ではなく、「生きられる」ものだということを知るのだ。

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そして合理性を超越した地平に初めて「宗教」が生まれる。めがねっ娘教団が宗教団体であることは、おそらく「萌え」というものの本質に深く関わってくる事態なのだ。本作は、合理性の彼方で、「萌え」というものの深い業をまざまざと見せつけてくれる。そうであって初めて、人々が具体的な行動を起こし始める。そういうわけで、本作が「聖典」と呼ばれるようになるのだ。

■書誌情報

もちろん教団の正典(カノン)。リニューアルされて、上下巻で手に入りやすくなって、ありがたい。旧単行本もお守りとして手許に置いておきたいところではある。持っていると、ならずものに鉄砲で撃たれたとき、たぶん助けてくれる。

小野寺浩二『妄想戦士ヤマモト HDリマスター上巻』(ヤングキングコミックス、2015年)
小野寺浩二『妄想戦士ヤマモト HDリマスター下巻』(ヤングキングコミックス、2015年)

単行本セット:小野寺浩二『妄想戦士ヤマモト』1-5巻セット (ヤングキングコミックス)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第89回:藤井明美「やさしい悪魔」

藤井明美「やさしい悪魔」

集英社『別冊マーガレット』1996年11月号~97年5月号

9年ぶりにイケメンになって帰ってきた幼馴染がメガネスキーだったという話。
ヒロインの十子(とうこ)は、女子高生眼鏡っ娘。ドイツに行っていた幼馴染のワタルが9年ぶりに帰ってきた。幼いころはチビで泣き虫だったワタルが、高身長のイケメンになっていた。そんなワタルが、なにかにつけ十子にちょっかいをかけてくる。たとえば、こんな感じ。

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自分の容姿に自信のない十子のほうは、ワタルの言動を嫌がらせのように感じてしまう。が、ワタルにしてみれば、心から出た素直な発言に過ぎない。ワタルは単にメガネスキーで、十子に眼鏡をかけ続けてほしいだけなのだ。何の裏も悪意もない。しかし十子はその事実に気が付かない。このすれ違いのモヤモヤが物語全編を貫いている。そう、これはメガネスキーの真っ直ぐな好意が実は眼鏡っ娘にはなかなか届かないということを描き切った物語なのだ。
なんやかんやで、なんとかワタルと十子がいい感じになり始めた時、恋のライバル、エリカが登場する。このライバルが、十子にやたら厳しい。まず初対面が酷い。

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ひでぇ言われようだ。小学生ならともかく、高校生にもなって「メガネザル」と言われてしまうとは。この十子の表情、本当にショックだったんだね。
しかし本当に素晴らしいのは、これを受けたワタルの発言だ。

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そう、論理的に言えば、メガネザルが眼鏡をとったら、ただのサルだ。論理的真実を言っているだけのワタルには、悪気はない。十子にずっと眼鏡をかけていてほしいから言っただけだ。が、ショックを受けた十子のほうには、ワタルの真意がわからない。エリカに引っ掻き回された十子は、コンプレックスをこじらせていく。眼鏡っ娘はメガネであるというだけで十分に魅力的だということに、十子自身はなかなか気が付かないのだ。メガネスキーと眼鏡っ娘の間には、いかに障害が多いことか。
が、ワタルは男を見せた。メガネスキーの誠意は、最後には眼鏡っ娘に届く。すべてのメガネスキーの誠意は、きっと眼鏡っ娘に届く。そんな勇気をくれる物語だ。

■書誌情報

単行本全1巻。人気があって大量に出回ったので、古書で容易に手に入れることができる。

単行本:藤井明美『やさしい悪魔』(マーガレットコミックス、1997年)

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メガネっ娘居酒屋「委員長」2015秋 出演者追加情報

こんばんは。教務大司教です。

10月2日の委員長ですが、夜の部に前回に引き続き倉田英之さんにご出演いただけることになりました。
今回もビシバシといろんなメガネ話をうかがってまいりますのでご期待ください。

チケットは明日(9/5)からローチケで発売です。お早目にお買い求めくださいませ。
ローソンチケット( http://l-tike.com/ )(Lコード:74945)

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第88回:藤木俊「はじめてのあく」

藤木俊「はじめてのあく」

小学館『週刊少年サンデー』2009年第6号~2012年第25号

眼鏡っ娘ヒロインが単行本16巻に渡って躍動する、読んでて幸せになる作品。他にも魅力的な眼鏡っ娘が何人も登場して、ありがとうありがとう。ああ、こんな学園生活を送りたかった! 特に赤城先輩の生き様に痺れる憧れる!

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眼鏡っ娘ヒロイン「渡キョーコ」のファンクラブの会長を務める赤城先輩が、脇役なんだけど、本当に男前で存在感ありすぎ。最初に出てきたときはこんなに魅力的なキャラに成長するとは思わなかった。自分自身の気持ちに決して嘘をつかない、常に一直線の姿勢がカッコよすぎる。本作の登場人物はみんな真っ直ぐで、だから読んでて清々しい気持ちになる。

088_02ヒロイン渡キョーコがかわいいのはもちろんとして、脇役眼鏡っ娘たちも魅力的だ。まず、主人公阿久野ジローの姉アヤさんが素晴らしい。悪の組織の幹部でアラサーでブラコンで酒乱だけど、かわいすぎる。なかでも特に素晴らしいのは、温泉に入るときも眼鏡を外さないところだ。

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キョーコは残念ながらお風呂シーンでは常に眼鏡を外しているのだが、さすがアヤ姉さんが分かってらっしゃるのは年の功か。結婚に至るきっかけが「Dr.スランプ」を彷彿とさせるのも、さすが眼鏡っ娘。おめでとうおめでとう。

そして緑谷の妹が、また眼鏡っ娘で、かわいい。初登場シーンでは一コマちょろっと出ただけだったので、ここまで存在感が上がるとは思わなかった。もうメロメロだ。

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ああ、もう、かわいいなあ!
アヤ姉がお姉さん眼鏡で、緑谷妹が妹眼鏡ということで、姉属性にも妹属性にも全方位眼鏡対応の贅沢な布陣に感謝するしかない。

そしてもちろんメインヒロイン渡キョーコがかわいいのは言うまでもない。世間的には「ツンデレ」と呼ぶかもしれないが、そういう言葉ができる以前から語り継がれてきたサンデー伝統「居候ラブコメ」の王道ど真ん中を行くキャラが、かわいくないわけがない。しかも眼鏡がブレないんだよ。

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ああ、もう、愛おしいなあ。主人公阿久野ジローの天然ぶりに翻弄されつつも、徐々にジローを悩殺していく過程が楽しすぎる。ハーレムものが陥りがちな受け身でかわいいだけのキャラに終わらず、主体的に行動するところがいいんだろうな。

そんなわけで、キャラ構造的にはハーレムものでありながら、実は初々しい青春の熱さと清々しさがダイレクトに伝わってくる、定期的に読み直したくなる作品だ。

 

■書誌情報

088_06単行本全16巻。少女マンガと違って、マンガ喫茶等でも読みやすいかも。ちなみに赤城先輩を見ると競輪戦士吉井正光(眼鏡男子コンテスト第2回グランプリ受賞者)を思い出すのは、私だけか。

単行本セット:藤木俊『はじめてのあく』全16巻(少年サンデーコミックス)

 

 

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第87回:えにぐまなみ「よよぎのじじょう」

えにぐまなみ「よよぎのじじょう」

集英社『ぶ~け』1994年10月~95年6月

眼鏡の「ON/OFF」の不連続性という特徴を存分に活用した作品。
ヒロインの「上原よよぎ」は眼鏡っ娘。ひょんなことから幽霊の「八幡よよぎ」と同調し、一つの体の中に二人の「よよぎ」の人格が入ってしまう。人格の切り替わりのスイッチが眼鏡だ。眼鏡ONの時は「上原よよぎ」の人格、眼鏡OFFの時は「八幡よよぎ」の人格になってしまうのだ。この世に未練を残して幽霊になっていた八幡よよぎは、生身の体を手に入れて大暴れ。ヒーローの渋谷道玄くんは、よよぎの不審な挙動の原因が眼鏡OFFにあると見抜き、よよぎに眼鏡をかけさせようとする。この眼鏡をかけさせようとするシーンを見ると、とても心が躍る。

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「さあっ、おとなしくこのメガネをかけるんだ」というセリフは、ぜひあらゆる場面で使用していきたい。
さて、無事に眼鏡をかけると、元の「上原よよぎ」の人格に戻る。

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こうして、二人の「よよぎ」に渋谷道元くんが翻弄されて、おもしろおかしいドタバタコメディが繰り広げられる。
しかしこの不安定な状態をいつまでも続けられるわけがない。上原よよぎと八幡よよぎがどちらとも道玄くんのことを好きになってしまったことから、人格のバランスが急激に崩れていく。特に眼鏡がなくなってしまってから、上原よよぎの声が聞こえなくなってしまう。眼鏡は幽霊の八幡よよぎを封印すると同時に、上原よよぎと八幡よよぎの心を繋ぐ「媒体」の役割を果たしていたのだった。その眼鏡が失われてしまったために、上原よよぎの人格が戻らないどころか、声すら聞こえなくなってしまったのだ。

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眼鏡が「心と心を繋ぐ媒体」の象徴として描かれたことには、非常に深い意味が込められている。八幡よよぎと道玄くんは、上原よよぎとの絆を取り戻すために、必死に失われた眼鏡を探す。

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眼鏡を捜索する過程で、道玄くんと八幡よよぎは、自分の本当の気持ちに気が付いていく。彼らは失われた眼鏡を探していたと思っていたが、本当は自分の気持ちを探していたのだった。本当に大切なことに気が付いた八幡よよぎは、自ら身を引くことを決意する。

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結局、眼鏡は見つかり、上原よよぎの人格も戻ってくる。このとき、道玄くんが後ろから眼鏡をかけてあげていることに注意したい。後ろから眼鏡をかけることは、「視線を共有する」ことを意味する(当コラム第68回参照)。ここで二人が共有しているのは、もちろん八幡よよぎへの思いだ。たとえ八幡よよぎが成仏し、この世から消えてしまったとしても。この眼鏡がある限り、絆は繋がり続けるのだ。
眼鏡の「ON/OFF」の切り替わりを人格変化のスイッチにする作品は、他にもいくつかある。が、それをさらに「絆」というテーマに昇華させたところに、この作品独特の凄さがある。

■書誌情報

単行本全2巻。作者の名前は、「えにぐま」が苗字。掲載誌は『ぶ~け』だが、コミックスはマーガレットレーベル。なんだかamazonで検索しても出てこないけれど、他の古本通販サイトではちゃんと出てくるはず。

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第86回:植芝理一「ディスコミュニケーション」

植芝理一「ディスコミュニケーション」

講談社『月刊アフタヌーン』1992年2月号~2000年11月号

90年代を代表する眼鏡っ娘マンガといってよいだろう。眼鏡っ娘が9年にも渡ってヒロインとして活躍し、比類なき魅力を広く世間に知らしめた、その功績は計り知れない。魅力の一端は絵柄を一瞥するだけで感得することができるだろう。かわいい。
ただしというか。客観的には代替の効かない眼鏡っ娘傑作であることに間違いないのだが、私個人の主観的感情からすると、すんなりと腑に落ちないものもある。おそらくそのモヤモヤした主観的感情も含めて、眼鏡っ娘を語るときには外すことのできない作品と言える。
さて、私がどこにモヤモヤしているのか。次のエピソードを見れば、そのモヤモヤを共有してくれる人は多いはずだ。

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主人公の松笛は、明らかに眼鏡に対してまったく魅力を感じていない。眼鏡をかけた戸川はこんなにかわいいのに、その眼鏡ゆえの魅力を完全無視しているのだ。松笛は「変態」として、戸川に様々な行為を要求するにも関わらず、眼鏡をいじることはない。松笛の言動からは、眼鏡に対するリスペクトを一切感じ取ることはできない。松笛には眼鏡DNAが完全欠如しているのだ。
読み進めていくうちに、作者自身に眼鏡DNAが欠如しているとしか思えないエピソードが次々と登場する。

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人間のクズ登場。眼鏡っ娘のかわいさが、なぜ分からんか!
自分自身でこんなにかわいい眼鏡っ娘を描いておきながら、作者は眼鏡の魅力を自覚していなかったとしか思えない。それは、単行本で明かされた「メガネの理由」にも明らかだ。

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ということで、作者自身の弁によれば、戸川が眼鏡であることに「特に理由はない」。深読みする必要は全くなく、作品自体を読めば「そうなんだろうな」と素直に納得できる。「ただなんとなく」という理由で、戸川は眼鏡っ娘になったのだ。
だが、それでいい。
描いた作者自身が自覚しなくとも、眼鏡っ娘の魅力は確かにここに宿ったのだ。それは読者からの支持に明らかに示される。作者の意図を超えて、眼鏡の力が本作を覆うことになる。それは眼鏡への態度の変化に顕著にあらわれる。既に具体例で確認したように、本作は当初のうちは眼鏡をダサいものとして扱っていた。しかし連載が続いていくうちに、その傾向は完全に払拭される。集合的無意識の働きによって、眼鏡の力が正当に認識されていったのだ。
何の曇りもない目で見れば、どう見ても、戸川は圧倒的にかわいい。「眼鏡はダサい」という歪みきった観念で脳みそを曇らされているうちは分からないが、エポケー(フッサール現象主義の用語で、あらゆる先入観を排除して世界と対峙すること)して戸川を見てみれば、圧倒的な魅力なのだ。
このように、作者が眼鏡の魅力を意識せずにたまたま描いたにも関わらず、世間の評価によって眼鏡の魅力が明らかになる例を、我々は既に見た。鳥山明「Dr.スランプ」(第77回)も、そうだった。さらに言えば、実は眼鏡DNAを持たない作者だからこそ、ここまで魅力的な眼鏡っ娘を世に送り出すことができたのかもしれない。その諧謔の可能性に思考が及んでしまう故に、私は本作によってモヤモヤさせられてしまうのだろう。

さて、戸川の魅力は見れば分かるのでいいとして。本作は他にも眼鏡的に興味深い点がいくつかある。一つは、「貼り付き眼鏡」だ。「貼り付き眼鏡」については、第56回で解説した。デッサンが狂った眼鏡のことだ。本作では、戸川の眼鏡は貼り付いていない。ちゃんと描かれている。ところが驚くべきことに、他の眼鏡キャラの眼鏡が貼り付いているシーンがあるのだ。同じコマの中に貼り付き眼鏡と貼り付いていない眼鏡が同時に描かれる例は、他にないのではないか。引用の一コマ目に注目してほしい。左側の戸川の眼鏡は貼り付いていないが、右側にいる万賀道雄というキャラの眼鏡は貼り付いている。

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デッサンの狂い自体に、問題はない。問題は、同じコマの中に、どうして貼り付きと貼り付きじゃない眼鏡が同居できるかという、理論的にはまったく理解不可能な現実だ。つくづく不思議な作品だ。しかしこの万賀道雄というキャラが、明らかに藤子不二雄「まんが道」のパロディであることを想起すると、この貼り付き眼鏡には恐るべき意図が隠されている可能性がある。貼り付き眼鏡が忠実な藤子不二雄パロディであるとしたら、恐ろしすぎるとしか言いようがない。

もう一つは、「見る意志」についてだ。本作の結論めいたエピソードにおいて、戸川というキャラクターの特徴が「見る意志」であることが言明される。

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この「見る意志」を象徴するものがまさに眼鏡であることは、本コラムにおいて何度も言及してきた。本作作者は、戸川の眼鏡に理由はないと言っていた。しかし作品自身は、戸川の眼鏡が「見る意志の象徴」であることを明らかに示している。これが作者の韜晦なのか、それとも集合的無意識が作り上げた眼鏡の力によるものなのかはわからない。まあ、理由はどうでもよいだろう。本作が眼鏡っ娘マンガの傑作であることだけは、もはや疑いようがないのだ。

■書誌情報

単行本は、イレギュラーな形で出版されている。本編13巻+学園編1巻+精霊編3巻の、全17冊。新装版は、全7巻。

単行本セット:植芝理一『ディスコミュニケーション』全13巻
単行本セット:植芝理一『ディスコミュニケーション精霊編』全3巻
Kindle版:植芝理一『ディスコミュニケーション学園編』
新装版セット:植芝理一『ディスコミュニケーション新装版』1-7巻セット

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