この眼鏡っ娘マンガがすごい!第96回:吉田まゆみ「アイドルを探せ」

吉田まゆみ「アイドルを探せ」

講談社『Fortnightly mimi』1984年no.4~87年no.21

80年代を代表する少女マンガタイトルだ。懐かしの少女マンガ作品を紹介するガイド本などにも必ず取り上げられる、連載4年、単行本10巻に渡って人気を博したビッグタイトルだ。しかし、だ。この作品の本当の凄さを適切に解説できているガイド本は、皆無だと思う。眼鏡っ娘に着目しなければ、本作の本当の構造は理解できないのだ。

まず本作の何がすごいかというと、主人公(非・眼鏡)がカラッポなのだ。脳みそがカラッポなのだ。奴は何も考えていない。ちょっと顔がかわいいことだけが取柄の、やりたいこともなく、夢もなく、趣味もなく、特技もなく、コンプレックスもなく、具体的な人生の目標など何一つない、ただ単にボーイフレンドがほしいだけの、本当に心底つまらない女が主人公なところが、すごいのだ。注意してほしいのは、私は本作を決してけなしていないところだ。というのは、通常はこういう「カラッポの女」を主人公にして、物語など描けないのだ。物語を描こうと思ったら、普通は、なにかしら主人公に目標なり解決するべき課題などを与えて、起承転結のストーリー構成を考える。どのマンガ教科書にもそう書いてある。マンガの教科書によれば、主人公には強烈な個性が与えられるべきだし、ストーリーにはメリハリのある展開がなければならない。普通はそうでなければ面白い話になどなるわけがない。そのはずなのに、本作にはそれが一切ないのだ。主人公にはまったく個性がなく、ストーリーには何の起伏もない。それにもかかわらず、ちゃんと物語が進行し、おもしろく読める。なんなんだ、これは? 本作は創作のセオリーを外れているにもかかわらず、それでも成立しているところが、ものすごいのだ。

096_01さて、非・眼鏡の心底どうでもいいヒロインの話は、本当にどうでもいい。問題は、脇役で登場した眼鏡っ娘だ。まあ正確には脇役というよりは、柊あおい「星の瞳のシルエット」における沙希ちゃんやCLAMP「レイアース」の鳳凰寺風ちゃんのように、「主要登場人物が3人以上いるとき、ひとり眼鏡」という類型に入るだろう。おおかたの少女マンガガイド本が見落としているのは、この事実だ。おおかたのガイド本は、心底どうでもいい非・眼鏡ヒロインばかり見ていて、眼鏡っ娘を見ていない。これが大問題なのだ。実は、非・眼鏡の心底どうでもいいヒロインが心底くだらないエピソードを繰り広げている最中、眼鏡っ娘のほうは着々と王道少女マンガの恋愛ストーリーを紡いでいるのだ。
眼鏡っ娘の甘露寺恵(かんろじ・めぐみ)は、初登場シーンは本当に酷いものだった。顔だけはちょっとかわいいが心底つまらないメインヒロイン(非・眼鏡)が明るくアッパラパーに振る舞う一方で、眼鏡っ娘は貧乏たらしく惨めなネクラに描かれる。徹底的に惨めに描かれる。このあからさまに噛ませ犬の初登場シーンから、眼鏡っ娘が10巻後に大逆転を演じるとは、誰が予想しただろうか。そう、大逆転するのだ。
096_02非・眼鏡の本当に心底つまらないバカ女のほうは、10巻経ってもまったく成長しない。相変わらず顔だけはちょっとかわいいからいろんな男に声をかけられるが、まったく自分というものの「芯」を欠いているので、いつまでもフラフラしている。短大を卒業して適当に仕事に就いても、やりたいことすら見つからない。アホすぎる。その間に、眼鏡っ娘のほうはマンガ家になるという目標を達成してデビューを果たし、しかも彼氏もつくって、初エッチまで済ませ、同棲にまで進んでいく。この初エッチシーンが、実に美しい。本当に幸福なんだなということがしっかり伝わってくる。お互いの愛情が画面に満ち溢れている、本当に美しいシーンだ。そんな幸せな初体験をした眼鏡っ娘と比較して、メインヒロイン(非・眼鏡)のほうの初体験は、自分というものを持たずに単にその場の雰囲気に流されただけで、まったく深い考えがない場当たり的なもので、心底くだらないのはともかく、まったく学習しないという、どこまで脳みそカラッポなんだということをまざまざと見せつける酷いものに終わっている。

096_03ここまでくると、一つの疑いが浮かび上がってくるのを禁じ得ない。本作の本当の主人公は眼鏡っ娘のほうで、メインヒロインに見えた非・眼鏡の心底つまらないカラッポ女のほうが噛ませ犬だったのではないかと。第1巻で、わざわざ眼鏡っ娘を酷く描いてあたかも噛ませ犬のように見せたのは、実はこの逆転を劇的に描くための伏線だったのではないかと。引用画を比べてほしい。最初の1枚目は、単行本1巻の眼鏡っ娘だ。酷い描き方だ。2・3枚目は、単行本10巻の眼鏡っ娘だ。もはや同一人物とは思えないほど、進化している。進化したのは外面だけではなく、人間としても女としても格段に進歩している。心底つまらないメインヒロインがただの一歩も進歩していないのと比べた時、眼鏡っ娘の魅力が一段と輝くのだ。もはや断言してもいいだろう。本作のメインヒロインは、頭がカラッポでまったく成長しない非・眼鏡のバカ女ではなく、外面的にも内面的にも飛躍的な成長を遂げた眼鏡っ娘なのだ。
ほとんどの少女マンガガイド本は、この事実にまったく触れない。ちゃんとマンガを読まずに適当に文章を殴り書きしているとしか思えない。「アイドルを探せ」は、眼鏡っ娘マンガだ。その証拠にカンロちゃん以外にも主要登場人物として眼鏡っ娘が3人も登場しているのだ。

■書誌情報

単行本10巻。3人の過去を描いた番外編1巻。3年後の世界を描いた続編3巻。3年後の世界でも、やはり心底つまらないカラッポ女はカラッポのままで、ただの一歩も成長していないところが、本当にすごい。一方のカンロちゃんは、やはり、しっかり自立した女へと成長していく。

単行本:吉田まゆみ『アイドルを探せ』全10巻+番外編(講談社コミックス)
文庫本:吉田まゆみ『アイドルを探せ』全6巻(講談社漫画文庫)
続編:吉田まゆみ『夜をぶっとばせ』全3巻(講談社コミックスミミ)

しかし本当に吉田まゆみ作品のメインヒロインのカラッポぶりは徹底していて、「ガールズ」という作品ではついにメインヒロインがカラッポすぎて話が作れなくなり、途中から出てきただけのただの脇役がいつの間にか主人公に躍り出て、当初のメインヒロインは最終回にはただのモブになっているという……ちょっと類を見ない作品が、本当にすごい。いや、けなしているのではなく。本当に卓越したマンガの実力がないと成立しないことであって、他の追随を許さないものすごいことなのだ。だから本当は「メインヒロインのカラッポぶり」について合理的な言語化ができなければ、吉田まゆみ作品をちゃんと語ったことにはならない。だから、メインヒロインをカラッポだからといってただのバカ女と切り捨てるのは、批評的には許されない。が、眼鏡的にはどうでもいいので、切り捨てる。

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第95回:吉田まゆみ「ハッピーデイズ」

吉田まゆみ「ハッピーデイズ」

講談社『Fortnightly mimi』1989年no.13~90年no.13

095_01

眼鏡っ娘とメガネくんが結ばれる恋愛物語だ。ただし、眼鏡そのものについて書くことは、なにもない。この「眼鏡そのものについて書くことがなにもない」ということが実は重要なのだということを、以下、少し作品自体を離れて書いていく。

095_02まず吉田まゆみを語る上で絶対に外せないのは、圧倒的に大量の眼鏡っ娘キャラを描いているという事実だ。もちろんマンガ家生活40年という長いキャリアも一つの要因となる。が、私が確認できただけでも20世紀中だけで17人の眼鏡っ娘キャラを描いている(もちろんモブに出てくるだけの端役等は除いた数)。実はこれほど大量に眼鏡っ娘を描いている作家は、他には陸奥A子とめるへんめーかーくらいしかいない。個人的に、陸奥A子・めるへんめーかー・吉田まゆみを少女マンガ眼鏡界の「3M」と呼んでいる。
そしてこの3Mが描く眼鏡っ娘は、性格的にもとても興味深い。これだけ大量に眼鏡っ娘を描いているにもかかわらず、あるいはそれ故にか、「眼鏡っ娘のステロタイプ」が見当たらないのだ。頭がいいとか、委員長だとか、本をよく読むとか、オタク要素があるとか、意地っ張りだとか、容姿にコンプレックスを持っているとか、そういうステロタイプな要素が欠落しているのだ。くらもちふさこや田渕由美子が展開したような少女マンガ特有の「乙女チック眼鏡っ娘」の要素も極小だ。眼鏡というアイテムを何かの象徴にすることが、一切ない。ただ単に視力が低くて眼鏡をかけているだけで、他に性格的な特徴がないという眼鏡っ娘。それを大量に描いているために、「眼鏡に特徴がない」ことが逆に特徴となって、いやがおうにも目立つのだ。
095_03そしてそれは「評論泣かせ」の原因でもあるだろう。吉田まゆみは40年間もマンガ界の第一線で活躍していることから明らかなように、非常に人気の高い作家だ。絵も美しく、画面構成もストーリー展開も巧みで、セリフの端々にユーモアセンスとインテリジェンスの高さを感じる。要するに、極めて高い実力を備えている。その人気と実力とキャリアに比して、極端に「語られること」の少ない作家でもある。それはおそらく評論家的な感性を持つ人々に対する「とっかかり」が欠落しているのが理由だろう。そしてその「とっかかりの欠落」とは、具体的にはまさに「眼鏡に特徴がない」ことに現れている。眼鏡に特徴のある作家、たとえばくらもちふさこや高野文子や田渕由美子は評論家的な感性を持つ人々の興味の対象となりつづけている。眼鏡というアイテムになんらかの意味を帯びさせることをするような作家は、他のアイテムにも同じような働きかけをする。象徴性を帯びたアイテムは、評論家的な感性を帯びる人々の魂をくすぐる。作家の眼鏡の扱い方を見れば、評論家的な人々が食いつくかどうかは、だいたい想像がつく。吉田まゆみには、それが欠けているのだ。

ということで、本コラムでも、眼鏡について書くべきことは、実は特にない。しかしその「書くべきことが特にない」ということがいかに貴重なことかは、強調しておきたい。空気のように眼鏡をかける。誰もが眼鏡をかける世界にするために、あらゆる先入観とステロタイプは排除しなければならない。吉田まゆみの描く眼鏡らしい特徴のない眼鏡っ娘は、実はその理想的な姿を見せてくれているのだ。そんなわけで、眼鏡っ娘とメガネくん(アメリカ人)は、特に眼鏡ということにこだわりもなく、空気のように眼鏡をかけながら、キスをする。おめでとうおめでとう。

095_04

そんな空気のような吉田まゆみ眼鏡だが、敢えてとっかかりを見つけようとすると、やはり80年代の代表作『アイドルを探せ』の分析が突破口になるだろう。眼鏡に注目することで、評論家的な感性を持つ人々が黙殺し続けてきた重要な何かが見つかるのだ。それについては、また別の機会に。

■書誌情報

単行本全2巻。文庫版も出ているし、電子書籍で読むこともできる。単行本の黄色地の表紙がアメリカっぽくてオシャレ。

Kindle版:吉田まゆみ『ハッピーデイズ』全2巻
単行本:吉田まゆみ『ハッピーデイズ』全2巻
文庫版:吉田まゆみ『ハッピーデイズ』(中公文庫―コミック版)

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第94回:寿限無「マニー」

寿限無「マニー」

新書館『ウイングス』1989年第68号・73号・79号

094_01

さすがに時代を感じるアイテムだなあ。βデッキはともかく、29インチテレビが昭和の終わり頃にどれほどすごかったかは、21世紀に生きる人々にはわからないだろう……。ともかく、これはすごいことだったのだ。
094_03ということで、本作は「マニア」をテーマとしている。これまた21世紀に生きる我々にはわからないことだが、当時は「マニア」と「オタク」と「コレクター」をかなり明確に峻別していた。この場合の「オタク」とは、いわば東浩紀言うところの「動物化」した人々で、受動的な消費に特化している(現在の用法と違うことには重々注意)。一方「マニア」とは、本作の主題となっているように、ひとつのことにこだわり、熱中して、その結果として人類の進歩を促す人々を意味する。今では「オタク」という言葉が一定程度この意味を担っているようだが、1989年当時は宮崎勤事件で「オタク」という言葉が氾濫していたため、自分たちを「Mくん」と峻別しようという意識が働いていた可能性があるかもしれない。
さて、マニーの首領であるメガネくん遠藤に立ち向かう女マニーは、眼鏡っ娘だ。ここに眼鏡っ娘v.s.メガネくんの熾烈な戦いが幕を開ける。戦いのテーマは、「杏仁豆腐のおいしい作り方」だ。恐るべし、遠藤。メガネくんは杏仁豆腐のおいしい作り方にも熟練していた!

094_04

こうして眼鏡っ娘は、遠藤たちの仲間になるのだった。
そこに新たな敵「妥教」が襲ってくる。すべての人々の心の中にある「マニアックな部分」を破壊し、「妥協」する心を植え付ける、恐ろしい集団だ。妥教に支配された人々は気力を失い、世界はたちまち荒廃してしまう。戦えマニー! ぼくらの平和を守れるのは君たちしかいない!
そんなマニーの首領・遠藤は、眼鏡っ娘がメガネを外したらどうなるかに興味津々なのだった。

094_05

ところで「マニア」とはプラトン哲学の中で重要な位置を占める概念だ。周知のとおりプラトンの「イデア論」は、人間の感覚では掴むことのできない「イデア」のみを真の実在とし、我々の感覚に触れるものは全てイデアの「影」にすぎない偽物と言う。プラトンによれば、真実を知るということは、人間の感覚に頼らず、ものごとの真の姿を魂で捉えることだ。しかし五感に頼らずに魂で物事を見るためにどうすればいいのか。プラトンはここで「マニア」が重要だという。「マニア」とは、ギリシア語で「狂気」を意味する。プラトンによれば、常識的な感覚ではものごとの真の姿を捕えることは不可能だ。人々は「狂気」に陥った時、初めて真の姿を把握することができる。その事情は、たとえば「恋愛」という現象に最も顕著に表れる。「あばたもエクボ」という言葉があるが、客観的に見ればさほど美しくない女性に対して熱狂的に恋に陥ることがある。プラトンは言う。それは人間の感覚で捉えられる女性の表面上の姿を見ているのではなく、狂気に陥って、物理的な女性の姿のはるか彼方の「美そのもの」を見ている状態であると。客観的に見るとただの「あばた」が、狂気に陥った時に「エクボ」となる。そしてそれこそが「美そのもの」を捉えるための唯一の道なのだ。
本作で描かれている「マニー」たちも、プラトンが言う「狂気」を通じて「ものごとの本質そのもの」を捉える人々だ。そしてそれが他の動物にはない、人類の力だ。この「マニア」の力を押さえつけ、去勢しようとする人々が後を絶たない。そんな「妥教」に対して、我々は戦い続けなければならない。めがねっ娘教団は、だから、全ての眼鏡っ娘と眼鏡っ娘を愛する人々のために戦い、世界の本質を求め続けるのだ。

094_02

ちなみに自慢だが、私は小学生の時にZ80のハンドアセンブルができた。RETがC9てのはいまだに覚えていたり。小学生の時に組んだプログラムが『マイコンBASICマガジン』に掲載されたりしたんだぜ。しかし21世紀では「マシン語」どころか「BASIC」も死語じゃのう。

■書誌情報

同名単行本に3話所収。著者の「寿限無」は、アニメーターの新岡浩美さん。マンガ単行本は新書館から4冊出ている。本作は、80年代にマニアをやっていた人が読むと、たぶん、とても楽しい。

単行本:寿限無『マニー』(ウィングス・コミックス、1990年)

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第93回:西炯子「ひとりで生きるモン!」

西炯子「ひとりで生きるモン!」

小学館パレット文庫しおり、1997年11月~

(※以下、シモネタを扱っているので、苦手な方はご注意ください。)

093_01

093_02西炯子というと、私にとっては眼鏡っ娘というよりもメガネ君のイメージの方が強烈だった。やはりプチフラワーの嶽野くんシリーズと、ウイングスの三番町萩原屋の美人の印象が強かったのだろう。当初は、不安定な青春時代の感性の上澄みを掬い取ってくる切れ味鋭い作風が鮮烈だったが、大量の作品を生み出す過程で大人の作風に進化し、それに伴って眼鏡っ娘の登場頻度も上がっていった。その眼鏡っ娘たちは、20世紀少女マンガの眼鏡とは、ほぼ無縁だ。アクの強い眼鏡っ娘たちが、予想の斜め上を行く。だが、それがいい。
093_03本作は、オムニバス4コママンガ。特に決まった主人公はおらず、様々にアクが強いキャラクターが入り乱れながら、日常が脱臼したようなシュールコントを繰り広げる。流れで言えば、新井理恵『X』とか立花晶『サディスティック19』が大きな可能性を示したような、少女マンガ文法に則った上でのシニカルでシュールな4コマ作品に位置づくのだろう。当初は「あの西炯子が4コマ!?」と驚いたけれど、読んでみると実にツボにハマっている。本当に何を描いても上手で、びっくりする。
だが何といってもこの作品が決定的に素晴らしいのは、森川さんという強烈な眼鏡っ娘キャラを生み出したことだ。森川さんの強烈さは、他にも様々にシュールなキャラがたくさんいるにも関わらず、表紙に一際大きく描かれたのが森川さんだったというところに端的に表れている。ニコリともせず、クールにシモネタを言い放つ森川さんの姿は、神々しい。いい加減な気持ちでシモネタを言うのではなく、吹っ切った覚悟を持って空気のようにシモネタを放つところが、カッコよすぎる。
が、もっとも強烈なのは、1巻の扉カバーでフィギュアになっている森川さんの姿だ。森川さんは立体になってもいつものクールビューティーなのだが、そのポージングが恐ろしすぎる。恐ろしすぎて、どこからか検閲が入った形跡もある。よう許されたなあ、これ。ぜひ自分の目で確かめていただければと思う。

■書誌情報

既刊単行本5巻。当初はパレット文庫の栞に連載?されていた作品だったけど、途中から雑誌連載になっているのかな。桶狭間麗華先生も眼鏡で素敵。

単行本:西炯子『ひとりで生きるモン!』(キャラコミックス、2003年)

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第92回:清原なつの「花岡ちゃんの夏休み」

清原なつの「花岡ちゃんの夏休み」

集英社『りぼん』1977年8月号

092_02全てのマンガ家は一人一人かけがえのない個性を持っていて、誰もが交換の効かない存在ではあるけれども、やっぱりその中でも特に際立って特別な存在感を放つ作家がいる。清原なつのは、そういう作家の一人だろう。その理由の一つは、おそらく「性」の匂いにあると思う。特に『りぼん』という少女誌で徐々に性の匂いが排除されていくなかで(まあ一条ゆかりという鬼才は別として…)、清原なつの作品が醸し出す「性」の匂いは鼻腔の奥に残る。
そんな清原なつのが眼鏡っ娘を大量に描いているのは、おそらく偶然ではない。清原なつの作品の眼鏡っ娘を通覧して気がつくのは、共通して「大人の女になることを拒否している」ということだ。ただ「大人になる」ことを拒否しているのではなく、「大人の女になる」ことを拒否しているのだ。右の引用図のモノローグでは、母親が言う「女は嫁にゆけばいい」という世間的意見に反発している。眼鏡っ娘たちは、世間が圧力をかけてくる「女」のイメージに反発している。彼女たちの眼鏡は、自分の心を世間の圧力から守るバリケードなのだ。しかしそれにも関わらず、彼女たちの心と体は自然と「大人の女」へと変化していく。そして女性の体は、ある時期に至れば不可逆的に大人になったということを自覚させるような仕組みにできている。その心と体の危ういアンバランスが同居した存在を「少女」と呼ぶのであれば、清原なつのほど「少女」を描ききった作家は他にいないのではないか。

092_05

092_04清原なつのと同時代の『りぼん』では、田渕由美子・太刀掛秀子・陸奥A子など「乙女チック」が活躍していた。「乙女チック」にもそれぞれ個性があるが、ここで描かれる「少女」は共通して観念論的だ。悪い意味で言っているわけではなく、それぞれ観念論的に完成度が高いことは本コラムでも解説してきた(端的に言えば「眼鏡っ娘起承転結理論」はまさにドイツ観念論、特にヘーゲル弁証法に比定できるということ)。それに対して清原なつの作品には、一つとして「眼鏡っ娘起承転結理論」に当てはまる作品が存在しない。それは清原なつの作品が観念論を採用せず、常に身体性を伴いながら物語を紡いでいることを意味する。清原なつの作品から匂い立つ「性」の源泉は、観念論を拒否した身体性にある。そうしてみると、彼女たちがかけている眼鏡は、世間の圧力からのバリケードであると同時に、彼女たちの身体を内側から変化させる力をなんとか押しとどめるための抵抗の象徴でもあるだろう。それはつまり、眼鏡が「少女」の象徴であることを意味する。外圧と内圧に挟まれたところに、レンズがある。世間がイメージする「女らしい女になれ」という外圧と、DNAに制御された身体の内側から「女になれ」という内圧、その真ん中に眼鏡のレンズがある。彼女たちの眼鏡は、彼女たちの「少女性」を体現している。「少女」を描く清原なつの作品に眼鏡っ娘がたくさん登場するのは、もはや必然と言える。

092_03

 

■書誌情報

092_01単行本『花岡ちゃんの夏休み』所収。続編の花岡ちゃんシリーズとして、同単行本所収の「早春物語」と、『3丁目のサテンドール』所収の「なだれのイエス」がある。
初単行本の『花岡ちゃんの夏休み』には花岡ちゃん以外にも眼鏡っ娘がたくさん登場し、清原なつのといえば眼鏡っ娘という印象がついた。りぼんコミックスのほか、ハヤカワコミック文庫にもなっている。

単行本:清原なつの『花岡ちゃんの夏休み』(りぼんマスコットコミックス、ハヤカワコミック文庫)

 

 

 

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第91回:松乃美佳「ビターな恋を攻略せよ」

松乃美佳「ビターな恋を攻略せよ」

集英社『りぼん大増刊号』2003年春

眼鏡で「委員長」というと、一般的には保科智子のように男性向メディアで人気が出たキャラクターを思い浮かべるかもしれない。しかし実は少女マンガにも眼鏡で委員長の魅力的なキャラクターがたくさん主人公として登場することは、もっと広く認知されていいように思う。本作も、眼鏡で委員長でツンデレなヒロインが健気に頑張る話だ。

ヒロインの長岡手毬は、眼鏡っ娘委員長13歳。抜群の学力で一目を置かれている存在だが、密かにサッカー部の矢田部くんに恋をしていた。いつもグラウンド脇で読書するふりをしながら谷田部くんを応援していたのだった。

091_01

しかし手毬ちゃんは不器用で、好意を素直に伝えることができない。それどころか矢田部君が近づくとパニックに陥って逆に悪態をついてしまう始末。素直になれない手毬ちゃんは、谷田部くんのいつも素直なところに惹かれていたのだった。そんな手毬ちゃんを見かねた親友が、おせっかいを焼いて、なんとか手毬ちゃんを素直にさせようとする。しかし、ようやくうまくいったと思ったところで、やはり素直になれない手毬ちゃん。だがここは谷田部くんが、さすがに少女マンガのヒーロー。しっかり男を見せる。

091_03

委員長の視線に、谷田部くんはしっかり気が付いていた。素直に言葉を出せない手毬ちゃんの気持ちも、レンズを通した視線によってしっかりと伝わっていたのだ。おめでとうおめでとう!

091_02本コラムで何度も指摘してきたが、これが眼鏡の力だ。眼鏡とは「見る意志」を象徴している。そして物語の中では、眼鏡は「読者の視線をコントロールするアイテム」として機能する。上に引用した絵では小さくてわかりにくいが、樹の傍に座って矢田部君を見ている委員長の顔に眼は描かれていない。眼鏡だけが描かれている。手毬ちゃんの「視線」は、眼鏡によって可視化されている。そして視線が眼鏡によって可視化されることにより、読者のほうも手毬ちゃんの視線をしっかり認識することができる。谷田部君の「視線が俺のはげみになっていた」というセリフは、こうした積み重ねがあって、初めて説得力を持つのだ。
口では嫌いと言っても、眼鏡は嘘をつけない。レンズを通した視線は、いつも真実を伝えている。眼鏡委員長の魅力は、そんなところにもある。

■書誌情報

本作は42頁の中編。単行本『あいレベル』に収録。新刊では手に入らないようだが、単行本が大量に出回ったので、古書で比較的容易に手に入る。

単行本:松乃美佳『あいレベル』(りぼんマスコットコミックス、2003年)

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第90回:小野寺浩二「妄想戦士ヤマモト」

小野寺浩二「妄想戦士ヤマモト」

少年画報社『アワーズライト』2000年9月号~『OURs』2006年2月号

090_07

090_01「めがねっ娘教団」は、この作品から生まれた。記念すべき初登場は、第7話。それ以来、作品の内外で圧倒的な存在感を見せつけてきた。ヤマモトやワタナベのコスプレをする奴は見たことがないが、めがねっ娘教団はつい先日地上波(2015年9月4日「有吉ジャポン」)にも映ってしまった。それだけの内在的なエネルギーがそもそも本作に備わっていたことは、内容を一瞥するだけで理解できる。圧倒的な熱量を放射しているのだ。

めがねっ娘教団は、第7話で、ヤマモトによるコンタクトレンズ弾劾演説の後に初登場する。この第7話が2001年3月号(1月発売)に描かれているのは、おそらく偶然ではない。新世紀の幕開けに教団が登場するのは、その後の展開を考えるとたいへん象徴的な事態なのだ。めがねっこ教団が登場して以降の2001年の歴史を確認しよう。その怒涛の展開に驚くはずだ。

090_02

2001年1月 「妄想戦士ヤマモト」に、めがねっ娘教団登場。
2001年1月 西川魯介『屈折リーベ』単行本化
2001年2月 下北沢にZoff1号店がオープン。
2001年4月 眼鏡っ娘ONLY同人誌即売会「Glasses」第一回開催
2001年5月 眼鏡っ娘ONLY同人誌即売会「めがねっこフェスティバル」第一回開催
2001年6月 眼鏡ONLY同人誌即売会「眼鏡時空」第一回開催
2001年6月 『デジモノステーション』で「ビジョメガネ」連載開始
2001年7月 Tommy February6デビュー
2001年9月 門脇舞デビュー

どうだろうか。この、なにかが溢れ出したような怒涛の歴史展開。これが新世紀だ。その渦中にあった時は、何かとんでもない変化が起こりつつあったことは感じていたものの、何が起こっていたかを正確に把握することはできなかった。めがねっ娘教団が説得力を持っているのは、そのわけのわからないエネルギーの奔流を的確に形にして見せていたからだ。
090_04教祖・南雲鏡二の生き様は、わけのわからない無形のエネルギーを具体的な形にしたものだった。彼の言動の一つ一つが、「これだ!」とか「これでいいんだ!」とか「こうじゃないとだめだ!」とか「ここまでやらなきゃダメだ!」と思わせるような説得力に満ちていた。ぐるぐると渦巻いていた無定形のエネルギーの塊が、南雲鏡二の一言で形になっていく。我々が目指していた最高の境地はここにあるのだと、具体的な形で見せてくれたのだ。そうして目指すべき指針を得た人々は、教団服を身にまとう。南雲鏡二はマンガのキャラクターではあるが、人々の潜在的なエネルギーに火をつけ、具体的な行動を促すという点で、真の人格を備えている。

090_05南雲鏡二の生き様を見て思い出すのは、江戸時代中期の『葉隠』という作品だ。『葉隠』は「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という一文で高名な、武士道をテーマとした作品だ。そこでは、何か選択肢があってどのように行動していいか迷った時、「死にやすいほう」を選べば間違いないということが説かれている。実は、南雲鏡二の行動原理(あるいはヤマモトも含めた本作登場キャラすべての行動原理)は、まさにこの武士道そのものだ。なにか選択肢があったとき、彼らは常に「自分の立場を危うくするほう」なり「自分を窮地に追いつめるほう」を選ぶ。そしてその選択には合理的な理由などない。ただ単に「男だから」という理由だけで、彼らは進んで自分の立場を危うくするのだ。しかし我々は、そのような姿に痺れる憧れる。そこに武士道の精神がビンビンに漲っているからだ。彼らの合理性を欠いた行動様式は、近代人の目から見たら異様に映るだろう。が、それだからこそ武士道というものに思想的意義がある。

090_08そして『葉隠』の武士道が儒教的な観念(特に忠)で構成されている一方、本作は「萌え」という観念を中核に構成される。これは「萌え」という観念を理解しようとするときに、本作が重要な位置を占めていることを意味している。というのは、『葉隠』の非合理的な武士道は、もちろん当時の合理的な武士道を徹底批判する。武士道そのものが合理性では理解できない観念だと考えているからだ。おそらくそれは「萌え」にも通じる。「萌え」という観念を合理的に分析しようとする試みは、東浩紀等を中心として様々に行われた。しかしそれら合理的な試みが果たして成功したかどうかは、私の目から見れば疑わしい。そもそも「萌え」というものは、最初から合理的な分析を拒絶している観念ではないだろうか。「死にやすいほうを選ぶ」という、合理性を拒否した境地で初めて武士道が成立するのだとすれば。南雲鏡二の「自分を追いつめるほうを選ぶ」という生き様を見るとき、「萌え」とは分析の対象ではなく、「生きられる」ものだということを知るのだ。

090_06

そして合理性を超越した地平に初めて「宗教」が生まれる。めがねっ娘教団が宗教団体であることは、おそらく「萌え」というものの本質に深く関わってくる事態なのだ。本作は、合理性の彼方で、「萌え」というものの深い業をまざまざと見せつけてくれる。そうであって初めて、人々が具体的な行動を起こし始める。そういうわけで、本作が「聖典」と呼ばれるようになるのだ。

■書誌情報

もちろん教団の正典(カノン)。リニューアルされて、上下巻で手に入りやすくなって、ありがたい。旧単行本もお守りとして手許に置いておきたいところではある。持っていると、ならずものに鉄砲で撃たれたとき、たぶん助けてくれる。

小野寺浩二『妄想戦士ヤマモト HDリマスター上巻』(ヤングキングコミックス、2015年)
小野寺浩二『妄想戦士ヤマモト HDリマスター下巻』(ヤングキングコミックス、2015年)

単行本セット:小野寺浩二『妄想戦士ヤマモト』1-5巻セット (ヤングキングコミックス)

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第89回:藤井明美「やさしい悪魔」

藤井明美「やさしい悪魔」

集英社『別冊マーガレット』1996年11月号~97年5月号

9年ぶりにイケメンになって帰ってきた幼馴染がメガネスキーだったという話。
ヒロインの十子(とうこ)は、女子高生眼鏡っ娘。ドイツに行っていた幼馴染のワタルが9年ぶりに帰ってきた。幼いころはチビで泣き虫だったワタルが、高身長のイケメンになっていた。そんなワタルが、なにかにつけ十子にちょっかいをかけてくる。たとえば、こんな感じ。

089_01

自分の容姿に自信のない十子のほうは、ワタルの言動を嫌がらせのように感じてしまう。が、ワタルにしてみれば、心から出た素直な発言に過ぎない。ワタルは単にメガネスキーで、十子に眼鏡をかけ続けてほしいだけなのだ。何の裏も悪意もない。しかし十子はその事実に気が付かない。このすれ違いのモヤモヤが物語全編を貫いている。そう、これはメガネスキーの真っ直ぐな好意が実は眼鏡っ娘にはなかなか届かないということを描き切った物語なのだ。
なんやかんやで、なんとかワタルと十子がいい感じになり始めた時、恋のライバル、エリカが登場する。このライバルが、十子にやたら厳しい。まず初対面が酷い。

089_02

ひでぇ言われようだ。小学生ならともかく、高校生にもなって「メガネザル」と言われてしまうとは。この十子の表情、本当にショックだったんだね。
しかし本当に素晴らしいのは、これを受けたワタルの発言だ。

089_03

そう、論理的に言えば、メガネザルが眼鏡をとったら、ただのサルだ。論理的真実を言っているだけのワタルには、悪気はない。十子にずっと眼鏡をかけていてほしいから言っただけだ。が、ショックを受けた十子のほうには、ワタルの真意がわからない。エリカに引っ掻き回された十子は、コンプレックスをこじらせていく。眼鏡っ娘はメガネであるというだけで十分に魅力的だということに、十子自身はなかなか気が付かないのだ。メガネスキーと眼鏡っ娘の間には、いかに障害が多いことか。
が、ワタルは男を見せた。メガネスキーの誠意は、最後には眼鏡っ娘に届く。すべてのメガネスキーの誠意は、きっと眼鏡っ娘に届く。そんな勇気をくれる物語だ。

■書誌情報

単行本全1巻。人気があって大量に出回ったので、古書で容易に手に入れることができる。

単行本:藤井明美『やさしい悪魔』(マーガレットコミックス、1997年)

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第88回:藤木俊「はじめてのあく」

藤木俊「はじめてのあく」

小学館『週刊少年サンデー』2009年第6号~2012年第25号

眼鏡っ娘ヒロインが単行本16巻に渡って躍動する、読んでて幸せになる作品。他にも魅力的な眼鏡っ娘が何人も登場して、ありがとうありがとう。ああ、こんな学園生活を送りたかった! 特に赤城先輩の生き様に痺れる憧れる!

088_09

眼鏡っ娘ヒロイン「渡キョーコ」のファンクラブの会長を務める赤城先輩が、脇役なんだけど、本当に男前で存在感ありすぎ。最初に出てきたときはこんなに魅力的なキャラに成長するとは思わなかった。自分自身の気持ちに決して嘘をつかない、常に一直線の姿勢がカッコよすぎる。本作の登場人物はみんな真っ直ぐで、だから読んでて清々しい気持ちになる。

088_02ヒロイン渡キョーコがかわいいのはもちろんとして、脇役眼鏡っ娘たちも魅力的だ。まず、主人公阿久野ジローの姉アヤさんが素晴らしい。悪の組織の幹部でアラサーでブラコンで酒乱だけど、かわいすぎる。なかでも特に素晴らしいのは、温泉に入るときも眼鏡を外さないところだ。

088_03

キョーコは残念ながらお風呂シーンでは常に眼鏡を外しているのだが、さすがアヤ姉さんが分かってらっしゃるのは年の功か。結婚に至るきっかけが「Dr.スランプ」を彷彿とさせるのも、さすが眼鏡っ娘。おめでとうおめでとう。

そして緑谷の妹が、また眼鏡っ娘で、かわいい。初登場シーンでは一コマちょろっと出ただけだったので、ここまで存在感が上がるとは思わなかった。もうメロメロだ。

088_08

ああ、もう、かわいいなあ!
アヤ姉がお姉さん眼鏡で、緑谷妹が妹眼鏡ということで、姉属性にも妹属性にも全方位眼鏡対応の贅沢な布陣に感謝するしかない。

そしてもちろんメインヒロイン渡キョーコがかわいいのは言うまでもない。世間的には「ツンデレ」と呼ぶかもしれないが、そういう言葉ができる以前から語り継がれてきたサンデー伝統「居候ラブコメ」の王道ど真ん中を行くキャラが、かわいくないわけがない。しかも眼鏡がブレないんだよ。

088_01

ああ、もう、愛おしいなあ。主人公阿久野ジローの天然ぶりに翻弄されつつも、徐々にジローを悩殺していく過程が楽しすぎる。ハーレムものが陥りがちな受け身でかわいいだけのキャラに終わらず、主体的に行動するところがいいんだろうな。

そんなわけで、キャラ構造的にはハーレムものでありながら、実は初々しい青春の熱さと清々しさがダイレクトに伝わってくる、定期的に読み直したくなる作品だ。

 

■書誌情報

088_06単行本全16巻。少女マンガと違って、マンガ喫茶等でも読みやすいかも。ちなみに赤城先輩を見ると競輪戦士吉井正光(眼鏡男子コンテスト第2回グランプリ受賞者)を思い出すのは、私だけか。

単行本セット:藤木俊『はじめてのあく』全16巻(少年サンデーコミックス)

 

 

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第87回:えにぐまなみ「よよぎのじじょう」

えにぐまなみ「よよぎのじじょう」

集英社『ぶ~け』1994年10月~95年6月

眼鏡の「ON/OFF」の不連続性という特徴を存分に活用した作品。
ヒロインの「上原よよぎ」は眼鏡っ娘。ひょんなことから幽霊の「八幡よよぎ」と同調し、一つの体の中に二人の「よよぎ」の人格が入ってしまう。人格の切り替わりのスイッチが眼鏡だ。眼鏡ONの時は「上原よよぎ」の人格、眼鏡OFFの時は「八幡よよぎ」の人格になってしまうのだ。この世に未練を残して幽霊になっていた八幡よよぎは、生身の体を手に入れて大暴れ。ヒーローの渋谷道玄くんは、よよぎの不審な挙動の原因が眼鏡OFFにあると見抜き、よよぎに眼鏡をかけさせようとする。この眼鏡をかけさせようとするシーンを見ると、とても心が躍る。

087_01

「さあっ、おとなしくこのメガネをかけるんだ」というセリフは、ぜひあらゆる場面で使用していきたい。
さて、無事に眼鏡をかけると、元の「上原よよぎ」の人格に戻る。

087_02

こうして、二人の「よよぎ」に渋谷道元くんが翻弄されて、おもしろおかしいドタバタコメディが繰り広げられる。
しかしこの不安定な状態をいつまでも続けられるわけがない。上原よよぎと八幡よよぎがどちらとも道玄くんのことを好きになってしまったことから、人格のバランスが急激に崩れていく。特に眼鏡がなくなってしまってから、上原よよぎの声が聞こえなくなってしまう。眼鏡は幽霊の八幡よよぎを封印すると同時に、上原よよぎと八幡よよぎの心を繋ぐ「媒体」の役割を果たしていたのだった。その眼鏡が失われてしまったために、上原よよぎの人格が戻らないどころか、声すら聞こえなくなってしまったのだ。

087_03

眼鏡が「心と心を繋ぐ媒体」の象徴として描かれたことには、非常に深い意味が込められている。八幡よよぎと道玄くんは、上原よよぎとの絆を取り戻すために、必死に失われた眼鏡を探す。

087_04

眼鏡を捜索する過程で、道玄くんと八幡よよぎは、自分の本当の気持ちに気が付いていく。彼らは失われた眼鏡を探していたと思っていたが、本当は自分の気持ちを探していたのだった。本当に大切なことに気が付いた八幡よよぎは、自ら身を引くことを決意する。

087_05

結局、眼鏡は見つかり、上原よよぎの人格も戻ってくる。このとき、道玄くんが後ろから眼鏡をかけてあげていることに注意したい。後ろから眼鏡をかけることは、「視線を共有する」ことを意味する(当コラム第68回参照)。ここで二人が共有しているのは、もちろん八幡よよぎへの思いだ。たとえ八幡よよぎが成仏し、この世から消えてしまったとしても。この眼鏡がある限り、絆は繋がり続けるのだ。
眼鏡の「ON/OFF」の切り替わりを人格変化のスイッチにする作品は、他にもいくつかある。が、それをさらに「絆」というテーマに昇華させたところに、この作品独特の凄さがある。

■書誌情報

単行本全2巻。作者の名前は、「えにぐま」が苗字。掲載誌は『ぶ~け』だが、コミックスはマーガレットレーベル。なんだかamazonで検索しても出てこないけれど、他の古本通販サイトではちゃんと出てくるはず。

■広告■


■広告■