この眼鏡っ娘マンガがすごい!第66回:稲留正義「ヨガのプリンセス プリティ♥ヨーガ」

稲留正義「ヨガのプリンセス プリティ♥ヨーガ」

講談社『アフタヌーン』1996年9月~98年5月

前回は80年代にしか生まれえない作品を見たが、今回見るのは90年代後半でしか存在を許されなかっただろう作品だ。絵柄といい、ノリといい、ネタといい、画面全体から90年代後半の匂いを強烈に放っている。そして特に本作が歴史に名を刻まれるべき理由は、そのヒロインの名前にある。

066_02

「眼牙熱子」というド直球の名前! このネーミングセンスは、90年代前半では早すぎるし、2000年代ではベタすぎる。キャラクターにこの名前をつけることは、90年代後半でしか許されなかっただろう。
066_03コミケサークルカット全調査を踏まえる限り、眼鏡っ娘が一般に認知されるのは1995年以降のことだ。そして同時期に、メイドやネコミミといった、いわゆる「萌え要素」と呼ばれる認識枠組みがオタク界で広く共有されるようになる。その象徴は、1998年に登場したデ・ジ・キャラットだろう。東浩紀のオタク論が最も勢いに乗っていたのもこの時期だ。論理的に考えて、「萌え要素」が一般化する前の90年代前半に、本作のノリが存在することはそうとう困難だ。
しかし2000年以降には、こういったノリは急速に萎んでいく。キャラクターを作るときに、眼鏡とかメイドとか巫女といった外面的な要素ではなく、「ツンデレ」や「素直クール」といった内面性を重視する流れが支持されるようになる。そういう流れの中で、ヒロインに「眼牙熱子」という名前をつけることは、選択肢としてありえない。90年代後半の萌え文化興隆期特有の熱い空気の中では本作のノリはイケるのだが、066_01現在の感覚で読んだら多くの人がおそらく「痛い」と感じてしまうだろうと推測する。
ちなみに眼牙熱子の性格は、眼鏡っ娘のステロタイプとはかけ離れている。眼鏡がストーリーに絡んでくることもない。概念としての眼鏡はいっさい存在せず、「萌え要素」としての眼鏡のあり方だけが純粋に浮かび上がる。あらゆる意味で、本作は、まさに90年代後半でしかありえないノリをストレートに表現した、時代の証言者と言える。眼鏡っ娘表現の歴史を考える上で、本作が里程標の一つとなることは間違いない。

■書誌情報

全2巻。古本でしか手に入らない。ちなみに本作は眼鏡作品としてだけではなく「百合」作品としても一定の評価があるが、ここでは言及しない。

単行本:稲留正義『ヨガのプリンセス プリティー♥ヨーガ』1巻(アフタヌーンKC、1997年)
単行本:稲留正義『ヨガのプリンセス プリティー♥ヨーガ』2巻 (アフタヌーンKC、1998年)

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第65回:大野安之「That’s!イズミコ」

大野安之「That’sイズミコ」

STUDIO SHIP『コミック劇画村塾』1983年~87年

065_01その時代でなければ絶対に生まれなかった作品というものがある。本作には、内容・形式ともに、80年代の匂いが濃密に染み込んでいる。
形式的には、劇画村塾から発していることが大きな特徴だ。その故かどうか、一般受けを狙う思考では出てこないだろう、マンガ表現の可能性を極限まで追求していくような描写を各所に見ることができる。
内容は、説明しがたい。SFとファンタジーとメルヘンが融合したような、起承転結を拒む、プロットがあるのかないのかわからないような、それこそポストモダンな80年代の雰囲気が色濃い作品だとしか言いようがない。最終回のメタ・フィクション的な展開とセリフ回しなど、まさにニューアカデミズムが一世を風靡した80年代ならではの仕上がりに見える。本作についてきちんと語ろうとすると、そのままそっくり80年代について語ってしまうことになるだろう。
が、さしあたってそれには関心がない。眼鏡が問題だ。

本作のヒロイン眼鏡っ娘のイズミコは、他に比較すべきものが見当たらない、極めて個性的な眼鏡っ娘だ。具体的には、ビッチなのだ。眼鏡っ娘キャラ一般を考えると、清楚で奥手なキャラクターが多いように思う。そんななかで、これほど目つきと素行が悪いキャラクターは非常に珍しい。それゆえに、いいことか悪いことかは別として、読者を選ぶ作品のように思える。
065_02しかしそうなると、どうしてこのようなビッチが眼鏡をかけているのか、その理由を知りたくなる。残念なことに、作中ではイズミコが眼鏡をかけている理由はまったく描かれない。むしろ裸眼で困っている描写もないので、視力がどの程度かもわからない。ということは、なにかしらのキャラクター的な理由があって眼鏡をかけているというよりは、ビジュアル優先で眼鏡っ娘になっていると考えられる。全体的な画面構成を意識しながら本作を読むとき、イズミコの眼鏡は世界観にぴったりとハマっているように見える。眼と眼鏡が一体となったようなデフォルメ描写を見ると、そのビジュアルの完成度が極めて高いことがわかる。80年代という男性向眼鏡暗黒期にここまでの眼鏡っ娘を描くことができた作者の技量の高さは、計り知れないものがある。

065_03おそらく眼鏡暗黒期に眼鏡っ娘を描いたという自負があるからではないかと推測するが、20世紀が終わる頃の作品で、「メガネっ娘という一ヂャンル」に対する見解を披露している。同人誌発表作をまとめた『超電寺学園きらきら』に眼鏡っ娘の真奈美が登場するのだが、そのキャラクターもいわゆる眼鏡っ娘のステロタイプにはハマらない、ビッチ全開キャラだ。「That’s!イズミコ」終了後、90年代後半に一気に眼鏡っ娘市場が膨らむが、そこで人気が出たキャラクターは、大野安之の描く眼鏡っ娘とは大きく乖離している。その乖離が、このようなステロタイプ眼鏡に対する批判的な表現となったのだろうと思う。その是非や当否については、ここでは言及しない。
私のような批評家的ポジションから物を言う場合、ステロタイプを闇雲に否定することは、それが形成されていくべき必然性が時代と世間に存在する以上、慎重であらねばならない。批評家の役割はステロタイプが形成された必然性を言語化するために努力することであって、ステロタイプをバカにしたり否定したりすることではない。が、実作者には全く別の論理がある。ここでしっかり確認しておきたいことは、20世紀の終わりには、眼鏡がステロタイプ化していたという認識が確固として存在する状況になっていたこと。そして、それを乗り越えようという試みが確かにここにあったということだ。

■書誌情報

『That’s!イズミコ』全6巻は絶版マンガ図書館で無料で読むことができる。『超電寺学園きらきら』は18禁なので、注意。

絶版マンガ図書館:大野安之『That’s!イズミコ』全6巻

単行本:大野安之『超電寺学園きらきら』(プラザコミックス、2002年)

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第64回:惣領冬実「あたしきれい?」

惣領冬実「あたしきれい?」

小学館『別冊少女コミック』1994年3月号

054_hyou「眼鏡っ娘起承転結構造」については、田渕由美子を紹介するところ(第54回)で詳しく見た。起承転結構造は、その後も少女マンガのスタンダードとして描き続けられていく。それは物語構成が真似をされているということを意味しない。なぜなら、「ほんとうのわたし」と「ほんものの愛」について真剣に突き詰めて考えると、だいたいこの結論に行きつくからだ。起承転結構造は人類の普遍的な思考様式なのであって、だからこそ説得力があるのだ。それは思想史的には「弁証法」という形式で説明されるのだが、思想史的論理は機会を改めて確認するとして、まずは豊富にある実例を確認していきたい。

本作の眼鏡っ娘は、16歳。眼鏡のうえに、身長172cmもコンプレックス。片思いの先輩にも、告白なんてできっこない。対照的に、友達のまゆみは背が小さくてとてもかわいい。憧れの先輩とも普通に話すことができる。眼鏡っ娘は一念発起して努力してキレイになろうとしてみたものの、憧れの先輩には顔のことで笑われてしまう。「起」は、眼鏡をかけて、愛が無いところから始まる。結局、憧れの先輩は可愛いまゆみとつきあうようになる。

064_01

そんなこんなで、高校生時代はまったくモテなかった眼鏡っ娘だったが、東京の大学に進学してから環境が大きく変わる。背が高いところに目をつけられてモデルに勧誘されて、これが大当たり。プロのメイクさんが手を加えたところ、びっくりするような美人になる。憧れの先輩も、この美人があの眼鏡っ娘だったとは気がつかない。そして、まゆみにフラれたらしい憧れの先輩からも、とうとう告白される。眼鏡っ娘は、眼鏡を外してモテモテになってしまったのだ。「承」では、眼鏡を外して愛を獲得する。先輩は「人間見た目じゃないね」などと言って、なかなかデキた人間かのように思われた。

064_02

だが、そんな眼鏡を外した愛など、欺瞞に満ちていた。高校の同級生だったまゆみが先輩のことを追いかけて東京までやってくるのだが、太ってブスになってしまったまゆみに、先輩は酷い言葉をかける。「オレは見た目の悪い女とはかかわりたくないんだ」なんてセリフ、どんだけクズなんだ、この男。実は先輩がまゆみにフラれたというのはウソで、ブスになったまゆみはお払い箱になっていたのだった。そんな場面を偶然目にした眼鏡っ娘は、これがマヤカシの愛だったことを知り、再び眼鏡をかけ直す。「転」では、眼鏡なしの愛など、ただのマヤカシだと知る。

064_03

ウンコのような男に幻滅した眼鏡っ娘は、男になんか頼らない女性のための女性の美しさを目指して、プロのメーキャップ師を目指す。もちろん眼鏡をかけたまま働く。田舎の母は、眼鏡無しの写真をひそかにお見合写真に使って逆玉を狙っているが、眼鏡っ娘の方はもちろん見た目に寄って来る男と結婚するつもりなどない。お見合い本番は眼鏡で登場し、写真の美人と眼鏡の自分とは別人だと言って、顔目当てでやってきたクズ男をギャフンと言わせてやるのが常だった。そして次のお見合いも、そうなるはずだったのだが。そこに思いがけなく、真のヒーローがやってくる。女を見た目で選ぶのではなく、人格で好きになった男がやってくる。この男がメガネくんであるところに、運命を感じざるを得ない。こうして眼鏡っ娘が「ほんとうのわたし」と「ほんものの愛」を獲得して、「結」となる。

064_04

惣領冬実は、強弱のない淡泊な描線で構成された白い画面が魅力的な、都会派センスに溢れたストーリーを紡ぎだす優れた作家。コマ割りも非常に読みやすく、一見しただけでも卓越した画面構成力を持つことが分かる。そんな実力作家が、眼鏡を外して美人でハッピーエンドなどというマヌケなマンガを描くわけがないのだ。真剣に人間を描くことを追求したとき、必ず起承転結構造が降りてくる。世界の真実を求めた時、眼鏡っ娘は眼鏡をかけたまま幸せになるのだ。

■書誌情報

単行本『天然の娘さん』2巻に収録。長編をきっちり描ききることで定評のあった惣領冬実が短編連作を試みたという意味でも、興味深い作品。電子書籍で読むことができる。

Kindle版:惣領冬実『天然の娘さん』2巻(フラワーコミックス、1994年)

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第63回:山本景子「CICA CICA BOOM」

山本景子「CICA CICA BOOM」

集英社『マーガレット』2006年No.13~2007年No.1

063_01

ものすごい眼鏡マンガなので、ぜひとも自分の眼で確かめてほしい。強烈。
ヒロインは春日百々(かすがもも)。小学4年生から眼鏡だったが、高校入学をきっかけにコンタクトにするつもりでいた。しかし、だ。初っ端のエピソードで思わず「ブラボー!」と叫んでしまった。

063_02

なんとお父さんが高校入学祝いに32万円の眼鏡を買ってきたのだった! やったぜ親父! コンタクトにするつもりだった百々は、これで眼鏡をかけざるをえなくなる。

ここから百々にメガネの神様が降りてくる。入学早々、イケメンのめがね君が、入部勧誘で百々に声をかけてくる。あまりのイケメンぶりについていったところ、その部活は「眼鏡研究部(がんきょうけんきゅうぶ)」だった!

063_03

壁一面の眼鏡。ここは天国か? 部長・山田太郎の眼鏡パワーに圧倒されて、思わず入部してしまう百々。しかし世間は愚かな偏見に満ち溢れていた。廊下を歩いていると、いきなり百々の眼鏡がバカにされてしまう。悔しさに涙ぐむ百々。そこに部長登場! あっという間に眼鏡の素晴らしさを説き聞かせ、百々を救う。そして眼鏡を貶めるような愚かな発言をした女生徒に畳み掛けるのだ。

063_04

救われた百々は、部長のことも、眼鏡のことも、だんだん好きになっていく。しかし事はそう簡単に運ばない。部長は百々よりも眼鏡に夢中。百々は次第に寂しさを感じるようになっていく。部長はただ単に眼鏡を見ていただけで、私という人間のことにはまったく関心がないのだ、と。百々は固い決意を込めて、眼鏡を外してオシャレをして部長の前に立つ。しかし部長は「メガネはどうしたんだい?」と、眼鏡のことしか気にしない。いよいよ感情があふれた百々は、部活をやめると言って部室を飛び出すのだった……。
ああ、そうだ、これは西川魯介や小野寺浩二が全力でぶち当たっていった、あの難問だ。「私と眼鏡とどっちが好きなの?」って言われたところで、おれたちは眼鏡の君が好きなんだああ!ぐわあああ!
それはさておき、この作品も、「愛」とは何かについてしっかり結論を出す。眼鏡を突き詰めると「愛とは何か?」という問題に行きつき、さらに眼鏡を突き詰めるとその答えが見える。本作の結論も、美しい。

ここまでが読み切り部分だが、人気があったのだろう、連載が始まる。この連載でもパワーが落ちない。素晴らしい。眼鏡研究部と生徒会の対決で百々がミスコンテストに出ることになったり、そこであまりにも可愛かったため、眼鏡っ娘好きのストーカーに狙われたり。ストーカーに拉致されたときの絵が、またすごい。

063_05

壁一面の眼鏡っ娘写真。うーん、どこかで見たような、デジャヴ?って、おれんち?
ストーカー事件を眼鏡パワーで解決した後も、部長の妹(もちろん眼鏡っ娘)が大暴れしたり、温泉に部長と二人きりで閉じ込められたり、すごい眼鏡展開。

しかし、最終回はホロっとしてしまった。それまで受け身一方だった百々が、積極的に部長と部活のために動きまわる。眼鏡とは「見る」ための能動的なアイテムだ。最後の最後で百々は自分の意志で世界を変えていくことで、真の眼鏡っ娘となった。最初から最後まで素晴らしい眼鏡っ娘マンガだった。
20世紀には、こういうマンガが少女誌に掲載されることは想像もつかなかった。伝統の『マーガレット』に掲載されていたことの意味は、非常に大きい。

■書誌情報

063_06単行本全2巻。単行本描きおろしの百々ちゃんコスプレイラストとか、とても気持ちいい。
古本の値段が安い今のうちにゲットしたほうがいいと思う。一家に一冊そろえておきたい。

単行本:山本景子『Cica cica boom』1巻(マーガレットコミックス、2007年)
単行本:山本景子『Cica cica boom』2巻(マーガレットコミックス、2007年)

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第62回:耕野裕子「ほんの少し抵抗」

耕野裕子「ほんの少し抵抗」

集英社『ぶ~け』1980年11月号

062_01「少女マンガの王道は、眼鏡のまま幸せになる」と訴え続けて、早10年。残念ながら世間ではまだまだ「少女マンガでは眼鏡を外すと美人」という誤った信念がまかり通っているので、本物の少女マンガの実例をたくさん挙げていきたい。

本作のヒロイン眼鏡っ娘は、密かに軽音部の斉藤くんのことが好き。でも、チビでニキビで跳ねっ毛で眼鏡という自分の容姿に劣等感を持っていて、告白なんかできっこない。そこで、唯一自分の意志で外すことのできる眼鏡を外してみようとする。この眼鏡を外したときの、どうしようもなく情けない姿の描写が素晴らしい。眼鏡っ娘は近眼で前が見えないので、フラフラしているうちに、斉藤くんとぶつかってしまう。斉藤くんが「メガネどうしたんだよメガネ」と抗議すると、眼鏡っ娘は「抵抗だったのよ」と言う。斉藤くんが、このセリフをスルーせず、眼鏡っ娘の曇った表情を見てしっかり「?」と気が付いているのが、さすが少女マンガのヒーローだ。

062_02眼鏡っ娘がぶつかったせいで遅刻してしまった二人は、居残りで宿題をすることになる。教室に二人きりになったときに、斉藤君は「抵抗って何の事」と聞く。最初はとぼける眼鏡っ娘だったが、「容姿への抵抗」と白状する。「わたしの容姿におけるあらゆる欠点の中で唯一自分の力をもって対抗しうるメガネをとるという行動」ということらしく、うだうだと言い訳を続ける。が、斉藤くんは「くっだらん」と一蹴するのだ。
さて、ここからの斉藤くんの一連の言動が、究極に男前だ。男のなかの男だ。我々も、斉藤くんにならって、眼鏡を外そうとする女子には、ぜひこう言わなければならない。「メガネしてるから、あんたなんだろうが」と。くあああぁぁ、カッコいい! これこそ少女マンガのヒーロー! さらに畳み掛けるように、「それとったらあんたじゃないって事だろ」と続ける。すげえ!一生のうちに一回は言ってみてえぇぇ!
そしてそのあとのやりとりが、決定的だ。この斉藤くんの精神を、ぜひとも世界中に広めたい。

062_03

眼鏡っ娘は「そんな事いっても、男の人だって、女の子は顔がいいのやメガネしてないのがいいっていうじゃない!」と反論する。が、斉藤くんはクールに「それは人間のできてない男のいうセリフ」と諭す。これだ。これが世界の真理だ。眼鏡を外そうとする奴は、例外なく人間ができていないのだ!

耕野裕子は、80年代から90年代にかけて集英社『ぶ~け』のエースとして活躍。青春の甘酸っぱい一瞬を切り取って、繊細なセリフに乗せて表現するのが上手い。若いゆえに視野が狭く、だからこそ同時に純粋な人物たちの、傷つきやすく壊れやすい心の葛藤と成長を、胸が締め付けられるようなエピソードで描いていく。たいへん優れた青春作家だ。本作はまだ青春作家として花開く前の作品ではあるが、「人間というものの本質」に迫ろうという意志は各所に見える。人間の本質を描こうとする作家が、眼鏡っ娘の眼鏡を外すわけがないのだ。眼鏡っ娘の眼鏡を外すのは、「人間のできてない」マンガ家だ。

■書誌情報

本作は30頁の短編。単行本『はいTime』に収録。Amazonを見たら古本にひどいプレミアがついてたけど、古本屋を回れば200円で手に入ると思う。

単行本:耕野裕子『はいTime』(ぶ~けコミックス、1983年)

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第61回:みやぎひろみ「ガラス玉輪舞」

みやぎひろみ「ガラス玉輪舞」

秋田書店『月刊ひとみ』1984年?

061_02繊細な描線で構成された、美しい画面の少女マンガだ。みやぎひろみが引く線は端正で美しく、惚れ惚れする。まんまる眼鏡の描線の美しさよ。
描線の美しさの他に目が吸い寄せられるのは、眼鏡デッサンの正確さだ。少女マンガでよく見られる「貼り付き眼鏡」は、本作では見られない。みやぎひろみの絵は、横顔がとても印象的だ。決定的なコマで横顔のアップになることが多い。正確なデッサンの眼鏡が、端正な画面の印象をさらに強めている。

ヒロインは、高橋槙子14歳中2。全3話で、14歳、16歳、18歳のエピソードが描かれる。恋の相手の頼近くんは、幼稚園からの幼馴染。槙子は幼稚園のころから頼近のことが好きだったのだが、そのときのエピソードが素晴らしい。槙子は幼稚園のときからちゃんと眼鏡をかけているのだ。
しかし相愛だったはずのふたりの関係は、大きくなるにしたがってギクシャクしていく。頼近はノーテンキだし、槙子はなかなか素直になれないのだ。

061_03素直になる勇気を持てなかった眼鏡っ娘だが、頼近の甥っこの赤ん坊の面倒を一緒にみるなかで、たくましく成長している頼近の姿を改めて知る。頑なに過去にとらわれている自分に気がつく。眼鏡っ娘も、少しずつ成長していくのだった。

本作の構成は、いわゆる「乙女チック」ではない。コンプレックスを「ほんとうのわたし」へと昇華していくような物語構成ではない。つまり、一気呵成に物語を急転させる「起承転結」構造というものがない。しかしそれは本作がつまらないということを意味しない。日常のエピソードを丁寧に描き、登場人物たちの感情の起伏をひとつずつ編み上げていくことで、キャラクターに寄り添っているような気持ちにさせてくれる。画面と同様に、物語も端正に作られている。
061_04それゆえに、眼鏡というアイテムに、一切の認識論的な意味が持たされていない。眼鏡っ娘は、単に近眼だから眼鏡をかけているだけであって、物語の都合に合わせて眼鏡を脱着することもない。だからキャラクターの性格にも「眼鏡らしさ」というものがない。それが本作の見所であるとも言える。空気のように眼鏡をかける、それは実は達人の境地だ。キャラクターに眼鏡をかけさせると、ついそれを使って物語を構成したくなったり、つい「眼鏡らしさ」を追求したくなってしまう。その欲求が落とし穴になる場合もある。眼鏡だから、眼鏡。その境地に到達することは、実はなかなか難しい。

みやぎひろみは、本作以外にもたくさん眼鏡っ娘を描いている。中短編集には、収録作中にだいたい一作は眼鏡っ娘マンガが含まれている。質的にも量的にも、極めて重要な眼鏡作家であることに間違いない。残念ながら現在では名前をよく知られているとは言い難いが、ぜひきちんと眼鏡史の中に名前を刻んでおきたい。

 

■書誌情報

061_01本作以外にも良質な眼鏡っ娘作品が多い。「ガラス玉輪舞」は同名単行本に全3話収録。他に、「まりこのま」が同名単行本に収録。「星降る夜に逢いたい」が同名単行本に収録。「月見る月の月」が『魚たちの午後』に収録。どれも眼鏡に認識論的意味を持たせない、端正な画面の端正な眼鏡っ娘物語。

単行本:みやぎひろみ『ガラス玉輪舞』(ひとみコミックス、1984年)
単行本:みやぎひろみ『まりこのま』(MISSY COMICS、1987年)
単行本:みやぎひろみ『星降る夜に逢いたい』(MISSY COMICS、1988年)
単行本:みやぎひろみ『魚たちの午後』(ミッシィコミックス、1988年)

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第60回:速水螺旋人「靴ずれ戦線 魔女ワーシェンカの戦争」

速水螺旋人「靴ずれ戦線 魔女ワーシェンカの戦争」

徳間書店『月刊COMICリュウ』2010年12月号~13年2月号

060_01

その人を除いては絶対に描けないマンガというものがある。本作は、あらゆる意味で速水螺旋人にしか描けない、極めて個性的な作品だ。
060_02もちろん独ソ戦、スラブ民話、ロシア正教といった題材に対する深い知識、かわいらしい絵柄、フリーハンドで引かれたような背景の描線が醸し出す柔らかい世界観なども独特の個性を作り出しているが、仮にたとえ同じような知識と技術を持った作家がいたとしても、この独特の作品を生み出すことはできないだろう。戦争を通じて垣間見える「人間というもの」への洞察が、これほど冷徹でありながら同時に慈愛に満ちているということは、ほとんど奇跡のように思える。たとえば冷徹な面は、具体的には人間の死を描写するところに顕れている。描写が、乾いている。人間の死というものに、深い意味を持たせない。人は、突然、意味もなく死ぬ。多くのフィクションは、勢い、人間の死というものに何らかの意味を持たせながら物語を作り上げていく。感動的な「死」でなければ、人は「死」というものを耐えることができないからだ。だが、本作はそれを拒否して、人の死を無感動なものとして描く。死を無感動に描ける作家としては、他に伊藤伸平や高遠るいを思いつくが、そんなにたくさんいるわけではない。しかし死を冷徹に描くからといって、冷酷というわけではない。それを可能にしているのは、戦争というものに対する首尾一貫した姿勢にある。本作は、決して戦争を「抽象化」しない。徹底的に具体的に描き続ける。現在、集団的安全保障に関わって戦争に関する議論が喧しいが、右にしろ左にしろ、抽象化された議論は常に上滑りしている。抽象化されてキレイゴトとなった地に足のつかない議論同士の空中戦は、お互いに噛み合わずに永遠に空転し続ける。本作では、抽象化された戦争は常に揶揄の対象となっている。事態は常に具体的で細かなコミュニケーションの積み重ねから動いていく。私はミリタリーや安全保障に関する知識は世間並みにしかもっていないのだが、それでも本作を通じて「戦争というもの」に対する様々な感情が掻き立てられるし、さらに「人間というもの」の存在様式そのものに対する慈しみを感じ取ることができる。単に知識や技術があるだけでは、こういった感情を掻き立てられることはないだろう。作者の人格が作品に反映されているからこそ、題材や描写が極めて殺伐としているのに、温かみを感じるのだと思う。

060_03

が、とりあえずそのあたりのことはどうでもよい。眼鏡が問題だ。ナージャ、超かわいい。眼鏡のズレっぷりが絶妙。ここまで眼鏡のズレを極めたキャラクターは、そう滅多に見られるものではない。しかも眼鏡を主張せずに、ごくごく自然に眼鏡であることも素晴らしい。お風呂に入るときに眼鏡を外すシーンがあるのだが、そのときの「おまえ誰?」感がすごいのも素晴らしい。性格も眼鏡っぽい。根は生真面目なのに、ときどき素でとんでもないことをやらかす。超かわいい。しかも百合要素が多くて大興奮。女の子同士のキスシーンも、眼鏡っ娘が関わると興奮度256倍(当社比)。眼鏡っ娘の最後の戦いには、思わずほろっとしてしまった。眼鏡っ娘には幸せになってほしいなあ・・・と思いつつ、この後のソ連で生き抜くのは大変なんだよな・・・

■書誌情報

単行本全2巻。新刊で手に入る。ミリタリーやメカが好きな場合は、単行本収録のコラムはかなりおもしろいはず。

単行本:速水螺旋人『靴ずれ戦線』1巻 (リュウコミックス、2012年)
単行本:速水螺旋人『靴ずれ戦線』2巻 (リュウコミックス、2013年)

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第59回:大島弓子「季節風にのって」

大島弓子「季節風にのって」

小学館『週刊少女コミック』1973年9月号

059_01「ほんとうのわたし」概念が少女マンガに定着する過程を考える上で、決定的に重要な作品だ。特に眼鏡に関わって、「ほんとうのわたし」概念が二段階に展開していく物語構成は、見事と言うしかない。

主人公は、眼鏡っ娘のアン。自分はブサイクだと思い込んで、おしゃれにはまったく関心がない。三つ編みが左右でメチャクチャでも、まったく気にしない。美しい母が身だしなみの注意をするが、眼鏡っ娘のほうは「どんなに綺麗に編んだって、あたしは変わりゃしないよ」と無頓着。しかしそれはやはり劣等感ゆえの行動だ。眼鏡っ娘は心の中で「綺麗な母様、私の悲劇が分かるまい。みんな私をおかしいと言う、みんな私を見て笑う」とつぶやく。オシャレをしたって自分が惨めになるだけだと思っているのだ。しかし、「美容師」というあだ名の男の子は、実はアンのことが好きで、自分の手でアンを美しくしてあげたいと思っていたりする。が、もちろんアンはそのことに気が付いていない。

059_02そんななか、超イケメン教師が学園にやってくる。女生徒たちは大騒ぎするが、なんとそのイケメン教師は、アンを初めて見るや否や、いきなりキスをしたのだ。どうやらアンのことを一目見て大好きになったらしい。いきなりキスされた眼鏡っ娘は、顔を真っ赤にして逃げてしまう。愛されているという現実をなかなか受け入れることができない。「ソバカス、ドキンガン、ひっつれたおさげ」の不細工な自分が愛されるわけがないと思い込んでいたのだ。
しかしイケメン教師は、全身でアンへの好意を示し続ける。激しく好意を示され続けたアンは、どうして自分のようなブサイクが好かれるのか、疑問に思う。「いったいあの人、わたしのどこに魅力を感じたのだろう?」 その問いに対する母親の答えが、「ほんとうのわたし」概念を掴む上で極めて重要だ。「あなたがあなたであれば、誰だって魅力的なのよ」。
これは、「好き」と「愛」の違いを端的に示した言葉だ。「好き」と「愛」の決定的な違いは、「代わりがある」か「代わりがない」かという点にある。
059_03たとえば、「愛しているタイプ」という言葉が日本語として不自然な一方で、「好きなタイプ」という言葉には違和感がないことを考えると、分かりやすい。「好きなタイプはショートカットだ」と言えば、ショートカットならA子だろうがB子だろうがZ子だろうが、誰だって「好き」ということになる。「好き」という言葉は、A子でもB子でもZ子でも誰でもいいという、「代わりがある」という状況で使う言葉なわけだ。逆に「愛しているタイプ」という日本語がありえないのは、「愛」とは「代わりがない」ものに使う言葉だからだ。A子を愛していると言ったとき、A子がショートカットだろうがロングヘアだろうが愛しているし、巨乳だろうが微乳だろうが関係なく愛している。「A子には他に代わりがいない」という存在のありかたそのものが「愛」の対象なのであって、なんらかの条件に適合するから「愛」が生まれるわけではない。我々は、交換不可能なかけがえのない存在に対して「愛」という言葉を使うから、「愛しているタイプ」という言葉には違和感が生じるのだ。
母が言った「あなたがあなたであれば誰だって魅力的なのよ」という言葉は、交換不可能な唯一の存在であれば必ず「愛」の対象になるということを説明している。逆に言えば、流行を追いかけて誰かの真似をすることは、自らを交換可能な存在へと貶め、「愛」の対象から外れてしまう行為だ。たとえ「好きなタイプ」の範囲内に入ることは可能であっても、かけがえのない唯一の存在として「愛」の対象となることは不可能なのだ。眼鏡を外すことは、自らを「愛」の対象から外すことなのだ。本作では、アンは他の女どもと違ってオシャレに関心を持たずに眼鏡をかけ続けたことによって、イケメン教師にとって交換不可能な唯一無二の存在となっていたのだった。

ここに「ほんとうのわたし」概念が明らかになったように見えるが、本作がすごいのは、ここからさらに一歩踏み出していったところにある。実はイケメン教師がアンのことを好きだったのは、17年前に眼鏡でおさげでソバカスの女性を好きになったからだった。初恋の女性にそっくりだったために、アンのことも好きになったのだ。そう、つまり、アンは交換不可能な唯一無二の存在ではなかった。イケメン教師の初恋の女性の「代わり」として好かれたにすぎなかった。それは交換可能であるから、「愛」ではない。アンはそれが「愛」ではなかったことに気が付く。だからイケメン教師との恋を断念するのだ。

059_04

まあ、イケメン教師の17年前の初恋の相手、眼鏡でおさげでソバカスの女性とは、実は眼鏡っ娘の母親だったわけだけど。そしてイケメン教師も、そのことを最初から知っていた。アンに対する恋が「代わり」であることも自覚していた。だからそれは自発的に終わりにしなければならない。「眼鏡として代わりがある」というところから、一つの恋が終わったのだ。「愛」には「代わり」があってはいけないのである。

物語構成を整理すると、(1)誰とも違っているから好きになってもらえない→(2)誰とも違っているから愛される→(3)代わりだったから愛が終わる、ということになる。が、登場人物の中に一人、アンを交換不可能な、かけがえのない、唯一無二の存在として想っている人物がいた。つまり「愛」している人物がいた。「美容師」だ。ここから、新しい「愛」の物語が始まる。(2)で「ほんとうのわたし」概念が示されながら、それで終わらず、さらに(3)から「ほんとうのわたし」概念が深まっていくところが見事な構成だ。
最後に、実はこの物語構成は、西川魯介「屈折リーベ」の構成と相似形にある。もちろん西川魯介が大島弓子の作品をパクったのではない。また物語構成が相似形にあることは、プロットが似ていることも意味しない。作品の個別性を捨象して、物語構成を極度に抽象化したときに、初めて浮かび上がってくる相似形だ。両作品に共通しているのは、どちらも「愛」とは何かを真剣に追及した結果、「ほんとうのわたし」概念が美しく結晶化されていくという点にある。「ほんとうのわたし」概念をとことんまで突き詰めた時、着地点はきっとそんなに遠くにはならない。「屈折リーベ」については、しかるべきタイミングで改めて考えたい。

■書誌情報

単行本『F式蘭丸』に所収。ちょっとしたプレミアはついているが、昔の大島弓子作品ということを考えれば手に入りやすい部類か。

単行本:大島弓子『F式蘭丸』(サンコミックス、1976年)

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第58回:反転邪郎「思春鬼のふたり」

反転邪郎「思春鬼のふたり」

秋田書店『週刊少年チャンピオン』2014年11号~47号

058_01

眼鏡っ娘高校生がヒロインの、スプラッターマンガ。あらかじめいちおう注意しておくと、血と死人が大量に発生するマンガなので、苦手な人にはハードルが高いだろう。

058_02眼鏡っ娘は主人公の侘救くんのことが大好きで、重度のストーカーになっている。侘救くんのリコーダーの先を舐めちゃうくらい。ところがその侘救くんは、司法の力が及ばない極悪人どもを秘密裏に葬る、闇の殺し屋だったのだ。ということで、『悪滅』とか『デスノート』とか『必殺仕事人』とか『ダーティーハリー』といった系列の、法治国家の範囲に納まらない正義を実現しようという主人公の行動と葛藤が話の柱となる。その設定を説得力ある物語にするためには、法治国家を無視するほどの主人公の正義がいかほどのものなのかに加え、手段の正統性がどの程度担保されるかにかかってくるわけだが、ここではとりあえずそんなものはどうでもよい。眼鏡が問題だ。そう、本作のヒロインの徹底的な眼鏡ぶりは、実に気持ちが良い。特に素晴らしいのは、呼ばれるときに名前で呼ばれず、「メガネさん」とか「眼鏡ちゃん」と呼ばれるところだ。誰も眼鏡ちゃんの眼鏡を外そうとしないところだ。眼鏡ちゃんは眼鏡をかけているからこそ眼鏡ちゃんであることを、周囲が違和感なく受け止め、本人もそれを当たり前だと思っている。その当たり前の空気感を醸し出すことは、実はけっこう難しい。ビジュアルだけでなく、性格や行動様式にも眼鏡らしさがなければならないからだ。

058_03特に感心したのは、「見る/見られる」ということの認識論的意味をきちんと踏まえてキャラクターが作られている点だ。眼鏡ちゃんは、ふだんは侘救くんのストーカーをしている。つまり、極めて「見る」ことに特化した行動様式をとっている。そして相手から「見られる」ことはない。このような行動様式に、眼鏡という「見る」ことに特化したアイテムは、とても相応しい。
しかしそんな眼鏡ちゃんが演劇で白雪姫を演じるというとき。「今日の私はいつもとは違う!」と言う眼鏡ちゃんは、なんとコンタクトにしている。ふだんならガッカリするところだが、この作品には感心した。眼鏡ちゃんの認識では、「いつもと違う」のは、眼鏡からコンタクトにして「見た目」が変わったことではなくて、「いつも侘救くんを見てる私が、今日は見られる側になるってこと」だ。つまり、眼鏡を外すことが「見た目」を変えることではなく、「見る側」から「見られる側」へ変わることだとしっかり自覚しているのだ。ここで、眼鏡ちゃんの眼鏡が単なる外面的な記号ではく、認識論的な意味を担っていたことがわかる。眼鏡は「見る」という意志の象徴だ。眼鏡に「見る意志」が宿っているからこそ、人々は眼鏡ちゃんの人格を眼鏡と一体のものと認識せざるを得ないのである。

話や画面が非常に殺伐としていてBADENDの予感しかなかったマンガが、眼鏡ちゃんの終始一貫したブレない姿勢のおかげで、芯の強い作品となった。あと表紙の絵がなかなかエロくて思わず買ってしまったが、中身はそんなにエロくはなかった。いや、ちっとも残念じゃなかったぞ!!ほんとに!

■書誌情報

単行本は新刊で手に入るし、電子書籍でも読める。

Kindle版・単行本:反転邪郎『思春鬼のふたり』1巻 (少年チャンピオンコミックス、2014年)

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第57回:楠田夏子「それでも恋していいでしょ」

楠田夏子「それでも恋していいでしょ」

講談社『Kiss PLUS』2011年1月号~12年1月号

副題に「COMPLEX LOVE STORY」とあり、ヒロインが眼鏡っ娘とくれば、「はいはい、眼鏡をコンプレックスの象徴として扱うのね、OK!OK!」と先入観を持って読み始めるわけだが。いやはや、完全に、やられた。コンプレックスを持っていたのは男のほうで、眼鏡っ娘はむしろ男らしかった。とても新鮮な作品だった。

057_01ヒロインの三ツ矢リサは、眼鏡OL。巨大眼鏡っ娘好きのみなさんには朗報だが、そうとう背が高い。この眼鏡っ娘が、偶然、主人公・氷室大介の秘密を見てしまう。氷室は市役所で将来を約束されたトップエリートとして活躍しているイケメンなのだが、実はチビでハゲだった。チビ&ハゲに極度のコンプレックスを抱えた氷室は、職場では上手に隠し通してきたのだが、眼鏡っ娘には見事にハゲを見られてしまったのだった。
だが、相手は極度の近眼だ。ハゲを目撃されたとき、眼鏡っ娘は眼鏡をかけておらず、実はちゃんと見えていなかったんじゃないか?と氷室は悶々とする。このときの近眼エピソードが、実によろしい。ギャグマンガでもないのに、眼鏡を外したら眼が「ε」になってしまうのだ。

057_02

眼鏡っ娘とコミュニケーションを重ねる過程で、氷室は次第に自分のコンプレックスと向き合いはじめる。氷室は、眼鏡っ娘の前で、久しぶりに素直になることができたのだった。

頑なに自分の殻に閉じこもっていた氷室が、素直に自分と向き合えるようになったのは、相手が眼鏡っ娘だからだ。眼鏡とは「見る」ための道具だ。人が眼鏡と向き合う時、「見られている」という意識が強く働く。男性が相手の眼鏡を外したがるのは、決して眼鏡っ娘の容姿が劣っているからではない。「見られたくない」からだ。相手が眼鏡をかけていると、否が応でも「見られている」という事実を思い知るからだ。だから、相手から「見る」という権力を剥奪するために、眼鏡を外させる。「眼鏡だと容姿が劣る」というのは、相手の権力を無化するための言い訳に過ぎない。
本作では、氷室は相手の眼鏡を通した「視線」を常に意識しなければならなかった。その視線の先にいる自分自身の姿を、いやでも意識させられた。相手が眼鏡でなければ、こうはならなかった。氷室は眼鏡っ娘を相手にして「自分が見られている」という感覚を呼び覚ますことによって、初めて素直に自分自身を「見る」ことが可能となった。それがコンプレックスの解消に結び付いていく。

057_03コンプレックスの解消は、「自分が自分を見る」ことによって初めて成立する。少女マンガで眼鏡がコンプレックスの象徴であったのは、眼鏡こそが「見る」ためのアイテムであるからに他ならない。コンプレックスは「眼鏡を外す」ことによっては絶対に解消しない。きちんと自分を「見る」ことによってしか解消しない。つまり「眼鏡をかけたまま」で、きちんと世界を「見る」ことで、そして自分自身を「見る」ことによって、初めてコンプレックスは解消するのだ。

しかし本作は、男性のコンプレックスが「眼鏡っ娘に見られる」ことによって解消するという、新しいスタイルを提示している。眼鏡が「見る」ためのアイテムだということを再確認させ、そして眼鏡の認識論的意味をまざまざと浮き彫りにしたのだった。
この文章冒頭の「眼鏡っ娘は男らしかった」というのは、外見的な意味もあるが、それ以上に「見るという意志」において権力側のポジションに立っていたという意味がある。今後もこういうタイプの「見る意志」を打ち出してくる眼鏡っ娘を、たくさん見たい。

■書誌情報

出版されてから間もないので単行本も手に入りやすいし、電子書籍で読むこともできる。

Kindle版:楠田夏子『それでも恋していいでしょ』(講談社、2012年)

■広告■


■広告■