この眼鏡っ娘マンガがすごい!第124回:新條まゆ「純愛ストリップ」

新條まゆ「純愛ストリップ」

小学館『少女コミック』2004年17号ふろく~05年2号とじこみふろく

124_06※以下、性的な話題が続きますので、苦手な方は回避して下さい。

どんくさい眼鏡っ娘が、「バスタード!!」のダーク・シュナイダーのような性格の自己中俺様男に体を求めらてエッチな目に遭いまくってしまう話。少女マンガでここまでド直球に性表現をぶち込んでくるとは、さすが新條まゆ。俺たちにできないことを平然とやってのける、そこに痺れる憧れる。

ヒロインの浜野優子ちゃんは、ガリ勉してもちっとも成績があがらない、できない眼鏡っ娘、中学3年生。一方、八神くんは勉強なんかしなくても常に完璧な成績、しかも超イケメン、運動神経もバツグンで、モテまくり。作中では「抱かれたい男東地区No.1」となっているが、「おまえ中学3年生だろう」などというツッコミが無粋に思えるくらい、超イケメン。そんな八神くんは、実は眼鏡っ娘のことが好きすぎたのだった。

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ツンデレすぎだろ、八神くん!
そんな八神くんが、眼鏡っ娘と一緒の高校に行くために、家庭教師として勉強を教えることになる。が、八神くんは一緒の部屋に潜り込めたことをいいことに、なにかにつけて眼鏡っ娘の体を狙うのだった。

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新條まゆを知らない人には信じられないかもしれないけど、これ、ふつうの少女マンガ誌に載ってるコマね。
で、問題を間違えたら一枚ずつ服を脱ぐ「試験問題野球拳」とか、スケベなことを英語でつぶやきまくって単語を覚えさせるとか、これが『月刊マガジン』のプチすけべマンガなら、主人公が三枚目だからコメディになるが、本作は少女マンガの超イケメンがやっているからシャレにならない。

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いや、やっぱりコメディだな…。つい笑みがこぼれてしまう。
しかし、押しの強いサディスティックな八神くんに、ついに眼鏡っ娘も処女を捧げてしまう。いったんエッチしたら、あとはエッチしほうだいだ。くそ、イケメンめ。

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しかしさすがに少女マンガだけあって、八神くんがイケメンなのは顔だけではない。全力で眼鏡っ娘を愛しているところが、全力でイケメンなのだ。世間一般的には浜野はブサイクとされているが、八神くんはそんなこと全くおかまいなし。八神くんの主観からは、浜野が世界一美しいのだ。そしてそんな眼鏡っ娘を、八神は全力で守る。眼鏡っ娘の容姿を悪く言ったバカ女に対して啖呵を切る八神くんは、めちゃめちゃカッコいい。

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この根拠のない自信を裏打ちにした謎の迫力の前では、バカ女どもも黙り込むしかない。八神くんのありあまる才能の全ては、眼鏡っ娘のためだけに発揮される。全力で眼鏡っ娘の体を求め、全力で眼鏡っ娘を守る八神くんに、惚れ惚れとせざるを得ない。私も、こうありたい。まずはイケメンにならなくてはな。
ただ、せっかくの初体験のときに浜野が眼鏡を外しているのだけは、いただけない。まったく、いただけない。これは、本当にいけない。画竜点睛を欠くとは、まさにこのことだ。しかたないから、私は自分で眼鏡を描き入れた。

■書誌情報

同名単行本所収。全3話所収で、内容はないに等しいが、突き抜ける迫力で読み応えがある。さすが新條まゆ。性的表現があるとはいえ、基本ギャグマンガとして読めばいいかなと思う。電子書籍で読むことができる。
Kindle版:新條まゆ『純愛ストリップ』小学館、2005年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第119回:嶋木あこ「好きになるまで待って」

嶋木あこ「好きになるまで待って」

小学館『Cheese!増刊』2006年7月号

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美しい「眼鏡っ娘起承転結構造」を見せてくれる作品である。ここまでこのコラムを読んでいただいている方には「またか」と思われるかもしれないが、まだ足りない。世間に「眼鏡を外す方が美人」などという地獄的に間違った認識が残存している限り、私は「それは違う」と言い続ける。少女は眼鏡のまま幸せなるのであり、なるべきであり、それが世界の真理である。それが「世界の真理」であることは、この「眼鏡っ娘起承転結構造」が明確に示している。だから「これでもか!」というほど「眼鏡っ娘起承転結構造」の実例を示し続けていく必要があるのだ。

さて、主人公の眼鏡っ娘=伊達麻子は、先生からも「ダサ子」などと言われているほど容姿が劣っている。恋の相手となる氷上くんのことも、物語冒頭では苦手だ。

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しかし麻子は、自分の机の中に置いてあった氷上くんの携帯電話を思わず投げ捨て、金魚の水槽に沈めてしまう。氷上くんはそれをネタに、麻子のことを奴隷として扱い始める。
が、それは氷上くんが、麻子を綺麗なレディにするための策略だったのだ。氷上の手によって、麻子は美しくなる。このとき眼鏡は外されてしまう。

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氷上くんの手ほどきによって美しくなる麻子。しかし当の氷上くんは、浮かない顔をしている。周囲は麻子のことを美しくなったと褒め称えるが、氷上くんにとっては何かがしっくり来ないのだ。

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本を読んでいるふりをしているが、お約束で逆さまだ。動揺が隠せない氷上くん。
いっぽう麻子は、思いを寄せる当て馬男子から氷上くんのウソを告げられる。もともと麻子が奴隷となるきっかけとなった氷上くんの携帯電話のメモリなど、最初から存在しなかったのだ。麻子は、氷上くんにからかわれて遊ばれていたと思い込む。

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しかし。実はもともと氷上くんのほうから眼鏡っ娘に近づきたかったのだ。眼鏡っ娘と話すきっかけを作るために、わざわざ携帯電話を眼鏡っ娘の机に置いておいたのだ。氷上くんはメガネスキーだったのだ!
しかし若いうちは、自分がメガネスキーであることを自覚することは難しい。私もそうだった。氷上くんは、麻子の眼鏡を外して美しくしてやったつもりだったが、それこそが違和感の正体だった。眼鏡を外した麻子の姿に落ち着かなかったのは、彼がメガネスキーだったからだ。それに気が付いた氷上は、ようやく自分に正直になる。眼鏡っ娘が好きだと告白する。

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この最後に引用したシーンの前のページが、実は非常に素晴らしい。氷上くんが鞄の中から携帯電話を取り出すかと思ったら、なんと取り出したのは眼鏡だったのだ。氷上くんは、自ら麻子に眼鏡をかけて、告白する。「おまえがメガネの時からだ」。この一連の流れは、神展開だ。私も人生の中でぜひ一度は言ってみたいセリフだ。「おまえがメガネの時からだ」

ということで、眼鏡を外して美人になったかと思いきや、そこでハッピーエンドにならず、眼鏡をかけて大団円という、典型的な「眼鏡っ娘起承転結構造」を示す素晴らしい作品である。
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■書誌情報

本編は40ページの短編。同名単行本所収。電子書籍で読むことができる。
表紙は氷上くんが麻子の後ろから眼鏡を外しているように見えて、実は読む前は眼鏡を外すやつじゃないかと不安でしょうがなかった。しかしこれ、実は後ろから眼鏡をかけている瞬間だと解釈したほうがいいだろう。

Kindle版:嶋木あこ『好きになるまで待って』小学館、2007年

 

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第114回:石渡治「LOVe」

石渡治「LOVe」

小学館『週刊少年サンデー』1993年35・36号~99年10号

少年マンガ誌の眼鏡っ娘は、21世紀に入ってからは見かける機会が増えてきたが、20世紀には大変な希少種だった。いちおう集英社では『Dr.スランプ』の他に桂正和作品や北条司作品のゲストキャラ等、なかなか素晴らしい眼鏡っ娘を散見することができるが、20世紀のサンデーは、御大のあだち充と高橋留美子が眼鏡っ娘をほとんど描かなかったことから、砂漠地帯と化していた。その中で一人気を吐いていたのが、石渡治である。『パスポート・ブルー』でも眼鏡っ娘が活躍するが、やはりなんと言っても「LOVe」が、質・量、共に素晴らしく、砂漠化したサンデーの中で貴重なオアシスとなっていた。

まず登場眼鏡っ娘キャラの数が、極めて多い。主要登場女性キャラの半分が眼鏡じゃないだろうか。まず冒頭で登場するのが、森岡真理。主人公の高樹愛(愛称ラブ)にテニスの手ほどきをする重要な役割を果たす。

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続いて、ラブが小笠原から本土に渡ったときに最大の味方になってくれるテニス部の副顧問、林村緑子(愛称ドリさん)。ドリさんは最後の最後までずっとラブの味方として重要な役割を果たす。

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このドリさんの強烈な存在感が、単行本6巻の表紙に現れている。全30巻の『LOVe』の中で、ドリさんが表紙を飾ったこの6巻だけ異彩を放っている。

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立体ですよ。眼鏡もしっかり作ってある。主人公のラブやライバルの洋平ですら立体化されなかったのに、なぜかドリさんだけ立体化された理由は、やはり眼鏡以外には考えられない。
さらに続いて、マキノ先輩の恋人ユカさん。

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ショートカットの眼鏡っ娘、かわいいのう。メガネくんと眼鏡っ娘のナイスカップルですよ。ちなみにこのマンガ、なかなかハイレベルなメガネくんも大量に登場する。
そして凄いことに、主人公のラブが、単行本21巻から眼鏡をかけはじめる。残念ながら変装用のダテメガネではあるが、作者はなんとか理由をつけてヒロインに眼鏡をかけさせたかったのだろう。

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その証拠に、背表紙のラブの顔が、単行本21巻から28巻まで眼鏡っ娘になる。わざわざ眼鏡のラブを描きたかったのである。
そして、インターハイのときの宿泊先の娘、ちなみちゃん。

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登場時からドジっ娘めがねである。この脇役に見えたドジ眼鏡っ娘が物語の最後の扉を開く重要な役割を果たすとは、誰も想像しなかっただろう。

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「パスポート・ブルー」でも見られるが、眼鏡っ娘をイジメてやろうという作者の裏返った愛情が見られる描写だ。とてもいい表情を描く。
そしてもう一人、実在した女子テニスプレイヤーのビリー・ジーン・キングは、物語のライトモチーフになっている。

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体格で劣る女子選手がテニスで男子に勝つ。そんな夢のようなことを実際に成し遂げたのが眼鏡女子だったという厳然たる事実。途中でラブが眼鏡っ娘になるのは、作中では変装と言い訳されていたものの、眼鏡っ娘こそが世界を制するという事実がそのような描写を促したはずだ。

本作は、前作「B・B」の主人公の娘が男に混じってテニスをするという話である。なぜ「B・B」はボクシングだったのに、「LOVe」はテニスなのか。ここまでくれば、理由は明らかだ。ボクシングは眼鏡をかけたままではできないが、テニスなら眼鏡をかけたままできるのだ。眼鏡を描くために、本作はテニスマンガになったのである。眼鏡っ娘全員がショートカットであることの意味については、敢えて考察しない。

単行本全30巻。
24巻の表紙は、眼鏡っ娘ラブの背後にさわやかメガネくん。そしてその背後に僧職系メガネくんというメガネぶり。神父メガネくん、さわやかメガネくん、僧職メガネくん、情報屋メガネくん、ラスボス系メガネくんなど、多彩なメガネくんのバリエーションにも注目だ。
全巻電子書籍で読むことができる。

Kindle版:石渡治『LOVe』(1-25)
Kindle版:石渡治『LOVe』(26-30)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第109回:竹宮惠子「女優入門」

竹宮惠子「女優入門」

小学館『週刊少女コミック』1970年4月号

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1970年の作品だ。眼鏡っ娘が主人公として活躍する、もっとも古い部類に属する作品の一つである。そして興味深いことに、この時点で既にほぼ完成された「眼鏡っ娘起承転結構造」を認めることができるのだ。しかも少女マンガ表現手法の革新を牽引していく24年組のひとり竹宮惠子の初期作品である。少女マンガの基本構造ができあがるプロセスを考える上で、かなり重要な作品と言える。

主人公のジャンヌは眼鏡っ娘。女優を目指しているが、俳優で活躍している父親には厳しく反対される。しかしジャンヌは諦めない。そこで父親は条件を出す。「頭は悪いが娘としての魅力にみち、男の子にさわがれ、本人もいい気になってボーイハントに精を出す」という、ジャンヌとはまったくちがう性格の女の子を演じて、実際に男子生徒全員をファンにできたら認めると言うのだ。

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俄然やる気になるジャンヌ。「頭は悪いが娘としての魅力にみち」という条件を満たすために、案の定、眼鏡を外してしまう。

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非常にわかりやすい描写で、モテモテだ。こうしてジャンヌはジャニーへとなりすまし、次々と男子生徒をたらしこんでいく。しかし硬派のアランだけはジャニーになびかない。アランを振り向かせようといろいろ策を弄するジャニーだが、次第に空しい思いが高まっていく。

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本物の自分を隠して別の性格を演じて人を騙すことに、根本的な疑問を抱くようになる。優勝確実と思われた美人コンテストの出場を、直前になってとりやめる。化粧を落として眼鏡をかけた本物のジャンヌのことを、誰も気がつかない。だが…

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アランだけは一目でジャンヌを見分けた。彼は外面ではない人格そのものを見ていたからこそ、外見に惑わされることがなかったのだ。そしてジャンヌは美人コンテストのステージで自分の正体を明かす。このクライマックスの台詞が要注目だ。

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ここで示された「ほんとうの自分」という言葉。これが1970年代の乙女チック少女マンガの中心概念として発展していくことは、本コラムでも確認してきた。その萌芽が1970年の時点で、竹宮惠子の作品に確認できることは、少女マンガの歴史を考える上で極めて重要な里程標となる。

054_hyouとはいえ、後年の乙女チックと比較したとき、構造の純粋性という点ではやはり物足りない。本作では「女優になる」という目的が眼鏡着脱のトリガーとなっており、「愛の着脱」と「眼鏡の着脱」が厳密にクロスオーバーしているわけではない。乙女チックであれば雑音でしかない「女優になる」という目的だが、本作でそれがまだ必要であったということは、作家の実力不足ではなく、時代がまだ成熟していなかったと把握するべき事態だろう。むしろこの時点で起承転結構造を完全に把握している作家の実力に驚嘆せねばなるまい。

■書誌情報

本作は31頁の短編。単行本『竹宮惠子全集28ワン・ノート・サンバ』に所収。あるいは電子書籍のみだが、「70年代短編集」に所収。こういう形で昔の作品にアクセスできるとは、便利な世の中になったなあ。

単行本:竹宮惠子『竹宮惠子全集28ワン・ノート・サンバ』角川書店、1990年
Kindle版:竹宮惠子『竹宮惠子作品集 70年代短編集 あなたの好きな花』eBookJapan Plus、2015年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第93回:西炯子「ひとりで生きるモン!」

西炯子「ひとりで生きるモン!」

小学館パレット文庫しおり、1997年11月~

(※以下、シモネタを扱っているので、苦手な方はご注意ください。)

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093_02西炯子というと、私にとっては眼鏡っ娘というよりもメガネ君のイメージの方が強烈だった。やはりプチフラワーの嶽野くんシリーズと、ウイングスの三番町萩原屋の美人の印象が強かったのだろう。当初は、不安定な青春時代の感性の上澄みを掬い取ってくる切れ味鋭い作風が鮮烈だったが、大量の作品を生み出す過程で大人の作風に進化し、それに伴って眼鏡っ娘の登場頻度も上がっていった。その眼鏡っ娘たちは、20世紀少女マンガの眼鏡とは、ほぼ無縁だ。アクの強い眼鏡っ娘たちが、予想の斜め上を行く。だが、それがいい。
093_03本作は、オムニバス4コママンガ。特に決まった主人公はおらず、様々にアクが強いキャラクターが入り乱れながら、日常が脱臼したようなシュールコントを繰り広げる。流れで言えば、新井理恵『X』とか立花晶『サディスティック19』が大きな可能性を示したような、少女マンガ文法に則った上でのシニカルでシュールな4コマ作品に位置づくのだろう。当初は「あの西炯子が4コマ!?」と驚いたけれど、読んでみると実にツボにハマっている。本当に何を描いても上手で、びっくりする。
だが何といってもこの作品が決定的に素晴らしいのは、森川さんという強烈な眼鏡っ娘キャラを生み出したことだ。森川さんの強烈さは、他にも様々にシュールなキャラがたくさんいるにも関わらず、表紙に一際大きく描かれたのが森川さんだったというところに端的に表れている。ニコリともせず、クールにシモネタを言い放つ森川さんの姿は、神々しい。いい加減な気持ちでシモネタを言うのではなく、吹っ切った覚悟を持って空気のようにシモネタを放つところが、カッコよすぎる。
が、もっとも強烈なのは、1巻の扉カバーでフィギュアになっている森川さんの姿だ。森川さんは立体になってもいつものクールビューティーなのだが、そのポージングが恐ろしすぎる。恐ろしすぎて、どこからか検閲が入った形跡もある。よう許されたなあ、これ。ぜひ自分の目で確かめていただければと思う。

■書誌情報

既刊単行本5巻。当初はパレット文庫の栞に連載?されていた作品だったけど、途中から雑誌連載になっているのかな。桶狭間麗華先生も眼鏡で素敵。

単行本:西炯子『ひとりで生きるモン!』(キャラコミックス、2003年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第88回:藤木俊「はじめてのあく」

藤木俊「はじめてのあく」

小学館『週刊少年サンデー』2009年第6号~2012年第25号

眼鏡っ娘ヒロインが単行本16巻に渡って躍動する、読んでて幸せになる作品。他にも魅力的な眼鏡っ娘が何人も登場して、ありがとうありがとう。ああ、こんな学園生活を送りたかった! 特に赤城先輩の生き様に痺れる憧れる!

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眼鏡っ娘ヒロイン「渡キョーコ」のファンクラブの会長を務める赤城先輩が、脇役なんだけど、本当に男前で存在感ありすぎ。最初に出てきたときはこんなに魅力的なキャラに成長するとは思わなかった。自分自身の気持ちに決して嘘をつかない、常に一直線の姿勢がカッコよすぎる。本作の登場人物はみんな真っ直ぐで、だから読んでて清々しい気持ちになる。

088_02ヒロイン渡キョーコがかわいいのはもちろんとして、脇役眼鏡っ娘たちも魅力的だ。まず、主人公阿久野ジローの姉アヤさんが素晴らしい。悪の組織の幹部でアラサーでブラコンで酒乱だけど、かわいすぎる。なかでも特に素晴らしいのは、温泉に入るときも眼鏡を外さないところだ。

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キョーコは残念ながらお風呂シーンでは常に眼鏡を外しているのだが、さすがアヤ姉さんが分かってらっしゃるのは年の功か。結婚に至るきっかけが「Dr.スランプ」を彷彿とさせるのも、さすが眼鏡っ娘。おめでとうおめでとう。

そして緑谷の妹が、また眼鏡っ娘で、かわいい。初登場シーンでは一コマちょろっと出ただけだったので、ここまで存在感が上がるとは思わなかった。もうメロメロだ。

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ああ、もう、かわいいなあ!
アヤ姉がお姉さん眼鏡で、緑谷妹が妹眼鏡ということで、姉属性にも妹属性にも全方位眼鏡対応の贅沢な布陣に感謝するしかない。

そしてもちろんメインヒロイン渡キョーコがかわいいのは言うまでもない。世間的には「ツンデレ」と呼ぶかもしれないが、そういう言葉ができる以前から語り継がれてきたサンデー伝統「居候ラブコメ」の王道ど真ん中を行くキャラが、かわいくないわけがない。しかも眼鏡がブレないんだよ。

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ああ、もう、愛おしいなあ。主人公阿久野ジローの天然ぶりに翻弄されつつも、徐々にジローを悩殺していく過程が楽しすぎる。ハーレムものが陥りがちな受け身でかわいいだけのキャラに終わらず、主体的に行動するところがいいんだろうな。

そんなわけで、キャラ構造的にはハーレムものでありながら、実は初々しい青春の熱さと清々しさがダイレクトに伝わってくる、定期的に読み直したくなる作品だ。

 

■書誌情報

088_06単行本全16巻。少女マンガと違って、マンガ喫茶等でも読みやすいかも。ちなみに赤城先輩を見ると競輪戦士吉井正光(眼鏡男子コンテスト第2回グランプリ受賞者)を思い出すのは、私だけか。

単行本セット:藤木俊『はじめてのあく』全16巻(少年サンデーコミックス)

 

 

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第73回:岡崎つぐお「どきどきハートビート」

岡崎つぐお「どきどきハートビート」

小学館『週刊少年サンデー』1986年~87年

手を挙げろ! 眼鏡警察だ! ムダな抵抗はやめて、いますぐ眼鏡っ娘にひれ伏すんだ!

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てなわけで、眼鏡っ娘の警察官が活躍する作品だ。ところがこの眼鏡っ娘刑事がド天然のドジっ娘で、いきなり第一話で殉職してしまった……ら話が終わってしまう。拳銃で胸を撃ち抜かれたはずの眼鏡っ娘は、生きていた。しかも、並外れたパワーを発揮し、あっという間に犯人をやっつける。眼鏡っ娘は、事件が発生した研究所で謎の液体を浴びたことから、超強力パワーを発揮する特異体質になってしまったのだった。その体質を活かして、次々と悪いやつらをやっつけて、みんなの幸せを守っていくことになるのだが。

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変身の引き金は、心拍数。興奮するなどして心拍数が上がると、爆発を起こしてスーパーレディに変身するのだ。そんなわけで、好きな国立さんの言動にドキドキして心拍数が上がると爆発しそうになってしまい、まともな恋もできないのだった。かわいそうな眼鏡っ娘。

073_03さて、眼鏡的な注目は、変身するときに眼鏡が外れてしまうところだ。これはもちろん、「スーパーマン」の伝統を引き継いでいる。改めて言うまでもなく、変身前にメガネくんだったクラーク・ケントは、スーパーマンに変身した後は眼鏡が外れている。この設定は女版スーパーマン「スーパーガール」でも引き継がれ、変身前に眼鏡っ娘だったクリプトン星の生き残りの少女は、変身すると眼鏡が外れる(2015年に公開されたトレーラームービー)。本作でも、普段は眼鏡をかけているのに、変身後は眼鏡が外れる。これは、第70回で指摘しておいたように、他のアイテムと決定的に異なる眼鏡の際立った性質を利用した描写だ。つまり「眼鏡の不連続性」を「キャラクターの不連続性」とリンクさせてストーリーに説得力を持たせているわけだ。同一人物であるというアイデンティティを成立させながら、しかも性質は完全に不連続という「変身」を描写するとき、この眼鏡というアイテムほど簡単に説得力を発揮するものは、他にない。確かに悟空であれば髪の色が金色になり、ケンシロウであれば服が破れ、覚醒したウォーズマンが素顔になるのも「キャラクターの不連続性」を視覚的にわかりやすく描写している例だが、眼鏡ほど簡単に「不連続性」を表現できるものは、他にない。それゆえに、「眼鏡を外したら○○」という描写が用いられる中で、例のアレも安易に使われてしまうわけではある。
ともあれ、本作も、眼鏡の脱着によってキャラクターの不連続性を表現している作品の一つだ。非日常で眼鏡が外れるのは少し残念なわけだが、日常の眼鏡姿がとてもかわいく描かれていて、とても楽しく読める。このようなスーパーマン・オマージュの眼鏡っ娘作品は他にもいくつかあるので、機会を改めて見ていくこととしよう。

073_01てところで、7/25「ゆるいいんちょ」で、「眼鏡警察」について話題となった。夜羽さんは真面目だから、けっこう深刻に受け止めていたけれど。そしてその危惧は、われわれ自身の言動を自らが戒め、さらに次のステップに進むための反省ということでは意味があるとは思うけれど。でもそれはそれとして、「艦これ」のアレは誰がどう見ても明らかにウンコであって、もはや眼鏡警察がどうこうという問題ではない。「キャラクターの連続性と不連続性」という作品のデキ自体を決定する極めて重要な基礎・基本が悲惨なほど低レベルであったことが本質的な問題なのであって、それがたまたま「連続性と不連続性」を極めて分かりやすく視覚的に示す眼鏡というアイテムに手を出してしまったことで誰の眼にも分かりやすく下劣さが見えやすくなったというだけのことだ。あれがなくとも、ウンコだったことは間違いない。デスノートを手に入れたら、鼻くそをほじりながら、監督と脚本の名前を書き込めばいいと思うよ。
とはいえ、それはそれとして、「眼鏡警察」という言葉が流通した背景については思想史的に言語化しておく必要があるのも確かだ。夜羽さんが危惧するように、そこそこ、根が深い問題であることは確かだと思う。が、同時にスルーしていい性質のものでもあるとも思う。つっこんだ考察は、また機会を改めて。

■書誌情報

単行本も手に入りやすいし、愛蔵版も出ている。80年代の少年マンガで眼鏡っ娘がヒロインということで、とても貴重な作品。

単行本全5巻:岡崎つぐお『どきどきハートビート』(少年サンデーコミックス、全5巻セット)
愛蔵版全4巻:岡崎つぐお『どきどきハートビート』(スコラ、全4巻セット)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第64回:惣領冬実「あたしきれい?」

惣領冬実「あたしきれい?」

小学館『別冊少女コミック』1994年3月号

054_hyou「眼鏡っ娘起承転結構造」については、田渕由美子を紹介するところ(第54回)で詳しく見た。起承転結構造は、その後も少女マンガのスタンダードとして描き続けられていく。それは物語構成が真似をされているということを意味しない。なぜなら、「ほんとうのわたし」と「ほんものの愛」について真剣に突き詰めて考えると、だいたいこの結論に行きつくからだ。起承転結構造は人類の普遍的な思考様式なのであって、だからこそ説得力があるのだ。それは思想史的には「弁証法」という形式で説明されるのだが、思想史的論理は機会を改めて確認するとして、まずは豊富にある実例を確認していきたい。

本作の眼鏡っ娘は、16歳。眼鏡のうえに、身長172cmもコンプレックス。片思いの先輩にも、告白なんてできっこない。対照的に、友達のまゆみは背が小さくてとてもかわいい。憧れの先輩とも普通に話すことができる。眼鏡っ娘は一念発起して努力してキレイになろうとしてみたものの、憧れの先輩には顔のことで笑われてしまう。「起」は、眼鏡をかけて、愛が無いところから始まる。結局、憧れの先輩は可愛いまゆみとつきあうようになる。

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そんなこんなで、高校生時代はまったくモテなかった眼鏡っ娘だったが、東京の大学に進学してから環境が大きく変わる。背が高いところに目をつけられてモデルに勧誘されて、これが大当たり。プロのメイクさんが手を加えたところ、びっくりするような美人になる。憧れの先輩も、この美人があの眼鏡っ娘だったとは気がつかない。そして、まゆみにフラれたらしい憧れの先輩からも、とうとう告白される。眼鏡っ娘は、眼鏡を外してモテモテになってしまったのだ。「承」では、眼鏡を外して愛を獲得する。先輩は「人間見た目じゃないね」などと言って、なかなかデキた人間かのように思われた。

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だが、そんな眼鏡を外した愛など、欺瞞に満ちていた。高校の同級生だったまゆみが先輩のことを追いかけて東京までやってくるのだが、太ってブスになってしまったまゆみに、先輩は酷い言葉をかける。「オレは見た目の悪い女とはかかわりたくないんだ」なんてセリフ、どんだけクズなんだ、この男。実は先輩がまゆみにフラれたというのはウソで、ブスになったまゆみはお払い箱になっていたのだった。そんな場面を偶然目にした眼鏡っ娘は、これがマヤカシの愛だったことを知り、再び眼鏡をかけ直す。「転」では、眼鏡なしの愛など、ただのマヤカシだと知る。

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ウンコのような男に幻滅した眼鏡っ娘は、男になんか頼らない女性のための女性の美しさを目指して、プロのメーキャップ師を目指す。もちろん眼鏡をかけたまま働く。田舎の母は、眼鏡無しの写真をひそかにお見合写真に使って逆玉を狙っているが、眼鏡っ娘の方はもちろん見た目に寄って来る男と結婚するつもりなどない。お見合い本番は眼鏡で登場し、写真の美人と眼鏡の自分とは別人だと言って、顔目当てでやってきたクズ男をギャフンと言わせてやるのが常だった。そして次のお見合いも、そうなるはずだったのだが。そこに思いがけなく、真のヒーローがやってくる。女を見た目で選ぶのではなく、人格で好きになった男がやってくる。この男がメガネくんであるところに、運命を感じざるを得ない。こうして眼鏡っ娘が「ほんとうのわたし」と「ほんものの愛」を獲得して、「結」となる。

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惣領冬実は、強弱のない淡泊な描線で構成された白い画面が魅力的な、都会派センスに溢れたストーリーを紡ぎだす優れた作家。コマ割りも非常に読みやすく、一見しただけでも卓越した画面構成力を持つことが分かる。そんな実力作家が、眼鏡を外して美人でハッピーエンドなどというマヌケなマンガを描くわけがないのだ。真剣に人間を描くことを追求したとき、必ず起承転結構造が降りてくる。世界の真実を求めた時、眼鏡っ娘は眼鏡をかけたまま幸せになるのだ。

■書誌情報

単行本『天然の娘さん』2巻に収録。長編をきっちり描ききることで定評のあった惣領冬実が短編連作を試みたという意味でも、興味深い作品。電子書籍で読むことができる。

Kindle版:惣領冬実『天然の娘さん』2巻(フラワーコミックス、1994年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第59回:大島弓子「季節風にのって」

大島弓子「季節風にのって」

小学館『週刊少女コミック』1973年9月号

059_01「ほんとうのわたし」概念が少女マンガに定着する過程を考える上で、決定的に重要な作品だ。特に眼鏡に関わって、「ほんとうのわたし」概念が二段階に展開していく物語構成は、見事と言うしかない。

主人公は、眼鏡っ娘のアン。自分はブサイクだと思い込んで、おしゃれにはまったく関心がない。三つ編みが左右でメチャクチャでも、まったく気にしない。美しい母が身だしなみの注意をするが、眼鏡っ娘のほうは「どんなに綺麗に編んだって、あたしは変わりゃしないよ」と無頓着。しかしそれはやはり劣等感ゆえの行動だ。眼鏡っ娘は心の中で「綺麗な母様、私の悲劇が分かるまい。みんな私をおかしいと言う、みんな私を見て笑う」とつぶやく。オシャレをしたって自分が惨めになるだけだと思っているのだ。しかし、「美容師」というあだ名の男の子は、実はアンのことが好きで、自分の手でアンを美しくしてあげたいと思っていたりする。が、もちろんアンはそのことに気が付いていない。

059_02そんななか、超イケメン教師が学園にやってくる。女生徒たちは大騒ぎするが、なんとそのイケメン教師は、アンを初めて見るや否や、いきなりキスをしたのだ。どうやらアンのことを一目見て大好きになったらしい。いきなりキスされた眼鏡っ娘は、顔を真っ赤にして逃げてしまう。愛されているという現実をなかなか受け入れることができない。「ソバカス、ドキンガン、ひっつれたおさげ」の不細工な自分が愛されるわけがないと思い込んでいたのだ。
しかしイケメン教師は、全身でアンへの好意を示し続ける。激しく好意を示され続けたアンは、どうして自分のようなブサイクが好かれるのか、疑問に思う。「いったいあの人、わたしのどこに魅力を感じたのだろう?」 その問いに対する母親の答えが、「ほんとうのわたし」概念を掴む上で極めて重要だ。「あなたがあなたであれば、誰だって魅力的なのよ」。
これは、「好き」と「愛」の違いを端的に示した言葉だ。「好き」と「愛」の決定的な違いは、「代わりがある」か「代わりがない」かという点にある。
059_03たとえば、「愛しているタイプ」という言葉が日本語として不自然な一方で、「好きなタイプ」という言葉には違和感がないことを考えると、分かりやすい。「好きなタイプはショートカットだ」と言えば、ショートカットならA子だろうがB子だろうがZ子だろうが、誰だって「好き」ということになる。「好き」という言葉は、A子でもB子でもZ子でも誰でもいいという、「代わりがある」という状況で使う言葉なわけだ。逆に「愛しているタイプ」という日本語がありえないのは、「愛」とは「代わりがない」ものに使う言葉だからだ。A子を愛していると言ったとき、A子がショートカットだろうがロングヘアだろうが愛しているし、巨乳だろうが微乳だろうが関係なく愛している。「A子には他に代わりがいない」という存在のありかたそのものが「愛」の対象なのであって、なんらかの条件に適合するから「愛」が生まれるわけではない。我々は、交換不可能なかけがえのない存在に対して「愛」という言葉を使うから、「愛しているタイプ」という言葉には違和感が生じるのだ。
母が言った「あなたがあなたであれば誰だって魅力的なのよ」という言葉は、交換不可能な唯一の存在であれば必ず「愛」の対象になるということを説明している。逆に言えば、流行を追いかけて誰かの真似をすることは、自らを交換可能な存在へと貶め、「愛」の対象から外れてしまう行為だ。たとえ「好きなタイプ」の範囲内に入ることは可能であっても、かけがえのない唯一の存在として「愛」の対象となることは不可能なのだ。眼鏡を外すことは、自らを「愛」の対象から外すことなのだ。本作では、アンは他の女どもと違ってオシャレに関心を持たずに眼鏡をかけ続けたことによって、イケメン教師にとって交換不可能な唯一無二の存在となっていたのだった。

ここに「ほんとうのわたし」概念が明らかになったように見えるが、本作がすごいのは、ここからさらに一歩踏み出していったところにある。実はイケメン教師がアンのことを好きだったのは、17年前に眼鏡でおさげでソバカスの女性を好きになったからだった。初恋の女性にそっくりだったために、アンのことも好きになったのだ。そう、つまり、アンは交換不可能な唯一無二の存在ではなかった。イケメン教師の初恋の女性の「代わり」として好かれたにすぎなかった。それは交換可能であるから、「愛」ではない。アンはそれが「愛」ではなかったことに気が付く。だからイケメン教師との恋を断念するのだ。

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まあ、イケメン教師の17年前の初恋の相手、眼鏡でおさげでソバカスの女性とは、実は眼鏡っ娘の母親だったわけだけど。そしてイケメン教師も、そのことを最初から知っていた。アンに対する恋が「代わり」であることも自覚していた。だからそれは自発的に終わりにしなければならない。「眼鏡として代わりがある」というところから、一つの恋が終わったのだ。「愛」には「代わり」があってはいけないのである。

物語構成を整理すると、(1)誰とも違っているから好きになってもらえない→(2)誰とも違っているから愛される→(3)代わりだったから愛が終わる、ということになる。が、登場人物の中に一人、アンを交換不可能な、かけがえのない、唯一無二の存在として想っている人物がいた。つまり「愛」している人物がいた。「美容師」だ。ここから、新しい「愛」の物語が始まる。(2)で「ほんとうのわたし」概念が示されながら、それで終わらず、さらに(3)から「ほんとうのわたし」概念が深まっていくところが見事な構成だ。
最後に、実はこの物語構成は、西川魯介「屈折リーベ」の構成と相似形にある。もちろん西川魯介が大島弓子の作品をパクったのではない。また物語構成が相似形にあることは、プロットが似ていることも意味しない。作品の個別性を捨象して、物語構成を極度に抽象化したときに、初めて浮かび上がってくる相似形だ。両作品に共通しているのは、どちらも「愛」とは何かを真剣に追及した結果、「ほんとうのわたし」概念が美しく結晶化されていくという点にある。「ほんとうのわたし」概念をとことんまで突き詰めた時、着地点はきっとそんなに遠くにはならない。「屈折リーベ」については、しかるべきタイミングで改めて考えたい。

■書誌情報

単行本『F式蘭丸』に所収。ちょっとしたプレミアはついているが、昔の大島弓子作品ということを考えれば手に入りやすい部類か。

単行本:大島弓子『F式蘭丸』(サンコミックス、1976年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第40回:伊藤伸平「マッド彩子」

伊藤伸平「マッド彩子」

小学館『増刊少年サンデー』1987年5月号

本作の眼鏡的な最大の見どころは、「光学屈折」の描写にある。まずは引用図を確認していただきたい。

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ヒロイン彩子の顔の輪郭線が、レンズの部分でズレているのが分かるだろう。これは「光学屈折」という物理上の現象だが、これをマンガでしっかり描写したのは、私が知る限り、伊藤伸平がもっとも早かった(※修正:ゆうきまさみ『究極超人あ~る』は、1985年時点でメガネ男子に屈折描写があります)。この業績によって、伊藤伸平は「屈折描写の父」と呼ばれている(主に私が呼んでいる)。この作品は1987年に発表されており、その先駆性には驚かざるを得ない。

近眼の人が眼鏡をかけてモノがよく見えるようになるのは、眼に入ってくる光が網膜上でしっかり像を結ぶように、光の角度をレンズによって「屈折」させるからだ。逆に、眼鏡っ娘の顔に当たって反射する光は、レンズを通るときに「屈折」する。レンズの部分で顔の輪郭がズレて見えるのは、そのせいだ。この現象自体は小学校の理科でも学ぶ簡単な原理ではある。が、光学屈折を絵できちんと描写することは99.999%ない。というか、できない。人間の脳は、眼で見たものを見たままに認識することは不可能だし、さらに言えば見たままに認識する必要もない。人間の脳が「見たいものしか見えない」ようにできていることは、心理学の「注意」概念の研究で知見が蓄積されている。目の前で現実に起きている「光学屈折」がマンガの絵でほとんど描写されないことは、人間の脳が見たままを見たままには認識しないことの一つの例と言える。
が、伊藤伸平は誰もが無視する「光学屈折」を的確に表現した。あまりにも不思議だったので、私はトークイベント「メガネっ娘居酒屋委員長」で、「どうして光学屈折を描くことができたのか?」と直接うかがったことがある。その回答に、また驚いた。彼は「だって、そう見えるじゃない」と、こともなげに言ったのだ。そう、伊藤伸平は、見たままを見たままに認識している! 恐るべし、伊藤伸平。彼を心理学の実験対象にしたら、人間の脳の能力についていろいろ新しい知見が得られることだろう。

040_03伊藤伸平が描く眼鏡っ娘は、とてもかわいい。主人公なのはマッド彩子くらいしか知らないが、重要なポジションを占めるレギュラーとして眼鏡っ娘がよく出てくる。『楽勝!ハイパードール』の間祥子ちゃんとか、『エンジェル・アタック』の友郷さんとか、容赦ない殺伐とした物語展開の中で一服の清涼剤となっている。
そのなかでも伊藤伸平初心者に安心してお勧めできるのは、『大正野球娘。』の川島乃枝さんかなと思う。原作付マンガではあるが、けっこうやりたい放題やっていて、いつもの伸平節は健在。乃枝さんで注目なのは、お風呂シーン。乳首が見えてもちっとも興奮しないが、湯船でもしっかりメガネをかけている姿を見ると興奮しますな、げへへへへ。

また、「マッド彩子」掲載誌の『増刊サンデー』は、80年代の眼鏡っ娘を考える上でたいへん重要な雑誌だ。みず谷なおき、安永航一郎、石川弥子、神崎将臣など、素晴らしい眼鏡っ娘を描いた作家が一堂に会している。増刊サンデーが育んだメガネ文化については、いちどしっかり考察する必要がありそうだ。

040_04ところで、表題作の「マッド彩子」だが。マッド彩子と聞くと、思わず藤子・F・不二雄のSF短編集「かわい子ちゃん」の松戸彩子を想起してしまうので、ついでといってはなんだけども。
トキワ荘のマンガ家は、事実として、ほとんど眼鏡っ娘を描かない。その中で松戸彩子は貴重なトキワ荘系眼鏡っ娘だ。そしてあの藤子・F・不二雄のメガネデッサンが完全に狂っていることにも注目していただきたい。デッサンの狂いは、横顔のメガネに明らかだ。だが、言われなければ、この眼鏡のデッサンが狂っていることに、どれだけの人が立ち止まるだろうか? 人間の脳が見たものを見たままには認識しないということである。だから、デッサンが狂っていることは、実はまったくたいしたことではないのだ。

■書誌情報

「マッド彩子」2話は単行本『アップル・シンデレラ』に所収。ただし第2話はオリジナル原稿紛失のためにコピーから版を起こしている。電子書籍で読むことができる。

Kindle版:伊藤伸平『アップル・シンデレラ』 (大都社、2000年)

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