この眼鏡っ娘マンガがすごい!第87回:えにぐまなみ「よよぎのじじょう」

えにぐまなみ「よよぎのじじょう」

集英社『ぶ~け』1994年10月~95年6月

眼鏡の「ON/OFF」の不連続性という特徴を存分に活用した作品。
ヒロインの「上原よよぎ」は眼鏡っ娘。ひょんなことから幽霊の「八幡よよぎ」と同調し、一つの体の中に二人の「よよぎ」の人格が入ってしまう。人格の切り替わりのスイッチが眼鏡だ。眼鏡ONの時は「上原よよぎ」の人格、眼鏡OFFの時は「八幡よよぎ」の人格になってしまうのだ。この世に未練を残して幽霊になっていた八幡よよぎは、生身の体を手に入れて大暴れ。ヒーローの渋谷道玄くんは、よよぎの不審な挙動の原因が眼鏡OFFにあると見抜き、よよぎに眼鏡をかけさせようとする。この眼鏡をかけさせようとするシーンを見ると、とても心が躍る。

087_01

「さあっ、おとなしくこのメガネをかけるんだ」というセリフは、ぜひあらゆる場面で使用していきたい。
さて、無事に眼鏡をかけると、元の「上原よよぎ」の人格に戻る。

087_02

こうして、二人の「よよぎ」に渋谷道元くんが翻弄されて、おもしろおかしいドタバタコメディが繰り広げられる。
しかしこの不安定な状態をいつまでも続けられるわけがない。上原よよぎと八幡よよぎがどちらとも道玄くんのことを好きになってしまったことから、人格のバランスが急激に崩れていく。特に眼鏡がなくなってしまってから、上原よよぎの声が聞こえなくなってしまう。眼鏡は幽霊の八幡よよぎを封印すると同時に、上原よよぎと八幡よよぎの心を繋ぐ「媒体」の役割を果たしていたのだった。その眼鏡が失われてしまったために、上原よよぎの人格が戻らないどころか、声すら聞こえなくなってしまったのだ。

087_03

眼鏡が「心と心を繋ぐ媒体」の象徴として描かれたことには、非常に深い意味が込められている。八幡よよぎと道玄くんは、上原よよぎとの絆を取り戻すために、必死に失われた眼鏡を探す。

087_04

眼鏡を捜索する過程で、道玄くんと八幡よよぎは、自分の本当の気持ちに気が付いていく。彼らは失われた眼鏡を探していたと思っていたが、本当は自分の気持ちを探していたのだった。本当に大切なことに気が付いた八幡よよぎは、自ら身を引くことを決意する。

087_05

結局、眼鏡は見つかり、上原よよぎの人格も戻ってくる。このとき、道玄くんが後ろから眼鏡をかけてあげていることに注意したい。後ろから眼鏡をかけることは、「視線を共有する」ことを意味する(当コラム第68回参照)。ここで二人が共有しているのは、もちろん八幡よよぎへの思いだ。たとえ八幡よよぎが成仏し、この世から消えてしまったとしても。この眼鏡がある限り、絆は繋がり続けるのだ。
眼鏡の「ON/OFF」の切り替わりを人格変化のスイッチにする作品は、他にもいくつかある。が、それをさらに「絆」というテーマに昇華させたところに、この作品独特の凄さがある。

■書誌情報

単行本全2巻。作者の名前は、「えにぐま」が苗字。掲載誌は『ぶ~け』だが、コミックスはマーガレットレーベル。なんだかamazonで検索しても出てこないけれど、他の古本通販サイトではちゃんと出てくるはず。

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第85回:池野恋「ヒロインになりたい」+柊あおい「ペパーミント・グラフィティ」

池野恋「ヒロインになりたい」+柊あおい「ペパーミント・グラフィティ」

集英社『りぼん』1991年1月~3月号 集英社『りぼんオリジナル』1994年6月~12月号

085_01

「オムニバス形式」という言葉がある。マンガに限らず、映画・小説・演劇等、フィクションに見られる様式の一つだ。主人公が異なるいくつかの独立した短編が連続する一方で、それらの短編すべてを通じて全体として世界観が一つにまとまっているようなフィクションを「オムニバス」と呼んでいる。主人公視点が複数存在することにより、一つの世界を多面的に見ることが可能になる創作様式だ。複数視点がもたらす文学的効果は芥川龍之介「藪の中」等に典型的に認めることができるが、その効果は少女マンガの中で独特な進化を遂げていく。特に我々が注目すべきなのは、少女マンガで進化したオムニバス形式においては、複数主人公のうち一人が眼鏡っ娘!というケースが非常に多いということだ。というか、オムニバス形式の本質を理解しようと思ったら、まずは眼鏡っ娘について理解しなければならない。眼鏡は全てに通ずる。今回紹介する2つのオムニバス形式の作品も、もちろん複数主人公のうち一人が眼鏡っ娘という作品だ。

085_03

池野恋は、1980年代半ばから90年代にかけて『りぼん』の看板を張った作家。そして代表作「ときめきトゥナイト」連載中に描いたオムニバス形式の作品が、この「ヒロインになりたい」だ。主人公は3人いて、そのうち一人が眼鏡っ娘の小園沙夜子ちゃん。高身長に悩む眼鏡っ娘だ(巨大眼鏡っ娘ファンのかたには悲報だが、公式身長は168cmと大台には届かず)。仲良し3人組の女の子が、それぞれ想像していたのとはちょっと違った形で恋に目覚めていく話だ。この作品のオムニバス効果は、「想像とちょっと違った形の恋」というところに顕れている。もしも主人公が一人だけだったら、この「想像とちょっと違った形の恋」という話は、作者が意図した主題だとは分からないだろう。しかし本作は3人の主人公が3人とも「想像とちょっと違った恋」によって幸せになっていく。こうなると、この短編連作の主題がここにあることが明確になる。一話読み切り形式の掲載が多い少女マンガだからこそ、こういった主題の見せ方が発展したと言えるだろう。

もう一作は、80年代半ばの『りぼん』のヒットリーダー柊あおい。代表作「星の瞳のシルエット」も主人公クラスが3人いる物語だったが、こちらはオムニバス形式ではなかった。「ペパーミント・グラフィティ」は、主人公が4人いるオムニバス形式だ。

085_04

本作では、映画製作を通じて4組のカップルが誕生していく。それぞれのカップル誕生の話が1話ずつ、全4話で構成されている。それぞれ個性的なヒロインたちが、その個性にマッチした相手を見つけていく。この作品から受ける「円満感」は、もしも主人公が一人だったら味わうことは難しいだろう。それぞれ個性の異なる4人のヒロインがそれぞれ違った形で幸せになるという結果を、バラバラに感じるのではなく、まとまった一つの世界として一挙に受け止めることができる。これが他の形式では味わえない、オムニバス形式の大きな特徴だ。この形式が少女マンガで独特な発展を遂げたのには、必然的な理由があるだろう。そしてヒロインの中にだいたい一人は眼鏡っ娘がいるという事実にも、なにか世界の真実が秘められているだろう。この事情については、さらに他の作品を見る中で考えていきたい。

 

■書誌情報

085_05両作とも電子書籍で読むことができる。
柊あおい『ペパーミント・グラフィティ』の眼鏡っ娘は、白黒だと分かりにくいが、カラーで見ると鼈甲ぶちであるように見える。マンガで鼈甲ぶちというのは極めてレアなので、ぜひ注目したい点だ。

Kindle版:池野恋『ヒロインになりたい』(りぼんマスコットコミックスDIGITAL)
Kindle版:柊あおい『ペパーミント・グラフィティ』(りぼんマスコットコミックスDIGITAL)

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第78回:石本美穂「冬の虹を見にいこう」

石本美穂「冬の虹を見にいこう」

集英社『りぼん別冊』1996年2月号

054_hyou本作は「眼鏡っ娘起承転結構造」の教科書的な美しい展開を見せると同時に、ルッキズム(見た目主義)について難しい問題を我々に投げかけている。

「起」:眼鏡っ娘女子高生の陸は、17歳になっても彼氏がいない。本人は彼氏ができないのは超ブ厚い眼鏡のせいだと思っている。

078_02

「承」:陸の幼馴染で眼科医の息子の天才ハルくんが、なんと視力が良くなる目薬を偶然作ってしまう。その薬を浴びた陸の視力は奇跡的に回復し、眼鏡をはずしてしまう。その途端、モテモテに。

078_03

眼鏡を外した陸に近づいてきたのが、学園一のイケメンで有名な篠崎くん。突然のモテ期に舞い上がった陸は、篠崎の告白を受け入れ、付き合うことになる。しかし天才ハルくんは、それが偽りの愛であることをしっかり見抜いていた。世界の真実が見えているハルくんは陸に忠告するが、眼鏡を外して心まで近眼になってしまった陸は、その忠告に対して感情的に反発してしまう。

078_04

ハルくんは「そいつら君の「メガネのない顔」が気に入ったんだろ?結局は上べしか見てないってことだよな」と忠告する。まさにそのとおり。篠崎は、まさにルッキズム(見た目主義)の権化だ。人間を人格で扱わず、見た目だけで判断する最低男なのだ。しかし見た目を褒められて有頂天の陸には、ハルくんの言葉は届かない。

「転」:しかし偽りの愛は破綻する。陸は篠崎とデートを重ねるが、だんだん違和感が増幅していく。その一方で、ハルくんの存在が次第に大きなものとなっていく。どうするべきか悩んだ陸は、篠崎の本心を知ろうとして、眼鏡をかけた姿を見せる。そこで篠崎は最低のリアクションを見せた。陸は、篠崎がしょせんは上べしか見ていないクソ男だということを認識する。陸は眼鏡をかけることによって、正常な判断力を取り戻したのだ。

078_05

「結」:陸はハルくんの忠告が正しかったことを悟り、篠崎と別れる決意をする。フラれた篠崎は逆ギレしてハルくんに襲い掛かるが、実は腕の立つハルくんは最低男をあっさり撃退。ハルくんは見事に眼鏡っ娘を守り切ったのだ。よかった、よかった。

ん?

しかし、しかしだ。そもそも思い返してみれば、この天才ハルくんは視力が良くなる薬を開発していたのだった。もしもこの研究が成功してしまったら、この世界から眼鏡が消えることを意味する。恐ろしい男、ハル。この物語も、恐ろしい方向へ進んでいく。ハルは陸に「目薬が完成したら、メガネを外して雪の虹を見にいこう」などと恐ろしいことを口走る。ああ、このまま天才の手によって世界から眼鏡が消えてしまうのか!?

078_06

さらに恐ろしいのは、ハルくんの人間性が、篠崎だけでなく、我々にも反省を迫ってくるところだ。ハルくんは、陸がメガネのときも、しなくなってからも、同じように接していた。要するに、見た目に左右されず、陸の人格と真っ直ぐに向き合っているのだ。率直に申し上げて、私は眼鏡を外した女に対して同じように接する自信はない。見た目に左右されずに陸の人格を尊重するハルくんの姿勢を見てしまったとき。篠崎に対して放った「ルッキズム(見た目主義)」という批判は、我々に対してブーメランとなって帰ってきてしまうのだ。どうする俺!?
とりあえずこの難問は棚に上げて、本作の結末を恐る恐る確認しよう。はたしてハルくんの研究が成功して世界から眼鏡が失われてしまうのか? 陸は眼鏡を外してしまうのか!!???

078_07

やったくれたぜハルくん! ハルくんは超うす型の眼鏡を開発して、陸にプレゼントしたのだ! よかった! 眼鏡は救われたのだ!

ということで、ハルくんは一人の眼鏡っ娘を立派に救った。が、我々に対して重い課題を残していった。ルッキズム(見た目主義)批判に対して真剣に答えるのは我々の責務だが、残念ながら紙面が足りない。機会を改めて考えていきたい。

■書誌情報

本作は48頁の中品。同名単行本に所収。

単行本:石本美穂『冬の虹を見にいこう』(りぼんマスコットコミックス、1997年)

「まんが王国」で無料で読むことができるようだ。

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第77回:鳥山明「Dr.スランプ」

鳥山明「Dr.スランプ」

集英社『週刊少年ジャンプ』1980年5・6合併号~84年39号

言わずと知れた、日本を代表する眼鏡っ娘マンガだ。仮にこの作品が無かったとしたら、日本の眼鏡文化は10年遅れたのではないか。想像するだに恐ろしい。特に1980年代は全体的に眼鏡に厳しい時代だった。80年代が眼鏡にとって最悪の暗黒期だったことは、コミケのサークルカット調査の結果から客観的にわかる。この暗黒期にあってアラレちゃんの眼鏡が燦然と輝いてくれたことは、いくら感謝してもしたりない。現在でもCMキャラクターに起用されたり、「アラレちゃん眼鏡」という言葉が普通に流通するなど、35年経ってもパワーは衰えない。
そんな国民的眼鏡作品の中身については改めて触れる必要がないので、論点を4つに絞って通覧する。まず一つ目は、「アラレちゃんが眼鏡をかけた理由」について。これについては芸人のキングコング西野が根拠のないデマを垂れ流してしまったので、事実を認識しておく必要がある。

077_01

077_02アラレちゃんが眼鏡をかけるのは、第一話冒頭。世界が輝いた決定的瞬間だ。しかし作者の鳥山明本人の弁によれば、アラレちゃんの眼鏡はすぐに外される予定だった。この事情については単行本16巻に明記されている。それによれば、アラレちゃんに眼鏡かけさせたのは、「ロボットが近眼だったらおもしろいかな~というほんのギャグのつもり」ということだ。本人が「マジメにかたる」としたうえで言明された内容なので、韜晦とは考えにくい。
アラレちゃんの眼鏡に深い理由がなかったことを、残念に思うべきだろうか? 私はそうは思わない。むしろ重要なのは、「いつのまにかトレードマークになってしまい、メガネをはずすきっかけをうしなってしまった」という証言だ。これは眼鏡そのものに「力」があり、作者の思惑を超えて眼鏡が作品を支配したことを示している。鳥山明という代替の効かない才能の元に眼鏡が降りてきて、それを世界が承認したという事実。これをしっかり踏まえておきたい。アラレちゃんが眼鏡をかけたことは、キンコン西野が言うような技術論で済ませるべき問題ではなく、「運命」の相の元で理解すべき事態なのだ。

ところで、ここで鳥山明は「ホントはメガネをかくのはわりとめんどくさい」と言っているが、この言葉は額面通り受け取ってよいものだろうか? これについても、作者本人の弁とは別に、作品そのものから考えておく必要がある。2つ目の論点は、メガネを描くということについて。きちんと「Dr.スランプ」という作品を読めば、アラレちゃん以外にも大量にメガネキャラ、あるいはサングラスキャラが登場していることがわかる。「めんどくさい」という言葉が信じられないほど、大量に眼鏡が描かれているのだ。たとえば、単なるモブキャラとして眼鏡っ娘が登場する場面を一瞥してみよう。

077_08

077_09

この2つのシーンは、もしも本当に「めんどくさい」のだったら、眼鏡なしで描かれるだろうシーンだ。しかし事実は、眼鏡をかける必要のないモブキャラが、しっかり眼鏡をかけている。これは、作者が眼鏡を描くことが好きだとでも考えない限り、説明がつかない。思い返してみれば、鳥山明の魅力の一つは、細部まで描きこまれたメカ類にある。本当に描くのが「めんどくさい」のなら、そもそもここまで細かいギミックにこだわる必要がないだろう。メカ類の描写を見る限り、作者は「めんどくさい」ことが好きとしか考えられない。「Dr.スランプ」に見られる大量の眼鏡描写は、細部までこだわったメカ描写を踏まえた上で理解する必要があるだろう。

しかしそんなに大量にある眼鏡描写のなかで、やはりアラレちゃんの眼鏡だけは特別な位置を占める。3つめの論点は、アラレちゃん眼鏡の特権性について。それは、眼鏡が割れるか割れないかに顕著に示されている。アラレちゃん以外のキャラの眼鏡は割れるが、アラレちゃんの眼鏡だけは割れないのだ。まず脇役の眼鏡が割れる様子を見てみよう。

077_06

驚いたときに眼が飛び出るというマンガ的描写があるが。このとき、眼鏡やサングラスをかけていたキャラは、眼鏡を突き破って目が飛び出る。しかし、アラレちゃんだけは、眼が飛び出ても眼鏡が割れないのだ。

077_07

やはり、アラレちゃんの眼鏡はすごいのだ。

そしてそのスゴさは、「眼鏡を外すと天罰が下る」というところに顕著に示されている。作中でアラレちゃんの眼鏡を外そうとしたのは、あかねとマシリトの二人だけだが、二人ともこっぴどく酷い目に遭っている。特に、意識的にアラレちゃんの眼鏡を外そうとしたただ一人の男であるマシリトが、同時に作中で死亡した唯一のキャラクターであることを考えれば、眼鏡っ娘の眼鏡を外すことは明らかに「死亡フラグ」なのだ。

077_10

そして本作が決定的に重要なのは、作中で「メガネっこ」という単語を使用しているところだ。第四の論点は、「眼鏡っ娘」という言葉そのものについて。実は作中で「メガネっ子」という言葉が出てくるのは、2か所しかない。

077_03

077_04警察屋さんは、他の箇所では「ほよよっ子」などと言っている。とはいえ、広く読まれた国民的マンガに「メガネっこ」という言葉が登場したことは、極めて重要な事実だ。言葉ができることによって、概念が定着する。「メガネっこ」という言葉が示されることによって、潜在的な意識が覚醒する契機が生まれる。ちなみにコミケサークルカットに「眼鏡っ娘」という単語が登場したのは1984年のこと(「超時空世紀オーガス」のリーアに対して)であり、もちろんアラレちゃんがテレビアニメとしても広く認知された後のことだ。厳密に考えようとするなら、1979年に西谷祥子が「サラダっ娘」という作品を発表していたり、「島っ子」(ちばてつや)や「はみだしっ子」(三原順)という例があることを考え合わせる必要がある。「メガネっこ」という表現が鳥山明オリジナルかどうかについては確定事項ではない。とはいえ、「メガネっこ」という言葉が、本作によって広く認知されたのは間違いない。

以上、4つの論点からアラレちゃん眼鏡について見てきたが、まだまだ考えるべきことが多いことがわかる。いつになっても、眼鏡っ娘の原点として立ち返るべき傑作だ。

■書誌情報

077_05単行本でも手に入るし、文庫版もある。

単行本全18巻:鳥山明『DR.スランプ』(ジャンプコミックス)
文庫版全9巻:鳥山明『Dr.スランプ』(集英社文庫)

 

 

 

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第72回:幸月由永「ご相談はこちらへ」

幸月由永「ご相談はこちらへ」

集英社『別マスペシャル』1991年1月号

葉澄ちゃんは眼鏡っ娘女子高生。ショートカットに黒縁セルフレームが似合っている。そんな葉澄ちゃんは、他人の恋の仲を取り持つのは得意なのに、自分のことになると不器用。そして葉澄ちゃんが一目で恋に落ちた相手は、客観的には魅力的とは言い難い大男のオッサンだった。

072_01

しかしめちゃめちゃな美人がオッサンにキスしているところを目撃したりして、大ショック。さらにオッサンが美人を連れてトンガに移住するという噂が流れたりと、弱り目に祟り目。でも幸運の女神は、前向きに頑張る眼鏡っ娘に微笑むのだ。

072_02

結局、美人とのキスも誤解だったということがわかり、めでたしめでたし。

ということで、ガールmeetsオッサンという他愛もない話ではある。だが、それがいい。淡泊な絵柄なのに、眼鏡っ娘の微妙な表情の変化がよく描けている。嫌な人間が一人も出てこない世界の、ほんわかしたと雰囲気が心地よく、読後はぽかぽか幸せな気分に浸れる。こんなほんわか幸福感を醸し出せる作品ってあまりないよなあと思って改めて精読してみたら、ポイントはやはり眼鏡にあった。眼鏡の描き方が、ほんわかしていたのだ。小さい絵だと分かりにくいので、ちょっと拡大して見てみよう。(14インチの画面だと、実際のマンガの4倍くらいに拡大)

072_03

黒縁のように見えていた眼鏡は、実は墨ベタではなかった。「網掛」という技術で表現されているのだ。眼鏡のフレームに光が当たるところは網掛の密度を低くして表現するなど、芸が細かい。画面全体から漂ってくる「ほんわか感」の源泉は、このきめ細かい眼鏡表現にあったのだ。この網掛と言う技術は、そこそこ面倒くさい。それでも墨ベタではなく網掛という表現を選択したところに、本作の見所がある。少女マンガならではの、繊細で温かみのある、とても個性的な表現だと思う。

■書誌情報

本作は40頁の中品。単行本『寒さはもうすぐ去っていく』に収録。独特の雰囲気を持つ個性的な作家なので、キャリアが単行本1冊で終わっているのはとても勿体ないと思う。

単行本:幸月由永『寒さはもうすぐ去っていく』(マーガレットレインボーコミックス、1992年)

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第71回:奥森晴生「たわわ」

奥森晴生「たわわ」

集英社『りぼんオリジナル』2002年6月号

071_01本作は、「傍観者」の眼鏡っ娘がヒロインへと躍り出る物語だ。
眼鏡っ娘に「傍観者」の役割を与える作品を、しばしば目にする。眼鏡とは「見る」ための道具なのだから、見るという行為に特化した傍観者キャラに眼鏡をかけさせたくなるということだろう。客観的に物事を分析できる傍観者は、物語を円滑に進行させるにあたって非常に使い勝手の良い存在だ。が、もちろん傍観者だから、基本的に脇役を超えることはない。しかし稀に、そのような傍観者眼鏡っ娘が主人公ポジションに躍り出ることがある。その尊い輝きについては、第48回『星の瞳のシルエット』で少し言及した。「傍観者」から「主人公」へと躍り出ることはとても勇気を要することであり、だからこそ他に代えがたいカタルシスを読者にもたらす。本作の見所も、跳躍するヒロインの心の動きにある。

浜子は眼鏡っ娘高校生17歳。過去に付き合っていた彼氏はいたが、二股をかけられた際の男のマヌけな言動に愛想が尽き、恋愛そのものに距離を置くようになってしまった。しかしそんな浜子をずっと見ている男、沖田くんがいた。しかし浜子は沖田くんの気持ちには気づいていないし、沖田くんも素直に「好き」と言うことができない。そんな沖田くんには、恋愛に関心を持たない浜子の眼鏡が「傍観者」の象徴のように見えていた。

071_02

一人でいることがラクチンだと思っていた眼鏡っ娘だったが、家族が旅行に出かけて家に誰もいない日、体調を崩して倒れてしまう。そのとき、朦朧とする意識の中で、「傍観者」を決め込んでいた自分の態度が、結局は臆病の裏返しの強がりだったことを自覚する。そこに現れたのが、沖田くんだった。沖田くんがお粥を作ってくれたりして、浜子は無事に回復する。浜子は沖田くんの気持ちを察して、「傍観者」を卒業していく。
で、「傍観者」を卒業するのはいいとしても、同時に「傍観者」の象徴だった眼鏡が外されてしまうケースが多いので、ひそかに心配していたのだが、本作はちゃんと眼鏡をかけ続けてくれた。興味深いのは、眼鏡をかけつづけるのと同時に「傍観者」の能力も引き続き持ち続けているところだ。眼鏡をかけているということは、物事がよく見えることを意味する。物事を客観的に認識できるので、沖田くんが自分のことを好きだということを明瞭に認識することができる。

071_03

071_04「傍観者」の客観的認識能力を引き継いだまま、つまり眼鏡をかけたまま、浜子は恋の物語の主人公に躍り出る。「好き」だと素直に言えない沖田くんを、しょうがないなあと思いつつフォローする眼鏡っ娘の笑顔が、とても爽やかだ。この恋はきっとうまくいく。

本作のもう一つの見所は、眼鏡の描写だ。少女マンガで眼鏡が描かれる場合、フレームのラインだけ描かれることが大半だ。が、本作はフレームを省略しないでしっかり描くうえに、鼻パッドや蝶番まで丁寧に描きこんでいる。『りぼん』系列にこのようなしっかりした眼鏡作品を描いてくれたことは、とてもありがたいことだと思う。

 

■書誌情報

本作は40頁の中編。単行本『林檎の木』に所収。しっかりした絵と芯のある物語を作る作家で、高い実力があるのは明らかなので、キャリアが単行本一冊だけなのはとても勿体ない気がする。

単行本:奥森晴生『林檎の木』(りぼんマスコットコミックス、2004年)

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第68回:桃森ミヨシ「トンガリルート」

桃森ミヨシ「トンガリルート」

集英社『マーガレット』2002年No.23~03年No.1

054_hyouとんでもない眼鏡傑作だ。表紙で眼鏡をかけていなかったので何気なく読み始めたのだが、途中から並々ならぬ眼鏡オーラを感じ始め、クライマックスでは全身が眼鏡オーラに包まれ、鳥肌が立ちっぱなしだった。最もすごい眼鏡少女マンガは何かといま聞かれたら、間違いなく本作を推す。

本作も「眼鏡っ娘起承転結構造」で構成されている。が、20世紀の乙女チック眼鏡マンガよりも、さらに認識論的に進化した美しい姿を見せてくれる。ストーリーを追いながら、構成の完成度の高さを確認しよう。
主人公の平方留羽は、ガリベン眼鏡っ娘。が、ガリベンにも関わらず成績は良くない。頑張ってもできない子なのだ。クラスメイトからは「ルート」とあだ名をつけられる。それは「平方(ひらかた)」という苗字が「平方根」とかかり、名前の「留羽(るう)」が「ルート」とかかっているのだが、要するにガリベンなことをバカにされているわけだ。が、バカにされていることにすら気が付かない、そんな浮いた娘だ。

068_01

留羽がガリベンなのは、実はできすぎる兄に対するコンプレックスがあるからだ。兄は東大ストレートの英才で、留羽はそんな兄を目標にして頑張っている。が、頑張っても頑張ってもできない自分に劣等感を抱いている。頑張れば頑張るほど「みじめ」になると思い込んでいる。眼鏡は、留羽のコンプレックスを可視化したものだ。バリアーとしての眼鏡なのだ。
本作をここまで読みすすめて、私は不安に陥っていた。眼鏡をコンプレックスの象徴として描く作品は数多く、そしてそのような作品は、最後にはほぼ間違いなくコンプレックス解消の証として眼鏡を外してしまう。本作もそうなるだろうと、この時点では考えていた。その予感は「承」で現実のものとなってしまう。家庭教師としてやってきた二乗くんが、留羽の眼鏡をとりあげてしまうのだ。しかも、容姿が劣るという理由なんかではなく、兄へのコンプレックスを解消するために眼鏡をとりあげたのだ。容姿が劣るという理由で眼鏡がとりあげられた場合は、そのまま起承転結構造に入っていくケースが多く、最終的には眼鏡のままで幸せになることが多い。しかしコンプレックスの象徴である眼鏡がとりあげられてから逆転したケースは、見たことがない。この時点で、私は「終わった」と思った。

068_02

二乗くんの「よけーなもの見えない方が勇気出るときもあるでしょ」というセリフ。まさに兄を追いかけすぎて劣等感をこじらせている眼鏡っ娘からコンプレックスを取り去ろうという意図の下で発せられている。ふつうは、このままコンプレックスが解消されて、終わる。実際、留羽は眼鏡を外したことで、「景色が違って見える」と感じる。このままコンプレックスから解き放たれて眼鏡なしでハッピーエンドだろうなーと思った矢先だった。いきなり、来た。「転」だ。

068_03

二乗くんは、嘘をついて留羽に近づいていた。本当は高校生なのに大学生だと偽って、兄の差し金で留羽に優しく接していたのだった。眼鏡っ娘は思う。「ああ…そうですか。変だとは思いました。だってこんな私の相手なんてだれも。慣れてます。みじめなのは、いつものこと」と。そして思う。「よくみえないのはメガネがないからです」と。
いやー、読んでてビックリしてひっくり返った。まさかこの流れで「転」が来るとは。しかし驚くのはまだ早かった。ここから「結」までの展開が美しすぎた。
眼鏡っ娘は、自分を騙していた兄と二乗くんから、彼らの本心を聞く。これまで自分の劣等感の処理で精いっぱいだった留羽は、初めて他人と関わろうと思う。きちんと二乗くんの心に向き合おうと決意する。このシーンがまず美しい。

068_04

留羽は自分の口から「眼鏡を返してほしい」と言う。そしてこう言う。「よけいなものだけでなく、ちゃんと見たいものまでぼやけてしまいます」と。留羽は、自分の眼で世界の真実と向き合うことを決意したのだ。そして「見る」ためのアイテムこそが、眼鏡なのだ。バリアーの象徴だった眼鏡が、見る意志の象徴としての眼鏡に変化したのだ! ここで鳥肌が立った。
そして、ここからがまた、美しい。「眼鏡を返せ」と言われた二乗くんは、きちんと手許に眼鏡を持っていて、留羽にかけてあげる。このときの、眼鏡のかけかたに注目してほしい。前からかけるのではなく、後ろからかけている。

068_05

眼鏡を前からかけさせてあげると、男の視線は眼鏡っ娘の顔に注がれる。眼鏡っ娘のかわいい顔を観賞するためには、前からかけなくてはならない。しかし二乗くんは後ろからかけた。これではせっかくかわいい眼鏡っ娘の顔を観賞することはできない。その代わりに、二乗くんには眼鏡っ娘が見ている景色と同じものが見える。後ろから眼鏡をかけさせることは、視線を共有することを意味している。そこで眼鏡っ娘と二乗くんが見た光景とは。

068_06

たくさんの笑顔。自分の兄が、単にパラメーターが高い男なのではなく、みんなを笑顔にする人間だと理解した眼鏡っ娘。自分がこれまで知らなかった兄の本当の魅力を、二乗くんが教えてくれたのだ。自分の眼で、眼鏡を通して真実を認識することで、コンプレックスが溶けていく。このときの眼鏡っ娘と二乗くんの笑顔が、まぶしい。劣等感のために人と関われなかった眼鏡っ娘が、視線を共有することによって、他人と世界観を共有することによって、自然な笑顔を見せる。このとき、私もものすごい笑顔だったと思う。眼鏡っ娘と二乗くんが見た光景を、私も共有していたのだから。
この感動は、眼鏡というアイテムによってキャラクターの視線と読者の視線を巧みにコントロールすることで生まれる。バリアーとしての眼鏡では、視線は常に内側に向いている。「見る意志」としての眼鏡では、視線は世界に向けられる。そしてそこに二乗くんの視線を加えることで、二乗くんの視線と読者の視線が眼鏡っ娘の視線と同化する。マンガでは、読者の視線をコントロールするために無数のテクニックが編み出されてきた。コマ割りの進化も、その一端だ。本作は、これを眼鏡で達成した。視線をコントロールするのに、「見るアイテム」としての眼鏡ほどふさわしいものはあるまい。

いやぁ、本当にいいものを見た。と思ったら、本作はまだすごかった。桁外れだ。このあと、なんと眼鏡っ娘をかばって二乗くんが交通事故に遭ってしまう。その場面の眼鏡描写が、すごい。

068_07

この眼鏡描写。本作が眼鏡を中心に回っていることを明らかに示している。
二乗くんは一命をとりとめたが、しばらく入院することになってしまう。そこで眼鏡っ娘は、二乗くんの眼の代わりになろうと、学校で授業のノートをとろうとする。が、割れたメガネではよく見えない。そのときの留羽の行動に、仰天した。

068_08

「水中メガネ」かよっ!!!
マンガに向かってツッコミを入れてしまったのは久しぶりだ。このあと、少女マンガなのに、ヒロインがずっと水中メガネ。ものすごいビジュアルだ。この水中メガネが極まるのが、最後の最後のクライマックスだ。

068_09

病院のベッドで、水中メガネからの、キス。前代未聞だろう。
キスするときに眼鏡を「じゃまこれっ」とか言って外すようなら二乗くんもダメ男決定だったが、これ、水中メガネだからなあ……。大目にみてやろう。
そして最後の眼鏡っ娘のモノローグが、「見える」。最後まで「視線」にこだわって構成していることがわかる。

ということで、「眼鏡っ娘起承転結構造」を引き継ぎつつも、認識論のレベルでそれを乗り越えていくという、パラダイムシフトを起こした作品といってよいだろう。ブラボー!!

■書誌情報

同名単行本に所収。amazonのレビューも絶賛の嵐。うむ、そりゃそうだろう。傑作だ。

単行本:桃森ミヨシ『トンガリルート』(マーガレットコミックス、2003年)

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第63回:山本景子「CICA CICA BOOM」

山本景子「CICA CICA BOOM」

集英社『マーガレット』2006年No.13~2007年No.1

063_01

ものすごい眼鏡マンガなので、ぜひとも自分の眼で確かめてほしい。強烈。
ヒロインは春日百々(かすがもも)。小学4年生から眼鏡だったが、高校入学をきっかけにコンタクトにするつもりでいた。しかし、だ。初っ端のエピソードで思わず「ブラボー!」と叫んでしまった。

063_02

なんとお父さんが高校入学祝いに32万円の眼鏡を買ってきたのだった! やったぜ親父! コンタクトにするつもりだった百々は、これで眼鏡をかけざるをえなくなる。

ここから百々にメガネの神様が降りてくる。入学早々、イケメンのめがね君が、入部勧誘で百々に声をかけてくる。あまりのイケメンぶりについていったところ、その部活は「眼鏡研究部(がんきょうけんきゅうぶ)」だった!

063_03

壁一面の眼鏡。ここは天国か? 部長・山田太郎の眼鏡パワーに圧倒されて、思わず入部してしまう百々。しかし世間は愚かな偏見に満ち溢れていた。廊下を歩いていると、いきなり百々の眼鏡がバカにされてしまう。悔しさに涙ぐむ百々。そこに部長登場! あっという間に眼鏡の素晴らしさを説き聞かせ、百々を救う。そして眼鏡を貶めるような愚かな発言をした女生徒に畳み掛けるのだ。

063_04

救われた百々は、部長のことも、眼鏡のことも、だんだん好きになっていく。しかし事はそう簡単に運ばない。部長は百々よりも眼鏡に夢中。百々は次第に寂しさを感じるようになっていく。部長はただ単に眼鏡を見ていただけで、私という人間のことにはまったく関心がないのだ、と。百々は固い決意を込めて、眼鏡を外してオシャレをして部長の前に立つ。しかし部長は「メガネはどうしたんだい?」と、眼鏡のことしか気にしない。いよいよ感情があふれた百々は、部活をやめると言って部室を飛び出すのだった……。
ああ、そうだ、これは西川魯介や小野寺浩二が全力でぶち当たっていった、あの難問だ。「私と眼鏡とどっちが好きなの?」って言われたところで、おれたちは眼鏡の君が好きなんだああ!ぐわあああ!
それはさておき、この作品も、「愛」とは何かについてしっかり結論を出す。眼鏡を突き詰めると「愛とは何か?」という問題に行きつき、さらに眼鏡を突き詰めるとその答えが見える。本作の結論も、美しい。

ここまでが読み切り部分だが、人気があったのだろう、連載が始まる。この連載でもパワーが落ちない。素晴らしい。眼鏡研究部と生徒会の対決で百々がミスコンテストに出ることになったり、そこであまりにも可愛かったため、眼鏡っ娘好きのストーカーに狙われたり。ストーカーに拉致されたときの絵が、またすごい。

063_05

壁一面の眼鏡っ娘写真。うーん、どこかで見たような、デジャヴ?って、おれんち?
ストーカー事件を眼鏡パワーで解決した後も、部長の妹(もちろん眼鏡っ娘)が大暴れしたり、温泉に部長と二人きりで閉じ込められたり、すごい眼鏡展開。

しかし、最終回はホロっとしてしまった。それまで受け身一方だった百々が、積極的に部長と部活のために動きまわる。眼鏡とは「見る」ための能動的なアイテムだ。最後の最後で百々は自分の意志で世界を変えていくことで、真の眼鏡っ娘となった。最初から最後まで素晴らしい眼鏡っ娘マンガだった。
20世紀には、こういうマンガが少女誌に掲載されることは想像もつかなかった。伝統の『マーガレット』に掲載されていたことの意味は、非常に大きい。

■書誌情報

063_06単行本全2巻。単行本描きおろしの百々ちゃんコスプレイラストとか、とても気持ちいい。
古本の値段が安い今のうちにゲットしたほうがいいと思う。一家に一冊そろえておきたい。

単行本:山本景子『Cica cica boom』1巻(マーガレットコミックス、2007年)
単行本:山本景子『Cica cica boom』2巻(マーガレットコミックス、2007年)

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第62回:耕野裕子「ほんの少し抵抗」

耕野裕子「ほんの少し抵抗」

集英社『ぶ~け』1980年11月号

062_01「少女マンガの王道は、眼鏡のまま幸せになる」と訴え続けて、早10年。残念ながら世間ではまだまだ「少女マンガでは眼鏡を外すと美人」という誤った信念がまかり通っているので、本物の少女マンガの実例をたくさん挙げていきたい。

本作のヒロイン眼鏡っ娘は、密かに軽音部の斉藤くんのことが好き。でも、チビでニキビで跳ねっ毛で眼鏡という自分の容姿に劣等感を持っていて、告白なんかできっこない。そこで、唯一自分の意志で外すことのできる眼鏡を外してみようとする。この眼鏡を外したときの、どうしようもなく情けない姿の描写が素晴らしい。眼鏡っ娘は近眼で前が見えないので、フラフラしているうちに、斉藤くんとぶつかってしまう。斉藤くんが「メガネどうしたんだよメガネ」と抗議すると、眼鏡っ娘は「抵抗だったのよ」と言う。斉藤くんが、このセリフをスルーせず、眼鏡っ娘の曇った表情を見てしっかり「?」と気が付いているのが、さすが少女マンガのヒーローだ。

062_02眼鏡っ娘がぶつかったせいで遅刻してしまった二人は、居残りで宿題をすることになる。教室に二人きりになったときに、斉藤君は「抵抗って何の事」と聞く。最初はとぼける眼鏡っ娘だったが、「容姿への抵抗」と白状する。「わたしの容姿におけるあらゆる欠点の中で唯一自分の力をもって対抗しうるメガネをとるという行動」ということらしく、うだうだと言い訳を続ける。が、斉藤くんは「くっだらん」と一蹴するのだ。
さて、ここからの斉藤くんの一連の言動が、究極に男前だ。男のなかの男だ。我々も、斉藤くんにならって、眼鏡を外そうとする女子には、ぜひこう言わなければならない。「メガネしてるから、あんたなんだろうが」と。くあああぁぁ、カッコいい! これこそ少女マンガのヒーロー! さらに畳み掛けるように、「それとったらあんたじゃないって事だろ」と続ける。すげえ!一生のうちに一回は言ってみてえぇぇ!
そしてそのあとのやりとりが、決定的だ。この斉藤くんの精神を、ぜひとも世界中に広めたい。

062_03

眼鏡っ娘は「そんな事いっても、男の人だって、女の子は顔がいいのやメガネしてないのがいいっていうじゃない!」と反論する。が、斉藤くんはクールに「それは人間のできてない男のいうセリフ」と諭す。これだ。これが世界の真理だ。眼鏡を外そうとする奴は、例外なく人間ができていないのだ!

耕野裕子は、80年代から90年代にかけて集英社『ぶ~け』のエースとして活躍。青春の甘酸っぱい一瞬を切り取って、繊細なセリフに乗せて表現するのが上手い。若いゆえに視野が狭く、だからこそ同時に純粋な人物たちの、傷つきやすく壊れやすい心の葛藤と成長を、胸が締め付けられるようなエピソードで描いていく。たいへん優れた青春作家だ。本作はまだ青春作家として花開く前の作品ではあるが、「人間というものの本質」に迫ろうという意志は各所に見える。人間の本質を描こうとする作家が、眼鏡っ娘の眼鏡を外すわけがないのだ。眼鏡っ娘の眼鏡を外すのは、「人間のできてない」マンガ家だ。

■書誌情報

本作は30頁の短編。単行本『はいTime』に収録。Amazonを見たら古本にひどいプレミアがついてたけど、古本屋を回れば200円で手に入ると思う。

単行本:耕野裕子『はいTime』(ぶ~けコミックス、1983年)

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第55回:田渕由美子の眼鏡無双

田渕由美子の眼鏡無双

田渕由美子「百日目のひゃくにちそう」集英社『りぼん』1978年9月号
田渕由美子「夏からの手紙」集英社『りぼん』1979年8月号
田渕由美子「珈琲ブレイク」集英社『りぼんオリジナル』1982年冬の号
田渕由美子「浪漫葡萄酒」集英社『りぼんオリジナル』1983年秋の号

055_01

055_02田渕由美子の眼鏡は止まらない。
単行本『夏からの手紙』と『浪漫葡萄酒』は表紙が眼鏡っ娘のうえに、それぞれ4作収録のうち2作の主人公が眼鏡っ娘。まさに眼鏡無双。もちろん、眼鏡を外して美人になるなどという物理法則に反する描写は一切ない。ここまでくれば、意図的に眼鏡を描いていると考えて間違いない。

1970年代後半の『りぼん』でトップを張った作家がこれほどまでに大量の眼鏡っ娘作品を描いていたことは、歴史の事実としてしっかり押さえておきたい。少女マンガの王道とは「眼鏡を外して美人になる」のではなく、「眼鏡のまま幸せになる」のだと。「少女マンガでは眼鏡を外して美人になる」など、少女マンガを読んだことのない人間が垂れ流す悪質なデマに過ぎない。田渕由美子の作品を読めば、何が正しい眼鏡なのかは火を見るよりも明らかなのだ。
もちろん眼鏡に優しかったのは田渕由美子だけではない。同時代『りぼん』で活躍した陸奥A子と太刀掛秀子も「眼鏡を外して美人」なんてマヌケな作品は一つたりとも描いていない。『りぼん』以外の雑誌でも、明らかに田渕由美子の影響を受けたと思われる眼鏡っ娘作品を多く見ることができる。『マーガレット』の緒形もり、『フレンド』の中里あたるなど、乙女チック眼鏡を描いた作家については、また改めて見ることにしよう。

さて、1978年9月「百日目のひゃくにちそう」は、引っ込み思案で「泣きべそ顔が印象的」と言われてしまう眼鏡っ娘が主人公。恋人だった支倉くんが交通事故で死んでしまった後、声がそっくりの植木屋さんと新しい恋に踏み出すお話。ふわふわの髪型と眼鏡がとっても素敵。

055_041979年8月「夏からの手紙」は、あだなが「委員長」の眼鏡っ娘が主人公。作中でもT大文学部に進学している。田渕由美子のヒロインは、他の『りぼん』作品と違って、大学生や予備校生が主役であることが多いのが印象的。で、このメガネ委員長が、まさにツンデレの中のツンデレ。高校の時には片想いで告白できなかった相手に憎まれ口ばかり叩いてしまっていたメガネ委員長は、大学に進学してから偶然その相手と出会う。ここからのデレかたがかわいすぎる。大学生になってからも「委員長」と呼ばれてしまう眼鏡っ娘が素直になるところは、読んでいるこっちもニッコリしてしまう。

055_051982年冬「珈琲ブレイク」は、中学生から7年間もずっと片想いを続けている眼鏡っ娘が主人公。恋の話をするときに顔が真っ赤になる眼鏡っ娘がかわいすぎる。そして片想いをふっきって、新しい恋に踏み出していく心の動きが丁寧に描かれている。
眼鏡っ娘の新しい恋の相手暮林くんが二人称で「オタク」という言葉を使っているけれど、もちろんこれは二次元が好きな人という意味での「オタク」ではなくて、単なる二人称。二次元が好きな人たちが好んで相手のことを「オタク」と呼んでいたからその名をつけたと言われているけれど、実はそれは誤解に基づいた命名だったといえる。田渕由美子や新井素子の作品を読めばすぐに分かるのだが、「オタク」とは1970年代の大学サークル界隈で使用されていた二人称だ。「二次元が好きな人たちがオタクという二人称を好んで使っていた」と主張する人々は、単に1970年代の大学サークル文化を知らないだけという可能性がかなり高い。

そして、『りぼん』時代最後の眼鏡っ娘作品となった『浪漫葡萄酒』は、眼鏡的にかなり考えさせられる作品だ。というのも、ダテメガネだからなのだが、さすが田渕由美子だけあって、そのダテメガネぶりが他の作家とはまったく違っている。ダテメガネといえば、普通はアイドルや芸能人が自分を隠すために使うアイテムとして認識されている。しかし田渕由美子は違う。「眼鏡をかけたほうがかわいい」から眼鏡をかけて写真モデルになって、大売れしているというダテメガネなのだ!

055_06

ダテメガネで大ブレイクする写真モデル。これが平成の世なら、時東ぁみなどの実例があるから、ダテメガネで芸能人を売り出すってネタも理解できなくはない。しかしこの作品が発表された1983年とは、プラザ合意前の昭和どまんなかの時代だ。この時代に眼鏡をかけたほうがカワイイからダテメガネで写真モデルって。実際に眼鏡アイドル板谷祐美子を擁するセイント・フォーがデビューするのは、この作品が発表された翌年のことだった。あまりにも、早すぎる。本当にすごい。田渕由美子、すごすぎる眼鏡力。

■書誌情報

「百日目のひゃくにちそう」と「夏からの手紙」は単行本『夏からの手紙』に所収。「珈琲ブレイク」と「浪漫葡萄酒」は単行本『浪漫葡萄酒』に所収。全作品集は全4巻で計画されていたが、2巻で出版が止まったので、本作は収録単行本で読むしかない。が、『夏からの手紙』のプレミアが半端ない。素晴らしい眼鏡っ娘が多いので、読みやすい環境になってほしいなあ。

単行本:田渕由美子『夏からの手紙』(りぼんマスコットコミックス、1982年)

単行本:田渕由美子『浪漫葡萄酒』(りぼんマスコットコミックス、1983年)

■広告■


■広告■