この眼鏡っ娘マンガがすごい!第123回:横谷順子「ハッピー♥プー」

横谷順子「ハッピー♥プー」

集英社『デラックスマーガレット』1980年1月号

本来なら「眼鏡de結婚式」が描かれているところに注目したいのだが、不本意ながらオナラに全部もっていかれてしまう問題作。
主人公の眼鏡っ娘マキは、眼鏡を外すと実は大人気女優のかずみ。しかし眼鏡っ娘マキのことを、誰も大人気女優だと気が付かないのだった。となれば、眼鏡をかけた本当の自分と女優である自分とのアイデンティティの葛藤がテーマとなりそうなものだが、本作は強烈な異彩を放っている。異彩というか異臭というか。マキは、おならをするのがくせになっているのだった。マキの放ったオナラでヤクザを撃退してしまうほどだ。

123_01

そんなマキに、芸能記者の茂巳くんが近づく。最初は大女優かずみの取材をしようと思っていた茂巳だったが、だんだんマキと仲良くなっていく。マキは、茂巳の前では平気でオナラできるのだった。
ある日、喫茶店でマキと茂巳が二人でいるとき、マキがおならをしてしまう。そのときマキに代わって茂巳が喫茶店にいる客に謝罪する。

123_03

いつもマネージャーにオナラをかばってもらっていたマキは、改めてオナラが他人の気分を悪くするということを自覚する。が、その自覚が悪い方に出てしまう。女優かずみとして記者会見しているとき、いつもなら自分がしたオナラをマネージャーがかばってくれるのに、無意識のうちに自分がオナラをしたと認めて謝罪してしまったのだ。清楚が売りだった大女優がオナラをしたということで、記者会見場は大騒ぎになる。
ここでヒーロー茂巳が男を見せる。

123_04

茂巳はマキをかばう。が、マキにとってみれば、女優の「かずみ」ではなく眼鏡っ娘の「マキ」と名前を呼んだことのほうが驚きだった。誰も本当の自分に気が付かなかったのに、茂巳だけは自分に気が付いていたのだ。本当の私を理解してくれたことに感激したマキは、記者会見もそっちのけで、女優としてのキャリアを全て放り出して、茂巳に抱きつく。
物語はハッピーエンドを迎え、結婚式の場面。この結婚式が凄い。あの小野寺浩二ですら成し遂げられなかった眼鏡de結婚式なのだ。そしてまた、かずみとマキが同一人物だったことに茂巳が気が付いた理由が凄い。

123_05

そして結婚式の真っ最中、いよいよ誓いのキスというときにも、オナラ。オナラで全部台無しになっているとはいえ、「眼鏡de結婚式」という実例が1980年に存在していることは事実としてしっかり押さえておきたい。

123_06

■書誌情報

単行本『ほほえみベンチ』(集英社、1980年)所収。amazon古書でもヒットしないが、古本屋を丹念に回れば手に入ると思う。

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第120回:河村美久「やさしさ半分二人で一つ!」

河村美久「やさしさ半分二人で一つ!」

講談社『ラブリーフレンド』1980年12月号

メガネスキーが「自分は眼鏡っ娘が好きだ!」とカミングアウトすることで大団円を迎える物語である。これも例によって美しい「眼鏡っ娘起承転結構造」を示す作品だ。

物語冒頭、中間テスト学年一位の眼鏡っ娘=多枝子は、ガリベンでカタブツだと思われている。クラスメイトからはまったく恋愛の対象とみなされていない。そんなカタブツ眼鏡っ娘も密かに青木くんのことが好きだった。実は青木くんの方も眼鏡っ娘のことを好ましく思っているのだが、残念なツンデレ眼鏡っ娘がそのことに気づくはずもない。

120_01

ところで眼鏡っ娘には双子の妹がいた。この妹は、ガリベン眼鏡っ娘の姉と違って、華やかな恋愛体質だ。姉の元に現れた妹はたちまちクラスの人気者となる。青木くんの友達が妹に一目惚れして、青木くんを巻き込んで集団デートに誘おうと企画する。ところが気の多い妹はデートをドタキャン。眼鏡っ娘はメガネを外して、妹の代わりにデートに臨むことにする。が、そこで青木くんに告白される。

120_02

眼鏡っ娘がメガネを外して、華やかな恋愛体質になって、モテモテになる。世間にはこれで物語が終了だと勘違いしている人が多いようだが、「眼鏡っ娘起承転結構造」を知っていれば、これが単なる「承」に過ぎないことがよく見える。本当のクライマックスは、この先だ。

120_03

眼鏡を外して得たものなど、偽物に過ぎない。青木くんが好きなのは自分ではなく、妹なのだ。眼鏡っ娘はそのことを自覚する。青木くんとの偽りの恋愛もこれで終わりだと、覚悟を決める。
しかしだ。この青木くん、本当は妹との交際を断ろうと思っていた。眼鏡っ娘が自分にとってかけがえのない存在であることを強烈に自覚したのだ。
全てが発覚し、晴れてカップルとなった眼鏡っ娘と青木くんのラストシーンが実に清々しい。

120_04

「オレはおさげとまんまるメガネの女の子が好きなのーっ」と大声で叫ぶ青木くん。私も叫ぶぞ。私はおさげとまんまるメガネの女の子が好きなのーっ!!
自分がメガネスキーであることを大声でカミングアウトして物語がハッピーエンドを迎えるという、たいへん清々しい結末である。

054_hyouところで、こういう「起承転結構造」を示す少女マンガ作品が大量に存在することが、オリジナリティの観点からどうかと疑問に思う向きもあるだろう。が、プロットの段階での類似は、オリジナリティの欠如を意味しない。たとえば「仲間と協力して強大なライバルに勝つ」というプロットがある。『ドラゴンボール』も『スラムダンク』も『ガンダム』も、全作品がこのプロットを共有している。が、プロットが同じだからといって、これらの作品を同列に語る人間など存在しない。「眼鏡っ娘起承転結構造」も、これと同じレベルのプロットなのだ。作品のオリジナリティは、プロットではなくキャラクターに[具体的]に現れる。逆に言えば、たくさんの作品に共通して見られるプロットとは、「世界の真理」を[抽象的]に代表したものと把握するべきだろう。「眼鏡っ娘起承転結構造」というプロットが大量の作品に共通して見られることは、そこに「世界の真理」が反映していると理解するべき事態なのである。この事態は「眼鏡っ娘弁証法」によって哲学的に解釈できるわけだが、それについてはしかるべき機会に改めて述べてみたい。

■書誌情報

本編は32ページの短編。単行本『ちょっと初恋』所収。この単行本に収録されている「12時からのシンデレラ」も眼鏡っ娘がヒロインの作品。新刊では手に入らないが、増刷を繰り返す人気単行本で大量に市場に出ているので、古本で手に入れやすい。

単行本:河村美久『ちょっと初恋』講談社、1982年

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第97回:吉田まゆみの眼鏡無双

吉田まゆみ「おはようポニーテール」講談社『週刊フレンド』1977年1号~4号
吉田まゆみ「からふるSTORY」講談社『週刊フレンド』1977年9号~23号
吉田まゆみ「センチメンタル」講談社『月刊ミミ』1978年3月号
吉田まゆみ「れもん白書」講談社『月刊ミミ』1979年1月~12月号
吉田まゆみ「ボーイハント」講談社『週刊フレンド』1980年13号~16号

さて、前回の吉田まゆみ「アイドルを探せ」でメインヒロインがカラッポであることを強調したが。実は吉田まゆみ作品の神髄は代表作だけ見ていてもわからない。まずは1970年代後半に吉田まゆみが眼鏡無双していたことをしっかり見ておきたい。
まず事実として指摘しておきたいことは、吉田まゆみは眼鏡っ娘とメガネくんのカップルを極めて大量に描いていることだ。そもそもメガネくんの登場率自体が非常に高いのだが、その相手が眼鏡っ娘であることが多いのは強い印象を与える。そしてそのメガネくんと眼鏡っ娘のカップルが、メインヒロイン絡みではなく「脇筋」であることも印象的な事実である。
たとえば「おはようポニーテール」の脇役眼鏡っ娘エンちゃんのエピソードは強く心に残る。メガネくんの「オワリくん」が眼鏡っ娘エンちゃんのことを大好きなのだが、クラスメイトにそれをからかわれて、エンちゃんはつい憎まれ口を叩いてしまう。

097_04

097_05この「メガネをかけてる人はイヤよ」というセリフは、本当に衝撃的だ。あなたこそメガネじゃないかと即座にツッコミを入れたくなるわけだが、もちろん作中でもツッコまれている。このセリフにショックを受けたオワリくんは、自らメガネを壊してしまう。メガネを壊すことは、自らの目を潰すことの象徴である。オワリくんがどれほどのショックを受けたか。眼鏡っ娘から「メガネをかけてる人はイヤよ」なんて言われてたら、私でも自ら眼を潰してしまいそうだ。
しかしエンちゃんは反省して、オワリくんに謝罪する。そのときに自作の「メガネケース」を作ってプレゼントするところが素晴らしい。眼鏡っ娘から自作のメガネケースをプレゼントされた日には、昇天確実だ。メガネケースとは、眼鏡を包むものだ。自分の意志の分身である眼鏡を「包まれる」となれば、フロイトならずともその性的な意味を想起せざるを得ない。右に引用したプレゼントの場面を見ていただきたい。オワリくんは、もはや絶頂している。こうして二人は、眼鏡と眼鏡のナイスカップルになるのだった。

もうひとつ、吉田まゆみ眼鏡の具体的な例を見てみよう。「からふるSTORY」と、その続編「ぐりーん・かれんだあ」に登場する眼鏡っ娘エミちゃんのエピソードは、本当に素晴らしい。まずエミちゃんはショートカットで一人称が「ボク」のボーイッシュな眼鏡っ娘だ。この眼鏡っ娘がメインヒロインの兄と付き合っているのだが、この兄もメガネくん。ここでもやはりメガネくんと眼鏡っ娘のカップルなのだ。
「からふるSTORY」では、まずメインヒロインの視力が低下するエピソードが描かれる。ここでヒロインは眼鏡をかけるのを嫌がるのだが、メガネくんのお兄さんは、「おれ……メガネかけてる子すきだぜ」と言う。

097_01

097_02このお兄さん、どこからどうみても完璧なメガネスキーだ。そして実際にお兄さんが家に連れてきて紹介した彼女が、眼鏡っ娘のエミちゃんだった。最初は眼鏡っ娘を受け入れることができなかった主人公だが、眼鏡っ娘の心温かさに触れて、お兄さんとの交際を認めるようになっていく。
続編では、エミちゃんとお兄さんの「キス」が話題となる。ヒロインは「おにいちゃんとのキス、メガネはじゃまにならなかったの?」と興味津々でエミちゃんに質問する。それに対するエミちゃんの答えがすごい。「じつをいうとカチッとぶつかりまして、以来……」と言って、唇を抑える。エロい。そして、キスのときに眼鏡と眼鏡カチッとぶつかって以来、いったいどうなったかは作中では何も描かれない。読者の想像にお任せという形になっている。となれば、キスをするときに一度カチッと眼鏡と眼鏡がぶつかってから、それ以来、キスするときは必ず眼鏡と眼鏡をぶつけているとしか思えないではないか!

097_03

キスのときに眼鏡と眼鏡がぶつかることをエピソードにしているのは、竹本泉「アップルパラダイス」や岸虎次郎「マルスのキス」など眼鏡名作に多いわけだが、この眼鏡同士の接触を最初にエピソードにしたのは管見の限り吉田まゆみが最も早い。いかに吉田まゆみが眼鏡に対して意識的だったかが分かろうというものだ。

吉田まゆみはこのような眼鏡エピソードを、1970年代後半に立て続けに発表している。この時期は、集英社『りぼん』では乙女ちっくが大流行し、田渕由美子が「乙女ちっく眼鏡っ娘・起承転結構造」を集大成した時期と完全に一致する。しかし吉田まゆみは、それとは異なる様式の眼鏡を描き続けた。それは1978・79・80年に立て続けに発表された作品の表紙イラストに象徴的に示されている。

097_06

78年「センチメンタル」、79年「れもん白書」、80年「ボーイハント」は、そのすべてにおいて表紙に複数の女の子が描かれ、そしてそのうちの一人が眼鏡っ娘だ。作品の中身も、「主要登場人物が3人以上いるときに、そのうち一人が眼鏡」という様式を採用している。これは柊あおい「星の瞳のシルエット」やCLAMP「魔法騎士レイアース」において見られる形式であることは既に指摘してきた。吉田まゆみは、りぼんで「乙女ちっく起承転結構造」が完成に向かう傍らで、実はこの「眼鏡っ娘有機体構造」を独自に展開させていたのだ。
このように吉田まゆみが70年代後半から「眼鏡っ娘有機体構造」を発展させていたことを踏まえて、初めて1984年「アイドルを探せ」の構造を見通すことが可能となる。「乙女ちっく起承転結構造」が近代的自我の物語である一方、「眼鏡っ娘有機体構造」はポストモダンの性格を色濃く示している。ポストモダンでは、近代的自我を必要とせずにシステムが自動進行する。主人公の自我がカラッポであっても、キャラクターの役割分担とシステム配置を適切に設計すれば、自動的に物語が紡ぎだされていく(ポストモダン概念でいうところの、オートポイエシスだ)。吉田まゆみ1970年代後半から試みていたのは、近代的自我を中核とする「眼鏡っ娘起承転結構造」とはまったく異なる眼鏡構造である「眼鏡っ娘有機体構造」だったのだ。「アイドルを探せ」のメインヒロインがカラッポであることは、ポストモダンと近代的自我の関係において理解するべき事態なのだ。
しかし一方で思い返してみれば、柊あおい「星の瞳のシルエット」のメインヒロインがちょっと顔がカワイイだけの極めてつまらない女であることと、吉田まゆみ「アイドルを探せ」のメインヒロインがちょっと顔がかわいいだけの極めてつまらない女であることは、両作が同じ構造であることを示している。そして「星の瞳のシルエット」が最終的には眼鏡っ娘の物語であったのと同様、「アイドルを探せ」は最終的に眼鏡っ娘の物語であった。ポストモダンが近代的自我を排除しようと、眼鏡は眼鏡そのものの力(見る意志)によって、物語を引き寄せているのだ。

■書誌情報

電子書籍で読むことができる作品が多い。また、脇筋でメガネくんと眼鏡っ娘がカップルになるのは、講談社『キャンディ・キャンディ』の伝統として理解するべき事態かどうか、検討事項だ。

Kindle版:吉田まゆみ『おはようポニーテール』
単行本:吉田まゆみ『からふるSTORY』(フレンドKC)
単行本:吉田まゆみ『センチメンタル』(MiMiKC)
Kindle版:吉田まゆみ『れもん白書』(1)
Kindle版:吉田まゆみ『ボーイハント』

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第77回:鳥山明「Dr.スランプ」

鳥山明「Dr.スランプ」

集英社『週刊少年ジャンプ』1980年5・6合併号~84年39号

言わずと知れた、日本を代表する眼鏡っ娘マンガだ。仮にこの作品が無かったとしたら、日本の眼鏡文化は10年遅れたのではないか。想像するだに恐ろしい。特に1980年代は全体的に眼鏡に厳しい時代だった。80年代が眼鏡にとって最悪の暗黒期だったことは、コミケのサークルカット調査の結果から客観的にわかる。この暗黒期にあってアラレちゃんの眼鏡が燦然と輝いてくれたことは、いくら感謝してもしたりない。現在でもCMキャラクターに起用されたり、「アラレちゃん眼鏡」という言葉が普通に流通するなど、35年経ってもパワーは衰えない。
そんな国民的眼鏡作品の中身については改めて触れる必要がないので、論点を4つに絞って通覧する。まず一つ目は、「アラレちゃんが眼鏡をかけた理由」について。これについては芸人のキングコング西野が根拠のないデマを垂れ流してしまったので、事実を認識しておく必要がある。

077_01

077_02アラレちゃんが眼鏡をかけるのは、第一話冒頭。世界が輝いた決定的瞬間だ。しかし作者の鳥山明本人の弁によれば、アラレちゃんの眼鏡はすぐに外される予定だった。この事情については単行本16巻に明記されている。それによれば、アラレちゃんに眼鏡かけさせたのは、「ロボットが近眼だったらおもしろいかな~というほんのギャグのつもり」ということだ。本人が「マジメにかたる」としたうえで言明された内容なので、韜晦とは考えにくい。
アラレちゃんの眼鏡に深い理由がなかったことを、残念に思うべきだろうか? 私はそうは思わない。むしろ重要なのは、「いつのまにかトレードマークになってしまい、メガネをはずすきっかけをうしなってしまった」という証言だ。これは眼鏡そのものに「力」があり、作者の思惑を超えて眼鏡が作品を支配したことを示している。鳥山明という代替の効かない才能の元に眼鏡が降りてきて、それを世界が承認したという事実。これをしっかり踏まえておきたい。アラレちゃんが眼鏡をかけたことは、キンコン西野が言うような技術論で済ませるべき問題ではなく、「運命」の相の元で理解すべき事態なのだ。

ところで、ここで鳥山明は「ホントはメガネをかくのはわりとめんどくさい」と言っているが、この言葉は額面通り受け取ってよいものだろうか? これについても、作者本人の弁とは別に、作品そのものから考えておく必要がある。2つ目の論点は、メガネを描くということについて。きちんと「Dr.スランプ」という作品を読めば、アラレちゃん以外にも大量にメガネキャラ、あるいはサングラスキャラが登場していることがわかる。「めんどくさい」という言葉が信じられないほど、大量に眼鏡が描かれているのだ。たとえば、単なるモブキャラとして眼鏡っ娘が登場する場面を一瞥してみよう。

077_08

077_09

この2つのシーンは、もしも本当に「めんどくさい」のだったら、眼鏡なしで描かれるだろうシーンだ。しかし事実は、眼鏡をかける必要のないモブキャラが、しっかり眼鏡をかけている。これは、作者が眼鏡を描くことが好きだとでも考えない限り、説明がつかない。思い返してみれば、鳥山明の魅力の一つは、細部まで描きこまれたメカ類にある。本当に描くのが「めんどくさい」のなら、そもそもここまで細かいギミックにこだわる必要がないだろう。メカ類の描写を見る限り、作者は「めんどくさい」ことが好きとしか考えられない。「Dr.スランプ」に見られる大量の眼鏡描写は、細部までこだわったメカ描写を踏まえた上で理解する必要があるだろう。

しかしそんなに大量にある眼鏡描写のなかで、やはりアラレちゃんの眼鏡だけは特別な位置を占める。3つめの論点は、アラレちゃん眼鏡の特権性について。それは、眼鏡が割れるか割れないかに顕著に示されている。アラレちゃん以外のキャラの眼鏡は割れるが、アラレちゃんの眼鏡だけは割れないのだ。まず脇役の眼鏡が割れる様子を見てみよう。

077_06

驚いたときに眼が飛び出るというマンガ的描写があるが。このとき、眼鏡やサングラスをかけていたキャラは、眼鏡を突き破って目が飛び出る。しかし、アラレちゃんだけは、眼が飛び出ても眼鏡が割れないのだ。

077_07

やはり、アラレちゃんの眼鏡はすごいのだ。

そしてそのスゴさは、「眼鏡を外すと天罰が下る」というところに顕著に示されている。作中でアラレちゃんの眼鏡を外そうとしたのは、あかねとマシリトの二人だけだが、二人ともこっぴどく酷い目に遭っている。特に、意識的にアラレちゃんの眼鏡を外そうとしたただ一人の男であるマシリトが、同時に作中で死亡した唯一のキャラクターであることを考えれば、眼鏡っ娘の眼鏡を外すことは明らかに「死亡フラグ」なのだ。

077_10

そして本作が決定的に重要なのは、作中で「メガネっこ」という単語を使用しているところだ。第四の論点は、「眼鏡っ娘」という言葉そのものについて。実は作中で「メガネっ子」という言葉が出てくるのは、2か所しかない。

077_03

077_04警察屋さんは、他の箇所では「ほよよっ子」などと言っている。とはいえ、広く読まれた国民的マンガに「メガネっこ」という言葉が登場したことは、極めて重要な事実だ。言葉ができることによって、概念が定着する。「メガネっこ」という言葉が示されることによって、潜在的な意識が覚醒する契機が生まれる。ちなみにコミケサークルカットに「眼鏡っ娘」という単語が登場したのは1984年のこと(「超時空世紀オーガス」のリーアに対して)であり、もちろんアラレちゃんがテレビアニメとしても広く認知された後のことだ。厳密に考えようとするなら、1979年に西谷祥子が「サラダっ娘」という作品を発表していたり、「島っ子」(ちばてつや)や「はみだしっ子」(三原順)という例があることを考え合わせる必要がある。「メガネっこ」という表現が鳥山明オリジナルかどうかについては確定事項ではない。とはいえ、「メガネっこ」という言葉が、本作によって広く認知されたのは間違いない。

以上、4つの論点からアラレちゃん眼鏡について見てきたが、まだまだ考えるべきことが多いことがわかる。いつになっても、眼鏡っ娘の原点として立ち返るべき傑作だ。

■書誌情報

077_05単行本でも手に入るし、文庫版もある。

単行本全18巻:鳥山明『DR.スランプ』(ジャンプコミックス)
文庫版全9巻:鳥山明『Dr.スランプ』(集英社文庫)

 

 

 

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第62回:耕野裕子「ほんの少し抵抗」

耕野裕子「ほんの少し抵抗」

集英社『ぶ~け』1980年11月号

062_01「少女マンガの王道は、眼鏡のまま幸せになる」と訴え続けて、早10年。残念ながら世間ではまだまだ「少女マンガでは眼鏡を外すと美人」という誤った信念がまかり通っているので、本物の少女マンガの実例をたくさん挙げていきたい。

本作のヒロイン眼鏡っ娘は、密かに軽音部の斉藤くんのことが好き。でも、チビでニキビで跳ねっ毛で眼鏡という自分の容姿に劣等感を持っていて、告白なんかできっこない。そこで、唯一自分の意志で外すことのできる眼鏡を外してみようとする。この眼鏡を外したときの、どうしようもなく情けない姿の描写が素晴らしい。眼鏡っ娘は近眼で前が見えないので、フラフラしているうちに、斉藤くんとぶつかってしまう。斉藤くんが「メガネどうしたんだよメガネ」と抗議すると、眼鏡っ娘は「抵抗だったのよ」と言う。斉藤くんが、このセリフをスルーせず、眼鏡っ娘の曇った表情を見てしっかり「?」と気が付いているのが、さすが少女マンガのヒーローだ。

062_02眼鏡っ娘がぶつかったせいで遅刻してしまった二人は、居残りで宿題をすることになる。教室に二人きりになったときに、斉藤君は「抵抗って何の事」と聞く。最初はとぼける眼鏡っ娘だったが、「容姿への抵抗」と白状する。「わたしの容姿におけるあらゆる欠点の中で唯一自分の力をもって対抗しうるメガネをとるという行動」ということらしく、うだうだと言い訳を続ける。が、斉藤くんは「くっだらん」と一蹴するのだ。
さて、ここからの斉藤くんの一連の言動が、究極に男前だ。男のなかの男だ。我々も、斉藤くんにならって、眼鏡を外そうとする女子には、ぜひこう言わなければならない。「メガネしてるから、あんたなんだろうが」と。くあああぁぁ、カッコいい! これこそ少女マンガのヒーロー! さらに畳み掛けるように、「それとったらあんたじゃないって事だろ」と続ける。すげえ!一生のうちに一回は言ってみてえぇぇ!
そしてそのあとのやりとりが、決定的だ。この斉藤くんの精神を、ぜひとも世界中に広めたい。

062_03

眼鏡っ娘は「そんな事いっても、男の人だって、女の子は顔がいいのやメガネしてないのがいいっていうじゃない!」と反論する。が、斉藤くんはクールに「それは人間のできてない男のいうセリフ」と諭す。これだ。これが世界の真理だ。眼鏡を外そうとする奴は、例外なく人間ができていないのだ!

耕野裕子は、80年代から90年代にかけて集英社『ぶ~け』のエースとして活躍。青春の甘酸っぱい一瞬を切り取って、繊細なセリフに乗せて表現するのが上手い。若いゆえに視野が狭く、だからこそ同時に純粋な人物たちの、傷つきやすく壊れやすい心の葛藤と成長を、胸が締め付けられるようなエピソードで描いていく。たいへん優れた青春作家だ。本作はまだ青春作家として花開く前の作品ではあるが、「人間というものの本質」に迫ろうという意志は各所に見える。人間の本質を描こうとする作家が、眼鏡っ娘の眼鏡を外すわけがないのだ。眼鏡っ娘の眼鏡を外すのは、「人間のできてない」マンガ家だ。

■書誌情報

本作は30頁の短編。単行本『はいTime』に収録。Amazonを見たら古本にひどいプレミアがついてたけど、古本屋を回れば200円で手に入ると思う。

単行本:耕野裕子『はいTime』(ぶ~けコミックス、1983年)

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第11回:太刀掛秀子「まりの君の声が」

太刀掛秀子「まりの君の声が」

集英社『りぼん』1980年4月号~12月号

011_01

とにかく絵がかわいい。太刀掛秀子の描く眼鏡っ娘は、可憐だ。一昨年開催したメガネっ娘居酒屋「委員長」に中村博文氏が出演したが、そのときに太刀掛秀子の絵が好きで、練習のお手本にしたと伺った。言われてみれば、確かに髪の毛や植物の繊細な描線やコマ割りなどの画面構成に面影があるような気がしてくる。70年代少女マンガの集大成とでもいえるような繊細かつ華やかな表現技術、特に絶品の眼鏡描写技術の素晴らしさは、今見ても色あせていない。

011_02本作ヒロインの眼鏡っ娘、西崎まりのは、大学生。あたたかく魅力的な声を持つまりのは、人形劇の世界に魅せられていた。メガネくんの部長と一緒に、大学の人形劇サークルで子供たちのために公演を続ける。そんなまりのに次第に惹きつけられていく主人公のよしみ君だったが……。

1970年代後半から80年ごろまで、集英社『りぼん』誌上を「乙女ちっく」が席巻する。特に「乙女ちっく」の中心にいたのが、陸奥A子、田渕由美子、太刀掛秀子の3人だった。特に眼鏡っ娘の歴史を考えたとき、りぼん「乙女ちっく」は決定的な役割を果たしている。本コラムでも「乙女ちっく」の意義については繰り返し言及することになるだろう。
本作は、「乙女ちっく」が成熟し、作画技術が一つの極点に達したところで描かれている。眼鏡っ娘をヒロインとして9か月間連載されるという、『りぼん』誌上に燦然と輝く眼鏡っ娘マンガの代表作と言ってよいだろう。

011_03しかし同じ「乙女チック」といっても、作風はまったく異なる。陸奥A子は超ポジティブ能天気、田渕由美子は近代的自我の萌芽、太刀掛秀子は繊細シリアス。この作品も、キャラクターの内的な葛藤を繊細に描ききることで、読んでいる最中に身悶えしてしまうような作品に仕上がっている。

そんなわけで、すかっとした娯楽を求めている人には太刀掛秀子作品はお勧めしにくいのだが、キャラクターの葛藤に付き合って一緒に泣いたり笑ったり、じっくり作品を読もうという人には、ぜひ手に取ってほしい作品だ。

■書誌情報

単行本は全2巻。現在、単行本は手に入りにくいが、文庫版(全1巻)はおそらく容易に手に入る。

文庫版:太刀掛秀子『まりのきみの声が』 (集英社文庫)

■広告■


■広告■