山本夜羽「めがこん」
ぶんか社『アクション2』1997年Vol.4
念のために前もって注意しておくと、これはメガネスキーにとっては相当に危険な作品だ。不意を衝かれると魂に直接ダメージを喰らうので、あまり安易にはお勧めできない。とはいえ、メガネ史に名が刻まれるべき作品であることにも間違いないという、要するに厄介なやつだ。
ヒロインの水戸いずみは、眼鏡屋で働く眼鏡っ娘。合コンで知り合って付き合うことになった高遠さんは、一流商社に勤める超エリート。が、この男は極度のメガネフェチだったのだ!
本作の見どころは、まずこのメガネスキーが眼鏡キャラについて縦横に語り尽くすところにある。眼鏡の外面的なビジュアルではなく、眼鏡をかけるキャラクターの内面について語っているところが、それまでの作品には見られない大きな特徴だ。本作が発表された1997年時点は、オタク界でようやく眼鏡萌えが浮上し始めた段階だったが、眼鏡萌えの原理的考察はまったく進んでおらず、極めて乱暴でいい加減な論考がまかり通っていた時期だった。まだ学生だった私も、当時の雑で表面的で乱暴で短絡的な眼鏡解釈を見るたびに心を痛めていたのだったが、本作の眼鏡論に触れた時には「まさにコレだ!」と鮮烈な印象を受けた。後で知ることになるが、作者山本夜羽が少女マンガの眼鏡に対して確かな見識を持っていたことが、共感の基盤になっていたようだ。
が、その共感はワナだった。読み進めていくと、我々メガネスキーが必然的にぶち当たらざるを得ない、あの難問が待ち受けているのだった。我々は眼鏡をかけた女なら誰でもいいのか? 目の前の一人の女をちゃんと人間として扱っているのか? という、例の実存的アポリアだ。この難問から逃れずに、真正面からぶち当たり、真剣かつ個性的な回答を示した作品は、実は極めて少ない。というか、その問題に行き当たること自体が、極めて少ない。とことんまで眼鏡を突き詰めた者でなければ、その扉の前にすら立てないのだ。西川魯介や小野寺浩二がド真ん中をブチ抜いて行ったこの難問に、そしてまた本作も、逃げずに体当たりした。導き出された結論は、いま読むと、作者の真摯な姿勢をストレートに反映したものだと分かる。
が、当時は私も若かった。あまりの結末に呆然自失、ジャケ買いした単行本を床に叩きつけた。それから数年後に作者御本人から連絡をいただくことになるとは思いもよらず、単行本はしばらく本棚の肥やしになった。
まあ、いまになって考えれば。「否定」というものには大雑把に二種類ある。相手を叩き潰すための闘争的否定と、成長に必要な弁証法的否定とでは、同じ否定であっても、その働きはまるで異なる。我々が成長し発達するためには、その都度自分の殻を中から壊していかなければならない。殻は、外から壊してはいけない。内側から、自分の力で壊さなければ、真の成長はない。真剣な矛盾と葛藤の過程で自分を自分で「否定」できたときに、初めて真の成長が可能となる。今になってみれば、「めがこん」で示された否定とは、我々自身の成長の過程で必然的に生じる弁証法的否定であると、はっきり理解できる。そしてその姿勢は、本作のみならず、山本夜羽の作品や発言すべてに通じるものでもある。
だから彼は誤解されやすいし、それは本人のせいでもあるので同情の余地は少ないのだけれど、他に代わる人がいないから、今後も面倒なことを全部引き受けてもらえると、たぶんみんなが助かるのだった。
■書誌情報
単行本:山本夜羽『Justice & peace spirits』(BUNKA COMICS、1998年)に所収。「めがこん」以外にも眼鏡っ娘マンガが多数収録されている。念のために言っておくと、どれもキッツイので、本物のメガネスキーほど覚悟が必要。
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