この眼鏡っ娘マンガがすごい!第116回:森薫「エマ」

森薫「エマ」

エンターブレイン『コミックビーム』2002年1月~08年3月

言わずと知れた国民的メガネメイドマンガだ。メイドについてはその筋の人々にお任せして、眼鏡描写の素晴らしさについて確認しよう。

まず訴えたいのは、第2話のサブタイトルが「眼鏡」になっているという事実だ。眼鏡っ娘に一目惚れした主人公のウィリアム・ジョーンズは、新しい眼鏡をプレゼントしようという行動に打って出る。

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鳥は飛んでるし、猫は歩いているし、子供も転んでいるから、眼鏡っ娘に眼鏡をプレゼントすることに全く問題ないのである。我々もどんどん眼鏡っ娘に眼鏡をプレゼントしていこう。
この回では、エマが初めて眼鏡をかけたときの回想シーンも描かれている。この描写が実に素晴らしい。

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眼鏡をかけたときの素直な感動が瑞々しく表現されている。一人の眼鏡っ娘が誕生した瞬間に立ち会えた我々も、大満足。
このシーンを見てもわかるように、本作の特徴は、セリフでの説明を極力排し、絵による表現にこだわっているところにある。この「絵による表現」への徹底は、眼鏡描写にも極めて大きな威力を発揮している。

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眼鏡をかけてスイッチ・オンする描写では、言葉による一切の説明を排除している。だからこそ、メガネ・オンの決定的な素晴らしさが、まさに問答無用で示されている。
そして、眼鏡プレゼント+絵による眼鏡描写が素晴らしくミックスされたシーンが、単行本7巻にある。割れてしまったレンズを新しいものに取り替えるシーンだ。割れたレンズを新調するということは、言うまでもないことではあるが、ギクシャクしていた二人の関係が修復され、希望に満ちた新しいビジョンが与えられることの象徴である。

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セリフがないのに、この描写の説得力。眼鏡というものが希望と幸福をもたらすアイテムであることがしっかりと伝わってくる。

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ああ、もう、かわいなあ!!
眼鏡によって世界が変わったことが、極めて高い説得力を持って描かれている。また、二人が出会って直後の第2話では眼鏡プレゼントが実現しなかったのに対して、フィナーレに向かう重要な場面で眼鏡プレゼントが実現したということで、眼鏡というアイテムの扱いが二人の距離を暗示していることがわかる。

そして本作が不朽の名作であることを決定的に示したのは、フィナーレ、二人の結婚式の描写である。

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ウェディング・ドレスに、眼鏡。あの小野寺浩二ですら成し遂げられなかった眼鏡de結婚式を、ウィリアム・ジョーンズは実現したのだ。右下のコマで、ウィリアムがエマを振り返って誇らしげな表情を浮かべているが。「おれは眼鏡de結婚式を成し遂げたぜ!」と思っているような、誇らしげな表情だ。
最初は一目惚れした眼鏡っ娘に眼鏡をプレゼントしようとしていた男が、最後には眼鏡っ娘と眼鏡のまま結婚式。これぞ男の本懐。眼鏡で始まり、眼鏡で終わる。徹頭徹尾、眼鏡の素晴らしさを前面に打ち出してくれる、素晴らしい作品である。全国民の共通教養としたい。

■書誌情報

単行本全10巻完結。電子書籍で読むこともできる。7巻で本編が完結、8~10巻は外伝。19世紀末のイギリスを解説した副読本も情報満載で面白い。眼鏡を解説した項目など、勉強になった。しかしこの作品がジョジョ第一部と同じ時代を扱っていることを考えると、なかなか趣深い。もしもエマさんがジョースター家のメイドだったら。キスするときに「ズキューン」てオノマトペになるのか。

単行本全10巻完結セット:森薫『エマ』エンターブレイン、2002-08年
副読本:森薫・村上リコ『エマ ヴィクトリアンガイド』エンターブレイン、2003年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第115回:水寺葛「10ミニッツメイド」

水寺葛「10ミニッツメイド」

講談社『ITAN』2013年15号~15年25号

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「10ミニッツメイド」という缶飲料があって(表紙でメイドさんがお盆に載せてるね)、ふたを開けるとメイドさんが登場、10分間だけ命じたことをなんでもやってくれる。毎回「ぼわーん」と出てくる。

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10ミニッツメイドさん、過度な装飾を廃したストイックなメイド服。ものすごい三白眼。眼鏡がとても似合ってる。

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そして超有能。あらゆることをテキパキとこなす姿が美しい。これぞ眼鏡メイド。

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というわけで、有能な眼鏡メイドさんが、毎回違うご主人様の元に現れて10分だけ活躍する、オムニバス作品。そして毎回たかだか10分間の活動時間で、しかも基本的に家事をこなすだけなのに、いや、おそらくそれだからこそ、人間性の本質を浮き彫りにする。ものすごく感動するとか号泣するとかいう類の作品ではないけれど、それまで気にもとめなかった大切なことに気づかせてくれる、そういう繊細で温かいエピソードが集まった作品だ。読後、とても穏やかで清々しい気持ちになれる。

で、こんないい話を描く作家さんを知らないとは不勉強だと反省して、ネットで調べたら、どうやらコミティアではよく知られている方らしい。コミティアには行かないから、知らなかった。反省。そして、だ。さらに調べたところ、別のペンネームで活躍されていたことを知って、思わず「!!!」となった。変わる前のペンネーム、水人蔦楽は記憶にインプットしていたからだ。というのも、素晴らしい眼鏡っ娘マンガなのにも関わらず、なかなか単行本が出ず、仕方ないから掲載雑誌から切り取って保存している作品を描いていたのが、まさにこの作家さんだったのだ。

水人蔦楽「犬とアイドルと」講談社『Theフレンド』1999年早春号
水人蔦楽「バランス」講談社『Theデザート』2000年夏休みスペシャル

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115_0899年の「犬とアイドルと」、2000年の「バランス」は、他に類のない、不思議な印象を受ける眼鏡っ娘マンガだ。どちらの作品も眼鏡っ娘が主人公で、それぞれ性格は全く違うけれど、両方ともどこか世の中を突き放して見ている感じが、共通して不思議な読後感をもたらす。とても眼鏡っ娘にふさわしい空気感だ。ということで、水人蔦楽の単行本が出るのを待ち遠しく思いつつ、一時の保険のつもりで雑誌を切り抜いて15年。さすがにちょっと忘れかけた頃に、眼鏡っ娘マンガ「10ミニッツメイド」と出会い、「!」と思ってダンボールをひっくりかえし、切り抜きを取り出してきたというわけだ。いやほんと、とっておいて良かった。「犬とアイドルと」のほうは、インクが紙の裏に染み込んできて読みにくくなっちゃってるから、パソコンにとりこんで綺麗にしておこっと。

■書誌情報

「10ミニッツメイド」は同名単行本全1巻。電子書籍で読むこともできる。続きも「ITAN WEB」で描かれている。「犬とアイドルと」と「バランス」は、残念なことに単行本未収録。頼むから、単行本だしてくれ~。眼鏡っ娘マンガだけでもいいから!
と言いつつ、眼鏡っ娘マンガじゃないデビュー作も、衝撃的だったから切り抜いて保存してある。少女マンガ誌で民族問題に取り組んだ作品を見るとは思わなかった。かなり衝撃を受けたメガネ君マンガだ。単行本になってないのが、本当にもったいない。

単行本、Kindle版:水寺葛『10ミニッツメイド』講談社、2015年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第114回:石渡治「LOVe」

石渡治「LOVe」

小学館『週刊少年サンデー』1993年35・36号~99年10号

少年マンガ誌の眼鏡っ娘は、21世紀に入ってからは見かける機会が増えてきたが、20世紀には大変な希少種だった。いちおう集英社では『Dr.スランプ』の他に桂正和作品や北条司作品のゲストキャラ等、なかなか素晴らしい眼鏡っ娘を散見することができるが、20世紀のサンデーは、御大のあだち充と高橋留美子が眼鏡っ娘をほとんど描かなかったことから、砂漠地帯と化していた。その中で一人気を吐いていたのが、石渡治である。『パスポート・ブルー』でも眼鏡っ娘が活躍するが、やはりなんと言っても「LOVe」が、質・量、共に素晴らしく、砂漠化したサンデーの中で貴重なオアシスとなっていた。

まず登場眼鏡っ娘キャラの数が、極めて多い。主要登場女性キャラの半分が眼鏡じゃないだろうか。まず冒頭で登場するのが、森岡真理。主人公の高樹愛(愛称ラブ)にテニスの手ほどきをする重要な役割を果たす。

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続いて、ラブが小笠原から本土に渡ったときに最大の味方になってくれるテニス部の副顧問、林村緑子(愛称ドリさん)。ドリさんは最後の最後までずっとラブの味方として重要な役割を果たす。

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このドリさんの強烈な存在感が、単行本6巻の表紙に現れている。全30巻の『LOVe』の中で、ドリさんが表紙を飾ったこの6巻だけ異彩を放っている。

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立体ですよ。眼鏡もしっかり作ってある。主人公のラブやライバルの洋平ですら立体化されなかったのに、なぜかドリさんだけ立体化された理由は、やはり眼鏡以外には考えられない。
さらに続いて、マキノ先輩の恋人ユカさん。

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ショートカットの眼鏡っ娘、かわいいのう。メガネくんと眼鏡っ娘のナイスカップルですよ。ちなみにこのマンガ、なかなかハイレベルなメガネくんも大量に登場する。
そして凄いことに、主人公のラブが、単行本21巻から眼鏡をかけはじめる。残念ながら変装用のダテメガネではあるが、作者はなんとか理由をつけてヒロインに眼鏡をかけさせたかったのだろう。

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その証拠に、背表紙のラブの顔が、単行本21巻から28巻まで眼鏡っ娘になる。わざわざ眼鏡のラブを描きたかったのである。
そして、インターハイのときの宿泊先の娘、ちなみちゃん。

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登場時からドジっ娘めがねである。この脇役に見えたドジ眼鏡っ娘が物語の最後の扉を開く重要な役割を果たすとは、誰も想像しなかっただろう。

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「パスポート・ブルー」でも見られるが、眼鏡っ娘をイジメてやろうという作者の裏返った愛情が見られる描写だ。とてもいい表情を描く。
そしてもう一人、実在した女子テニスプレイヤーのビリー・ジーン・キングは、物語のライトモチーフになっている。

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体格で劣る女子選手がテニスで男子に勝つ。そんな夢のようなことを実際に成し遂げたのが眼鏡女子だったという厳然たる事実。途中でラブが眼鏡っ娘になるのは、作中では変装と言い訳されていたものの、眼鏡っ娘こそが世界を制するという事実がそのような描写を促したはずだ。

本作は、前作「B・B」の主人公の娘が男に混じってテニスをするという話である。なぜ「B・B」はボクシングだったのに、「LOVe」はテニスなのか。ここまでくれば、理由は明らかだ。ボクシングは眼鏡をかけたままではできないが、テニスなら眼鏡をかけたままできるのだ。眼鏡を描くために、本作はテニスマンガになったのである。眼鏡っ娘全員がショートカットであることの意味については、敢えて考察しない。

単行本全30巻。
24巻の表紙は、眼鏡っ娘ラブの背後にさわやかメガネくん。そしてその背後に僧職系メガネくんというメガネぶり。神父メガネくん、さわやかメガネくん、僧職メガネくん、情報屋メガネくん、ラスボス系メガネくんなど、多彩なメガネくんのバリエーションにも注目だ。
全巻電子書籍で読むことができる。

Kindle版:石渡治『LOVe』(1-25)
Kindle版:石渡治『LOVe』(26-30)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第113回:こがわみさき「魅惑のビーム」

こがわみさき「魅惑のビーム」

ENIX『月刊ステンシル』1999年冬号

眼鏡を単なる視力補正器具ではなく、「思想」として見せてくれる作品だ。といっても堅苦しいストーリーではない。絵も可愛いし、話もわかりやすい。が、読み込んでいくと、深い。眼鏡傑作のひとつだ。

ヒロインは、演劇部の部長を務める高梨さん。クールビューティ。眼鏡っ娘に惚れ込んでいる男が亀田くん。しかしスタート時点での亀田くんは、高梨さんが眼鏡を外したところを見たいなどと思っているスカポンタンである。

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「メガネなしの高梨サンが見てみたーい」と叫ぶスカポンタン亀田。ここで注意したいのは、ここまでの亀田が一方的に高梨さんを「見る」ことを意志している点だ。

しかし、そんなスカポンタンな亀田くんの認識が次々と変化していく。それが本作の見所だ。まず印象的なのが、グラス越しに高梨さんを見たときの亀田くんの表情。世界を認識するフレーム自体が更新されたような驚きの表情を浮かべている。

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このときの亀田くんのモノローグ、「俺は高梨さんの半分しか見えてないのかもしれない」という言葉は、示唆深い。これまでは一方的に高梨さんを「見る」ことに情熱を傾けてきた亀田くんが、ここで初めて「高梨さんが見る」ということを意識している。高梨さんが単に「見られる対象」ではなく、「見る主体」であることを初めてしっかり認識したのだ。双方向的なコミュニケーションというものは、ここがスタート地点だ。

そしてある日、体育の時間に高梨さんがコケて、眼鏡が割れてしまう。それを校舎から見ていた亀田くんは、念願の眼鏡を外した高梨さんの顔を見ることができた。しかし、亀田くんはまったく嬉しくない。亀田くんは思う、「こんな場面を見たかったわけじゃない」。そして「ゴメンなさい 高梨さんのメガネ」と続ける。眼鏡を含めて高梨さんが高梨さんであったことに、ようやく気がついたのだ。

そして演劇部の最後のステージが終わり、亀田くんと高梨さんが二人。

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本作のキーワードの一つが「フィルタ」だ。高梨さんが「みんなとの間に一枚フィルタを挟んでいる」かのように見えること、ガラス越しに見る高梨さんの姿が「フィルタ」を挟んでいるような感じがすること、そして「言葉にもフィルタがあるんだ」と気がつくこと。その「フィルタ」というもの全てのイメージが眼鏡に集約される。そして割れた眼鏡にテープを貼って、微笑む高梨さん。

ややもすれば、「フィルタ」とか「バイアス」とか「ポジション・トーク」とか、何らかの「偏向」を感じさせる認識を断罪して、なんの偏りもない「純粋な認識」を持つことを他人に押しつけるような風潮が一部にある現在。しかし、何の偏りもない純粋な認識などというものが可能なのかどうか。高梨くんは「言葉にもフィルタがあるんだ」と気がついたが、実を言えば言葉は「フィルタ」そのものだ。混沌とした摩訶不思議な現実を、人間の脳みそに理解可能なように濾過してくれるのが「言葉」というものの役割だ。「言葉というフィルタ」がなければ、そもそも人間は現実を認識することができない。
そして本作の眼鏡は、世界を認識する「フィルタ」の象徴となっている。それは最後のシーンに明らかに描かれている。

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高梨さんは、自分の眼鏡を亀田くんにかけてあげる。このときの亀田くんの驚きの表情。高梨さんが見ていた景色を共有したことによって、認識にパラダイムシフトが発生している。だから亀田くんの最後のモノローグは、「フィルタを通して初めて気が付くこともある」となっている。
あまり物事をしっかり考えない人々は、「眼鏡を外して素顔になることで、良し」とか「フィルタを外して純粋な認識になることが、良し」などと素朴に表明してしまうことがある。そんなマンガ作品もいくつかある。しかしそれは、「認識とは何か」という人間的な反省を一切排除した、野蛮で原始的な思考だ。フィルタなしで見える世界は、ただの混沌に過ぎない。フィルタが機能しているからこそ、人間は世界を分節して認識することができる。眼鏡とは、そういう「認識」の象徴である。
要するに、眼鏡を外して喜んでいるやつはスカポンタンだと声を大にして言いたい。そういうスカポンタンには、本作を読んで認識を改めていただきたい。

■書誌情報

本作は36頁の短編。同名単行本に所収。単行本の表紙も高梨さん。割れた眼鏡をメンディングテープで応急手当しているのが印象的。

単行本:こがわみさき『魅惑のビーム』ステンシルコミックス、2000年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第112回:愛本みずほ「愛がつまってる!」

愛本みずほ「愛がつまってる!」

講談社『別冊フレンド』1991年8月号

ズレ眼鏡描写が見所の作品だ。
藤村美織ちゃんは、眼鏡っ娘女子高生with三つ編み。成績優秀で風紀委員も務めており、カタブツだと思われているが、実はとても繊細で優しい女の子なのだ。

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そんな眼鏡っ娘が片思いしている相手が、宅配便のアルバイトをしている島田くん。学校では恥ずかしくて話しかけられないので、藤村さんは毎週自分で自分宛の荷物を出して、島田くんに会おうと考えたわけだ。

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そんな努力の甲斐もあって、だんだん島田くんと近づいていく眼鏡っ娘だった。この島田くんがよくできた男で、他の男子生徒が眼鏡っ娘のことを表面だけ見て誤解しているなか、しっかり人格全体を理解している。いろいろ邪魔が入ったりしてどうなるかハラハラする展開になるが、最終的に、島田くんは眼鏡っ娘のノートの字を見て、宅配便伝票の筆跡と一緒だということに気がつき、全てを察する。自分自身をお届け物として参上する島田くんもお茶目だが、島田くんの頬にハンコを押す眼鏡っ娘の行動も可愛すぎる。ここの一連の展開は、キュンキュンする。

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まあ、ストーリーそのものに眼鏡というアイテムが深く関わることはないのだが。本作で注意を引くのは、絵を見れば一瞬でわかるように、眼鏡の「ズレ具合」の可愛さだ。少女マンガでは80年代から頻繁にズレ眼鏡が描かれてきたが、本作のように太い眼鏡フレームでズレると、ズレ具体がいっそう際立つ。全体的にベタが少ない画面だから、さらに太フレームの眼鏡が光って見える。80年代に蓄積された少女マンガの眼鏡描写技法をわかりやすく鑑賞できる作品と言える。少女マンガで鍛えられたズレ眼鏡描写が90年代以降に男性向けメディアに浸食していくプロセスは、かなり重要な研究課題であるように思う。

■書誌情報

本作は39頁の短編。単行本『あしたきっとあなたに』所収。作者の眼鏡っ娘は他に3人確認しているが、みなさん可愛いズレ眼鏡。

単行本:愛本みずほ『あしたきっとあなたに』講談社、1992年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第111回:太刀掛秀子「P.M.3:15ラブ♥ポエム」

太刀掛秀子「P.M.3:15ラブ♥ポエム」

集英社『りぼん』1975年10月号

111_01少女に眼鏡をもたらす男こそが少女マンガのヒーローにふさわしい。それを教えてくれる黎明期の名作だ。

主人公のアッキは、眼鏡っ娘。眼鏡をかけた自分の容姿にまったく自信が持てない。
そんなアッキは、入学式の帰り、P.M.3:15のバスに乗っていた男の子に一目惚れ。それ以来、3:15の男の子に会いたい一心で、毎日バスに乗っていた。
ここで注意したいのは、「メガネかけた顔みられたくなくて、あわててはずしちゃった」というモノローグだ。男の子の顔は見たいのに、自分の顔は見られたくない。つまり、眼鏡をかけなければいけないのに、眼鏡をかけたくない。これが本作の基本構造だ。

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ある日、3:15のバスに乗ろうと急いでいたが、誰かにぶつかって、眼鏡がポロリとはずれてしまう。ぶつかった相手の顔は近眼でまったくわからないが、佐田修くんというらしい。
そして次の日の朝、遅刻しそうになって、走ってバスに間に合ったアッキだったが。

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佐田くんに声をかけられるが、ここでもアッキは佐田くんの顔を見ていない。必死に走ってきて、汗でレンズが曇ってしまって、眼鏡を外していたのだった。
で、もちろんアッキが一目惚れしたP.M.3:15の男の子の正体は、実は佐田修くんなのだ。しかし、佐田くんと会うときはいつも眼鏡を外していて顔をちゃんと見たことがなくて、二人が実は同一人物だったとは気がつかなかった、というわけだ。
そんなピントがズレた状態を打破するのは、もちろん眼鏡だ。
まずアッキの中で次第に佐田くんの存在が大きくなっていく。P.M.3:15の男の子は外見に対して一目惚れしただけだったが、ちゃんと眼鏡を通して顔を見たことがない佐田くんに対しては、外見など関係なく、その素直で包容力のある優しい性格を好きになっていく。だんだんどっちのことが好きなのか、わからなくなっていくアッキ。しかしある日、佐田くんがいるところで、友達にP.M.3:15の男の子のことをバラされてしまう。P.M.3:15の男の子と佐田くんが同一人物だとは夢にも思わないアッキは、秘めた想いを佐田くんに知られてしまったことに動揺し、眼鏡を部室に置いたままで飛び出してしまう。
佐田くんは、置き去りにされた眼鏡に、もちろんすぐ気がついた。次の日、佐田くんは眼鏡を持ってバス停に行く。ここからの眼鏡展開が素晴らしい。眼鏡をもたらす男こそが、真の少女マンガのヒーローということが明らかに示されるのだ。

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眼鏡を渡されたアッキは、ここで初めて眼鏡のレンズを通して佐田くんの顔を見る。

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眼鏡をかけて、初めて真実が焦点を結ぶ。実は佐田くんがP.M.3:15の男の子だったのだ!
そして佐田くんのセリフ。「メガネの中のおっきな目とさらさらの髪の毛がかわいいなって」。実は佐田くんは、メガネスキーだったのだ!
111_06ここで注意したいのは、この場面で「眼鏡で見る」ことと「眼鏡を見られる」ことが同時に実現しているという事態である。それは「ほんとうの世界を見る」ことと「ほんとうの私を見られる」ことが同時にしか成立しないことを示唆している。それまで物事がうまくいかなかった原因は、「眼鏡を見られたくない」という間違った考えから「眼鏡で見ない」という間違った行動をとってしまったことにあった。眼鏡をかけないのは、世界の真実から目を背けることであると同時に、ありのままの私を否定することである。外に対して偽ることは、同時に内に対しての偽りとなる。眼鏡をかけないことは、二重の裏切り行為なのだ。物事がうまく運ぶわけがない。そこに眼鏡をもたらし、自分自身と世界の真の姿を回復させるのが、少女マンガのヒーローの役割だ。男の中の男は、少女の眼鏡を外す馬鹿野郎ではなく、少女に眼鏡をもたらす者だ。それをこの作品は教えてくれる。

■書誌情報

本編は35頁の短編。同名単行本に所収。単行本は絶版になっており、amazonで見た限り、かなりのプレミアがついていて入手は困難かもしれない。作者の太刀掛秀子については、第11回でも扱った。非常に繊細で美しい絵を描く作家で、中村博文さんが模写を繰り返したと聞いて、妙に納得したのをよく覚えている。

単行本:太刀掛秀子『P.M.3:15ラブ♥ポエム』集英社りぼんマスコットコミックス、1976年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第110回:田丸浩史「ラブやん」

田丸浩史「ラブやん」

講談社『アフタヌーン』シーズン増刊2000年第4号~2015年7月号

ギャグマンガとして半端ないキレと言いしれぬ脱力感が混在した他に類のない魅力については各所で既に語られているので本コラムではスルーするとして、問題は眼鏡だ。眼鏡に関して、言及すべき論点が4つある。
(1)眼鏡の魅力をダイレクトに示している。
(2)眼鏡萌えの現実に革命を起こした。
(3)にも関わらず、あえてメガネ萌えを脱臼させている。
(4)「萌え」と「愛」の違いをド直球で描ききった。
以下、それぞれの論点について見ていこう。

(1)眼鏡の魅力をダイレクトに示している。
これは魅力的な眼鏡っ娘の絵を見れば問答無用一目瞭然でわかるわけだが。まず量的に言えば、単行本全22巻のうち眼鏡着用イラストが8巻を占めているという事実がすごい。眼鏡率.364というのは、ヒロインが眼鏡っ娘でないことを考えると尋常じゃない高打率だ。

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もちろん質も伴っていて、魅力的な眼鏡っ娘キャラがたくさん登場する。第1話から登場する青木萌ちゃんとか、第6話から登場する赤井みのりちゃんなど、小悪魔的な魅力を発散している。ちなみに第74話に登場した大家さんがかわいいことは、声を大にして主張したい。

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めぞん一刻的な展開にはならなかったけどな。
しかもカズフサが眼鏡っ娘萌えを前面に打ち出して様々な萌えシチュエーションを実現してくれるのが、とても楽しい。

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さすがカズフサ!おれたちにできないことを平然とやってのける、そこにシビれる!あこがれるゥ!
そして本作は、眼鏡っ娘萌えの起源についても貴重な証言を与えてくれている。
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眼鏡っ娘萌えの起源について確たる学術的定義があるわけではないが、本作で示された見解は一つの見識だろう。同時代を生きた人間にとっては、肌感覚でわかる見解だ。眼鏡っ娘萌えの歴史を考えるときに、ここで示された見識は確実な参照軸となる。(ちなみに1995~96年は西川魯介「屈折リーベ」が注目を浴びていた年である)

(2)眼鏡萌えの現実に革命を起こした。
110_03本作が極めて重要なのは、単に素晴らしい眼鏡っ娘キャラを多数世に送り出しただけでなく、眼鏡っ娘萌えの現実環境そのものを大きく展開させた点にある。具体的には、眼鏡萌えの人々が一同に集うイベント「メガネっ娘居酒屋「委員長」」の起点となっているのだ。
作中では、「メガネ喫茶委員長」という名前の喫茶店が第4話で登場する。意外なことだが、最初に登場したときは何の変哲もない普通の喫茶店として描かれており、ラブやんとみのっちが普通に作戦会議のために利用しただけだった(店員はちゃんと眼鏡っ娘)。こうして一発ギャグで終わるかと思われたメガネ喫茶委員長だったが、第6話で萌え妄想が暴走する。

 

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なんとメガネ喫茶委員長には「奥」があって、割増料金を払って踏み入ると、そこは夢のワンダーランドなのだった。このメガネ喫茶委員長ネタの破壊力自体が極めて高かった上に、投下されたタイミングも絶妙だった。2000年から2001年にかけてこれまでにないほど眼鏡圧が高まっていたのだが(第90回『妄想戦士ヤマモト』の項を参照のこと)、貯まりに貯まった燃料に点火したのが本作第6話(2002年2月)だった。炎は瞬く間にオタク界隈全体に燃え広がり、2002年9月の第1回「メガネっ娘居酒屋「委員長」」開催へと結びつく。その熱狂を文章で再現することは元より不可能なのだが、その一端はこちらに記録した。西川魯介、平野耕太、小野寺浩二、山本夜羽の誰が欠けても成立しなかった歴史展開だろうが、最後の決定打は田丸浩史によって刻まれたのだった。本作はフィクションを超えて現実のありようを大きく変化させる力を振るった点で、歴史に記憶されるべき記念碑となっている。

(3)にも関わらず、あえてメガネ萌えを脱臼させている。
しかし本作は、単なる萌えマンガではない。世間でもてはやされている「萌え」を敢えて脱臼させるようなエピソードを大量に盛り込んでいる。もちろんそれは「萌え」に対する敵意でもなければ、逆張りでもない。ギャグマンガだからこそ可能な、脱力感に溢れる描写となっている。最も典型的かつ衝撃的だったエピソードが青木萌ちゃんの「モッサモサ!!」であることには、衆目が一致するだろう。

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このように「萌え」を脱臼させる描写は、確かにギャグでもあるが、これが積み重なることによって別の効果を持ったように思う。「萌え」が客観的な実在ではなく、主観的な観念だという自覚を強める効果である。一時期、「萌え要素」の分析という形で、あたかも「萌え」が客観的な操作対象になり得るかのような幻想が広がった。しかし人工的に萌え要素を組み合わせることで「萌え」を作り出そうという試みが挫折するのに、そう時間はかからなかった。本作は明らかに最初からそのことに自覚的だった。本作が「萌え」を脱臼させながら積み重ねていったのは、それら全てがカズフサの主観によって構成されているという、身もふたもない事実であった。一つ一つの主観的な「萌え」が脱臼を繰り返した末に、カズフサの前に剥き出しの「他者」=ラブやんが現れる。図らずも、全てが最終回に向けての伏線の役割を果たしている。

(4)「萌え」と「愛」の違いをド直球で描ききった。

※以下、本作の最終回に関わる話なので、読んでいない人はネタバレ覚悟でどうぞ。

「萌え」と「愛」は、まるで違うものだ。このテーマについては、第101回『屈折リーベ』で言及したが、本作もド直球にこのテーマにぶつかった。
第155話、カズフサはラブやんの力で理想の眼鏡っ娘と楽しい時間を過ごす。だが、ここで「萌え」と「愛」の本質的な違いに気がついてしまう。

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ここでカズフサの言う「幸せな将来」とは何か?は事の本質に関わる大きな問題ではあるが(「萌え」という観念はそもそも「将来」を含まないから)、ともかくカズフサにとって「幸せな将来」と「萌え」とが無関係であることが明白に理解される。カズフサは、問題の核心に到達している。

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カズフサが思い描けなかったのは、「具体的な生活」だ。「眼鏡っ娘」が具体性を持たない抽象観念だからだ。「萌え」の対象である「眼鏡っ娘」とは、カズフサの脳内に主観的に構成された観念だ。本当に客観的に存在しているのは青木萌ちゃんや赤井みのりちゃんという個性ある人格なのだが、彼女たちの具体的な個性を全て消し去って「眼鏡」という共通性にのみ着目したときに初めて「眼鏡っ娘」という観念が成立する。「眼鏡っ娘」というカテゴリーを成り立たせているのはカズフサの主観的な認識能力であって、青木萌ちゃんや赤井みのりちゃんの側に「萌え要素」があるからではない。青木萌ちゃんや赤井みのりちゃんの個性を全て捨て去ってある一つの特性に注目して概括したときに初めて「眼鏡っ娘」という観念が成立するということは、逆に言えば、「眼鏡っ娘」という観念に固執している限り、青木萌ちゃんや赤井みのりちゃんの個性と向かい合うことはできないということだ。カズフサが理想の眼鏡っ娘を前にして「幸せな将来」を思い描くことができなかったのは、そこに個性を喪失した観念だけの世界を見たからに他ならない。(そしてそれは「萌え」が徹底的に「現在」であって、「過去」も「未来」も持たないことにも繋がる。)
ところで、振り返ると、ラブやんがいる。ラブやんは、カズフサの思い描く「萌え要素」とはまるで一致しない。ロリでもなければ眼鏡でもない。それは明らかに「萌え」の対象ではない。しかしそこに「存在」しているのは、他に交換がきかない唯一無二の「個性」だ。ラブやんのことは、「眼鏡っ娘」とか「ロリ」とかいう「萌え要素の組み合わせ」で呼ぶことはできない。ラブやんのことは、「ラブやん」と呼ぶしかない。一般名詞の組み合わせでは決して呼ぶことができず、固有名詞でしか指し示すことができないもの。そのようなものを人は「人格」と名付けた。カズフサが振り返ったときに見たラブやんとは、そういうものだ。そしてその固有名詞でしか呼べないようなものを客観的に「交換不可能な唯一で特別の存在」と認識することを、人は「愛」と呼ぶ。交換可能な一般名詞である「眼鏡っ娘」や「ロリ」に対する主観的な認識は「萌え」と呼ぶが、交換不可能な固有名詞を客観的に認識することは、端的に「愛」と呼ぶべきものだ。
本作がすごいのは、ラブやんが主観的には完全に萌えの対象ではないのに、客観的には完全に愛の対象であることを、154話かけて積み重ねてきて、155話ですさまじい説得力で以て描ききったことだ。まったく「萌え」ない相手だからこそ「愛」の対象として説得力を持ってしまうということ。積み重ねてきた「萌え」の脱臼が、この155話で、「愛」の説得力に全て収斂してしまうという構造。155話を読んで、私はひっくり返った。とんでもないことになったと思った。正直いって、本作がこういう着地をするとは思ってもみなかった。

だからこれは、「眼鏡萌え」にとっては非常に危険な作品である。なぜなら、「眼鏡萌え」を乗り越える思想を示しているのだから。しかしそれは同時に希望の作品でもある。なぜなら、「愛」の在処を教えてくれるから。
それは図らずも西川魯介『屈折リーベ』と同じ構造を持つ。そしてそれはもちろんパクりとかそういう次元の話ではなく、「萌え」や「愛」について真剣に取り組んだ者だけが共通にたどり着く世界の深淵なのだと思う。眼鏡萌えにとって非常に危険な作品だが、だからこそ我々も真正面から受け止める覚悟と姿勢を持つことが要求される。

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■書誌情報

ま、そういうこと抜きにして、脱力感あふれるカズフサの駄目駄目な日常をゲラゲラ笑いながら楽しめばいいと思うよ。単行本全22巻。電子書籍でも読めるぞ。

単行本・Kindle版:田丸浩史『ラブやん』第一巻、講談社アフタヌーンKC、2002年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第109回:竹宮惠子「女優入門」

竹宮惠子「女優入門」

小学館『週刊少女コミック』1970年4月号

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1970年の作品だ。眼鏡っ娘が主人公として活躍する、もっとも古い部類に属する作品の一つである。そして興味深いことに、この時点で既にほぼ完成された「眼鏡っ娘起承転結構造」を認めることができるのだ。しかも少女マンガ表現手法の革新を牽引していく24年組のひとり竹宮惠子の初期作品である。少女マンガの基本構造ができあがるプロセスを考える上で、かなり重要な作品と言える。

主人公のジャンヌは眼鏡っ娘。女優を目指しているが、俳優で活躍している父親には厳しく反対される。しかしジャンヌは諦めない。そこで父親は条件を出す。「頭は悪いが娘としての魅力にみち、男の子にさわがれ、本人もいい気になってボーイハントに精を出す」という、ジャンヌとはまったくちがう性格の女の子を演じて、実際に男子生徒全員をファンにできたら認めると言うのだ。

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俄然やる気になるジャンヌ。「頭は悪いが娘としての魅力にみち」という条件を満たすために、案の定、眼鏡を外してしまう。

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非常にわかりやすい描写で、モテモテだ。こうしてジャンヌはジャニーへとなりすまし、次々と男子生徒をたらしこんでいく。しかし硬派のアランだけはジャニーになびかない。アランを振り向かせようといろいろ策を弄するジャニーだが、次第に空しい思いが高まっていく。

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本物の自分を隠して別の性格を演じて人を騙すことに、根本的な疑問を抱くようになる。優勝確実と思われた美人コンテストの出場を、直前になってとりやめる。化粧を落として眼鏡をかけた本物のジャンヌのことを、誰も気がつかない。だが…

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アランだけは一目でジャンヌを見分けた。彼は外面ではない人格そのものを見ていたからこそ、外見に惑わされることがなかったのだ。そしてジャンヌは美人コンテストのステージで自分の正体を明かす。このクライマックスの台詞が要注目だ。

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ここで示された「ほんとうの自分」という言葉。これが1970年代の乙女チック少女マンガの中心概念として発展していくことは、本コラムでも確認してきた。その萌芽が1970年の時点で、竹宮惠子の作品に確認できることは、少女マンガの歴史を考える上で極めて重要な里程標となる。

054_hyouとはいえ、後年の乙女チックと比較したとき、構造の純粋性という点ではやはり物足りない。本作では「女優になる」という目的が眼鏡着脱のトリガーとなっており、「愛の着脱」と「眼鏡の着脱」が厳密にクロスオーバーしているわけではない。乙女チックであれば雑音でしかない「女優になる」という目的だが、本作でそれがまだ必要であったということは、作家の実力不足ではなく、時代がまだ成熟していなかったと把握するべき事態だろう。むしろこの時点で起承転結構造を完全に把握している作家の実力に驚嘆せねばなるまい。

■書誌情報

本作は31頁の短編。単行本『竹宮惠子全集28ワン・ノート・サンバ』に所収。あるいは電子書籍のみだが、「70年代短編集」に所収。こういう形で昔の作品にアクセスできるとは、便利な世の中になったなあ。

単行本:竹宮惠子『竹宮惠子全集28ワン・ノート・サンバ』角川書店、1990年
Kindle版:竹宮惠子『竹宮惠子作品集 70年代短編集 あなたの好きな花』eBookJapan Plus、2015年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第108回:まつもとあやか「BABY BABY BABY!!」

まつもとあやか「BABY BABY BABY!!」

集英社『クッキー』2009年6月号

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こんなん、表紙見たら買うだろぉ。長くて黒い艶やかな髪の毛で輪郭がきっちり区切られた端正な顔立ちに、シャープな眼鏡。目力の強い、鮮烈なクールビューティ。一瞬で恋に落ちるわ。
ということで、いつも女のことしか考えていないオツムの軽いバカ男が、眼鏡っ娘に一目惚れするお話。眼鏡っ娘は、男が語っていた「理想のタイプ」とは全く違うのだが、こんなん見たら惚れてまうのも仕方がない。ということで告白するが、もちろん一瞬でふられる。

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適当にあしらう感じもクールでかっこいいねえ。ますます惚れてまうやろ。
が、男はあきらめきれず、美術室で絵を描いている眼鏡っ娘のところにおしかける。まんまと絵のモデルになることに成功して、ちょっとずつ距離を縮めていくのだが。実は眼鏡っ娘は美術部顧問の先生のことが好きだったのだよ。

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いい表情だなあ。

さて、まあ、なんとなくの印象なんだけど、本作に限らずマンガで描かれる眼鏡っ娘って、怖い顔の男とか不良気味のオツム軽い男とくっついちゃう傾向にあるような気がする。個人的には眼鏡っ娘には真面目な男とつきあって幸せになってほしいので、軽くていい加減で浮気を繰り返しそうなヤンキーといい感じになるのはもったいなすぎて悔しい気がするんだけれども。まあ、そういう物語が求められる何らかの世間的な傾向があるということだろうから、私が悔しがっても仕方がない。むしろ、きちんと客観的に分析しておく必要がある事案として理解しておくべきだろう。
そんなわけで、この物語でも、軽くていい加減な男と眼鏡っ娘がいい感じになっていくんだな。まあ、眼鏡っ娘が幸せになってくれるんなら、応援するしかないがな!

さて、ところで。けっこうびっくりしたのが、同時収録の別作品「とらとマシマロ!」でも眼鏡っ娘がヒロインになっているのだが、これが「BABY BABY BABY!!」のクールビューティ眼鏡とは真反対のちんちくりん眼鏡っ娘ということだ。

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同じ作者が描いた眼鏡っ娘とは思えないほど、印象に落差がある。ちんちくりん三つ編み+まんまる眼鏡の眼鏡っ娘。で、こちらも恋の相手も、数千人の暴走族を一人で仕切っていたという伝説を持つ極めてマッドマックスな男だったりする。ホームレスのジジィや鼻ピアスでタトゥーまみれの極悪ヤンキーが角材を振り回しながら画面を埋め尽くしたりして、少女マンガとして見るとちょっと不思議な作品に仕上がっているが、小動物のような眼鏡っ娘はすこぶる可愛い。

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というわけで、一冊の単行本の中にクールビューティ眼鏡とちんちくりん眼鏡が同居していて、その落差がけっこう心地いい。世間的にはどっちのタイプの眼鏡っ娘が人気あるのかのう?

■書誌情報

「BABY BABY BABY!!」は36頁の短編。「とらとマシマロ!」は32頁の短編。どちらも単行本『BABY BABY BABY!!』に収録されていて、電子書籍でも読める。

Kindle版:まつもとあやか『BABY BABY BABY!!』集英社、2011年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第107回:岡本美佐子「つむじまがり」

岡本美佐子「つむじまがり」

集英社『ぶ~け』1978年10月号

眼鏡が繋げた恋の物語。ヒーロー江崎くんの眼鏡フェチぶりに注目の作品だ。

眼鏡っ娘のちひろは高校2年生。中学生の時の失恋を引きずって、素直になることができない。人気者の江崎くんに対しても、当たりがキツくなってしまう。

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ある日、ちひろと江崎くんが図書室で衝突していたところ、不意に外れて落ちた眼鏡を、通りがかった男子が踏みつけて壊してしまう。ここで江崎くんが見せた対応に注目していただきたい。

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「めがねはおれが弁償するよ」から、間髪入れずに「放課後いっしょに買いに行こうぜ」のコンボ。相手に考慮させるヒマを与えずに、あっという間にデートに持ち込む、このテクニック。眼鏡を媒介にしたからこそ自然に成立している技術を、我々も積極的に見習っていきたい。
そして放課後めがねデート。

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自分の思い通りの眼鏡をかけさせ続ける江崎くん。作品が発表されたのが1978年ということで、まだ「眼鏡フェチ」という言葉は存在しなかったが、彼はどこからどう見ても明らかに眼鏡フェチだ。こうして江崎くんは、自らの理想通りの眼鏡っ娘を作り上げることに成功する。
しかし。江崎くんに惚れていた非-眼鏡の女が、意地悪な邪魔に入る。意地悪女がちひろに「江崎くんは誰にでも優しい。好きじゃない女にも優しいんだ。勘違いするな」と横やりを入れたところ、中学生の頃のトラウマを刺激されたちひろは、眼鏡を受け取らずに逃げ帰ってしまう。翌日、ちひろは江崎くんが選んだのとは別の眼鏡をかけて登校する。

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理想の眼鏡っ娘を失った江崎くんの抗議を見てほしい。「どうしたんだよそのめがねは」というセリフに、俺が選んだ眼鏡が一番似合うんだという自信と信念がみなぎっている。江崎くんが自分の選んだ眼鏡をちひろにかけさせようとしたとき、また非-眼鏡女が邪魔に入る。邪魔女は江崎くんの気を引こうとして、二人の間に割って入る。しかし江崎くんはブレない。非-眼鏡女を「あんたは向こうへ行っててくれ!」と追い返し、眼鏡っ娘が最も大事なんだという姿勢を明確にする。そして改めて自分が選んだ眼鏡をかけてもらうべく、告白モードへ。

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自分が選んだ眼鏡をかけてもらうことが、江崎くんにとってのプロポーズなのだ。意地を張っていたちひろも、ようやく江崎くんの熱意を受け入れ、眼鏡をかける。
眼鏡のおかげで過去のトラウマを克服したちひろ。一人の男が眼鏡に込めた信念がトラウマを超えて恋を成就させるという、胸熱の恋愛物語である。

■書誌情報

本作は31頁の短編。単行本『流星あげる』収録。絶版になっており、数も出ておらず、そこそこ手に入りにくそう。古本屋で見つけたら100円で売っていると思うが…

単行本:岡本美佐子『流星あげる』集英社ぶ~けコミックス、1981年

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