この眼鏡っ娘マンガがすごい!第35回:いがらしゆみこ「キャンディ♥キャンディ」

いがらしゆみこ+原作/水木杏子「キャンディ♥キャンディ」

講談社『なかよし』1975年4月号~1979年3月号

035_01眼鏡っ娘のパトリシア、通称パティは、キャンディの友達。単行本3巻で登場して以降、最後まで重要な役割を果たす。いや、もはやパティが主人公と言っても過言ではない。そうだ、キャンディなんて、もはやどうでもよい。キャンディ・キャンディは眼鏡っ娘パティの物語だ。

パティが一際輝いているのは、その彼氏、アリステア(通称ステア)のメガネスキーぶりに負うところが大きい。第一次世界大戦が始まり、ステアは周囲の反対を押し切って志願兵として従軍する。ステアは機械に強いという特技を活かして飛行機乗りとして活躍する。その飛行機にまつわるエピソードが、劇的に感激ものなのだ。

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なんとステアは、自分の飛行機のエンジンカウリングに眼鏡を描いたのだ。そう、それは眼鏡っ娘の恋人パティの象徴。「この機のなまえはパトリシア……パティにはめがねをかけてやらなきゃ…」。眼鏡が繋ぐ二人の絆。物語はここでキャンディそっちのけでクライマックスを迎える。我々は、眼鏡っ娘とメガネくんの恋の行方に涙するのだ……

035_03本作掲載誌の『なかよし』は、ライバル誌『りぼん』と比較した時、かなり眼鏡っ娘が少ない。特に70年代前半からハレンチ路線でエースを張っていたいがらしゆみこがほとんど眼鏡っ娘を描いていないのは、たいへん遺憾なことだ。その中で、パティは非常に貴重な眼鏡っ娘といえる。キャンディの能天気さにイラついた人々の中から、パティによって眼鏡DNAが発動した人々は相当数に上るのだ(個人的聞き取り調査)。似たような効果は柊あおい『星の瞳のシルエット』にも見られるので、その現象については機を改めて考察することとしよう。

035_04ちなみに本作にはもう一人フラニーという優等生眼鏡っ娘が登場する。こちらの眼鏡っ娘も読者に強い印象を与えている。

■書誌情報

単行本や愛蔵版や文庫版など様々なバージョンがあるが、どれもこれも今では古本でプレミアがついているようだ。Kindleで読めないのは、大人の事情があったりするのかどうか…?

単行本セット:いがらしゆみこ+水木杏子『キャンディ・キャンディ』全9巻完結セット (講談社コミックスなかよし )

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第34回:大野潤子「点目な気持ち」

大野潤子「点目な気持ち」

小学館『別冊少女コミック特別増刊花林』1991年9月号

034_01「少女マンガでは、メガネを外したら美人になる」などと、言われ続けている。その言葉が極めて不当であることは、我々はこれまでも「眼鏡っ娘起承転結理論」などで論理的に明らかにしてきた。そして当の少女マンガ自身も、その言葉の理不尽さについて声を挙げている。中でも本作は、この問題に真正面から取り組んだ作品として、長く記憶されるべき傑作だ。

眼鏡っ娘女子高生、森音朋子は美術部員で、視力は0.05。夕暮れ時、眼鏡を外して部室から見える風景を描いている。近眼にしか見えない、ぼんやりとした風景。その絵は、他の人間にはヘンテコな抽象画にしか見えない。しかしそんな絵に興味を持って近づいてきたのが、女嫌いで有名な緒海一喜。緒海は眼鏡っ娘に、絵を描いているところを見てていいかと聞く。朋子はちょっと迷うが、許可する。そして、絵を描くために眼鏡を外す。眼鏡を外さないと、近眼でぼやけた風景が見えないのだから仕方がない。しかし、眼鏡を外した朋子は、美少女になるどころか、とたんに地味な点目顔になってしまうのだった!

034_02このときに眼鏡っ娘がかました演説が、クワトロ大尉のダカール演説に匹敵する。本作の見どころである。そしてその演説に感銘を受けた緒海も、静かに眼鏡を外す。そして点目。クールな女嫌いと言われていた緒海も、眼鏡を外すと地味な点目顔になってしまうのだった! 実は幼少時に眼鏡を外した顔を女の子に笑われて以来、女性が苦手になってしまったのだった。

お互いに眼鏡を外すと点目になるところから、次第に親近感を持ち始める二人。しかし朋子の親友が緒海を好きだったことから、大きなトラブルに発展していってしまう。眼鏡っ娘は、態度をはっきりできなかった自分が悪いと思いこむ。「私は人を好きになるのもド近眼みたいで、この絵のようににじんでぼんやりしてる」と自分を責める。そんな眼鏡っ娘を救えるのは、やはり同じ風景が見えるメガネ君しかいないのだ。そう、他人から自分の姿がどう見えているかが重要なのではなく、自分の目から世界がどう見えているかが一番重要なのだ! 風景を共有していることを確認できた二人がハッピーエンドを迎えるのは、世界の摂理だ。

034_03大野潤子は、男性にはあまり知名度がないかもしれない。が、桑田乃梨子、遠藤淑子といった作家にピンとくる人だったら、ぜひ手に取ってほしい作家だ。劇的なドラマはないけれど、読んだ後に優しくなれる、心温まる作品をたくさん描いている。他に「別れのナス」や「プリズムの青」も、いい眼鏡っ娘マンガだ。

■書誌情報

単行本:大野潤子『白花幻燈』(小学館フラワーコミックス、1992年)に所収。古書で比較的入手しやすいと思う。

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第33回:須河篤志「つるた部長はいつも寝不足」

須河篤志「つるた部長はいつも寝不足」

メディアファクトリー『コミックフラッパー』2009年12月号~11年8月号

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眼鏡っ娘高校生の鶴田恵ちゃんは、美術部部長。しかし絵についてはシロウト同然。後輩なのに絵が上手い瀬戸くんに、仄かな恋心を抱いていたりする。そんな眼鏡っ娘に、ものすごい性癖があった。いちどエッチな妄想が始まると、止まらなくなってしまうのだ。

033_04ということで、本作のみどころは、まず眼鏡っ娘の暴走する妄想のエロさだ。毎回毎回、よくもそんなところからスイッチが入るなあというところから妄想に突入し、アクセルべた踏みノンストップで妄想エスカレート。そのくせに現実では勇気が出ずに、瀬戸くんとまともに話もできなかったりする。

ということで、本作のさらなる見どころは、ど直球の青春ラブコメエピソードだ。つるた部長の純粋さも、瀬戸くんの青くささも、お兄さんの上から目線も、美術部員たちの真っ直ぐな姿勢も、キラキラとまぶしい。「こんな高校生活を送りたかった!」と思ってしまう甘酸っぱい青春エピソードが満載で、ハレンチな妄想でいっぱいの微エロマンガなのに、いやそれだからこそ、読後感はとても清々しい。下品にならないエロという点から言えば、間違いなく稀有な作品だ。

が、本作の最大の見どころは、そこにはない。本作最大の価値は、眼鏡の真実を見せつけたエピソードにある。つるた部長は、眼鏡をしているときはカワイイのに、眼鏡を外すと超恐ろしい顔になってしまうのだ! メガネなしの顔は本当に恐ろしいので、ぜひ自分の目で確かめていただきたい。このとき眼鏡をはずした部長の恐ろしい素顔を見てしまった瀬戸くんのリアクションが素晴らしかった。

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「とりあえずメガネを…メガネをかけていただけますか……」。いやほんとうに、眼鏡を外して女性がかわいくなるなんて物理的にありえないことは、しっかり認識されるべきだ。間違った認識を持っていた瀬戸くんは、自分自身で恐怖を味わって、ようやく世界の真実を知ることになった。全世界の人々は、このマンガを読んで、メガネを外した女性は恐ろしい顔になることをしっかりと認識し、眼鏡っ娘からメガネを外そうなどという愚かな行為は、ぜひやめていただきたい。

■書誌情報

033_03新刊でも手に入るし、電子書籍で読むこともできる。つるた部長がメガネを外して恐ろしい顔になるのは、第2巻に収録の第7話。

Kindle版:須河篤志『つるた部長はいつも寝不足』第1巻 (コミックフラッパー、2010年) 単行本は全3巻。

いい味を出している保健室の先生も眼鏡設定らしいけれど、本編ではオデコめがねしかなかったなあ。名前も最後まで結局わからなかったや。

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第32回:曜名「彼女のすてきな変身」

曜名+原作:モーリーン・チャイルド「彼女のすてきな変身」

ハーレクイーンコミックス単行本描きおろし2005年

032_01ハーレクインの単行本マンガ描きおろしシリーズには、そこそこ眼鏡っ娘ヒロインが登場する。ただし残念ながら、さすが天下のハーレクインだけあって、眼鏡を外して超大金持ちと結婚して幸せになるなどといったマヌケな展開の作品が多く、私も何度も煮え湯を飲まされたものだった。本作も途中までは嫌な臭いが漂っていたように感じていたのだが、それは私の嗅覚が過去のハーレクインによって鈍っていただけだった。本作は、まことに素晴らしかった。眼鏡っ娘の恋愛相手が、完璧なメガネスキーだったのだ!

032_02ヒロインの眼鏡っ娘トレイシーは、プログラマーとしてバリバリのキャリアを積んでいる。が、過去のトラウマのせいで恋愛とは無縁な生活を送っていた。そんなとき、自動車で3日もかかる遠く離れた故郷へ帰らなくてはならなくなるが、迎えに来たのはトレイシーの初恋相手のリックだった。そしてそのリックこそが、我々の同志メガネスキーだったのだ!
故郷へ向けて、3日間のドライブを続ける二人。最初はリックの目を気にして眼鏡を外していたトレイシーだったが、3日目にコンタクトが合わなくなって眼鏡をかける。その素晴らしい眼鏡姿に、リックは運転中にも関わらず何度もチラ見をしてしまう。トレイシーのほうは「やっぱりメガネが変!?」と思ってしまうが、リックのほうは「メガネが彼女の可憐さを際立たせているように見える」と、的確な観察をしている。リックの言うとおり、メガネは女性の可憐さを何倍にも際立たせるのだ。正義はリックの手の中にある。
そして故郷に戻った二人は、めでたくゴールイン。トレイシーのコンプレックスを打ち砕き、本当の自分を取り戻させたのは、メガネスキーを貫いたリックの真摯な姿勢だった。トレイシーを射止めたリックが心の中で、こう呟く。

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「僕はメガネの君のが好みなんだけど、これは少々マニアックかな?」。いやいや、大丈夫。マニアックじゃなくて、人間として当たり前の感情だぞ。おめでとうリック!そして、ありがとうリック! 「彼女のすてきな変身」というタイトルでヒロインが眼鏡っ娘だと嫌な予感しかしなかったのだが、完全にいい意味で裏切られたぜ。

■書誌情報

単行本:曜名+モーリーン・チャイルド『彼女のすてきな変身』( ハーレクインシリーズ、2005年)全一巻。

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第31回:高河ゆん「グラス・マジック」

高河ゆん「グラス・マジック」

光文社単行本描きおろし1988年

031_02主人公の大山春海ちゃんは、眼鏡っ娘。水泳部の金井くんに恋しているけれど、恥ずかしがり屋なので告白なんてとんでもない。特にコンプレックスなのが、眼鏡。春海ちゃん家族は一同揃って近眼で、一家総出で検眼に行く予定になっていたりするくらいだ。
そんなわけで、おまじないに頼ってばかりで行動に移せない眼鏡っ娘。金井くんに水泳部に誘われても、眼鏡をかけたままでは泳げないからと、しり込みしてしまう。そこに追い打ちをかけるように、美人マネージャーがイジワルをする。しょんぼりする眼鏡っ娘。「この眼鏡さえ外せたら」全部がうまくいくのではないかと考えてしまう。しかし、溺れた後輩を助けに金井くんが海に飛び込んだとき、眼鏡っ娘の心に大きな変化が起こる。おまじないなんかよりも、もっと確かなことができるはずだと、自分の中にあった勇気に気が付く。金井くんが無事に戻ってきたときに、眼鏡っ娘が勇気を振り絞って紡ぎだした言葉が、実に見事だった。

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「眼鏡かけたまま泳ぐくらいこんじょーでガンバリます!」。そう、これだ。眼鏡を外せばうまくいくなんて、そんなオカルトあるわけがない。眼鏡と共に生きる決意を固めて、全てがうまく回り始める。金井くんも、眼鏡をかけた君のことが好きなんだ。

031_01高河ゆんと言えば、80年代後半に彗星のごとく現れて、ニューウェーブの旗手として一気にブレイクし、現在でも多方面で活躍を続ける言わずと知れたトップクリエイターだ。一般にはメガネ男子を好んで描くことで知られているが、実は眼鏡っ娘方面でも素晴らしい業績を幾多も積み重ねていることは、もっと強調されてよい。商業デビューから間もない時期に描かれた本作では、ストーリー展開や眼鏡の描画様式においては典型的な70年代オトメチックを踏まえながら、セリフ回しにさすがのセンスが光っている。「眼鏡かけたまま泳ぐくらいこんじょーでガンバリます!」というセリフは汎用性が高いので、ぜひ「眼鏡かけたまま○○○くらいこんじょーでガンバリます!」と、いろいろな場面で積極的に使わせていただきたいっ。
高河ゆんが描く他の素晴らしい眼鏡っ娘については、改めて機会を設けて愛でていきたい。オトメチックからの脱却というパラダイムシフトを考える上でも、重要なケーススタディになってくるだろう。

■書誌情報

単行本:高河ゆん『マインドサイズ』(KOBUNSHA COMIC、1988年)に所収。

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第30回:山本夜羽「めがこん」

山本夜羽「めがこん」

ぶんか社『アクション2』1997年Vol.4

030_03念のために前もって注意しておくと、これはメガネスキーにとっては相当に危険な作品だ。不意を衝かれると魂に直接ダメージを喰らうので、あまり安易にはお勧めできない。とはいえ、メガネ史に名が刻まれるべき作品であることにも間違いないという、要するに厄介なやつだ。

ヒロインの水戸いずみは、眼鏡屋で働く眼鏡っ娘。合コンで知り合って付き合うことになった高遠さんは、一流商社に勤める超エリート。が、この男は極度のメガネフェチだったのだ!

 

030_04本作の見どころは、まずこのメガネスキーが眼鏡キャラについて縦横に語り尽くすところにある。眼鏡の外面的なビジュアルではなく、眼鏡をかけるキャラクターの内面について語っているところが、それまでの作品には見られない大きな特徴だ。本作が発表された1997年時点は、オタク界でようやく眼鏡萌えが浮上し始めた段階だったが、眼鏡萌えの原理的考察はまったく進んでおらず、極めて乱暴でいい加減な論考がまかり通っていた時期だった。まだ学生だった私も、当時の雑で表面的で乱暴で短絡的な眼鏡解釈を見るたびに心を痛めていたのだったが、本作の眼鏡論に触れた時には「まさにコレだ!」と鮮烈な印象を受けた。後で知ることになるが、作者山本夜羽が少女マンガの眼鏡に対して確かな見識を持っていたことが、共感の基盤になっていたようだ。

030_02が、その共感はワナだった。読み進めていくと、我々メガネスキーが必然的にぶち当たらざるを得ない、あの難問が待ち受けているのだった。我々は眼鏡をかけた女なら誰でもいいのか? 目の前の一人の女をちゃんと人間として扱っているのか? という、例の実存的アポリアだ。この難問から逃れずに、真正面からぶち当たり、真剣かつ個性的な回答を示した作品は、実は極めて少ない。というか、その問題に行き当たること自体が、極めて少ない。とことんまで眼鏡を突き詰めた者でなければ、その扉の前にすら立てないのだ。西川魯介や小野寺浩二がド真ん中をブチ抜いて行ったこの難問に、そしてまた本作も、逃げずに体当たりした。導き出された結論は、いま読むと、作者の真摯な姿勢をストレートに反映したものだと分かる。

が、当時は私も若かった。あまりの結末に呆然自失、ジャケ買いした単行本を床に叩きつけた。それから数年後に作者御本人から連絡をいただくことになるとは思いもよらず、単行本はしばらく本棚の肥やしになった。
030_01まあ、いまになって考えれば。「否定」というものには大雑把に二種類ある。相手を叩き潰すための闘争的否定と、成長に必要な弁証法的否定とでは、同じ否定であっても、その働きはまるで異なる。我々が成長し発達するためには、その都度自分の殻を中から壊していかなければならない。殻は、外から壊してはいけない。内側から、自分の力で壊さなければ、真の成長はない。真剣な矛盾と葛藤の過程で自分を自分で「否定」できたときに、初めて真の成長が可能となる。今になってみれば、「めがこん」で示された否定とは、我々自身の成長の過程で必然的に生じる弁証法的否定であると、はっきり理解できる。そしてその姿勢は、本作のみならず、山本夜羽の作品や発言すべてに通じるものでもある。
だから彼は誤解されやすいし、それは本人のせいでもあるので同情の余地は少ないのだけれど、他に代わる人がいないから、今後も面倒なことを全部引き受けてもらえると、たぶんみんなが助かるのだった。

■書誌情報

単行本:山本夜羽『Justice & peace spirits』(BUNKA COMICS、1998年)に所収。「めがこん」以外にも眼鏡っ娘マンガが多数収録されている。念のために言っておくと、どれもキッツイので、本物のメガネスキーほど覚悟が必要。

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第29回:高口里純「獣の条件」

高口里純「獣の条件」

集英社『漫’sプレイボーイ』2010年

029_01稲村まどかは、客観的に見たら、勘違いの痛い不思議ちゃんなんだろうなあ。まあ、眼鏡っ娘なので全面的に許す。というわけで、高校卒業後、女優を目指して上京する眼鏡っ娘。しかし当然そんなに簡単に女優になれるはずがない。そんな折、2つのキッカケが眼鏡っ娘に訪れる。ひとつは、キャバクラにスカウトされたこと。もうひとつは、ボディスタントとして芸能事務所に目をつけられたこと。眼鏡っ娘は、実は脱いだらスゴかったのだった。
ということで、スカウトされてキャバクラ店に向かうのだが、ここのエピソードがなかなか興味深かった。眼鏡を外したら、点目になって、ちっともかわいくないのだ。

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まあそりゃあ、メガネをとったら、こうなるわな。
さて、そうこうあってキャバクラで働くことになった眼鏡っ娘は、自分では自覚していないものの、他に類を見ないモノスゴイ体によって、徐々に周りから一目置かれる存在へと変化していく。

029_03一方、芸能事務所と契約を結んだ眼鏡っ娘は、ボディスタントとして映画の濡れ場を一本こなす。その中で、ちょっとした成長を遂げ、周りからもその特殊な才能を徐々に認識されていく。そしてその特異な存在は、周りにも影響を与え始める。そんな眼鏡っ娘が新たな世界にチャレンジしようとして……唐突に物語は終わってしまった。

高口里純の持ち味といえば、代表作『花のあすか組』にも鮮明に見られるように、キャラクターの独特な存在感の強度にある。独立自尊の個性をこれほど説得力溢れるエピソードで描ける作家は、なかなかいない。その持ち味は、本作でもしっかり発揮されている。主人公の眼鏡っ娘が醸し出す存在の強度は、一歩まちがえばただの不思議ちゃんになるところに、独特な魅力を纏わせる。この魅力的な眼鏡っ娘の今後が気になるところで唐突に物語が終わってしまったのは、とても勿体ないことだと思う。

作品自体は惜しいなあという感じではあるが、ともかく、「眼鏡を外したらブス」という世界の真実を描いたことは記録に留めておきたい。

■書誌情報

単行本:高口里純『獣の条件』(ケータイ週プレCOMIC、2010年)全1巻。

高口里純は、他にレディコミで眼鏡さんをヒロインとした作品をそこそこ描いていて、やはり男に媚びない独立自尊の凛々しい眼鏡姿を見ることができる。

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第28回:まつざきあけみ「天使のくれたメガネ」

まつざきあけみ「天使のくれたメガネ」

集英社『増刊マーガレット』1970年1月

028_02ヒロインのユミちゃんは、極度の恥ずかしがり屋。大好きな島くんに話しかけられても、すぐに逃げ出してしまう。そんなユミちゃんの前に、なみだの精が現れて、魔法のメガネをくれた。そのメガネをかけると、なんでも思い通りの夢が見られるというのだ。さっそくメガネをかけてみると、大好きな島くんとラブラブになれた。メガネのおかげだと大喜びするユミちゃん。しかし実は、なみだの精は嘘をついていた。それは魔法のメガネでもなんでもなく、夢の中だと思っているのはユミちゃんだけで、実際は現実世界で島くんとラブラブになっていたのだった!
が、そんなことは全く知らずに、メガネのおかげで夢の中の島くんとラブラブになれたと喜ぶユミちゃん。ところがライバルの優子がイジワルしてきて、なんと魔法のメガネが割れてしまった! 堪忍袋の緒が切れて、怒りにまかせて思わず優子を殴ってしまうユミちゃん。が、憧れの島くんにその場面を見られ、さらに優子を殴ったことを咎められ、しかも「たかがメガネをわったくらいで」と言われてしまう。そう言われてショックを受けたユミちゃんが示したリアクションが、これだ。

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「たかがメガネですって!?」って、当然のリアクションだ。魔法のメガネでなく、普通のメガネを割られたときだって、このリアクションだろう。
まあ、最後はユミちゃんも自分の勘違いに気が付き、夢の中ではなく現実世界で島くんと仲良くなったことを知る。そして島くんに対しても素直になれて、ハッピーエンド。しかしユミちゃんは、メガネのおかげで恋が実ったことをちゃんとわきまえていて、メガネに感謝の気持ちを伝えることを忘れなかった。いい子じゃないか。

しかし、まつざきあけみと言えば縦ロールなどゴージャスな絵柄が印象的な作家なんだけど、1970年段階ではこういう絵柄だったのね。あと、本作を通じて、メガネだから容姿が劣るなどという愚かな観念が皆無なところにも注目。1970年時点ではメガネ=ブスという観念は未発達だったことを示している。

■書誌情報

単行本:まつざきあけみ『タイム・デイト』(ペーパームーン・コミックス、1980年)に所収。多少プレミアがついているけど、まだ手に入りやすい部類か。

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第27回:山本直樹「BLUE」

山本直樹「BLUE」

小学館『ビッグコミックスピリッツ』1991年新春増刊号

027_02間違いなくマンガの歴史に名を留める作品だ。内容が眼鏡っ娘で素晴らしいことは言うまでもないのだが、東京都の青少年健全育成条例で有害指定を受け、単行本が回収絶版となり、その事件が契機となって日本全体に表現規制問題の愚かさが知れ渡ったということで、記念碑的な位置づけを持つ作品となっている。本作を有害指定してしまった東京都青少年課の極めて愚かな判断、いや、ある意味では非常に的確な判断が、マンガと性表現に対する多角的な議論を沸騰させた。作者の山本直樹は表現規制に関する様々な集会に呼ばれ、作家の立場からの発言を行った。それは静かで控えめな主張だったが、表現規制を訴える人々の独りよがりの馬鹿馬鹿しさを浮き彫りにするには十分だった。『COMIC BOX』1992年7月号は、山本直樹特集「僕って有害?なんちゃって。」を組んで青少年健全育成条例を批判し、絶版となって入手困難となった本作を再録した。この流れの中で、愚かな東京都の意図をあざ笑うかのように本作は神話的な価値を持つ作品に祭り上げられ、何度も版を継いで語り継がれている。その本作のヒロインが眼鏡っ娘であるということは、眼鏡というアイテムの哲学的意義を考察するうえでも重要な事実である。

027_01というわけで、本作はエロマンガなので、未成年は扱い注意だ。
ヒロインは、高校生眼鏡っ娘=九谷さん。頭もよく運動もできるが、屋上にある天文部の部室で、主人公の灰野くんとセックスを繰り返す。性感を増すために摂取しているのが、Blueという名のクスリだ。というわけで、ビッチの眼鏡っ娘が性交する姿を見て、我々は欲情するわけだが、それで終わっては天下の都条例様がわざわざ有害指定をする意味などない。本作を読み終わったときには、青春とは何か、人生とは何か、大人になるとはどういうことか、どういう生き方が望ましくて、そのために何が犠牲になるのか、いやでもそういうことを考えさせられる。甘酸っぱい後味が残るのだ。天下の都条例様がわざわざ有害指定をしてくださるからには、それくらいの価値がなければならないということだ。いやはや。ご丁寧にも本作をわざわざ有害指定して無用な議論を沸騰させた東京都は、モノを見る目がないことを全国に知らしめてしまったのだった。

027_03作者の山本直樹=森山塔は、眼鏡っ娘マンガの歴史を語る上では絶対に欠かせない超重要人物だ。特に80年代後半から眼鏡っ娘作品を量産しているという事実だけでも、歴史に名が刻まれるべき功績だ。その中でもおそらく最も影響力があったのは単行本『ペギミンH』ではないかと思う。表題作「ペギミンH」でもものすごい眼鏡っ娘:枢馬こけさんが大活躍するが、私が最も興奮したのは同単行本収録の「恋のスーパーパラシューター」だった。物語の冒頭で「そんな君がいちばん好き」と言っている時点で、完全に70年代オトメチック少女マンガのオマージュとなっている。森山塔が意図的に眼鏡っ娘を主題としていたことがよくわかる。
眼鏡暗黒時代の80年代後半から90年代前半、おそらく全国のメガネスキーたちの多くは、森山塔に救われている。ありがとう。

■書誌情報

名作だけあって、版にバリエーションがある。版によってプレミア度が違い、回収絶版になった版は古本で5,000円くらいするが、中身を読むだけなら電子書籍で安く読める。
Kindle版:山本直樹『BLUE』(太田出版、2006年)

「ペギミンH」は再版単行本で読むことができるようだが、どうやら「恋のスーパーパラシューター」は未収録のようだ。
単行本:森山塔『Pegimin H』(Zコミックス)※18禁

「恋のスーパーパラシューター」は選集1に収められているらしい。
単行本:森山塔『森山塔選集(1) 』(Fukkan.com)※18禁

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第26回:高野文子「奥村さんのお茄子」

高野文子「奥村さんのお茄子」

マガジンハウス『COMICアレ!』1994年5月号

026_06本作は、サブカル系必読の神作品ということになっている。サブカル必読の作品として、例えば、つげ義春「ねじ式」とか水野英子「ファイヤー!」など、いくつかのカノン(正典)が定まっているわけだが、高野文子の一連の作品もそういうサブカル御用達のカノンとして位置づいていて、その中でも本作は最高傑作と誉れが高い。それゆえに、サブカル系の人々は本作を解読するべく、様々な解釈を施してきている。ちょっとググってみれば、本作の解釈をめぐる考察が大量に引っかかる。しかしそれらの解釈を眺めてみても、私はまったく感心しない。問題の本質を衝いている考察が、一つとして見当たらないのだ。本作の本質は、サブカル系の人々が考察するところには存在しない。本作を読み解くためには「主人公が眼鏡っ娘」であることを前提に据えなければならないのに、誰もそのことに気が付いていないのだ。本質は、眼鏡にあるのだ。

026_07本作の主人公は2人。奥村さんと、眼鏡っ娘の遠久田さん。ところがこの眼鏡っ娘は人間ではなく、どうやら宇宙からやってきたらしい。本体は眼鏡っ娘ではなく、地球人とコミュニケーションをとるためにこの形に形成されたようだ。このとき、眼鏡が脱着可能なものだとは分からなかったらしく、遠久田さんの眼鏡は顔と一体になるように形成されて、外すことができない。これだ。外すことのできない眼鏡!!! だからコーン油がついて眼鏡がくもってしまったときも、外して拭くことができず、布を眼鏡と顔の間に挿入してキレイにすることになる。こんな画は、高野文子以外には描けない。ここまで見ても、眼鏡なしで本作を解釈することの無意味さが分かるはずだ。

026_08さらに眼鏡描写でものすごいのは、遠久田さんの視点を、眼鏡フレーム越しに描いたコマだ。商店街を進む遠久田さんの眼鏡のこちら側から世界を映しだす画。それまでの三人称視点から、遠久田さんの一人称視点への転換。そしてこの転換が画として可能になっているのは、眼鏡があるからだということに気を付けてほしい。もしも画面に眼鏡のフレームが描かれていなかったら、それが三人称視点なのか一人称視点なのかを判断するための材料が存在しない。眼鏡のフレームが画面内に描かれることによって、初めてそれが遠久田さんの一人称視点であることが明らかになる。この視点変更のあり方は、おそらく物語を読み解くうえで欠いてはならないものだろう。

026_09さらに、一人称視点で電柱にぶつかった遠久田さんは、眼鏡が割れていないことを確認した後、こう言うのだ。「メガネはカッオーの、いちぶーですっ」。もはや、本作が眼鏡マンガであることは、ここに確定したといってよい。本作の狙いや意図がどこにあるかは、様々な論者がさまざまに解釈してきたが、いっこうに意味不明のままに終わっているのは、みんな眼鏡を無視してきたからに他ならない。宇宙人が自らを人間に擬するときに三つ編みの眼鏡っ娘を敢えて選択したことには、絶対に重要な意味がある。そして最後の女性、ポストの女性ユキ子さんも眼鏡っ娘であることを確認し、そのまま物語が終わったとき、私はお釈迦様の掌の上で転がされていたような、何とも言い難い不思議な感覚に襲われるのである。

■書誌情報

サブカル系の正典として読み継がれてきており、さらにこの先もマンガの古典的名作として末永く語り継がれていくだろう。マンガマニアを自認するなら、高野文子を知らないことは許されない。よって単行本も新刊で手に入る。

単行本:高野文子『棒がいっぽん』(マガジンハウス、1995年)に所収。amazonレビューを一瞥するだけでも、高野文子のサブカル的位置づけがなんとなく見える。

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