この眼鏡っ娘マンガがすごい!第56回:大友克洋「危ない!生徒会長」

大友克洋「危ない!生徒会長」

みのり書房『コミックアゲイン』1979年11月号

正真正銘、大友克洋の絵だ。同姓同名の別人ではなく、「童夢」や「AKIRA」の大友克洋だ。

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もちろん素で描いたのではない。わざと少女マンガの絵柄を真似しているのである。本人の弁によると、「まともなデッサンがない絵って難しくて。これを描くために少女誌いっぱい買ってきて、ずいぶん少女漫画の文法とか技法とか研究しました。」(単行本のあとがき)とのことだ。つまり本作は少女マンガ技法を客観的に分析して再構成した上で描かれており、要するに少女マンガ技法に対する「批評」となっている。そのような「分析したうえで再構成する批評」スタイルは、夏目房之介が縦横無尽に駆使して新しいマンガ批評の地平を広げたことでよく知られている。本作は、あの大友克洋が手掛けているだけあって、批評としての見どころは非常に多い。特に眼鏡デッサンに対する批評は、執拗と言える。いわゆる「貼り付き眼鏡」が、これでもかというくらい繰り返し登場するのである。具体的には、次に引用する眼鏡っ娘の「横顔」に注目していただきたい。デッサンが狂っている。

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もちろんデッサンが狂っているのは大友克洋の絵が下手なわけではなく、少女マンガの文法にのっとってワザと歪めている。実際に多くの少女マンガにおいて眼鏡デッサンが狂っていることを踏まえた上で、意図的に狂ったデッサンの眼鏡を描いているのである。
この「貼り付き眼鏡」のどこが狂ったデッサンなのか、少し丁寧に見ておく。下の図をご覧いただきたい。

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もし「横」から見たとき、眼鏡のワクが眼を囲むように見えるとしたならば。立体にしたとき、上から見たら頭部のラインに沿ってフレームがべったりと顔に貼り付いているように見えるはずだ。もちろんこれは一般的な眼鏡のフレームでは、ありえない。寝る時もメタルフレームの眼鏡を外さなかったとき、寝返りを打って眼鏡を潰してフレームを曲げてしまって顔に貼り付くことはあるかもしれないが、一般的にはありえない。これは要するに、横顔のデッサンが間違っているのである。このようなデッサンの狂いを「貼り付き眼鏡」と呼んでいる。正しいデッサンで眼鏡を描こうとしたら、次のようになるべきところだ。

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横から見たとき、眼鏡のフレームは眼を囲むように円で描いてはいけない。正しくは直線で描くところなのだ。

大友克洋がどうしてワザと眼鏡のデッサンを狂わせたかだが、それは少女マンガ文法に理由がある。当時、多くの少女マンガが狂ったデッサンで眼鏡を描いていたのである。狂った眼鏡デッサンとして最も目立っていたのは、52回~55回にわたって詳説した、田渕由美子だ。(確認してもらえば、すべての眼鏡が「貼り付き」であることがすぐにわかる)。人気作家として目立っていた田渕由美子は、描いた眼鏡の量も極めて多かったために、大友克洋が少女マンガ文法を研究するときに参照した可能性は極めて高い。よく見れば、眼鏡のレンズの輝きも田渕由美子っぽい。
「貼り付き眼鏡」を採用すれば画面が少女マンガっぽくなるだろうという大友克洋の目論見は、みごとに当たったといえる。実は作品全体を通じて見ると、少女マンガではありえないカメラ位置からの描写(特に俯瞰のアングルは上手すぎる)が多く、作者が本当には少女マンガ文法には精通していないことがわかる。が、それにもかかわらず全体として少女マンガの雰囲気を作ることに成功した要因は、少女マンガ特有に狂ったデッサンの「貼り付き眼鏡」を採用した点にある。大友克洋は本作に少女マンガの空気を醸すためだろう、しつこくしつこく何度も何度も不自然なほどに大量の「貼り付き眼鏡」を描いている。

056_01さて、ところで、そもそもマンガの絵のデッサンが狂っていることは悪いことだろうか? 結論から言えば、まったく悪くない。実は第40回ですでに指摘しているのだが、あの藤子・F・不二雄も「貼り付き眼鏡」を描いているのだ。
乙女チック眼鏡を分析するところで詳しく見たように、少女マンガにおける眼鏡は、単なる視力矯正器具を超えて、少女の内面を表現するアイテムとなっていた。これは眼鏡が「モノ」ではなく、「概念」となっていることを意味する。逆に言えば、眼鏡は「概念」として読者に伝われば問題ないのであって、「モノ」としてデッサンを正確にとる必要はない。この「概念」としての眼鏡に対してデッサンが狂っていると言ったところで、なんの意味もない。
残念なことだが、大友克洋は少女マンガにおける眼鏡デッサンの狂いは正確に再現した一方で、眼鏡の「概念性」に対しては一切の配慮を見せていない。本作は「モノ」としての眼鏡デッサンに注目したことによって少女マンガ文法の批評として成功しているが、「概念」としての眼鏡に配慮しなかったことによって、所詮は単なるパロディであることも明らかになっていると言える。そして、少女マンガで積み重ねられた眼鏡の「概念性」を完全に無視して表面的な文法だけが独り歩きした時に、あの「眼鏡を外して美人」などという唾棄すべき発想が生じるのだが、さすがに大友克洋はそこまでの愚を犯してはいない。

■書誌情報

単行本『SOS大東京探検隊』に所収。「あとがき」から作者の意図を推し量ることができる。

大友克洋『SOS大東京探検隊』(KCデラックス ヤングマガジン、1996年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第55回:田渕由美子の眼鏡無双

田渕由美子の眼鏡無双

田渕由美子「百日目のひゃくにちそう」集英社『りぼん』1978年9月号
田渕由美子「夏からの手紙」集英社『りぼん』1979年8月号
田渕由美子「珈琲ブレイク」集英社『りぼんオリジナル』1982年冬の号
田渕由美子「浪漫葡萄酒」集英社『りぼんオリジナル』1983年秋の号

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055_02田渕由美子の眼鏡は止まらない。
単行本『夏からの手紙』と『浪漫葡萄酒』は表紙が眼鏡っ娘のうえに、それぞれ4作収録のうち2作の主人公が眼鏡っ娘。まさに眼鏡無双。もちろん、眼鏡を外して美人になるなどという物理法則に反する描写は一切ない。ここまでくれば、意図的に眼鏡を描いていると考えて間違いない。

1970年代後半の『りぼん』でトップを張った作家がこれほどまでに大量の眼鏡っ娘作品を描いていたことは、歴史の事実としてしっかり押さえておきたい。少女マンガの王道とは「眼鏡を外して美人になる」のではなく、「眼鏡のまま幸せになる」のだと。「少女マンガでは眼鏡を外して美人になる」など、少女マンガを読んだことのない人間が垂れ流す悪質なデマに過ぎない。田渕由美子の作品を読めば、何が正しい眼鏡なのかは火を見るよりも明らかなのだ。
もちろん眼鏡に優しかったのは田渕由美子だけではない。同時代『りぼん』で活躍した陸奥A子と太刀掛秀子も「眼鏡を外して美人」なんてマヌケな作品は一つたりとも描いていない。『りぼん』以外の雑誌でも、明らかに田渕由美子の影響を受けたと思われる眼鏡っ娘作品を多く見ることができる。『マーガレット』の緒形もり、『フレンド』の中里あたるなど、乙女チック眼鏡を描いた作家については、また改めて見ることにしよう。

さて、1978年9月「百日目のひゃくにちそう」は、引っ込み思案で「泣きべそ顔が印象的」と言われてしまう眼鏡っ娘が主人公。恋人だった支倉くんが交通事故で死んでしまった後、声がそっくりの植木屋さんと新しい恋に踏み出すお話。ふわふわの髪型と眼鏡がとっても素敵。

055_041979年8月「夏からの手紙」は、あだなが「委員長」の眼鏡っ娘が主人公。作中でもT大文学部に進学している。田渕由美子のヒロインは、他の『りぼん』作品と違って、大学生や予備校生が主役であることが多いのが印象的。で、このメガネ委員長が、まさにツンデレの中のツンデレ。高校の時には片想いで告白できなかった相手に憎まれ口ばかり叩いてしまっていたメガネ委員長は、大学に進学してから偶然その相手と出会う。ここからのデレかたがかわいすぎる。大学生になってからも「委員長」と呼ばれてしまう眼鏡っ娘が素直になるところは、読んでいるこっちもニッコリしてしまう。

055_051982年冬「珈琲ブレイク」は、中学生から7年間もずっと片想いを続けている眼鏡っ娘が主人公。恋の話をするときに顔が真っ赤になる眼鏡っ娘がかわいすぎる。そして片想いをふっきって、新しい恋に踏み出していく心の動きが丁寧に描かれている。
眼鏡っ娘の新しい恋の相手暮林くんが二人称で「オタク」という言葉を使っているけれど、もちろんこれは二次元が好きな人という意味での「オタク」ではなくて、単なる二人称。二次元が好きな人たちが好んで相手のことを「オタク」と呼んでいたからその名をつけたと言われているけれど、実はそれは誤解に基づいた命名だったといえる。田渕由美子や新井素子の作品を読めばすぐに分かるのだが、「オタク」とは1970年代の大学サークル界隈で使用されていた二人称だ。「二次元が好きな人たちがオタクという二人称を好んで使っていた」と主張する人々は、単に1970年代の大学サークル文化を知らないだけという可能性がかなり高い。

そして、『りぼん』時代最後の眼鏡っ娘作品となった『浪漫葡萄酒』は、眼鏡的にかなり考えさせられる作品だ。というのも、ダテメガネだからなのだが、さすが田渕由美子だけあって、そのダテメガネぶりが他の作家とはまったく違っている。ダテメガネといえば、普通はアイドルや芸能人が自分を隠すために使うアイテムとして認識されている。しかし田渕由美子は違う。「眼鏡をかけたほうがかわいい」から眼鏡をかけて写真モデルになって、大売れしているというダテメガネなのだ!

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ダテメガネで大ブレイクする写真モデル。これが平成の世なら、時東ぁみなどの実例があるから、ダテメガネで芸能人を売り出すってネタも理解できなくはない。しかしこの作品が発表された1983年とは、プラザ合意前の昭和どまんなかの時代だ。この時代に眼鏡をかけたほうがカワイイからダテメガネで写真モデルって。実際に眼鏡アイドル板谷祐美子を擁するセイント・フォーがデビューするのは、この作品が発表された翌年のことだった。あまりにも、早すぎる。本当にすごい。田渕由美子、すごすぎる眼鏡力。

■書誌情報

「百日目のひゃくにちそう」と「夏からの手紙」は単行本『夏からの手紙』に所収。「珈琲ブレイク」と「浪漫葡萄酒」は単行本『浪漫葡萄酒』に所収。全作品集は全4巻で計画されていたが、2巻で出版が止まったので、本作は収録単行本で読むしかない。が、『夏からの手紙』のプレミアが半端ない。素晴らしい眼鏡っ娘が多いので、読みやすい環境になってほしいなあ。

単行本:田渕由美子『夏からの手紙』(りぼんマスコットコミックス、1982年)

単行本:田渕由美子『浪漫葡萄酒』(りぼんマスコットコミックス、1983年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第54回:田渕由美子「聖グリーン★サラダ」

田渕由美子「聖グリーン★サラダ」

集英社『りぼん』1975年12月号

日本人が知っておくべき「新・3大 田渕由美子の”乙女チック”眼鏡っ娘マンガ」、最後は『りぼん』1975年12月号に掲載された「聖グリーン★サラダ」です。この作品で「眼鏡っ娘起承転結理論」が決定的な形で完成します。

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まず有権者に訴えたいのは、『りぼん』本誌で田渕由美子の乙女チック人気が爆発したのは1976年はじめだということ。ということは、つまり1975年12月号に発表された本作が、乙女チック人気を決定づけたということ。そしてその作品こそが、まさしく「眼鏡っ娘起承転結理論」の完成形だったということであります。

主人公の「ありみ」は眼鏡っ娘。雅志と一緒にくらしております。しかし雅志と恋人関係というわけではなく、実はありみのお姉さんが雅志と結婚したのですが、そのお姉さんが死んでしまったため、雅志とありみが二人で生活しているのであります。そんな二人の生活の中で、なんということでありましょうか、ありみは眼鏡をかけません。そこで雅志は、男らしく言うのであります。「いつもメガネをかけていたほうがいいね」と。

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しかし、ありみは何故か眼鏡をかけることを断固拒否。「美貌をそこねる」という理由に、我々は不穏な空気を感じて不安になるのであります。しかし実は「美貌をそこねる」という理由は、言い訳にすぎず、本当の理由ではなかったのであります。

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054_03そう。実は、ありみは死んだお姉さんの真似をしていたのであります。奥さんが死んでしまって悲しんでいる雅志のために、お姉さんの代わりになろうと考えていたのであります。なんと健気な眼鏡っ娘。ありみは、雅志がいないところではしっかりと眼鏡をかけているのであります。

雅志は、そんなありみの心遣いによって、心が癒されていきます。お姉さんが生きていたころとまったく変わらない自然な生活。以前と変わらない朝の献立。雅志はありみと結婚してもいいとまで思います。眼鏡っ娘は、眼鏡を外すことによって、愛を獲得したかのように見えるのであります。

しかし、お姉さんの身代わりになって獲得した愛など、まやかしの愛にすぎないのであります。

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おせっかいなおばさんが雅志の元にお見合いの話を持ってくるのですが、ありみと結婚してもいいなどと言って何も気づいていなかった雅志に真実を告げるのであります。ありみがどうして眼鏡をかけようとしなかったのか。さすがに雅志も悟るのであります。

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ありみを縛っていたことに気がついた雅志は、おばさんの持ってきたお見合いに行くことを承諾。二人の不自然な生活に終止符を打つことを決意するのであります。
しかしありみはそれを受け入れることができないのであります。ありみは単にお姉さんの身代わりをして雅志を癒したかったのではなく、本気で雅志のことを好きになっていたのであります。身代わりでいいから少しでも一緒にいたいと思って、必死の思いで眼鏡を外していたのであります。しかし、それがマヤカシの愛にすぎないことに、眼鏡っ娘も気が付いていたのであります。
そこで、眼鏡っ娘は、「ほんとうのわたし」を取り戻すために、ついに眼鏡をかけるのでありました。いよっ、待ってました!

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眼鏡をかけて、ショートカット。朝ごはんの献立も、お姉さんが得意だった洋食ではなく、和食を作るようになるのであります。そんなありみを、雅志は「メガネもよくにあってる」と、しっかり受け止めるのであります。

054_08そして雅志は、お姉さんの身代わりではない、本当のありみと結婚することを決意するのであります。そのときの眼鏡っ娘の表情が、実に素晴らしいのであります。尊い涙なのであります。

眼鏡っ娘マンガ研究家のはいぼくは、言うのです。この作品は、「眼鏡のON/OFF」と「恋愛のON/OFF」が明確に構造化されたうえで、「起承転結」の流れが作られているのだ、と。そしてそれこそが乙女チック少女マンガが作り上げた、人類史上に誇るべき偉大な創作なのだ、と。この作品を読んだ後は、「眼鏡を外して美人」などという作品はジュラ紀に描かれたのかと思えるほど時代錯誤のクソタワケに見えるのだ、と。
その構造を表にすると、起承転結の流れが一目瞭然。

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眼鏡は「かけている/かけていない」のように0か100かのデジタルな性質を持っている特異なアイテムであって、それを「愛」の状態とリンクさせることによって起承転結の物語構造を簡潔に構成することができるのであります。田渕由美子はこれを最も説得力ある形で表現することに成功し、だからこそ時代の最先端を走る作家として絶大な人気を獲得したのであります。

というわけで、この作品を「新・3大 田渕由美子の”乙女チック”眼鏡っ娘マンガ」のひとつとさせていただきます。ご清聴、ありがとうございました。

■書誌情報

054_01あんのじょう、収録単行本はプレミアがついてしまっていて、すこしだけ入手難度は高め。眼鏡っ娘マンガの正典に位置づくべき最重要の作品なので、広く読まれるような状況になってほしいなあ。

単行本:田渕由美子『あのころの風景』(りぼんマスコットコミックス、1982年)

愛蔵版:『田渕由美子全作品集 I 摘みたて野の花』(南風社、1992年)

 

 

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第53回:田渕由美子「雪やこんこん」

田渕由美子「雪やこんこん」

1975年『りぼん増刊号』お正月

日本人が知っておくべき「新・3大 田渕由美子の”乙女チック”眼鏡っ娘マンガ」、続いては、1975年『りぼんお正月増刊号』に掲載された、「雪やこんこん」です。少女の内面を表すアイテムとして自由自在に眼鏡を描く卓越した技術を味わうことができます。

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053_03まず有権者に訴えたいのは、さすがの田渕由美子も最初から人気があったわけではないということ。デビューからしばらく描いていたのは「乙女チック」ではなく、1960年代からの伝統的な「母もの」と呼ばれるジャンル。掲載される雑誌も、『りぼん』本誌ではなく、もっぱら増刊号。しばらくは修行の時代が続いていたのであります。
そんな田渕由美子が大躍進を遂げるきっかけになったのは、やはり「眼鏡」でありました。本作「雪やこんこん」が掲載されたのは1975年お正月の「増刊号」でありましたが、ここでのブレイクをきっかけに、同年3月には『りぼん』本誌へと進出。そして瞬く間に人気を獲得し、翌年からは表紙に起用されるまでになるのであります。本作の眼鏡っ娘マンガが田渕由美子ブレイクの大きな足掛かりになっているのは間違いないのであります。そして本作の重要性は自他ともに認めるものであり、その証拠に田渕由美子の初単行本の表題は『雪やこんこん』となっており、眼鏡っ娘が見事に表紙を飾っているのであります。

053_04本作でまず注目したいのは、いきなり眼鏡っ娘の唯ちゃんがメガネを外してしまうところ。もしもこれが凡百のクソマンガだったとしたら、そのまま美人と認定されて彼氏ができてしまうところでありますが、そこはさすがに田渕由美子、そんな愚は犯さないのであります。唯は眼鏡を外したことで「昌平なんていうかな早くこないかな」と、幼馴染の昌平くんに褒めてもらえると思い込んでいるのですが、やってきた昌平くんは、そんな唯の期待にはいっさい応えてやらないのであります。眼鏡を外したところでいいことなんてちっとも起こらない。唯は世界の真実をここで思い知るのであります。
そう、眼鏡を外した女をチヤホヤするのは、所詮はただの脇役ども。本当の乙女チック少女マンガのヒーローは、眼鏡を外した女を褒めることなど、絶対にありえないのであります。そんなわけで、唯はもういちど眼鏡をかけなおすのであります、よかったよかった。

053_05しかしそんな眼鏡っ娘を陰から狙っていた香椎先輩に、眼鏡っ娘はいきなり襲われてしまい、眼鏡っ娘大ピンチ。香椎先輩に襲われたとき、唯の眼鏡は弾き飛ばされて、無残にも割れてしまうのであります。物語上、唯の眼鏡が外れるのはこれが2回目。1回目のときは、昌平くんは眼鏡がなかったことに対して、完全スルーで対峙しておりました。しかしこの2回目のときは、昌平くんは優しく「おまえメガネは?」と声をかけているのであります。眼鏡を外して美人になったなどと勘違いしているときにはスルーしてやるべきでありますが、不可抗力で眼鏡がなくなってしまった時には、なにがなんでももう一度きちんと眼鏡を発見しなくてはならないのであります。「コンタクト」などと口走った唯の言動に不自然さを嗅ぎ取った昌平は、唯の眼鏡を探しにでかけるのであります。

053_06そして昌平は、香椎先輩を見つけるのでありますが、その手にあるのは、眼鏡。そして素晴らしいことに、一目見ただけで、それが唯の眼鏡だと気が付くのであります。好きな女の眼鏡がどういうものかは、男として絶対に知っていなければならないのであります。見た瞬間にそれが好きな女の眼鏡であることに気が付かなければならないのであります。まさにそれこそが、乙女チック少女マンガのヒーローとしての存在理由なのであります。

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053_08そうして眼鏡を見つけた昌平は、寂しがっている唯の元へ駆けつけるのでありますが、この登場シーンが、また実にすばらしいのであります。香椎先輩から取り戻した唯の眼鏡を、なんと自らかけて唯の前に登場するのであります。こんなことされたら、惚れてまうやろ! こうして昌平は、眼鏡によって自分と唯の間にかけがえのない絆が結ばれているということを確認するのです。
そして昌平は、自ら唯の顔に眼鏡をかけてあげるのであります。実にうらやましいのであります。こうやって眼鏡っ娘の元に再び眼鏡が戻るということは、破滅しかけた世界がもう一度復活することの象徴なのであります。
眼鏡っ娘研究家のはいぼくは、言うのです。本作は、(眼鏡有)→(眼鏡無)→(眼鏡有)→(眼鏡無)→(眼鏡有)というように進行するが、その眼鏡のON・OFFの切り替えは「起承転結」という物語構造の転換に対応しているのだ、と。そして単に外面的なアイテムだと思われていた眼鏡は、実は物語構造の根幹をコントロールする最も重要な鍵の役割を果たしているのだ、と。まさにこの眼鏡に支えられた内面の描写力によって田渕由美子の人気は大爆発し、本作発表直後から本誌で縦横無尽の大活躍をするようになったのであります。

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こうして眼鏡が結ぶ二人の恋を、我々は温かい気持ちで応援することができるのであります。本当に、うらやましい、私もこんな恋がしたいのであります。
というわけで、この作品を「田渕由美子の”乙女チック”眼鏡っ娘マンガ」のひとつとさせていただきます。

■書誌情報

微妙にプレミアがついているけれど、手に入らないわけでもない。単行本『雪やこんこん』と、愛蔵版『全作品集Ⅰ』に所収。

単行本:田渕由美子『雪やこんこん』(りぼんマスコットコミックス、1976年)

愛蔵版:『田渕由美子全作品集 I 摘みたて野の花』(南風社、1992年)

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この眼鏡っ娘がすごい!第52回:田渕由美子「ローズ・ラベンダー・ポプリ」

田渕由美子「ローズ・ラベンダー・ポプリ」

集英社『りぼん』1977年8月号

日本人が知っておくべき新・三大「田渕由美子の”乙女チック”眼鏡っ娘マンガ」、まず一つ目は1977年『りぼん』8月号に掲載された「ローズ・ラベンダー・ポプリ」です。この作品では乙女チックの最重要概念である「ほんとうのわたし」が、ストレートに表現されている様子を見ることができます。ご覧ください。

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052_01まず有権者に訴えたいのは、田渕由美子が1970年代後半の集英社『りぼん』の看板作家だったということ。その証拠に、田渕由美子は『りぼん』の表紙を何度も担当するのであります。そのデータは、右に掲げた表に一目瞭然。大人気の田渕由美子は、同時期に『りぼん』で活躍した陸奥A子と太刀掛秀子と合わせて「乙女ちっく」と呼ばれ、少女マンガの新時代を牽引した中心作家だったのであります。
そんな田渕由美子の武器は、もちろん「眼鏡」。集英社『りぼん』レーベルから出ている単行本は7冊でありますが、なんとそのうち3冊の表紙が眼鏡っ娘。眼鏡っ娘が43%も表紙を飾るとは、同時期の少女マンガの常識では考えられない、圧倒的な眼鏡力なのであります。りぼん本誌の表紙にはさすがに眼鏡っ娘は少ないものの、1980年に担当した『りぼんオリジナル』の表紙は、なんと5回のうち4回が眼鏡なのであります!

052_02そんな田渕由美子が乙女チック人気絶頂時に発表したのが、この「ローズ・ラベンダー・ポプリ」であります。ヒロインの眼鏡っ娘・中里麦子ちゃんは、周囲からはちょっと風変わりな女の子だと思われているけれど、もうそんなのは慣れっこ。ここで注目していただきたいのは、「わたしのことをわかってくれる人なんてこの世に一人いればそれで十分よ」というセリフであります。これがそれ以前の少女マンガと乙女チックマンガとで決定的に異なる重要ポイントなのであります。従来の少女マンガのヒロインは、全ての人に愛されるようなキャラクターでありました。しかし眼鏡っ娘は、「万人うけ」を断固拒否。「ほんとうのわたし」を貫くことを決意しているのであります。これこそが田渕由美子の乙女チックの真骨頂であり、さらに言えば「眼鏡」が象徴しているのがまさに「ほんとうのわたし」なのであります。「ほんとうのわたし」とは眼鏡をかけているわたしのことであって、そんな私を眼鏡のままに「わかってくれる人」を眼鏡っ娘は待っているのであります。眼鏡を外して「ほんとうのわたしデビュー」などと言っているクソタワケには、田渕由美子の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいのであります。

しかしそんな眼鏡っ娘の態度は、外部には「素直じゃない」とか「意地っぱり」などと受け止められてしまうのであります。本当は眼鏡っ娘もコンプレックスを抱いているのであります。幼馴染の幾島静は、イケメンで頭もよく、そして優しい男の子。密かに幾島くんに恋している眼鏡っ娘は、コンプレックスのために告白することもできずに意地を張ってしまうのであります。「ツンデレ」と「意地っぱり」の違いは、このコンプレックスの有無にあります。コンプレックスゆえに素直になれない意地っ張ぱりの眼鏡っ娘を、しかし最後は幾島くんが受け止めるのであります。眼鏡っ娘を眼鏡のまま受け止めてあげられる男こそが、本当のヒーロー、乙女チックマンガのヒーローにふさわしいのであります! 眼鏡を外さないと女を受け入れられない男は、ただの外道だから地獄に落ちればいいのであります!

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最後に素直になれた眼鏡っ娘の涙は、本当に心を打つのであります。コンプレックスを解消するのではなく、それもまた自分の一部であると素直に受け入れることによって、眼鏡っ娘は眼鏡のままに幸せになるのであります。
はいぼくは言うのです。眼鏡というアイテムは「ほんとうのじぶん」という概念と結びつけられることによって、ついに思想の域に達した、と。そして、田渕由美子こそ、眼鏡を単なる外見上のアイテムから少女のアイデンティティを表現する思想へと高めた作家なのだ、と。
というわけでこの作品を、新・3大「田渕由美子の”乙女チック”眼鏡っ娘マンガ」のひとつとさせていただきます。

■書誌情報

人気作家だったので入手先としていくつかの選択肢があるが、残念ながらどれもこれもプレミアがついていて、入手難度はちょっと高め。

単行本:田渕由美子『フランス窓便り』(りぼんマスコットコミックス、1978年)

文庫本:田渕由美子『林檎ものがたり―りぼんおとめチックメモリアル選』(集英社文庫―コミック版、2005年)

愛蔵版:『田渕由美子作品集★1フランス窓便り』(南風社、1996年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第51回:はいぼく「視力矯正めがねをかけろ」

はいぼく「視力矯正めがねをかけろ」

ラポート『ゲームコミック月姫2』2003年

出版元のラポートが2003年に倒産してしまって独占出版権が消滅しているので、著作権者の権限で全ページ掲載。

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ってことで、今回は素晴らしい眼鏡っ娘マンガの紹介じゃなくて、「あのころはこうだったよなあ」というインターネット老人会のようなノリの自分語りで恐縮しきり。

前回の磨伸さんと同じく、TYPE-MOONのアンソロジー集に掲載された作品だ。ラポート社には、ねこねこソフト『みずいろ』アンソロジーから参加していて、ねこねこ2作+月姫2作の都合4作描いたところで倒産してしまった。ラポート社が続いていたら、他の作品も全部この眼鏡ノリで押し切るつもりだったけど。DNAやエンターブレインからは声がかからなかったのでアンソロはこれっきりになった。いちおうアンケートでは人気があったようだと小耳に挟んでいて、眼鏡の野望にまた一歩近づいたと密かにほくそえんでいたんだけど、まあ仕方ない。
いちおう、4頁目の「魔人破天荒」は、磨伸さんの改名前のペンネームね。私の方は御本人に確認もとらずにしれっと描いちゃったけど、編集部の方では当然問題になって、きちんと確認してくれたようだ。このあたり、同人と商業は違うんだという意識がかなり低くて、今になって冷汗が出まくる。6頁目の西川魯介『屈折リーベ』の3コマぱくりなんて、同人にどっぷり浸かっていた当時だから恐れも知らずにやっちゃったことで、今の感覚から言えば、たとえ御本人に許してもらったとしても恐れ多くて実行できない。若かったねえ。

ラポートのビルは、新宿御苑の側にあった。JR新宿から南口を出て、甲州街道に沿って新宿御苑に向かう。新宿御苑は季節ごとの花や紅葉が美しく、歩くだけで心が躍った。ラポートビルに行くこと自体が楽しみだった。原稿はコンピュータで作成していたので、ネットで送ってしまえば一瞬で済むのに、わざわざCD-ROMに焼いて持って行った。編集部の部屋が、またワンダーランドだった。たぶん12畳くらいしかない部屋だったと思うけど、何年前からそこにあるのかわからない謎の資料が所狭しと山積していた。ここから『アニメック』とか『ファンロード』が生み出されていった、その場所に自分がいるというだけで、心が湧きたった。
編集長の小牧雅伸氏のことは「RXの人」と呼んでいた。もちろん、「RX-78」の名付け親だからだ。ちなみに当時私が使っていたコンピュータが、SONYのVAIOで型番がRX-75だったので、密かに「ガンタンク」と呼んでいたが、それはどうでもよい。小牧さんから「明るいイデオン」の話を直接聞いたりするだけで、全身の血液が沸騰する感じがした。ラポート倒産後も、ちゃんと年賀状が届いた。
ちなみに私をラポートに連れて行ったのは「歩く電波塔の会」きむら秀一だが、この話は墓場まで持っていかねばならない。

アンソロを描くとき、ラポートからはTYPE-MOONが用意した設定資料を渡された。門外不出。たとえ家族だろうと見せることは許されない。これを手にしたとき、なんだか特権階級になったかのような錯覚を覚えたが、とうぜん気のせいだ。いまでも家にある。

この頃から、樺薫の仲介を経て、私の家に高遠るいが出入りするようになった。実は彼は私の大学の後輩だったりする。当時彼はまだ「高遠るい」という名前ではなく、「しとね」と自称していた。その時はまだ世に出る前だったから当然彼の実力も知らず、「なんか絵を見せてよ」と何の期待もせずに言ったのだが、出てきたものにブッたまげた。モノが違うってのは、こういうことを言うんだろうなと。ジオンの兵士が、見たこともなかったガンダムを一目見ただけでガンダムと認識して戦慄するように、私は高遠るいの圧倒的な実力に鳥肌が立った。
ということで、私が主催していた同人誌に何冊か関わってもらったり、ラポートに紹介してねこねこアンソロジーに描かせたりしたけれど、もちろんそんな枠に収まるようなタマではないので、あっという間に各方面の編集者の目について、瞬く間に商業誌で活躍するようになった。TYPE-MOONのアンソロジーに関わった作家は何十人といるけれど、そのなかでも高遠るいと磨伸映一郎は、間違いなく変な奴ツートップだった。高遠るいが同人で描いていたシエルマンガは、他に描ける者が皆無という点で本当にすごかったが、今ではもう手に入るまい。
そんな高遠るいが、私の家で、樺薫と飽きもせずに延々と「ウンコ」の話をしていたのは、私しか知らない。

樺薫と高遠るいが「ウンコ」の話をしている横で描いていたのが、この眼鏡マンガだった。そのときは、こんな生活がしばらく続くのかなと思っていたけれど、とんでもなかった。樺薫も高遠るいもすぐに商業誌で活躍を始め、私の家からは遠ざかっていった。というか、別に私がいなくても、彼らは自分の足だけで立つことができる実力を持っている。私が関わらなくとも、いずれは世に出る才能だった。猛烈なエネルギーを蓄えたマグマが地上に噴出するとき、たまたま噴出した割れ目が私の所にあっただけの話で、それが私である必然性はなかった。が、それが私であったことに、ちょっとした誇りを感じてしまうのは、仕方ないよね。
私自身も、いまではマンガで原稿料を頂戴する機会もなく、別の道で生活している。でも、この作品を見ると、当時のことをまざまざと思い出す。現在からは想像もできないほどに眼鏡が不遇だった時代。10年以上前の絵柄だから、いまの眼から見れば当然不満だらけだ。コマ割りも拙い。でも、情熱だけはすごかった。あのときの熱量は取り戻すべくもないけれど、でも経験値を積み重ねた今だからこそできること、今しかできないことはたくさんあるはずで。やっぱり、今できることを着々と積み重ねていくことが一番大事なんだよなあと。オッサンになってみてしみじみと実感するのだった。

そんなわけで、これまでのオタク遍歴で培った眼鏡知識は、きちんと形にして残していかなくちゃと思ったのだった。

■書誌情報

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第50回:磨伸映一郎「TYPE-MOON作品集」

磨伸映一郎「TYPE-MOON作品集」

宙出版・一迅社・ラポート等、2002年~

我々は、現在進行形で創作世界の劇的な変化を目の当たりにしている。磨伸映一郎は、実は最も前衛的な領域を突っ走っている。自称芸術家の連中が「前衛」と称してくだらないママゴトをしている間に、磨伸映一郎は着実に世界を更新している。

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今回紹介する作品は、もともと「アンソロジー」と呼ばれる種類の本に掲載されていた作品を集めたものだ。あるオリジナル作品に対するパロディ作品を集めて一冊にまとめたものを「アンソロジー」と呼び、もともとは1990年代に女性向け作品から市場を形成し(『ガンダムW』が目立っていた)、21世紀に入る頃に男性向け市場が広く形成された(『こみっくパーティー』が火付け役だろう)。
050_03そのような「アンソロジー」の中で、極めて特異な性質を持つのが「TYPE-MOON」作品のアンソロジーで、その中でも一際異彩を放っているのが磨伸映一郎だ。まあ、ここまでは衆目が一致するところだろう。が、磨伸映一郎の仕事は、私の見立てでは、そのような世間一般の評価をはるかに凌駕する前衛的な領域を形成しつつある。作品そのものの解説については、『月の彼方、永遠の眼鏡』所収の奈須きのこによる解説に付け加える文字は一つもないので、私は外堀を埋めるような話だけ。

まず「TYPE-MOON」のありかたそのものが、TRPG的だということを指摘しておきたい。私は当初からTYPE-MOON作品にTRPGの影響を感じていたが、奈須きのこ氏御本人と一度だけ話をする機会があって、そのときに自信が確信に変わった。『月姫』はTRPG的想像力の中で可能性が最大限に引き出されたために、大きな説得力を持つ作品へと成長した。
いちおう一言添えておくと、「TRPG」とは「テーブルトーク・ロールプレイングゲーム」のことだ。コンピュータRPGでは、プレイヤーの行動に対する結果は、コンピュータが演算する。TRPGでは、プレイヤーの行動に対する結果は、人間であるゲームマスターが判断する。コンピュータでは、あらかじめ決められたアルゴリズムに沿って結果を算出するしかないが、人間が判断を下す場合、そこに人間らしい想像力が付け加わる。人間であるプレイヤーと人間であるゲームマスターがコミュニケーションを重ねる過程で、コンピュータのアルゴリズムでは思いつくはずもない、極めて斬新な結果が生まれることがある。だからTRPGは楽しい。そしてTRPGを素晴らしいものにするためには、(1)魅力ある世界観(2)ゲームマスターの采配力(3)プレイヤーの独創力が不可欠だ。
050_04このようなTRPG文化の中から生み出された最初の成果が『ロードス島戦記』や『蓬莱学園』という作品に見える。そして発展を続けるTRPG文化は、21世紀に入って、TYPE-MOONというあり方そのものを生み出すに至る。奈須きのこという希代のゲームマスターに対して、それに負けないくらいの個性的なゲームプレイヤー達が「作品そのもの」に参戦する。渡辺製作所しかり、虚淵玄しかり、磨伸映一郎しかり。彼らが個別に生み出す作品だけでなく、彼らが積み重ねるコミュニケーション全体が実はTYPE-MOON-TRPGという一つの大きな作品へと織りなされていく。ここで形成された文化が既存の「同人」と大きく異なるのは、ゲームマスターという存在がいるかいないかという点だが、創作という意味ではこれが決定的な違いとなる。
既存の近代的な批評観念では、TYPE-MOON作品のようにゲームマスターの采配のもとで大量のプレイヤーを巻き込みながら進化発展を続ける「生き物としての作品」を把握することは不可能だ。その最大の過ちを犯したのが、評論家の東浩紀だろう。彼には不幸なことに、TRPGに対するセンスが完全に欠如していた。ボードリヤール流の「複製芸術」観念を持ちだして理解しようとするのが関の山と言ったところだったが、それではTRPG的世界を一覧することはできない。磨伸映一郎の作品を理解することはできない。
結論を言えば、磨伸映一郎が一連のアンソロジーで行っていたことは、単なるパロディではない。TRPGだ。その証拠に、ゲームマスター奈須きのこからのリアクションがあり、さらにそれにたいする応答まであった。プレイヤーとマスターの間でコミュニケーションを積み重ねながら世界観がより豊かに深まっていくとき、もはやそれはパロディを超えている。二人のコミュニケーション自体が一つの世界を作る創作行為だ。
そして、重要なことは、TRPGがゲームとして成立するためには、マスターがプレイヤーをプレイヤーだと認めなければならないところだ。常識的な作品世界では、アンソロジー作家をゲームのプレイヤーと認定することはありえない。そんなことができるのは、TRPG的センスを濃厚に持ちつつ、さらにゲームマスターとしての采配を振るうだけの実力も持っているTYPE-MOONだけだ。そして、希代のゲームマスターの期待に応えられる独創的なプレイヤーは、そうゴロゴロと世の中に転がっているわけではない。磨伸映一郎は、その才能を持っていた。磨伸映一郎の仕事とは、実は極めて限定的な条件の下でしか起こりえない、前代未聞の創作活動なのだ。

(ただし言い添えておくと、プレイヤーとしての立ち位置は、今回紹介したアンソロジー集と現在連載中の『氷室の天地』ではまったく異なる。『氷室の天地』は現在進行系の作品なので、落ち着いたときにでも、また改めて。)

■書誌情報

磨伸映一郎のアンソロジー集は、2015年現在で4冊出版されている。刊行年順に、『月の彼方、永遠の眼鏡』(一迅社、2006年)、『月光はレンズを越えて』(宙出版、2007年)、『月の彼方、永遠の眼鏡2』(一迅社、2010年)、『月光はレンズを越えて改二』(一迅社、2014年)。
ちなみに本文中ではほとんど触れるヒマがなかったし、私が言うまでもないことではあるが、もちろんすべてが眼鏡愛に満ちている。

『月の彼方、永遠の眼鏡 TYPE-MOON作品集』(一迅社、2006年)
『月の彼方、永遠の眼鏡 2 TYPE-MOON作品集』 (一迅社、2010年)
『月光はレンズを越えて』 (宙出版、2007年)
『月光はレンズを越えて 改二』 (一迅社、2014年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第49回:雁須磨子「いばら・ら・ららばい」

雁須磨子「いばら・ら・ららばい」

講談社『One more kiss』2007年3月号~09年7月号

049_02茨田あいは、眼鏡っ娘24歳フリーター。とても美人で、スタイルもいいのに、要領よく世の中を渡っていけない。というのも、他人とコミュニケーションをとるのが苦手だからだ。他人の何気ない一言で傷ついて、ふつうにしていても他人の心を傷つけてしまう。そして自分が傷つくことよりも、他人を傷つけることのほうに心が痛む。そしてさらにコミュニケーションが苦手になっていく。そんな不器用な茨田さんが、新しいバイトの職場で、同じように生き辛さを抱えた人たちと一緒に、ゆっくり心を繋げていくお話し。

世間では「絆」なんてスローガンがもてはやされて、人間関係をハリウッド映画に登場する家族のように人工的に構築しようとしている勢力もあるけれど。まあ、たまにはそういうのもいいかもしれんけど。でも、人と人との繋がり方って、それだけじゃないよなあと。声の大きい体育会系が「絆」なんて言葉を元気に前面に打ち出せば打ち出すほど、隅っこで縮こまるしかないような人間だって、世の中にはいるんだよ、と。そういう生き辛さを抱えた面倒くさい人たちが、それでも自分の足で立っていられるのは、取るに足らない具体的なコミュニケーションを少しずつ積み重ねるなかで、「伝わった」という実感をほんの少しだけでも確認できるから。本作は、そんな細かなコミュニケーションの描写の一つ一つに、ずしんと説得力がある。

049_03本作は、大きな事件も起こらず、ドラマチッックな展開とも無縁で、些細なコミュニケーションが成立したりしなかったりする中で、生き辛い人がそれでもよちよち生きていく姿を描いている。それゆえにか、読んだ後、なんだかホッとする。たぶん、自分自身が抱える生き辛さも、ちょびっとだけ減ったような気がするからなんだろう。

本作の眼鏡っ娘・茨田さんのキャラクターは、造形も性格も、実はとてもユニークだ。真っ黒でボリュームのある長い髪の毛、太めの眉毛、存在感のある黒縁セルフレーム。シルエットだけで茨田さんだと分かる。特に素晴らしいのは、眼鏡を外して美人などという愚かな描写が皆無なところだ。眼鏡っ娘がメガネのまま美人として認識される。この当然と言えば当然の描写が実はできない作家が多いのだが、さすが雁須磨子の描写力は安心だ。
性格は、まあ、面倒くさい。だが、それがいい。茨田さんが幸せになってくれて、心の底から良かったと思える。

049_04雁須磨子は、そこそこ眼鏡っ娘を描いている。主な作品についてはしかるべき機会に改めてご紹介できればと思うので、ここではひとつだけ。右に引用した「保健室のせんせい」は16頁の小品だが、他の作家には出せない独特の眼鏡感が出ている佳作だ。中学校で養護教諭を務めている眼鏡先生の日常の一コマを描いた作品で、実に味わい深い。保健の先生ならではの「業」と「エロス」をコンパクトに描き切っていて、しかも眼鏡感がすごい。眼鏡あるべくして眼鏡という空気の作品に仕上がっている。こういう作品が描ける作家は、他には思いつかない。

■書誌情報

049_015年前の作品だけど、もう新刊では扱ってないのかな? いまのうちなら古書で容易に手に入れることができる。

単行本:雁須磨子『いばら・ら・ららばい』(KCデラックスKiss、2009年)

「保健室のせんせい」は単行本『あたたかい肩』に所収。電子書籍で読むことができる。単行本出版は2010年だけど、作品初出は2002年。

Kindle版:雁須磨子『あたたかい肩(ビームコミックス、2010年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第48回:柊あおい「星の瞳のシルエット」

柊あおい「星の瞳のシルエット」

集英社『りぼん』1985年~89年

048_02脇役だからこそ、ひときわ輝く眼鏡っ娘がいる。本作の眼鏡っ娘、沙樹ちゃんは、その代表といえよう。この沙樹ちゃんのおかげで眼鏡DNAが覚醒した者も多い。たとえば、眼鏡友の会/E.Cとか。

さて、 香澄、真理子、眼鏡っ娘の沙樹は、仲良し三人組。いちおう主人公は香澄ちゃんだが、顔がかわいい以外にはたいした取柄がない。そんな香澄ちゃんには久住くんという運命の相手がいるのだが、その久住君を真理子が好きになってしまう。要するに三角関係。そこにプレイボーイの司くん(眼鏡っ娘の幼馴染)が香澄ちゃんを狙って割り込んできた。眼鏡っ娘は、外部から冷静な批評者として行動することになる。

まあ結果としては香澄と久住くんがカップルになるのだが、そんなことはどうでもよい。香澄と久住くんは、よくもまあ連載5年、単行本10巻分も、モヤモヤの関係を続けられたもんだ。見ているこっちの方がイライラする。そう、読者の立場からして、香澄ちゃんにちっとも感情移入できないのだ。一方の真理子にもイライラする。いいかげん、自分の立ち位置に気づけよ!という。感情優先の真理子にもイライラするし、道徳優先の香澄にもイライラする。そこで燦然と輝くのが、もっとも理知的な眼鏡っ娘なのだ。いや、もはや人間として尊敬できる対象が、眼鏡っ娘しかいないのだ。香澄と真理子だけではちっとも進まなかったストーリーが、眼鏡っ娘が出てきた途端に見通しが良くなる。話がすっきりして、気持ちもハレバレする。眼鏡っ娘カタルシス。こうして我々は眼鏡っ娘にハマっていく。

このシステムを、私は「キャラクター有機体構造」と呼んでいる。主人公クラスの登場人物が3人以上いる場合、それぞれのキャラクターに代表的な価値観を割り振って、役割を分担させる。もっとも分かりやすいのが、「星の瞳のシルエット」に見られるような「道徳的(香澄)/感情的(真理子)/理知的(沙樹)」という役割分担だ。すると、物語の中で「道徳的な香澄」と「感情的な真理子」が対立することは、一人の人間の心の中で起こる「道徳的な部分」と「感情的な部分」の対立に代入して理解することができる。このシステムを用いることによって、眼には見えない心の中の動きや関係を、物語という形で眼に見えるように明らかにすることが可能となる。このシステムは「星の瞳のシルエット」が初めて開発したわけではなく、今から2300年前のギリシャで活躍した哲学者プラトンが『国家』という本の中で明らかにしている。少女マンガでは1970年代後半から「キャラクター有機体構造」を採用する作品が増加し、1980年代半ばには大きな支持を得るようになる。その発達は、「熱血/クール/チビ/デブ/女」というガッチャマン型有機体構造が「熱血/クール/女」というウラシマン型有機体構造へと洗練される過程と軌を一にしている。さらに1990年代以降、「キャラクター有機体構造」は、ギャルゲーの中で独特な進化を遂げていくことになるだろう。

このような有機体構造において、眼鏡っ娘は一貫して理知的なポジションで働いてきた。有機体構造で動かすキャラクターは、あまり複雑な人格にしないほうがよい。より価値観を純粋に体現したキャラクターであるほど有機体構造の働きが見えやすくなるため、一つのキャラクターの中に複雑な価値観は同居させないほうが物語はうまく運ぶ。というとき、ある集団の中に眼鏡は一人、そして理知的なポジションをとるようになる。これは有機体構造を煮詰めた場合の必然的な結果といえる。もっとも煮詰まった形が「星の瞳のシルエット」であり、だからこそ「理知的」な人間は圧倒的に沙樹ちゃんに心惹かれるしかないのだ。ウダウダしている香澄や空気が読めない真理子は、あんぽんたんのウスノロにしか見えない。

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だからというか。沙樹ちゃんが有機体構造から抜け出して独立した一つの人格として行動したとき、それまでの世界がいっぺんに裏返ってしまうような、途方もないカタルシスを味わうことになる。最後まで有機体構造の枠の中で行動した香澄や真理子があくまでも作者の価値観を代表していたのに対し、沙樹だけは個性ある人格となった。「星の瞳のシルエット」は、沙樹の物語なのだ。

■書誌情報

全国250万乙女のバイブルだけあって、たいへんな人気があり、古本で全巻容易に手に入る。

単行本セット:柊あおい『星の瞳のシルエット』全10巻完結セット (りぼんマスコットコミックス)

ところで、「パンをくわえた遅刻少女」について、そんな実例が少女マンガの中に本当にあるかどうか疑っていた時期があったが。はい、ありました。「星の瞳のシルエット」で、沙樹がパンを咥えて登校していた。数万作の少女マンガを読んできた私であるが、実際にパンを咥えて登校するキャラを見たのは、これを含めて2例しかない。新人賞受賞のとき、一条ゆかりに「古臭い」とコメントされただけのことはある、誰にも真似のできないすごいセンスだ。そこにシビれるあこがれる。

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第47回:田沼雄一郎「少女エゴエゴ魔法屋稼業」

田沼雄一郎「少女エゴエゴ魔法屋稼業」

白夜書房『ホットミルク』1988年

作品そのものに言及する前に、雑誌『ホットミルク』に関する客観的なデータを確認したい。この作品の持つ意味が明らかになる。

047_011986年から1998年の『ホットミルク』に掲載された投稿イラスト(総数は約18000枚)のうち、眼鏡っ娘がどれだけ描かれていたかを比率で算出した。結果を表とグラフにまとめたものを右に掲げておく。
まず1988年に大きな山があることがわかる。これは、1988年7月号の投稿イラストのお題として「めがねをかけた少女、実は眼鏡をはずすとすっごくかわいい」が提示されたことによる。この反動的なお題に対して、投稿者は「かわいい娘は眼鏡をかけていてもかわいい」という主張で応じた。素晴らしい。1988年の段階で、一定の眼鏡勢力が形成されていたことが分かる。
047_02その勢いを受けて、同年9月号の「早瀬たくみのうるうるしちゃった」(読者投稿コーナー)の募集要項において、「メガネの女の子好き?!」というお題が示された。同年10月号の投稿では、「メガネっ娘」という単語を2例、「めがねっ娘」という単語を2例、確認することができる。確実に眼鏡勢力が定着している。
この1988年に『ホットミルク』に登場したのが、田沼雄一郎「少女エゴエゴ魔法屋稼業」という眼鏡っ娘作品であった。この作品が眼鏡勢力の覚醒に何らかのかかわりを持っていることがうかがえるだろう。
ちなみに1997年の大躍進は、『乳居者募集』というイラストコーナーの担当が無類の眼鏡っ娘好きになったことによるものだが、この話はしかるべき機会に。
『ホットミルク』は他のエロマンガ雑誌と比較しても、読者投稿イラストの眼鏡イラストは顕著に多かった。それには『ホットミルク』ならではの理由がある。1980年代後半の眼鏡っ娘イラストは、実は同誌名物編集者O子氏の似顔絵が多かったのだ。このO子氏のイラストをきっかけにして眼鏡っ娘マンガで商業誌デビューする作家もいたくらいで、彼女が果たした眼鏡界への貢献は、実はものすごいものがある可能性がある。前回紹介した「ファントムシューター・イオ」も、O子氏がいる『ホットミルク』だったからこそヒロインが眼鏡だった可能性すらあるのではないか。

さて、前置きの方が長くて恐縮ではあるが、本題である。

※以下、性的な話が多いので、苦手な人は回避してください。

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まあ、とにかくエロかった。ほんともうエロエロでしたわー。
眼鏡っ娘が、悪いやつらにとことん酷い目に遭わされるんですわ。もう、とにかく酷い。ぐちゃぐちゃのドロドロ。げちょげちょのエロエロ。そして最後にトドメを刺されようとしたとき、眼鏡っ娘が魔法の力で大変身。必殺仕事人よろしく、悪いやつらが処刑されて、スカッとして終わる。しかしこの話、単なる勧善懲悪で終わらないところがすごい。エロいうえに、読ませる。
そんなわけで、第二回の「メガネっ娘居酒屋委員長」だったと思うけど、出演者が最も影響を受けた眼鏡っ娘マンガを持ち寄るという企画の時に、平野耕太が持ってきたのがコレだった。そうそう、これこれ、眼鏡っ娘がべろんちょのぐろんちょでハァハァですわ!ってことで、激しく同意したのだった。

■書誌情報

単行本『PRINCESS OF DARKNESS』に全編所収。でもやっぱり「少女エゴエゴ」って呼んじゃうなあ。今は新装版が手に入りやすいが、値段は古本としても下がっていない。やはりマニアの間では評価が高いようだ。
単行本:田沼雄一郎『プリンセス・オブ・ダークネス』(ホットミルクコミックス、改訂増補新装版1996年)

そして1988年のエゴエゴの後、同年9月号に銀仮面「TWO IN ONE」でデビュー、翌89年1月号にるりあ046「ファントムシューター・イオ」、89年3月号に田沼「続エゴエゴ」、89年6月号には巻頭から3連発で眼鏡っ娘マンガ魔北葵「MAKING」、新貝田鉄野郎「調教師びんびん物語」、泉拓樹「OL戦記悶絶変」)が掲載される。天竺浪人も良質な眼鏡っ娘を量産する。眼鏡っ娘躍進への大きな基盤が『ホットミルク』に作られたのであった。

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