この眼鏡っ娘マンガがすごい!第86回:植芝理一「ディスコミュニケーション」

植芝理一「ディスコミュニケーション」

講談社『月刊アフタヌーン』1992年2月号~2000年11月号

90年代を代表する眼鏡っ娘マンガといってよいだろう。眼鏡っ娘が9年にも渡ってヒロインとして活躍し、比類なき魅力を広く世間に知らしめた、その功績は計り知れない。魅力の一端は絵柄を一瞥するだけで感得することができるだろう。かわいい。
ただしというか。客観的には代替の効かない眼鏡っ娘傑作であることに間違いないのだが、私個人の主観的感情からすると、すんなりと腑に落ちないものもある。おそらくそのモヤモヤした主観的感情も含めて、眼鏡っ娘を語るときには外すことのできない作品と言える。
さて、私がどこにモヤモヤしているのか。次のエピソードを見れば、そのモヤモヤを共有してくれる人は多いはずだ。

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主人公の松笛は、明らかに眼鏡に対してまったく魅力を感じていない。眼鏡をかけた戸川はこんなにかわいいのに、その眼鏡ゆえの魅力を完全無視しているのだ。松笛は「変態」として、戸川に様々な行為を要求するにも関わらず、眼鏡をいじることはない。松笛の言動からは、眼鏡に対するリスペクトを一切感じ取ることはできない。松笛には眼鏡DNAが完全欠如しているのだ。
読み進めていくうちに、作者自身に眼鏡DNAが欠如しているとしか思えないエピソードが次々と登場する。

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人間のクズ登場。眼鏡っ娘のかわいさが、なぜ分からんか!
自分自身でこんなにかわいい眼鏡っ娘を描いておきながら、作者は眼鏡の魅力を自覚していなかったとしか思えない。それは、単行本で明かされた「メガネの理由」にも明らかだ。

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ということで、作者自身の弁によれば、戸川が眼鏡であることに「特に理由はない」。深読みする必要は全くなく、作品自体を読めば「そうなんだろうな」と素直に納得できる。「ただなんとなく」という理由で、戸川は眼鏡っ娘になったのだ。
だが、それでいい。
描いた作者自身が自覚しなくとも、眼鏡っ娘の魅力は確かにここに宿ったのだ。それは読者からの支持に明らかに示される。作者の意図を超えて、眼鏡の力が本作を覆うことになる。それは眼鏡への態度の変化に顕著にあらわれる。既に具体例で確認したように、本作は当初のうちは眼鏡をダサいものとして扱っていた。しかし連載が続いていくうちに、その傾向は完全に払拭される。集合的無意識の働きによって、眼鏡の力が正当に認識されていったのだ。
何の曇りもない目で見れば、どう見ても、戸川は圧倒的にかわいい。「眼鏡はダサい」という歪みきった観念で脳みそを曇らされているうちは分からないが、エポケー(フッサール現象主義の用語で、あらゆる先入観を排除して世界と対峙すること)して戸川を見てみれば、圧倒的な魅力なのだ。
このように、作者が眼鏡の魅力を意識せずにたまたま描いたにも関わらず、世間の評価によって眼鏡の魅力が明らかになる例を、我々は既に見た。鳥山明「Dr.スランプ」(第77回)も、そうだった。さらに言えば、実は眼鏡DNAを持たない作者だからこそ、ここまで魅力的な眼鏡っ娘を世に送り出すことができたのかもしれない。その諧謔の可能性に思考が及んでしまう故に、私は本作によってモヤモヤさせられてしまうのだろう。

さて、戸川の魅力は見れば分かるのでいいとして。本作は他にも眼鏡的に興味深い点がいくつかある。一つは、「貼り付き眼鏡」だ。「貼り付き眼鏡」については、第56回で解説した。デッサンが狂った眼鏡のことだ。本作では、戸川の眼鏡は貼り付いていない。ちゃんと描かれている。ところが驚くべきことに、他の眼鏡キャラの眼鏡が貼り付いているシーンがあるのだ。同じコマの中に貼り付き眼鏡と貼り付いていない眼鏡が同時に描かれる例は、他にないのではないか。引用の一コマ目に注目してほしい。左側の戸川の眼鏡は貼り付いていないが、右側にいる万賀道雄というキャラの眼鏡は貼り付いている。

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デッサンの狂い自体に、問題はない。問題は、同じコマの中に、どうして貼り付きと貼り付きじゃない眼鏡が同居できるかという、理論的にはまったく理解不可能な現実だ。つくづく不思議な作品だ。しかしこの万賀道雄というキャラが、明らかに藤子不二雄「まんが道」のパロディであることを想起すると、この貼り付き眼鏡には恐るべき意図が隠されている可能性がある。貼り付き眼鏡が忠実な藤子不二雄パロディであるとしたら、恐ろしすぎるとしか言いようがない。

もう一つは、「見る意志」についてだ。本作の結論めいたエピソードにおいて、戸川というキャラクターの特徴が「見る意志」であることが言明される。

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この「見る意志」を象徴するものがまさに眼鏡であることは、本コラムにおいて何度も言及してきた。本作作者は、戸川の眼鏡に理由はないと言っていた。しかし作品自身は、戸川の眼鏡が「見る意志の象徴」であることを明らかに示している。これが作者の韜晦なのか、それとも集合的無意識が作り上げた眼鏡の力によるものなのかはわからない。まあ、理由はどうでもよいだろう。本作が眼鏡っ娘マンガの傑作であることだけは、もはや疑いようがないのだ。

■書誌情報

単行本は、イレギュラーな形で出版されている。本編13巻+学園編1巻+精霊編3巻の、全17冊。新装版は、全7巻。

単行本セット:植芝理一『ディスコミュニケーション』全13巻
単行本セット:植芝理一『ディスコミュニケーション精霊編』全3巻
Kindle版:植芝理一『ディスコミュニケーション学園編』
新装版セット:植芝理一『ディスコミュニケーション新装版』1-7巻セット

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第84回:CLAMP「魔法騎士レイアース」

CLAMP「魔法騎士レイアース」

講談社『なかよし』1993年11月号~96年4月号

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鳳凰寺風ちゃんは、眼鏡っ娘の歴史を考える上で絶対に忘れてはならない、決定的に重要な役割を果たしたキャラクターだ。現代眼鏡っ娘はここから始まったと言っても過言ではない。その重要性は、客観的なデータに明らかだ。コミックマーケット「カタログ」のサークルカット調査の結果を見れば、眼鏡っ娘の飛躍が鳳凰寺風ちゃんの活躍から始まったことは、一目瞭然なのだ。

084_08右のグラフは、コミケカタログに掲載されたサークルカット全てに目を通して描かれている眼鏡キャラの数をカウントし、全体に占める割合を算出し、開催回順に並べてグラフ化したものだ。赤の線が眼鏡っ娘比率の推移を示している。80年代半ばから90年代前半まで、眼鏡っ娘の暗黒時代が続いていることが分かる。80年代初頭に眼鏡っ娘比率がまだ高かったのは、オリジナル作品に眼鏡っ娘がいたからだ。しかし80年代後半から高橋留美子作品のアニパロがコミケを席巻するようになると、眼鏡っ娘の姿を見かけることはほとんどなくなってしまう。暗黒期は1990年代前半の「セーラームーン」と「ストリートファイターⅡ」全盛期も続く。悔しい。その停滞期をようやく打破したのが1995年夏であり、その突破口になったのが本作「レイアース」の眼鏡っ娘、鳳凰寺風ちゃんだった。1995年にはサークルカット全体に占める眼鏡っ娘の割合は0.92%だが、その約半数は風ちゃんだった。アニメの放映が1994年10月に開始され、翌年夏開催のコミケサークルカットに風ちゃんが大量に描かれたのだ。ここで突破口が開かれたことによって、後の眼鏡っ娘躍進が可能となった。彼女の活躍がなかったらどうなっていたかを想像すると、心底ゾッとせずにはいられない。

本作の構成の特徴は、TRPG的想像力から派生した「キャラクター有機体構造」にある。本作では、主要登場人物が「光/海/風」と3人いて、それぞれがある価値観を代表している。本作の場合、「光=道徳的/海=主意的/風=理知的」というように価値が割り振られている。そうすると、光と風が対立するエピソードは、一人の人間の心の中の「道徳的判断」と「理知的判断」の葛藤と相似的に読むことができる。逆にいえば、目に見えない人間の心の動きと葛藤を分かりやすく描写することは難しいが、価値観を擬人化して物語の中でキャラクター間の葛藤を描くことで、人間の心の葛藤を目に見えるように描くことが可能となるのだ。

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同じように、海と風の対立は、「主意的判断」と「理知的判断」の間の葛藤を表現している。

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キャラクター間の対立が具体的なエピソードで描かれることによって、読者の心の中に葛藤が惹起される。そしてキャラクター同士の和解と問題の解決は、一人の人間の心の統合と安静を意味する。一人の人間の心の構造とキャラクターの構造を相似的に組み立てることによって、物語自体に大きな説得力が付与されるのだ。
084_02このようなアイデアは本作が初めて採用したわけではなく、既に2400年前のギリシア時代に哲学者プラトンが『国家』によって明らかにした原理だ。少女マンガにおいても、80年代半ばの柊あおい「星の瞳のシルエット」(第48回で言及)等に見ることができる。また1990年代前半の竹本泉作品やギャルゲーで独自な進化を遂げたことにも言及した(第83回)。しかし本作が特に成功した要因は、90年代前半に説得力を持ち始めた「TRPG的想像力」と「少女マンガ技法」を組み合わせた地点に「有機体構造」を構想した点にあると思う。
「TRPG的想像力」の創造的意義については、磨伸映一郎作品に言及するなかで触れた(第50回)。TRPGでは、個性ある能力を持つキャラクターが「パーティ」を組む。この「パーティ」という概念と、プラトン的な「有機体構造」の発想は、非常に親和的だ。プラトンの理屈なんか知らなくとも、「パーティ」という概念を理論的に推し進めていけば、必然的に「有機体構造」に行く着くと言ってもよい。本作の3人組がTRPGの「パーティ」に当たることは、敢えて説明するまでもなく一目瞭然だろう。この「パーティ」の中に「眼鏡っ娘が一人いる!」という構成の、なんという説得力。
084_07そして、「3人組のなかに眼鏡っ娘が一人いる」という様式は、柊あおい「星の瞳のシルエット」を見ればわかるように、実は少女マンガではよく見る様式だった。松苗あけみ「純情クレイジーフルーツ」なり、わかつきめぐみ「グレイテストな私達」などを想起してもよい。CLAMPが「3人組のうち一人が眼鏡っ娘」という様式を採用したのは、少女マンガ技法の伝統を踏まえれば、必然だ。そしてそれによって、麻宮騎亜が「サイレントメビウス」でできなかったことを、CLAMPはやってくれた。「ガルフォース」や「バブルガムクライシス」ができなかったことを、CLAMPはやってくれた。高橋留美子がしてくれなかったことを、CLAMPはやってくれた。この「パーティのなかに、眼鏡っ娘が一人いる!」という説得力は、実は少女マンガ技法を踏まえなければ出てこなかったのだ。そしていったん説得力を持った技術は、普遍化する。CLAMP後は、あらゆるパーティの中に眼鏡っ娘の姿を見ることになるだろう、ありがたや。
(そういう意味で、前回で触れたように、少女マンガ技法を踏まえた竹本泉がいち早く「パーティ」に眼鏡っ娘を組み入れていた事実はとても重要なのだ。また、「セーラームーン」のパーティに眼鏡っ娘がいなかったことの意味は、それがTRPG的パーティではなく「戦隊」であったということか。)

さてしかし。もしもキャラクターが単に価値観を代表しているだけだったら、キャラは作者の操り人形に過ぎず、独立した人格と呼ぶに値しない。もしもそういうキャラであったら、我々はこれほどの魅力を風ちゃんに感じることはなかっただろう。風ちゃんが個性ある人格だからこそ、我々は風ちゃんに惹きつけられる。キャラクターが単なる価値の代表であることを超えるのは、「恋」の場面だ。

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うおお。めっちゃかわいい!
恋の瞬間、そこには価値観が擬人化されたキャラではなく、一人の人間がいる。我々はだからこそ、風ちゃんに惹かれる。CLAMPは、ちゃんとそのことも分かっていた。つくづく、すごいクリエイターだと思う。

■書誌情報

本編全3巻と、続編全3巻。新装版は新刊で手に入るし、旧版も人気があって大量に出回っているので、手に入れやすい。緑が風ちゃんの番。

新装版単行本全3巻セット:CLAMP『魔法騎士レイアース』完結セット
新装版単行本全3巻セット:CLAMP『魔法騎士レイアース2』完結セット

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第81回:竹本泉「パイナップルみたい」

竹本泉「パイナップルみたい」

講談社『なかよし』1982年7月~12月号

081_02「パラダイム・シフト」という言葉がある。知識や技術が連続的に発達を続けていって、それがある水準に達した時に、知識や技術がそれまでの常識を超えて一気に「不連続」に展開する事態を、「パラダイム・シフト」と呼ぶ。「不連続の特異点」を説明した言葉だ。眼鏡を描画する技術の発展過程にも、いくつかの特異点があるように見える。私の見立てでは、重要な特異点の一つは1980年代前半にある。1970年代の「乙女ちっく」によって連続的な発達を続けていた眼鏡描画技術は、1980年代前半にパラダイム・シフトを起こしたように見えるのだ。前代の最終進化形態が太刀掛秀子「まりの君の声が」(第11回で触れた)で、新時代の幕開けが竹本泉・ひかわきょうこ・かがみ♪あきらの眼鏡描写に見えるように思う。前代と新時代の最大の違いは、敢えて「萌え」と言わせていただく。太刀掛秀子の眼鏡は「萌え」ではないが、竹本泉・ひかわきょうこ・かがみ♪あきらの眼鏡は「萌え」だ。

081_04さて、本作のヒロインは眼鏡っ娘女子高生かおり。恋というものがまったくわからない、色気なしの女の子が、友達に影響されながら、だんだん恋に目覚めていくお話し。恋愛話はアッサリしたもので、起承転結の盛り上がりというものは見られない。だが、それがいい。とにかく、きゃおりがかわいすぎる。後の竹本作品に見られる特有の不思議な世界というものはないが、竹本節の片鱗は随所に見られる。起承転結や話のメリハリなんてなくてもかまわない。ただただ、読んでいて心地いい。この空気感は、他の作家には出せない。

問題の眼鏡描画技術だが、客観的に比較した時には、太刀掛秀子の眼鏡との差異はそれほど大きくない。フレームの形、レンズの光、省略の仕方など、客観的に言葉にしようとしても上手く表現することはできない。だが、受け取る印象は、明らかに違う。客観的に言葉で表現することができなくとも、これまで私が積み重ねてきたオタク経験が教えてくれる。これは、「萌え」だ。そしてこの「萌え」の原因を言語化しようとすれば、前代までには存在しなかった「男性目線」による刺激を考えざるを得ない。少女マンガが積み重ねてきた技術に「男性目線」という要素が加わったときに、それまでにはなかった新しい眼鏡描写が生まれたのではないか。ただの男性目線だけでは、この萌え眼鏡は描けない。男性目線を維持したままの才能が「少女マンガ」の眼鏡技法を手に入れた時に、おそらく初めて萌え眼鏡が生み出される。そして同じ状況は、かがみ♪あきらの眼鏡にも当てはまる。(ただ、ひかわきょうこに同じ「萌え」を感じる理由は、よくわからない)。そして「男性目線+少女マンガ技法」というパラダイムにおける最終進化形態は、おそらくCLAMPで達成される。それについてはまた別の機会に。

ちなみに、きゃおりの母親の眼鏡も超萌え。

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■書誌情報

同名単行本全1冊。SF(少し不思議)テイストがない竹本泉作品というのは、実はレアか。復刊した新刊でも手に入るし、古本でも比較的容易に手に入るので、世界平和のためにも一家に一冊そろえたい作品。

単行本:竹本泉『パイナップルみたい』(新刊=BEAM COMIC2009年、古本=講談社1983年)

 

 

 

 

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第67回:渡千枝「めがね色の恋わずらい」

渡千枝「めがね色の恋わずらい」

講談社『ラブリーフレンド』1982年4月号

067_02まず、タイトルがいい。話の内容は、それまで恋愛にまったく関心のなかったガリベン眼鏡っ娘が恋に目覚めるという、取るに足らない恋愛話だ。だが、それがいい。

所詮と言っては失礼ではあるが、恋愛少女マンガは男と女(あるいは男と男、女と女)がくっつくか離れるかを描いているに過ぎない。恋愛マンガを「形式」だけに注目してみれば、そのバリエーションは極めて貧弱だ。恋愛マンガをバカにする人々が世間にはそこそこ存在するが、彼らは形式の貧弱さを以てくだらないと判断している。顔がいいとか頭がいいとか運動ができるとか、なにがしかのパラメーターが高いという理由で恋愛が成就するとしたら、それはたしかにくだらない作品になりやすい。しかし恋愛マンガのおもしろさの源泉は、その形式ではなく、「キャラクターの個性」にある。丁寧なエピソードの積み重ねによって人物がしっかりと描かれて、「ああ、この人のこういうところを好きになったんだな」と読者が納得できたとき、初めて恋愛マンガがおもしろくなる。「マンガはキャラクターが勝負」という箴言が大昔から語り継がれている所以である。
その意味で、本作はとてもおもしろい。眼鏡っ娘の個性が、具体的なエピソードの積み重ねによって、丁寧に描かれているのだ。相手の男が眼鏡っ娘を好きになった理由もよく分かる。

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キャラクターの個性が丁寧に描かれていれば、読者の方は「この男はこの娘のそういうところを好きになったんだな」と、とても納得できる。
067_01逆に言えば、キャラクターの個性を描くことに失敗した時は、「なんでこいつはそんな女を好きになったんだ?」という疑問が読者に湧く。そういう時に、勢い余って、失敗した作家はモテる理由をパラメーターの高さに求めるという愚を犯す。スポーツができる奴はモテるだろうとか、金がある奴はモテるだろうとか、顔がいい奴はモテるだろうとかいうように、「個性」を描かずにパラメーターの高さに恋愛成就の理由を委ねてしまう。こういう作品は、たいていウンコだ。「眼鏡を外して美人」という例のウンコは、「どうしてこの女を好きになるのか?」という理由をキャラクターの個性で描写することができないウンコ作家が、パラメーターの高さで説明したつもりになるときに持ち出してくる苦し紛れのゴマカシなのだ。実力ある作家に「眼鏡を外して美人」という作品がほとんどなく、「眼鏡のまま幸せ」という作品が多いのは、ここに理由がある。「個性」をきちんと描ける作家には、眼鏡を外す必要なんてそもそもないのだ。本作は、その好例と言える。

■書誌情報

同名単行本に所収。引用画像の右側が色褪せているのは、保存状態が良くなかっただけで、もともとの発色は良いですよ。
著者は後にホラー・サスペンス系で活躍するようになるが、そこでも眼鏡キャラが多い。

単行本:渡千枝『めがね色の恋わずらい』(別フレKC、1983年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第66回:稲留正義「ヨガのプリンセス プリティ♥ヨーガ」

稲留正義「ヨガのプリンセス プリティ♥ヨーガ」

講談社『アフタヌーン』1996年9月~98年5月

前回は80年代にしか生まれえない作品を見たが、今回見るのは90年代後半でしか存在を許されなかっただろう作品だ。絵柄といい、ノリといい、ネタといい、画面全体から90年代後半の匂いを強烈に放っている。そして特に本作が歴史に名を刻まれるべき理由は、そのヒロインの名前にある。

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「眼牙熱子」というド直球の名前! このネーミングセンスは、90年代前半では早すぎるし、2000年代ではベタすぎる。キャラクターにこの名前をつけることは、90年代後半でしか許されなかっただろう。
066_03コミケサークルカット全調査を踏まえる限り、眼鏡っ娘が一般に認知されるのは1995年以降のことだ。そして同時期に、メイドやネコミミといった、いわゆる「萌え要素」と呼ばれる認識枠組みがオタク界で広く共有されるようになる。その象徴は、1998年に登場したデ・ジ・キャラットだろう。東浩紀のオタク論が最も勢いに乗っていたのもこの時期だ。論理的に考えて、「萌え要素」が一般化する前の90年代前半に、本作のノリが存在することはそうとう困難だ。
しかし2000年以降には、こういったノリは急速に萎んでいく。キャラクターを作るときに、眼鏡とかメイドとか巫女といった外面的な要素ではなく、「ツンデレ」や「素直クール」といった内面性を重視する流れが支持されるようになる。そういう流れの中で、ヒロインに「眼牙熱子」という名前をつけることは、選択肢としてありえない。90年代後半の萌え文化興隆期特有の熱い空気の中では本作のノリはイケるのだが、066_01現在の感覚で読んだら多くの人がおそらく「痛い」と感じてしまうだろうと推測する。
ちなみに眼牙熱子の性格は、眼鏡っ娘のステロタイプとはかけ離れている。眼鏡がストーリーに絡んでくることもない。概念としての眼鏡はいっさい存在せず、「萌え要素」としての眼鏡のあり方だけが純粋に浮かび上がる。あらゆる意味で、本作は、まさに90年代後半でしかありえないノリをストレートに表現した、時代の証言者と言える。眼鏡っ娘表現の歴史を考える上で、本作が里程標の一つとなることは間違いない。

■書誌情報

全2巻。古本でしか手に入らない。ちなみに本作は眼鏡作品としてだけではなく「百合」作品としても一定の評価があるが、ここでは言及しない。

単行本:稲留正義『ヨガのプリンセス プリティー♥ヨーガ』1巻(アフタヌーンKC、1997年)
単行本:稲留正義『ヨガのプリンセス プリティー♥ヨーガ』2巻 (アフタヌーンKC、1998年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第57回:楠田夏子「それでも恋していいでしょ」

楠田夏子「それでも恋していいでしょ」

講談社『Kiss PLUS』2011年1月号~12年1月号

副題に「COMPLEX LOVE STORY」とあり、ヒロインが眼鏡っ娘とくれば、「はいはい、眼鏡をコンプレックスの象徴として扱うのね、OK!OK!」と先入観を持って読み始めるわけだが。いやはや、完全に、やられた。コンプレックスを持っていたのは男のほうで、眼鏡っ娘はむしろ男らしかった。とても新鮮な作品だった。

057_01ヒロインの三ツ矢リサは、眼鏡OL。巨大眼鏡っ娘好きのみなさんには朗報だが、そうとう背が高い。この眼鏡っ娘が、偶然、主人公・氷室大介の秘密を見てしまう。氷室は市役所で将来を約束されたトップエリートとして活躍しているイケメンなのだが、実はチビでハゲだった。チビ&ハゲに極度のコンプレックスを抱えた氷室は、職場では上手に隠し通してきたのだが、眼鏡っ娘には見事にハゲを見られてしまったのだった。
だが、相手は極度の近眼だ。ハゲを目撃されたとき、眼鏡っ娘は眼鏡をかけておらず、実はちゃんと見えていなかったんじゃないか?と氷室は悶々とする。このときの近眼エピソードが、実によろしい。ギャグマンガでもないのに、眼鏡を外したら眼が「ε」になってしまうのだ。

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眼鏡っ娘とコミュニケーションを重ねる過程で、氷室は次第に自分のコンプレックスと向き合いはじめる。氷室は、眼鏡っ娘の前で、久しぶりに素直になることができたのだった。

頑なに自分の殻に閉じこもっていた氷室が、素直に自分と向き合えるようになったのは、相手が眼鏡っ娘だからだ。眼鏡とは「見る」ための道具だ。人が眼鏡と向き合う時、「見られている」という意識が強く働く。男性が相手の眼鏡を外したがるのは、決して眼鏡っ娘の容姿が劣っているからではない。「見られたくない」からだ。相手が眼鏡をかけていると、否が応でも「見られている」という事実を思い知るからだ。だから、相手から「見る」という権力を剥奪するために、眼鏡を外させる。「眼鏡だと容姿が劣る」というのは、相手の権力を無化するための言い訳に過ぎない。
本作では、氷室は相手の眼鏡を通した「視線」を常に意識しなければならなかった。その視線の先にいる自分自身の姿を、いやでも意識させられた。相手が眼鏡でなければ、こうはならなかった。氷室は眼鏡っ娘を相手にして「自分が見られている」という感覚を呼び覚ますことによって、初めて素直に自分自身を「見る」ことが可能となった。それがコンプレックスの解消に結び付いていく。

057_03コンプレックスの解消は、「自分が自分を見る」ことによって初めて成立する。少女マンガで眼鏡がコンプレックスの象徴であったのは、眼鏡こそが「見る」ためのアイテムであるからに他ならない。コンプレックスは「眼鏡を外す」ことによっては絶対に解消しない。きちんと自分を「見る」ことによってしか解消しない。つまり「眼鏡をかけたまま」で、きちんと世界を「見る」ことで、そして自分自身を「見る」ことによって、初めてコンプレックスは解消するのだ。

しかし本作は、男性のコンプレックスが「眼鏡っ娘に見られる」ことによって解消するという、新しいスタイルを提示している。眼鏡が「見る」ためのアイテムだということを再確認させ、そして眼鏡の認識論的意味をまざまざと浮き彫りにしたのだった。
この文章冒頭の「眼鏡っ娘は男らしかった」というのは、外見的な意味もあるが、それ以上に「見るという意志」において権力側のポジションに立っていたという意味がある。今後もこういうタイプの「見る意志」を打ち出してくる眼鏡っ娘を、たくさん見たい。

■書誌情報

出版されてから間もないので単行本も手に入りやすいし、電子書籍で読むこともできる。

Kindle版:楠田夏子『それでも恋していいでしょ』(講談社、2012年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第49回:雁須磨子「いばら・ら・ららばい」

雁須磨子「いばら・ら・ららばい」

講談社『One more kiss』2007年3月号~09年7月号

049_02茨田あいは、眼鏡っ娘24歳フリーター。とても美人で、スタイルもいいのに、要領よく世の中を渡っていけない。というのも、他人とコミュニケーションをとるのが苦手だからだ。他人の何気ない一言で傷ついて、ふつうにしていても他人の心を傷つけてしまう。そして自分が傷つくことよりも、他人を傷つけることのほうに心が痛む。そしてさらにコミュニケーションが苦手になっていく。そんな不器用な茨田さんが、新しいバイトの職場で、同じように生き辛さを抱えた人たちと一緒に、ゆっくり心を繋げていくお話し。

世間では「絆」なんてスローガンがもてはやされて、人間関係をハリウッド映画に登場する家族のように人工的に構築しようとしている勢力もあるけれど。まあ、たまにはそういうのもいいかもしれんけど。でも、人と人との繋がり方って、それだけじゃないよなあと。声の大きい体育会系が「絆」なんて言葉を元気に前面に打ち出せば打ち出すほど、隅っこで縮こまるしかないような人間だって、世の中にはいるんだよ、と。そういう生き辛さを抱えた面倒くさい人たちが、それでも自分の足で立っていられるのは、取るに足らない具体的なコミュニケーションを少しずつ積み重ねるなかで、「伝わった」という実感をほんの少しだけでも確認できるから。本作は、そんな細かなコミュニケーションの描写の一つ一つに、ずしんと説得力がある。

049_03本作は、大きな事件も起こらず、ドラマチッックな展開とも無縁で、些細なコミュニケーションが成立したりしなかったりする中で、生き辛い人がそれでもよちよち生きていく姿を描いている。それゆえにか、読んだ後、なんだかホッとする。たぶん、自分自身が抱える生き辛さも、ちょびっとだけ減ったような気がするからなんだろう。

本作の眼鏡っ娘・茨田さんのキャラクターは、造形も性格も、実はとてもユニークだ。真っ黒でボリュームのある長い髪の毛、太めの眉毛、存在感のある黒縁セルフレーム。シルエットだけで茨田さんだと分かる。特に素晴らしいのは、眼鏡を外して美人などという愚かな描写が皆無なところだ。眼鏡っ娘がメガネのまま美人として認識される。この当然と言えば当然の描写が実はできない作家が多いのだが、さすが雁須磨子の描写力は安心だ。
性格は、まあ、面倒くさい。だが、それがいい。茨田さんが幸せになってくれて、心の底から良かったと思える。

049_04雁須磨子は、そこそこ眼鏡っ娘を描いている。主な作品についてはしかるべき機会に改めてご紹介できればと思うので、ここではひとつだけ。右に引用した「保健室のせんせい」は16頁の小品だが、他の作家には出せない独特の眼鏡感が出ている佳作だ。中学校で養護教諭を務めている眼鏡先生の日常の一コマを描いた作品で、実に味わい深い。保健の先生ならではの「業」と「エロス」をコンパクトに描き切っていて、しかも眼鏡感がすごい。眼鏡あるべくして眼鏡という空気の作品に仕上がっている。こういう作品が描ける作家は、他には思いつかない。

■書誌情報

049_015年前の作品だけど、もう新刊では扱ってないのかな? いまのうちなら古書で容易に手に入れることができる。

単行本:雁須磨子『いばら・ら・ららばい』(KCデラックスKiss、2009年)

「保健室のせんせい」は単行本『あたたかい肩』に所収。電子書籍で読むことができる。単行本出版は2010年だけど、作品初出は2002年。

Kindle版:雁須磨子『あたたかい肩(ビームコミックス、2010年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第35回:いがらしゆみこ「キャンディ♥キャンディ」

いがらしゆみこ+原作/水木杏子「キャンディ♥キャンディ」

講談社『なかよし』1975年4月号~1979年3月号

035_01眼鏡っ娘のパトリシア、通称パティは、キャンディの友達。単行本3巻で登場して以降、最後まで重要な役割を果たす。いや、もはやパティが主人公と言っても過言ではない。そうだ、キャンディなんて、もはやどうでもよい。キャンディ・キャンディは眼鏡っ娘パティの物語だ。

パティが一際輝いているのは、その彼氏、アリステア(通称ステア)のメガネスキーぶりに負うところが大きい。第一次世界大戦が始まり、ステアは周囲の反対を押し切って志願兵として従軍する。ステアは機械に強いという特技を活かして飛行機乗りとして活躍する。その飛行機にまつわるエピソードが、劇的に感激ものなのだ。

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なんとステアは、自分の飛行機のエンジンカウリングに眼鏡を描いたのだ。そう、それは眼鏡っ娘の恋人パティの象徴。「この機のなまえはパトリシア……パティにはめがねをかけてやらなきゃ…」。眼鏡が繋ぐ二人の絆。物語はここでキャンディそっちのけでクライマックスを迎える。我々は、眼鏡っ娘とメガネくんの恋の行方に涙するのだ……

035_03本作掲載誌の『なかよし』は、ライバル誌『りぼん』と比較した時、かなり眼鏡っ娘が少ない。特に70年代前半からハレンチ路線でエースを張っていたいがらしゆみこがほとんど眼鏡っ娘を描いていないのは、たいへん遺憾なことだ。その中で、パティは非常に貴重な眼鏡っ娘といえる。キャンディの能天気さにイラついた人々の中から、パティによって眼鏡DNAが発動した人々は相当数に上るのだ(個人的聞き取り調査)。似たような効果は柊あおい『星の瞳のシルエット』にも見られるので、その現象については機を改めて考察することとしよう。

035_04ちなみに本作にはもう一人フラニーという優等生眼鏡っ娘が登場する。こちらの眼鏡っ娘も読者に強い印象を与えている。

■書誌情報

単行本や愛蔵版や文庫版など様々なバージョンがあるが、どれもこれも今では古本でプレミアがついているようだ。Kindleで読めないのは、大人の事情があったりするのかどうか…?

単行本セット:いがらしゆみこ+水木杏子『キャンディ・キャンディ』全9巻完結セット (講談社コミックスなかよし )

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第22回:大和和紀「フスマランド4.5」

大和和紀「フスマランド4.5」

講談社『週刊少女フレンド』1984年第3号~第8号

022_01本作は「眼鏡っ娘起承転結理論」の代表と言ってもよい重要作品だ。

(起)全寮制の高校に通う主人公のカチコさんは、超がつくカタブツ眼鏡っ娘ちんちくりん。流行にはいっさい目もくれず、朝は毎日乾布摩擦。同級生はみんなカチコさんのことを時代錯誤の情緒欠陥とバカにしていた。しかし、星也くんだけは、そんなカチコさんをバカにせず、優しく接してくれた。カチコさんのなかに星也くんへの仄かな恋心が芽生える。

(承)そんなカチコさんが生活する女子寮の和室は、実は異世界への入り口になっていた。異世界への扉を開く和歌の暗号を唱えたカチコさんは、「フスマランド」へと吸い込まれていく。そこは隠された願望が実現してしまう世界。なんとカチコさんは超美人になってしまった! フスマランドのイケメンたちと、てんわやわんやの大騒動を引き起こすカチコさん。
022_03このときフスマランドでなくなった眼鏡を探すエピソードは、他に類例がなく、おもしろい。たくさんの眼鏡虫の群れに「直立不動!」と命令すると、カチコさんの眼鏡だけピタっと止まる。眼鏡にも持ち主の人格が沁み込んでいたのだ。

(転)ところが大騒動を繰り広げるうちに、フスマランドの住人たちが現実世界に飛び出し始める。カチコさんが美人になった姿も、星也くんにバレてしまう。星也くんは、そんなカチコさんに幻滅する。「きみはほかの女の子とはちがうと思ってた」から星也くんは眼鏡のカチコさんのことが好きだったのだ。しかし眼鏡を外したいという邪悪な心を抱いたカチコさんに対して「人を見る目のない自分がいやになった」と言って、カチコさんから去っていく。

(結)星也は、実は以前からフスマランドに出入りして、大きな木に変身していた。人間不信になって、静かに暮らしたかったのだ。このままだと、星也くんは永久にフスマランドから出てこない。
そこで、カチコさんは自分の意志でフスマランドの魔力を打ち破り、本当の自分に戻る。眼鏡を取り戻す。

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本当の自分を取り戻し、眼鏡をかけたカチコさんを見て、星也くんも本来の姿を取り戻す。眼鏡こそが「本当の自分」の象徴であり、アイデンティティの源である。眼鏡を失った偽りの姿には、偽りの幸せしかやってこない。「ほんとのあたし」は、眼鏡とともにあるのだ。

巨匠、大和和紀だからこそ、安易に眼鏡を外して美人などというくだらない物語は作らず、「眼鏡っ娘起承転結構造」によって世界の真実を描き出す。邪悪なコンタクトレンズのCMに騙されてはいけない。眼鏡を外すのは起承転結の「承」の段階に過ぎない。その先、必ず「転」で価値観の転回が発生し、「結」で「本当の私」を取り戻すために必ず眼鏡をかけなおすことになるだろう。それが世界の真理だ。

■書誌情報

022_02単行本:大和和紀『フスマランド 4.5』(講談社コミックスフレンド、1985年)

文庫本:大和和紀『フスマランド4.5』(KCデラックス―ポケットコミック、1998年)

人気があって数が大量に出回っているので、古本で手に入りやすい。

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第19回:鈴木由美子「Eかもしんない!」

鈴木由美子「Eかもしんない!」

講談社『Fortnightly mimi』1988年No.6~No.20

少女マンガの中には男性が入っていきやすい部類の作品があって、歴史的には眼鏡っ娘はそこを踏み台にして飛躍するきっかけを掴むのだが、残念ながら本作は最も男性が入りにくい部類の作風だと思われる。特に絵柄は男性の好みからはおそらく遠く離れており、読もうというモチベーションが湧きにくい恐れがある。だが、ぜひとも先入観を捨てて手に取ってほしい、絶対に埋もれさせてはいけない傑作の眼鏡っ娘マンガだ、というか、ヒロインの恋愛相手の樹由(きよし)の超絶メガネスキーぶりをなんとしてでも褒め称えなければならないのだ!

ヒロインの眼鏡っ娘大学生=秋絵は、血の繋がらない弟の樹由のことが好き。しかし血が繋がっていないとはいえ、弟に告白することもできない。一方、弟の樹由のほうも姉の秋絵のことを好きだった。が、こちらも独り立ちするまでは告白できないと考えており、表面上は普通の姉弟として暮らしている。そんななか、秋絵は弟のことをあきらめて、彼氏を見つけようと眼鏡を外して合コンにでかけようとする。このとき、玄関で秋絵を見送る樹由のメガネスキーぶりが素晴らしい!

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化粧をして合コンに向かう秋絵を呼び止める樹由。「キレイ」と言ってもらえると思って喜ぶ秋絵に、樹由は「メガネ、ほらメガネ忘れてるよ」と言う。しかし樹由の思いは届かず、秋絵はふてくされて玄関を飛び出す。残された樹由の、かわいそうな姿。眼鏡を手に呆然とする姿に、どれだけ眼鏡のことを思っていたか、哀愁が痛いほど伝わってくる。

019_04秋絵が合コンにでかけた後も、樹由は眼鏡を持ったまま、ぼーっと玄関で待ち続ける。どれだけ秋絵に眼鏡をかけてほしかったか。眼鏡を外してしまった秋絵にどれだけガッカリしたか。気持ちは、本当によくわかる。

ま、最終的には樹由の思いが通じて、秋絵は眼鏡をかけなおすんだけどね。よかったよかった。

そして連載第12回目の最終回では、いよいよ樹由と秋絵が結婚する。この結婚式がすばらしい。なんと、秋絵は眼鏡をかけたままウェディングドレスを着るのだ。あの小野寺浩二ですら実現し得なかった眼鏡de結婚式を、この樹由という男はやり遂げるのだ。メガネスキーの本懐である。私も、こうありたい。

■書誌情報

単行本:鈴木由美子『Eかもしんない!』全2巻完結 (講談社コミックス、1987年) 安く手に入るのは、当時人気があって数が大量に出ているから。ちなみに「由美子」という名前の作家は、みんななぜか眼鏡っ娘に優しい傾向がある。

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