この眼鏡っ娘マンガがすごい!第70回:西川魯介「dioptrisch!」

西川魯介「dioptrish!」

角川書店『エース桃組』2004Summer~05Winter

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ということで、徹頭徹尾、眼鏡っ娘の何たるかを追求している作品だ。そもそも西川魯介作品のすべてが何らかの形で眼鏡を追求していると言えるのだが、本作はその中でも「アジテーション」あるいは「プロパガンダ」として特化している。故に、人心を掴みやすいキャッチフレーズに満ちており、小野寺浩二「超時空眼鏡史メビウスジャンパー」と並んで、布教に用いやすい。積極的に使っていきたい。というか、実際に各所で目にする。ひょっとしたら本作と知らずに目にしていた人も多いかもしれない。

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この「メガネは皆のために!!皆はメガネのために!!」というワンフレーズは、その分かりやすさと普遍性のために、広く人口に膾炙した。原点が西川魯介ということは、今一度確認しておきたい事実だ。(まあこれ自体がパロディであることは、さておこう)
作品自体がアジテーションであるが、作中でも実際に繰り返し激しいアジテーションが展開される。我々としては、「異議なーし!」と声を張り上げるしかない。

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異議なーし! 激しく異議なーし!
とはいえ、単にアジテーションに終始している作品というわけではない。世界の真理を深く掴み取っている描写を各所に伺うことができる。第一話で提示された「見る意志と無限との合一」というテーマについては一度きちんと掘り下げたいと思っているが、今回は第三話の最後のエピソードで示されたテーマについて見てみよう。「眼鏡の不連続性」と「生の飛躍」の問題だ。

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本作は「メガネをかける/外す、その瞬間は不安定な魔の瞬間!特別なその状態」と言う。多くの人々(特に女性)が「眼鏡の脱着」にエロスを感じるという意味の発言をしているが、本作はその現象を意識的に切り取って言語化している。ここは、おそらく「世界の真理」に触れている。
070_05鏡の本質の一つは、「不連続」性にある。これが他の「萌え要素」とは決定的に異なる眼鏡の際立った特徴だ。眼鏡は「かけている」か「かけていない」か、そのどちらかの状態しかありえない。中間の状態があり得ない。そして眼鏡の「ON/OFF」という「不連続」なものが切り替わるところは、微分不可能で不連続な「特異点」に相当する。このような不連続な「特異点」のことを、フランスの思想家バタイユは「射精」と「死」として表現した。それは「生」の始まりと終わりの象徴だ。「生/死」は、眼鏡の「ON/OFF」と同様に、「不連続」なものだ。だからこそバタイユは不連続な生を連続させようとして、射精の瞬間の死を夢想した。不連続な「特異点」をどのように理解するかは、そのままそっくり「生」を理解することを意味する。つまり眼鏡の「ON/OFF」を理解することは、形式論理的には「生」を理解することと同値なのだ。ドイツの教育哲学者ボルノーは、「不連続」な生を繋げる概念として「跳躍」を構想した。繋がっていないのだから、ジャンプするしかない。そのジャンプは死を賭けた冒険であると同時に、連続的な成長では不可能なほどのパラダイムシフトを引き起こす決断でもある。そして眼鏡の脱着とは、まさにボルノーが言う「不連続の跳躍」を意味する。「眼鏡っ娘起承転結構造」の少女マンガにおいて、なぜ眼鏡を外したりかけたりすることで、少女たちの飛躍的な人格の成長が促されるのか。それは、眼鏡の脱着が「死を賭けた不連続の跳躍」を暗示しているからだ。たとえば「髪を切る」という行為も、「不連続の跳躍」を暗示する行為の一つではある。しかし、髪は脱着できない。眼鏡のような脱着できるアイテムこそ、「不連続の跳躍」を暗示するにふさわしい。またメガネ男子が眼鏡を脱着するときに腐女子がトキメキを感じるのは、そこに「不連続の跳躍」があり、そしてそれが「生」というものの本質を示しているからだ。
数年前、本作の「メガネをかける/外す、その瞬間は不安定な魔の瞬間!」というセリフを読んだ後、「ふーん」と思って風呂に入っていたとき、急に頭の中にバタイユとボルノーが出てきて、「眼鏡の不連続性」の持つ意味に思い至ったのだった。ちなみに風呂の中で「エウレーカ」とは叫んでいない。

■書誌情報

単行本『あぶない!図書委員長!』に全3話所収。表題作の「あぶない!図書委員長!」も、もちろん眼鏡っ娘マンガ。こちらはプロパガンダではなく、萌えとエロ成分が多め。ちなみに私が書いた解説文なぞも巻末に掲載されております。お目汚し、恐縮。

Kindle版:西川魯介『あぶない!図書委員長!』(白泉社、2008年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第69回:松本救助「メガネ画報」

松本救助「メガネ画報」

芳文社『週刊漫画TIMES』2013年8月~15年2月

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「2015年は、この一冊」と後世いわれるであろう、眼鏡でやりたい放題作品。眼鏡でやりたい放題という作品は、ゲームで2009年「ベヨネッタ」、小説で2012年「境界の彼方」と盛り上がってきたが、マンガ界でも進化を続ける。いま、進化の最先端に、本作がある。
特に本作が際立っているのは、「物体としての眼鏡」を追求する姿勢だ。本コラムはこれまで幾多のマンガを見てくるなかで「概念としての眼鏡」について過剰な言葉を吐いてきたが、実は「物体としての眼鏡」を語った言葉は少ない。あまつさえ「単なる視力矯正器具を超えた」などと言ったりして、形而下の存在を軽視するような姿勢さえ示してしまった。自己批判せねばなるまい。本作は、眼鏡がまず徹底的に「視力矯正器具」であることを再確認させてくれる。
しかしそれは眼鏡が単なる物体であることは意味しない。「道具」とは、人間と動物を峻別する一つの指標である。フランスの哲学者ベルクソンは、人間を「ホモ・ファーベル(工作人)」と規定した。ベルクソンは、人間の本質とはモノを作り上げることによって自分自身をも作り上げていくところにあると言う。そしてモノを作ることによって、「よりよいモノを作りたい」という意志を発展させると同時に、モノを作ることを通じて他人との協調関係を深めていくことだと言う。さらにベルクソンは、人間のモノづくりが動物のモノづくりと決定的に異なるのは、人間だけが自分のイメージを形成するためにモノを作るところだと言う。服やアクセサリーなどを考えればわかりやすい。モノに単なる「機能」を求めるのではなく、自己イメージを形成するためにこそモノを作るのだ。
本作を読み終えて、机に置いて、まず頭に浮かんだのが、このベルクソンの「ホモ・ファーベル」の議論だった。そして読み返して、自信が確信に変わる。本作ほど「ホモ・ファーベル」という人間の本質を直截に抉り出してくる作品は、他にないのではないか。

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眼鏡は、まずは徹底的に視力矯正器具であり、人間の能力を拡張する道具だ。だが同時に自己イメージを形成するモノでもある。このモノとしての眼鏡をとことん追求することによって、むしろ「人間」の本質が浮かび上がる。
昨日(2015.7.19)行われたイベント「メガネ区民の集い」に作者の松本救助が出演しており、私はその整った眼鏡顔を拝みつつ「でれっ」としていたのだが、一つの発言によって我に返った。松本救助は自分の作品のことを「ミステリー」ではなく、「眼鏡は全てに通じる」と思ってやっていると言ったのだ。モノとしての眼鏡を追求することによって人間の本質が浮き彫りになることを、ぜんぶ分かってやっていたのだ。刹那、背筋に冷たいものが走ったのは、阿佐ヶ谷ロフトAの空調のせいではあるまい。恐るべし。

069_04私事で恐縮であるが、私も「眼鏡は全てに通じる」と思っている。思っているというか、確かな手ごたえを伴った「実感」として、ある。眼鏡をとことん追求することで、世界の真理を掴めるような気がするのだ。たとえば西洋思想史の領域がもっとも分かりやすいのだが、プラトンのイデア論を理解しようと思たら、眼鏡について具体的に考えるのが一番わかりやすい。中世の唯名論と実在論の議論について理解しようと思ったら、眼鏡について具体的に考えると分かりやすい。ドイツ観念論を理解しようと思ったら、眼鏡について具体的に考えると分かりやすい。なにか複雑な問題に直面した時は、具体的には眼鏡について考えると分かりやすくなる。眼鏡が世界の真理とつながっているという手ごたえが、確かにあるのだ。それはおそらくこういう仕組みだ。西洋の哲学者は全て「神」というものを根底に据えて物事を考えているが、日本人にはその「神」というものがわからないから、西洋思想史の本質を掴めない。が、私が具体的に眼鏡について考えると、眼鏡が「神」と等質の機能を果たし、西洋思想史の見通しがいきなりクリアになるのだ。「神」が実在するとか、「眼鏡=神」というオカルトではない。眼鏡をとことんまで考えるという「思考様式」が、神をとことんまで考えるという「思考様式」と等価という、形式論理の問題だ。私にとって「眼鏡が全てに通じる」とは、形式論理として眼鏡が「神」と等質の機能を果たすという意味だ。
松本救助が昨日どういう意図を込めて「眼鏡が全てに通じる」と発言したのかは、伺うべくもない。しかし本作が眼鏡を追求することによって「人間の本質」や「世界の真理」に迫っていることは、間違いない。だから、本作の読後感は、「何かが腑に落ちた」ような感じになるはずだ。

■書誌情報

今年出版されたばかり。おもしろすぎるので、もりもり売れるべき。電子書籍でも読める。

単行本+Kindle版:松本救助『メガネ画報』(芳文社コミックス、2015年)

いちおう、「ホモ・ファーベル」については、こちら。
文庫本:ベルクソン『創造的進化』(岩波文庫)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第68回:桃森ミヨシ「トンガリルート」

桃森ミヨシ「トンガリルート」

集英社『マーガレット』2002年No.23~03年No.1

054_hyouとんでもない眼鏡傑作だ。表紙で眼鏡をかけていなかったので何気なく読み始めたのだが、途中から並々ならぬ眼鏡オーラを感じ始め、クライマックスでは全身が眼鏡オーラに包まれ、鳥肌が立ちっぱなしだった。最もすごい眼鏡少女マンガは何かといま聞かれたら、間違いなく本作を推す。

本作も「眼鏡っ娘起承転結構造」で構成されている。が、20世紀の乙女チック眼鏡マンガよりも、さらに認識論的に進化した美しい姿を見せてくれる。ストーリーを追いながら、構成の完成度の高さを確認しよう。
主人公の平方留羽は、ガリベン眼鏡っ娘。が、ガリベンにも関わらず成績は良くない。頑張ってもできない子なのだ。クラスメイトからは「ルート」とあだ名をつけられる。それは「平方(ひらかた)」という苗字が「平方根」とかかり、名前の「留羽(るう)」が「ルート」とかかっているのだが、要するにガリベンなことをバカにされているわけだ。が、バカにされていることにすら気が付かない、そんな浮いた娘だ。

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留羽がガリベンなのは、実はできすぎる兄に対するコンプレックスがあるからだ。兄は東大ストレートの英才で、留羽はそんな兄を目標にして頑張っている。が、頑張っても頑張ってもできない自分に劣等感を抱いている。頑張れば頑張るほど「みじめ」になると思い込んでいる。眼鏡は、留羽のコンプレックスを可視化したものだ。バリアーとしての眼鏡なのだ。
本作をここまで読みすすめて、私は不安に陥っていた。眼鏡をコンプレックスの象徴として描く作品は数多く、そしてそのような作品は、最後にはほぼ間違いなくコンプレックス解消の証として眼鏡を外してしまう。本作もそうなるだろうと、この時点では考えていた。その予感は「承」で現実のものとなってしまう。家庭教師としてやってきた二乗くんが、留羽の眼鏡をとりあげてしまうのだ。しかも、容姿が劣るという理由なんかではなく、兄へのコンプレックスを解消するために眼鏡をとりあげたのだ。容姿が劣るという理由で眼鏡がとりあげられた場合は、そのまま起承転結構造に入っていくケースが多く、最終的には眼鏡のままで幸せになることが多い。しかしコンプレックスの象徴である眼鏡がとりあげられてから逆転したケースは、見たことがない。この時点で、私は「終わった」と思った。

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二乗くんの「よけーなもの見えない方が勇気出るときもあるでしょ」というセリフ。まさに兄を追いかけすぎて劣等感をこじらせている眼鏡っ娘からコンプレックスを取り去ろうという意図の下で発せられている。ふつうは、このままコンプレックスが解消されて、終わる。実際、留羽は眼鏡を外したことで、「景色が違って見える」と感じる。このままコンプレックスから解き放たれて眼鏡なしでハッピーエンドだろうなーと思った矢先だった。いきなり、来た。「転」だ。

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二乗くんは、嘘をついて留羽に近づいていた。本当は高校生なのに大学生だと偽って、兄の差し金で留羽に優しく接していたのだった。眼鏡っ娘は思う。「ああ…そうですか。変だとは思いました。だってこんな私の相手なんてだれも。慣れてます。みじめなのは、いつものこと」と。そして思う。「よくみえないのはメガネがないからです」と。
いやー、読んでてビックリしてひっくり返った。まさかこの流れで「転」が来るとは。しかし驚くのはまだ早かった。ここから「結」までの展開が美しすぎた。
眼鏡っ娘は、自分を騙していた兄と二乗くんから、彼らの本心を聞く。これまで自分の劣等感の処理で精いっぱいだった留羽は、初めて他人と関わろうと思う。きちんと二乗くんの心に向き合おうと決意する。このシーンがまず美しい。

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留羽は自分の口から「眼鏡を返してほしい」と言う。そしてこう言う。「よけいなものだけでなく、ちゃんと見たいものまでぼやけてしまいます」と。留羽は、自分の眼で世界の真実と向き合うことを決意したのだ。そして「見る」ためのアイテムこそが、眼鏡なのだ。バリアーの象徴だった眼鏡が、見る意志の象徴としての眼鏡に変化したのだ! ここで鳥肌が立った。
そして、ここからがまた、美しい。「眼鏡を返せ」と言われた二乗くんは、きちんと手許に眼鏡を持っていて、留羽にかけてあげる。このときの、眼鏡のかけかたに注目してほしい。前からかけるのではなく、後ろからかけている。

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眼鏡を前からかけさせてあげると、男の視線は眼鏡っ娘の顔に注がれる。眼鏡っ娘のかわいい顔を観賞するためには、前からかけなくてはならない。しかし二乗くんは後ろからかけた。これではせっかくかわいい眼鏡っ娘の顔を観賞することはできない。その代わりに、二乗くんには眼鏡っ娘が見ている景色と同じものが見える。後ろから眼鏡をかけさせることは、視線を共有することを意味している。そこで眼鏡っ娘と二乗くんが見た光景とは。

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たくさんの笑顔。自分の兄が、単にパラメーターが高い男なのではなく、みんなを笑顔にする人間だと理解した眼鏡っ娘。自分がこれまで知らなかった兄の本当の魅力を、二乗くんが教えてくれたのだ。自分の眼で、眼鏡を通して真実を認識することで、コンプレックスが溶けていく。このときの眼鏡っ娘と二乗くんの笑顔が、まぶしい。劣等感のために人と関われなかった眼鏡っ娘が、視線を共有することによって、他人と世界観を共有することによって、自然な笑顔を見せる。このとき、私もものすごい笑顔だったと思う。眼鏡っ娘と二乗くんが見た光景を、私も共有していたのだから。
この感動は、眼鏡というアイテムによってキャラクターの視線と読者の視線を巧みにコントロールすることで生まれる。バリアーとしての眼鏡では、視線は常に内側に向いている。「見る意志」としての眼鏡では、視線は世界に向けられる。そしてそこに二乗くんの視線を加えることで、二乗くんの視線と読者の視線が眼鏡っ娘の視線と同化する。マンガでは、読者の視線をコントロールするために無数のテクニックが編み出されてきた。コマ割りの進化も、その一端だ。本作は、これを眼鏡で達成した。視線をコントロールするのに、「見るアイテム」としての眼鏡ほどふさわしいものはあるまい。

いやぁ、本当にいいものを見た。と思ったら、本作はまだすごかった。桁外れだ。このあと、なんと眼鏡っ娘をかばって二乗くんが交通事故に遭ってしまう。その場面の眼鏡描写が、すごい。

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この眼鏡描写。本作が眼鏡を中心に回っていることを明らかに示している。
二乗くんは一命をとりとめたが、しばらく入院することになってしまう。そこで眼鏡っ娘は、二乗くんの眼の代わりになろうと、学校で授業のノートをとろうとする。が、割れたメガネではよく見えない。そのときの留羽の行動に、仰天した。

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「水中メガネ」かよっ!!!
マンガに向かってツッコミを入れてしまったのは久しぶりだ。このあと、少女マンガなのに、ヒロインがずっと水中メガネ。ものすごいビジュアルだ。この水中メガネが極まるのが、最後の最後のクライマックスだ。

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病院のベッドで、水中メガネからの、キス。前代未聞だろう。
キスするときに眼鏡を「じゃまこれっ」とか言って外すようなら二乗くんもダメ男決定だったが、これ、水中メガネだからなあ……。大目にみてやろう。
そして最後の眼鏡っ娘のモノローグが、「見える」。最後まで「視線」にこだわって構成していることがわかる。

ということで、「眼鏡っ娘起承転結構造」を引き継ぎつつも、認識論のレベルでそれを乗り越えていくという、パラダイムシフトを起こした作品といってよいだろう。ブラボー!!

■書誌情報

同名単行本に所収。amazonのレビューも絶賛の嵐。うむ、そりゃそうだろう。傑作だ。

単行本:桃森ミヨシ『トンガリルート』(マーガレットコミックス、2003年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第67回:渡千枝「めがね色の恋わずらい」

渡千枝「めがね色の恋わずらい」

講談社『ラブリーフレンド』1982年4月号

067_02まず、タイトルがいい。話の内容は、それまで恋愛にまったく関心のなかったガリベン眼鏡っ娘が恋に目覚めるという、取るに足らない恋愛話だ。だが、それがいい。

所詮と言っては失礼ではあるが、恋愛少女マンガは男と女(あるいは男と男、女と女)がくっつくか離れるかを描いているに過ぎない。恋愛マンガを「形式」だけに注目してみれば、そのバリエーションは極めて貧弱だ。恋愛マンガをバカにする人々が世間にはそこそこ存在するが、彼らは形式の貧弱さを以てくだらないと判断している。顔がいいとか頭がいいとか運動ができるとか、なにがしかのパラメーターが高いという理由で恋愛が成就するとしたら、それはたしかにくだらない作品になりやすい。しかし恋愛マンガのおもしろさの源泉は、その形式ではなく、「キャラクターの個性」にある。丁寧なエピソードの積み重ねによって人物がしっかりと描かれて、「ああ、この人のこういうところを好きになったんだな」と読者が納得できたとき、初めて恋愛マンガがおもしろくなる。「マンガはキャラクターが勝負」という箴言が大昔から語り継がれている所以である。
その意味で、本作はとてもおもしろい。眼鏡っ娘の個性が、具体的なエピソードの積み重ねによって、丁寧に描かれているのだ。相手の男が眼鏡っ娘を好きになった理由もよく分かる。

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キャラクターの個性が丁寧に描かれていれば、読者の方は「この男はこの娘のそういうところを好きになったんだな」と、とても納得できる。
067_01逆に言えば、キャラクターの個性を描くことに失敗した時は、「なんでこいつはそんな女を好きになったんだ?」という疑問が読者に湧く。そういう時に、勢い余って、失敗した作家はモテる理由をパラメーターの高さに求めるという愚を犯す。スポーツができる奴はモテるだろうとか、金がある奴はモテるだろうとか、顔がいい奴はモテるだろうとかいうように、「個性」を描かずにパラメーターの高さに恋愛成就の理由を委ねてしまう。こういう作品は、たいていウンコだ。「眼鏡を外して美人」という例のウンコは、「どうしてこの女を好きになるのか?」という理由をキャラクターの個性で描写することができないウンコ作家が、パラメーターの高さで説明したつもりになるときに持ち出してくる苦し紛れのゴマカシなのだ。実力ある作家に「眼鏡を外して美人」という作品がほとんどなく、「眼鏡のまま幸せ」という作品が多いのは、ここに理由がある。「個性」をきちんと描ける作家には、眼鏡を外す必要なんてそもそもないのだ。本作は、その好例と言える。

■書誌情報

同名単行本に所収。引用画像の右側が色褪せているのは、保存状態が良くなかっただけで、もともとの発色は良いですよ。
著者は後にホラー・サスペンス系で活躍するようになるが、そこでも眼鏡キャラが多い。

単行本:渡千枝『めがね色の恋わずらい』(別フレKC、1983年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第66回:稲留正義「ヨガのプリンセス プリティ♥ヨーガ」

稲留正義「ヨガのプリンセス プリティ♥ヨーガ」

講談社『アフタヌーン』1996年9月~98年5月

前回は80年代にしか生まれえない作品を見たが、今回見るのは90年代後半でしか存在を許されなかっただろう作品だ。絵柄といい、ノリといい、ネタといい、画面全体から90年代後半の匂いを強烈に放っている。そして特に本作が歴史に名を刻まれるべき理由は、そのヒロインの名前にある。

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「眼牙熱子」というド直球の名前! このネーミングセンスは、90年代前半では早すぎるし、2000年代ではベタすぎる。キャラクターにこの名前をつけることは、90年代後半でしか許されなかっただろう。
066_03コミケサークルカット全調査を踏まえる限り、眼鏡っ娘が一般に認知されるのは1995年以降のことだ。そして同時期に、メイドやネコミミといった、いわゆる「萌え要素」と呼ばれる認識枠組みがオタク界で広く共有されるようになる。その象徴は、1998年に登場したデ・ジ・キャラットだろう。東浩紀のオタク論が最も勢いに乗っていたのもこの時期だ。論理的に考えて、「萌え要素」が一般化する前の90年代前半に、本作のノリが存在することはそうとう困難だ。
しかし2000年以降には、こういったノリは急速に萎んでいく。キャラクターを作るときに、眼鏡とかメイドとか巫女といった外面的な要素ではなく、「ツンデレ」や「素直クール」といった内面性を重視する流れが支持されるようになる。そういう流れの中で、ヒロインに「眼牙熱子」という名前をつけることは、選択肢としてありえない。90年代後半の萌え文化興隆期特有の熱い空気の中では本作のノリはイケるのだが、066_01現在の感覚で読んだら多くの人がおそらく「痛い」と感じてしまうだろうと推測する。
ちなみに眼牙熱子の性格は、眼鏡っ娘のステロタイプとはかけ離れている。眼鏡がストーリーに絡んでくることもない。概念としての眼鏡はいっさい存在せず、「萌え要素」としての眼鏡のあり方だけが純粋に浮かび上がる。あらゆる意味で、本作は、まさに90年代後半でしかありえないノリをストレートに表現した、時代の証言者と言える。眼鏡っ娘表現の歴史を考える上で、本作が里程標の一つとなることは間違いない。

■書誌情報

全2巻。古本でしか手に入らない。ちなみに本作は眼鏡作品としてだけではなく「百合」作品としても一定の評価があるが、ここでは言及しない。

単行本:稲留正義『ヨガのプリンセス プリティー♥ヨーガ』1巻(アフタヌーンKC、1997年)
単行本:稲留正義『ヨガのプリンセス プリティー♥ヨーガ』2巻 (アフタヌーンKC、1998年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第65回:大野安之「That’s!イズミコ」

大野安之「That’sイズミコ」

STUDIO SHIP『コミック劇画村塾』1983年~87年

065_01その時代でなければ絶対に生まれなかった作品というものがある。本作には、内容・形式ともに、80年代の匂いが濃密に染み込んでいる。
形式的には、劇画村塾から発していることが大きな特徴だ。その故かどうか、一般受けを狙う思考では出てこないだろう、マンガ表現の可能性を極限まで追求していくような描写を各所に見ることができる。
内容は、説明しがたい。SFとファンタジーとメルヘンが融合したような、起承転結を拒む、プロットがあるのかないのかわからないような、それこそポストモダンな80年代の雰囲気が色濃い作品だとしか言いようがない。最終回のメタ・フィクション的な展開とセリフ回しなど、まさにニューアカデミズムが一世を風靡した80年代ならではの仕上がりに見える。本作についてきちんと語ろうとすると、そのままそっくり80年代について語ってしまうことになるだろう。
が、さしあたってそれには関心がない。眼鏡が問題だ。

本作のヒロイン眼鏡っ娘のイズミコは、他に比較すべきものが見当たらない、極めて個性的な眼鏡っ娘だ。具体的には、ビッチなのだ。眼鏡っ娘キャラ一般を考えると、清楚で奥手なキャラクターが多いように思う。そんななかで、これほど目つきと素行が悪いキャラクターは非常に珍しい。それゆえに、いいことか悪いことかは別として、読者を選ぶ作品のように思える。
065_02しかしそうなると、どうしてこのようなビッチが眼鏡をかけているのか、その理由を知りたくなる。残念なことに、作中ではイズミコが眼鏡をかけている理由はまったく描かれない。むしろ裸眼で困っている描写もないので、視力がどの程度かもわからない。ということは、なにかしらのキャラクター的な理由があって眼鏡をかけているというよりは、ビジュアル優先で眼鏡っ娘になっていると考えられる。全体的な画面構成を意識しながら本作を読むとき、イズミコの眼鏡は世界観にぴったりとハマっているように見える。眼と眼鏡が一体となったようなデフォルメ描写を見ると、そのビジュアルの完成度が極めて高いことがわかる。80年代という男性向眼鏡暗黒期にここまでの眼鏡っ娘を描くことができた作者の技量の高さは、計り知れないものがある。

065_03おそらく眼鏡暗黒期に眼鏡っ娘を描いたという自負があるからではないかと推測するが、20世紀が終わる頃の作品で、「メガネっ娘という一ヂャンル」に対する見解を披露している。同人誌発表作をまとめた『超電寺学園きらきら』に眼鏡っ娘の真奈美が登場するのだが、そのキャラクターもいわゆる眼鏡っ娘のステロタイプにはハマらない、ビッチ全開キャラだ。「That’s!イズミコ」終了後、90年代後半に一気に眼鏡っ娘市場が膨らむが、そこで人気が出たキャラクターは、大野安之の描く眼鏡っ娘とは大きく乖離している。その乖離が、このようなステロタイプ眼鏡に対する批判的な表現となったのだろうと思う。その是非や当否については、ここでは言及しない。
私のような批評家的ポジションから物を言う場合、ステロタイプを闇雲に否定することは、それが形成されていくべき必然性が時代と世間に存在する以上、慎重であらねばならない。批評家の役割はステロタイプが形成された必然性を言語化するために努力することであって、ステロタイプをバカにしたり否定したりすることではない。が、実作者には全く別の論理がある。ここでしっかり確認しておきたいことは、20世紀の終わりには、眼鏡がステロタイプ化していたという認識が確固として存在する状況になっていたこと。そして、それを乗り越えようという試みが確かにここにあったということだ。

■書誌情報

『That’s!イズミコ』全6巻は絶版マンガ図書館で無料で読むことができる。『超電寺学園きらきら』は18禁なので、注意。

絶版マンガ図書館:大野安之『That’s!イズミコ』全6巻

単行本:大野安之『超電寺学園きらきら』(プラザコミックス、2002年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第64回:惣領冬実「あたしきれい?」

惣領冬実「あたしきれい?」

小学館『別冊少女コミック』1994年3月号

054_hyou「眼鏡っ娘起承転結構造」については、田渕由美子を紹介するところ(第54回)で詳しく見た。起承転結構造は、その後も少女マンガのスタンダードとして描き続けられていく。それは物語構成が真似をされているということを意味しない。なぜなら、「ほんとうのわたし」と「ほんものの愛」について真剣に突き詰めて考えると、だいたいこの結論に行きつくからだ。起承転結構造は人類の普遍的な思考様式なのであって、だからこそ説得力があるのだ。それは思想史的には「弁証法」という形式で説明されるのだが、思想史的論理は機会を改めて確認するとして、まずは豊富にある実例を確認していきたい。

本作の眼鏡っ娘は、16歳。眼鏡のうえに、身長172cmもコンプレックス。片思いの先輩にも、告白なんてできっこない。対照的に、友達のまゆみは背が小さくてとてもかわいい。憧れの先輩とも普通に話すことができる。眼鏡っ娘は一念発起して努力してキレイになろうとしてみたものの、憧れの先輩には顔のことで笑われてしまう。「起」は、眼鏡をかけて、愛が無いところから始まる。結局、憧れの先輩は可愛いまゆみとつきあうようになる。

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そんなこんなで、高校生時代はまったくモテなかった眼鏡っ娘だったが、東京の大学に進学してから環境が大きく変わる。背が高いところに目をつけられてモデルに勧誘されて、これが大当たり。プロのメイクさんが手を加えたところ、びっくりするような美人になる。憧れの先輩も、この美人があの眼鏡っ娘だったとは気がつかない。そして、まゆみにフラれたらしい憧れの先輩からも、とうとう告白される。眼鏡っ娘は、眼鏡を外してモテモテになってしまったのだ。「承」では、眼鏡を外して愛を獲得する。先輩は「人間見た目じゃないね」などと言って、なかなかデキた人間かのように思われた。

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だが、そんな眼鏡を外した愛など、欺瞞に満ちていた。高校の同級生だったまゆみが先輩のことを追いかけて東京までやってくるのだが、太ってブスになってしまったまゆみに、先輩は酷い言葉をかける。「オレは見た目の悪い女とはかかわりたくないんだ」なんてセリフ、どんだけクズなんだ、この男。実は先輩がまゆみにフラれたというのはウソで、ブスになったまゆみはお払い箱になっていたのだった。そんな場面を偶然目にした眼鏡っ娘は、これがマヤカシの愛だったことを知り、再び眼鏡をかけ直す。「転」では、眼鏡なしの愛など、ただのマヤカシだと知る。

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ウンコのような男に幻滅した眼鏡っ娘は、男になんか頼らない女性のための女性の美しさを目指して、プロのメーキャップ師を目指す。もちろん眼鏡をかけたまま働く。田舎の母は、眼鏡無しの写真をひそかにお見合写真に使って逆玉を狙っているが、眼鏡っ娘の方はもちろん見た目に寄って来る男と結婚するつもりなどない。お見合い本番は眼鏡で登場し、写真の美人と眼鏡の自分とは別人だと言って、顔目当てでやってきたクズ男をギャフンと言わせてやるのが常だった。そして次のお見合いも、そうなるはずだったのだが。そこに思いがけなく、真のヒーローがやってくる。女を見た目で選ぶのではなく、人格で好きになった男がやってくる。この男がメガネくんであるところに、運命を感じざるを得ない。こうして眼鏡っ娘が「ほんとうのわたし」と「ほんものの愛」を獲得して、「結」となる。

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惣領冬実は、強弱のない淡泊な描線で構成された白い画面が魅力的な、都会派センスに溢れたストーリーを紡ぎだす優れた作家。コマ割りも非常に読みやすく、一見しただけでも卓越した画面構成力を持つことが分かる。そんな実力作家が、眼鏡を外して美人でハッピーエンドなどというマヌケなマンガを描くわけがないのだ。真剣に人間を描くことを追求したとき、必ず起承転結構造が降りてくる。世界の真実を求めた時、眼鏡っ娘は眼鏡をかけたまま幸せになるのだ。

■書誌情報

単行本『天然の娘さん』2巻に収録。長編をきっちり描ききることで定評のあった惣領冬実が短編連作を試みたという意味でも、興味深い作品。電子書籍で読むことができる。

Kindle版:惣領冬実『天然の娘さん』2巻(フラワーコミックス、1994年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第63回:山本景子「CICA CICA BOOM」

山本景子「CICA CICA BOOM」

集英社『マーガレット』2006年No.13~2007年No.1

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ものすごい眼鏡マンガなので、ぜひとも自分の眼で確かめてほしい。強烈。
ヒロインは春日百々(かすがもも)。小学4年生から眼鏡だったが、高校入学をきっかけにコンタクトにするつもりでいた。しかし、だ。初っ端のエピソードで思わず「ブラボー!」と叫んでしまった。

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なんとお父さんが高校入学祝いに32万円の眼鏡を買ってきたのだった! やったぜ親父! コンタクトにするつもりだった百々は、これで眼鏡をかけざるをえなくなる。

ここから百々にメガネの神様が降りてくる。入学早々、イケメンのめがね君が、入部勧誘で百々に声をかけてくる。あまりのイケメンぶりについていったところ、その部活は「眼鏡研究部(がんきょうけんきゅうぶ)」だった!

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壁一面の眼鏡。ここは天国か? 部長・山田太郎の眼鏡パワーに圧倒されて、思わず入部してしまう百々。しかし世間は愚かな偏見に満ち溢れていた。廊下を歩いていると、いきなり百々の眼鏡がバカにされてしまう。悔しさに涙ぐむ百々。そこに部長登場! あっという間に眼鏡の素晴らしさを説き聞かせ、百々を救う。そして眼鏡を貶めるような愚かな発言をした女生徒に畳み掛けるのだ。

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救われた百々は、部長のことも、眼鏡のことも、だんだん好きになっていく。しかし事はそう簡単に運ばない。部長は百々よりも眼鏡に夢中。百々は次第に寂しさを感じるようになっていく。部長はただ単に眼鏡を見ていただけで、私という人間のことにはまったく関心がないのだ、と。百々は固い決意を込めて、眼鏡を外してオシャレをして部長の前に立つ。しかし部長は「メガネはどうしたんだい?」と、眼鏡のことしか気にしない。いよいよ感情があふれた百々は、部活をやめると言って部室を飛び出すのだった……。
ああ、そうだ、これは西川魯介や小野寺浩二が全力でぶち当たっていった、あの難問だ。「私と眼鏡とどっちが好きなの?」って言われたところで、おれたちは眼鏡の君が好きなんだああ!ぐわあああ!
それはさておき、この作品も、「愛」とは何かについてしっかり結論を出す。眼鏡を突き詰めると「愛とは何か?」という問題に行きつき、さらに眼鏡を突き詰めるとその答えが見える。本作の結論も、美しい。

ここまでが読み切り部分だが、人気があったのだろう、連載が始まる。この連載でもパワーが落ちない。素晴らしい。眼鏡研究部と生徒会の対決で百々がミスコンテストに出ることになったり、そこであまりにも可愛かったため、眼鏡っ娘好きのストーカーに狙われたり。ストーカーに拉致されたときの絵が、またすごい。

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壁一面の眼鏡っ娘写真。うーん、どこかで見たような、デジャヴ?って、おれんち?
ストーカー事件を眼鏡パワーで解決した後も、部長の妹(もちろん眼鏡っ娘)が大暴れしたり、温泉に部長と二人きりで閉じ込められたり、すごい眼鏡展開。

しかし、最終回はホロっとしてしまった。それまで受け身一方だった百々が、積極的に部長と部活のために動きまわる。眼鏡とは「見る」ための能動的なアイテムだ。最後の最後で百々は自分の意志で世界を変えていくことで、真の眼鏡っ娘となった。最初から最後まで素晴らしい眼鏡っ娘マンガだった。
20世紀には、こういうマンガが少女誌に掲載されることは想像もつかなかった。伝統の『マーガレット』に掲載されていたことの意味は、非常に大きい。

■書誌情報

063_06単行本全2巻。単行本描きおろしの百々ちゃんコスプレイラストとか、とても気持ちいい。
古本の値段が安い今のうちにゲットしたほうがいいと思う。一家に一冊そろえておきたい。

単行本:山本景子『Cica cica boom』1巻(マーガレットコミックス、2007年)
単行本:山本景子『Cica cica boom』2巻(マーガレットコミックス、2007年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第62回:耕野裕子「ほんの少し抵抗」

耕野裕子「ほんの少し抵抗」

集英社『ぶ~け』1980年11月号

062_01「少女マンガの王道は、眼鏡のまま幸せになる」と訴え続けて、早10年。残念ながら世間ではまだまだ「少女マンガでは眼鏡を外すと美人」という誤った信念がまかり通っているので、本物の少女マンガの実例をたくさん挙げていきたい。

本作のヒロイン眼鏡っ娘は、密かに軽音部の斉藤くんのことが好き。でも、チビでニキビで跳ねっ毛で眼鏡という自分の容姿に劣等感を持っていて、告白なんかできっこない。そこで、唯一自分の意志で外すことのできる眼鏡を外してみようとする。この眼鏡を外したときの、どうしようもなく情けない姿の描写が素晴らしい。眼鏡っ娘は近眼で前が見えないので、フラフラしているうちに、斉藤くんとぶつかってしまう。斉藤くんが「メガネどうしたんだよメガネ」と抗議すると、眼鏡っ娘は「抵抗だったのよ」と言う。斉藤くんが、このセリフをスルーせず、眼鏡っ娘の曇った表情を見てしっかり「?」と気が付いているのが、さすが少女マンガのヒーローだ。

062_02眼鏡っ娘がぶつかったせいで遅刻してしまった二人は、居残りで宿題をすることになる。教室に二人きりになったときに、斉藤君は「抵抗って何の事」と聞く。最初はとぼける眼鏡っ娘だったが、「容姿への抵抗」と白状する。「わたしの容姿におけるあらゆる欠点の中で唯一自分の力をもって対抗しうるメガネをとるという行動」ということらしく、うだうだと言い訳を続ける。が、斉藤くんは「くっだらん」と一蹴するのだ。
さて、ここからの斉藤くんの一連の言動が、究極に男前だ。男のなかの男だ。我々も、斉藤くんにならって、眼鏡を外そうとする女子には、ぜひこう言わなければならない。「メガネしてるから、あんたなんだろうが」と。くあああぁぁ、カッコいい! これこそ少女マンガのヒーロー! さらに畳み掛けるように、「それとったらあんたじゃないって事だろ」と続ける。すげえ!一生のうちに一回は言ってみてえぇぇ!
そしてそのあとのやりとりが、決定的だ。この斉藤くんの精神を、ぜひとも世界中に広めたい。

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眼鏡っ娘は「そんな事いっても、男の人だって、女の子は顔がいいのやメガネしてないのがいいっていうじゃない!」と反論する。が、斉藤くんはクールに「それは人間のできてない男のいうセリフ」と諭す。これだ。これが世界の真理だ。眼鏡を外そうとする奴は、例外なく人間ができていないのだ!

耕野裕子は、80年代から90年代にかけて集英社『ぶ~け』のエースとして活躍。青春の甘酸っぱい一瞬を切り取って、繊細なセリフに乗せて表現するのが上手い。若いゆえに視野が狭く、だからこそ同時に純粋な人物たちの、傷つきやすく壊れやすい心の葛藤と成長を、胸が締め付けられるようなエピソードで描いていく。たいへん優れた青春作家だ。本作はまだ青春作家として花開く前の作品ではあるが、「人間というものの本質」に迫ろうという意志は各所に見える。人間の本質を描こうとする作家が、眼鏡っ娘の眼鏡を外すわけがないのだ。眼鏡っ娘の眼鏡を外すのは、「人間のできてない」マンガ家だ。

■書誌情報

本作は30頁の短編。単行本『はいTime』に収録。Amazonを見たら古本にひどいプレミアがついてたけど、古本屋を回れば200円で手に入ると思う。

単行本:耕野裕子『はいTime』(ぶ~けコミックス、1983年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第61回:みやぎひろみ「ガラス玉輪舞」

みやぎひろみ「ガラス玉輪舞」

秋田書店『月刊ひとみ』1984年?

061_02繊細な描線で構成された、美しい画面の少女マンガだ。みやぎひろみが引く線は端正で美しく、惚れ惚れする。まんまる眼鏡の描線の美しさよ。
描線の美しさの他に目が吸い寄せられるのは、眼鏡デッサンの正確さだ。少女マンガでよく見られる「貼り付き眼鏡」は、本作では見られない。みやぎひろみの絵は、横顔がとても印象的だ。決定的なコマで横顔のアップになることが多い。正確なデッサンの眼鏡が、端正な画面の印象をさらに強めている。

ヒロインは、高橋槙子14歳中2。全3話で、14歳、16歳、18歳のエピソードが描かれる。恋の相手の頼近くんは、幼稚園からの幼馴染。槙子は幼稚園のころから頼近のことが好きだったのだが、そのときのエピソードが素晴らしい。槙子は幼稚園のときからちゃんと眼鏡をかけているのだ。
しかし相愛だったはずのふたりの関係は、大きくなるにしたがってギクシャクしていく。頼近はノーテンキだし、槙子はなかなか素直になれないのだ。

061_03素直になる勇気を持てなかった眼鏡っ娘だが、頼近の甥っこの赤ん坊の面倒を一緒にみるなかで、たくましく成長している頼近の姿を改めて知る。頑なに過去にとらわれている自分に気がつく。眼鏡っ娘も、少しずつ成長していくのだった。

本作の構成は、いわゆる「乙女チック」ではない。コンプレックスを「ほんとうのわたし」へと昇華していくような物語構成ではない。つまり、一気呵成に物語を急転させる「起承転結」構造というものがない。しかしそれは本作がつまらないということを意味しない。日常のエピソードを丁寧に描き、登場人物たちの感情の起伏をひとつずつ編み上げていくことで、キャラクターに寄り添っているような気持ちにさせてくれる。画面と同様に、物語も端正に作られている。
061_04それゆえに、眼鏡というアイテムに、一切の認識論的な意味が持たされていない。眼鏡っ娘は、単に近眼だから眼鏡をかけているだけであって、物語の都合に合わせて眼鏡を脱着することもない。だからキャラクターの性格にも「眼鏡らしさ」というものがない。それが本作の見所であるとも言える。空気のように眼鏡をかける、それは実は達人の境地だ。キャラクターに眼鏡をかけさせると、ついそれを使って物語を構成したくなったり、つい「眼鏡らしさ」を追求したくなってしまう。その欲求が落とし穴になる場合もある。眼鏡だから、眼鏡。その境地に到達することは、実はなかなか難しい。

みやぎひろみは、本作以外にもたくさん眼鏡っ娘を描いている。中短編集には、収録作中にだいたい一作は眼鏡っ娘マンガが含まれている。質的にも量的にも、極めて重要な眼鏡作家であることに間違いない。残念ながら現在では名前をよく知られているとは言い難いが、ぜひきちんと眼鏡史の中に名前を刻んでおきたい。

 

■書誌情報

061_01本作以外にも良質な眼鏡っ娘作品が多い。「ガラス玉輪舞」は同名単行本に全3話収録。他に、「まりこのま」が同名単行本に収録。「星降る夜に逢いたい」が同名単行本に収録。「月見る月の月」が『魚たちの午後』に収録。どれも眼鏡に認識論的意味を持たせない、端正な画面の端正な眼鏡っ娘物語。

単行本:みやぎひろみ『ガラス玉輪舞』(ひとみコミックス、1984年)
単行本:みやぎひろみ『まりこのま』(MISSY COMICS、1987年)
単行本:みやぎひろみ『星降る夜に逢いたい』(MISSY COMICS、1988年)
単行本:みやぎひろみ『魚たちの午後』(ミッシィコミックス、1988年)

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