この眼鏡っ娘マンガがすごい!第87回:えにぐまなみ「よよぎのじじょう」

えにぐまなみ「よよぎのじじょう」

集英社『ぶ~け』1994年10月~95年6月

眼鏡の「ON/OFF」の不連続性という特徴を存分に活用した作品。
ヒロインの「上原よよぎ」は眼鏡っ娘。ひょんなことから幽霊の「八幡よよぎ」と同調し、一つの体の中に二人の「よよぎ」の人格が入ってしまう。人格の切り替わりのスイッチが眼鏡だ。眼鏡ONの時は「上原よよぎ」の人格、眼鏡OFFの時は「八幡よよぎ」の人格になってしまうのだ。この世に未練を残して幽霊になっていた八幡よよぎは、生身の体を手に入れて大暴れ。ヒーローの渋谷道玄くんは、よよぎの不審な挙動の原因が眼鏡OFFにあると見抜き、よよぎに眼鏡をかけさせようとする。この眼鏡をかけさせようとするシーンを見ると、とても心が躍る。

087_01

「さあっ、おとなしくこのメガネをかけるんだ」というセリフは、ぜひあらゆる場面で使用していきたい。
さて、無事に眼鏡をかけると、元の「上原よよぎ」の人格に戻る。

087_02

こうして、二人の「よよぎ」に渋谷道元くんが翻弄されて、おもしろおかしいドタバタコメディが繰り広げられる。
しかしこの不安定な状態をいつまでも続けられるわけがない。上原よよぎと八幡よよぎがどちらとも道玄くんのことを好きになってしまったことから、人格のバランスが急激に崩れていく。特に眼鏡がなくなってしまってから、上原よよぎの声が聞こえなくなってしまう。眼鏡は幽霊の八幡よよぎを封印すると同時に、上原よよぎと八幡よよぎの心を繋ぐ「媒体」の役割を果たしていたのだった。その眼鏡が失われてしまったために、上原よよぎの人格が戻らないどころか、声すら聞こえなくなってしまったのだ。

087_03

眼鏡が「心と心を繋ぐ媒体」の象徴として描かれたことには、非常に深い意味が込められている。八幡よよぎと道玄くんは、上原よよぎとの絆を取り戻すために、必死に失われた眼鏡を探す。

087_04

眼鏡を捜索する過程で、道玄くんと八幡よよぎは、自分の本当の気持ちに気が付いていく。彼らは失われた眼鏡を探していたと思っていたが、本当は自分の気持ちを探していたのだった。本当に大切なことに気が付いた八幡よよぎは、自ら身を引くことを決意する。

087_05

結局、眼鏡は見つかり、上原よよぎの人格も戻ってくる。このとき、道玄くんが後ろから眼鏡をかけてあげていることに注意したい。後ろから眼鏡をかけることは、「視線を共有する」ことを意味する(当コラム第68回参照)。ここで二人が共有しているのは、もちろん八幡よよぎへの思いだ。たとえ八幡よよぎが成仏し、この世から消えてしまったとしても。この眼鏡がある限り、絆は繋がり続けるのだ。
眼鏡の「ON/OFF」の切り替わりを人格変化のスイッチにする作品は、他にもいくつかある。が、それをさらに「絆」というテーマに昇華させたところに、この作品独特の凄さがある。

■書誌情報

単行本全2巻。作者の名前は、「えにぐま」が苗字。掲載誌は『ぶ~け』だが、コミックスはマーガレットレーベル。なんだかamazonで検索しても出てこないけれど、他の古本通販サイトではちゃんと出てくるはず。

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第86回:植芝理一「ディスコミュニケーション」

植芝理一「ディスコミュニケーション」

講談社『月刊アフタヌーン』1992年2月号~2000年11月号

90年代を代表する眼鏡っ娘マンガといってよいだろう。眼鏡っ娘が9年にも渡ってヒロインとして活躍し、比類なき魅力を広く世間に知らしめた、その功績は計り知れない。魅力の一端は絵柄を一瞥するだけで感得することができるだろう。かわいい。
ただしというか。客観的には代替の効かない眼鏡っ娘傑作であることに間違いないのだが、私個人の主観的感情からすると、すんなりと腑に落ちないものもある。おそらくそのモヤモヤした主観的感情も含めて、眼鏡っ娘を語るときには外すことのできない作品と言える。
さて、私がどこにモヤモヤしているのか。次のエピソードを見れば、そのモヤモヤを共有してくれる人は多いはずだ。

086_01

主人公の松笛は、明らかに眼鏡に対してまったく魅力を感じていない。眼鏡をかけた戸川はこんなにかわいいのに、その眼鏡ゆえの魅力を完全無視しているのだ。松笛は「変態」として、戸川に様々な行為を要求するにも関わらず、眼鏡をいじることはない。松笛の言動からは、眼鏡に対するリスペクトを一切感じ取ることはできない。松笛には眼鏡DNAが完全欠如しているのだ。
読み進めていくうちに、作者自身に眼鏡DNAが欠如しているとしか思えないエピソードが次々と登場する。

086_02

人間のクズ登場。眼鏡っ娘のかわいさが、なぜ分からんか!
自分自身でこんなにかわいい眼鏡っ娘を描いておきながら、作者は眼鏡の魅力を自覚していなかったとしか思えない。それは、単行本で明かされた「メガネの理由」にも明らかだ。

086_04

ということで、作者自身の弁によれば、戸川が眼鏡であることに「特に理由はない」。深読みする必要は全くなく、作品自体を読めば「そうなんだろうな」と素直に納得できる。「ただなんとなく」という理由で、戸川は眼鏡っ娘になったのだ。
だが、それでいい。
描いた作者自身が自覚しなくとも、眼鏡っ娘の魅力は確かにここに宿ったのだ。それは読者からの支持に明らかに示される。作者の意図を超えて、眼鏡の力が本作を覆うことになる。それは眼鏡への態度の変化に顕著にあらわれる。既に具体例で確認したように、本作は当初のうちは眼鏡をダサいものとして扱っていた。しかし連載が続いていくうちに、その傾向は完全に払拭される。集合的無意識の働きによって、眼鏡の力が正当に認識されていったのだ。
何の曇りもない目で見れば、どう見ても、戸川は圧倒的にかわいい。「眼鏡はダサい」という歪みきった観念で脳みそを曇らされているうちは分からないが、エポケー(フッサール現象主義の用語で、あらゆる先入観を排除して世界と対峙すること)して戸川を見てみれば、圧倒的な魅力なのだ。
このように、作者が眼鏡の魅力を意識せずにたまたま描いたにも関わらず、世間の評価によって眼鏡の魅力が明らかになる例を、我々は既に見た。鳥山明「Dr.スランプ」(第77回)も、そうだった。さらに言えば、実は眼鏡DNAを持たない作者だからこそ、ここまで魅力的な眼鏡っ娘を世に送り出すことができたのかもしれない。その諧謔の可能性に思考が及んでしまう故に、私は本作によってモヤモヤさせられてしまうのだろう。

さて、戸川の魅力は見れば分かるのでいいとして。本作は他にも眼鏡的に興味深い点がいくつかある。一つは、「貼り付き眼鏡」だ。「貼り付き眼鏡」については、第56回で解説した。デッサンが狂った眼鏡のことだ。本作では、戸川の眼鏡は貼り付いていない。ちゃんと描かれている。ところが驚くべきことに、他の眼鏡キャラの眼鏡が貼り付いているシーンがあるのだ。同じコマの中に貼り付き眼鏡と貼り付いていない眼鏡が同時に描かれる例は、他にないのではないか。引用の一コマ目に注目してほしい。左側の戸川の眼鏡は貼り付いていないが、右側にいる万賀道雄というキャラの眼鏡は貼り付いている。

086_05

デッサンの狂い自体に、問題はない。問題は、同じコマの中に、どうして貼り付きと貼り付きじゃない眼鏡が同居できるかという、理論的にはまったく理解不可能な現実だ。つくづく不思議な作品だ。しかしこの万賀道雄というキャラが、明らかに藤子不二雄「まんが道」のパロディであることを想起すると、この貼り付き眼鏡には恐るべき意図が隠されている可能性がある。貼り付き眼鏡が忠実な藤子不二雄パロディであるとしたら、恐ろしすぎるとしか言いようがない。

もう一つは、「見る意志」についてだ。本作の結論めいたエピソードにおいて、戸川というキャラクターの特徴が「見る意志」であることが言明される。

086_06

この「見る意志」を象徴するものがまさに眼鏡であることは、本コラムにおいて何度も言及してきた。本作作者は、戸川の眼鏡に理由はないと言っていた。しかし作品自身は、戸川の眼鏡が「見る意志の象徴」であることを明らかに示している。これが作者の韜晦なのか、それとも集合的無意識が作り上げた眼鏡の力によるものなのかはわからない。まあ、理由はどうでもよいだろう。本作が眼鏡っ娘マンガの傑作であることだけは、もはや疑いようがないのだ。

■書誌情報

単行本は、イレギュラーな形で出版されている。本編13巻+学園編1巻+精霊編3巻の、全17冊。新装版は、全7巻。

単行本セット:植芝理一『ディスコミュニケーション』全13巻
単行本セット:植芝理一『ディスコミュニケーション精霊編』全3巻
Kindle版:植芝理一『ディスコミュニケーション学園編』
新装版セット:植芝理一『ディスコミュニケーション新装版』1-7巻セット

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第85回:池野恋「ヒロインになりたい」+柊あおい「ペパーミント・グラフィティ」

池野恋「ヒロインになりたい」+柊あおい「ペパーミント・グラフィティ」

集英社『りぼん』1991年1月~3月号 集英社『りぼんオリジナル』1994年6月~12月号

085_01

「オムニバス形式」という言葉がある。マンガに限らず、映画・小説・演劇等、フィクションに見られる様式の一つだ。主人公が異なるいくつかの独立した短編が連続する一方で、それらの短編すべてを通じて全体として世界観が一つにまとまっているようなフィクションを「オムニバス」と呼んでいる。主人公視点が複数存在することにより、一つの世界を多面的に見ることが可能になる創作様式だ。複数視点がもたらす文学的効果は芥川龍之介「藪の中」等に典型的に認めることができるが、その効果は少女マンガの中で独特な進化を遂げていく。特に我々が注目すべきなのは、少女マンガで進化したオムニバス形式においては、複数主人公のうち一人が眼鏡っ娘!というケースが非常に多いということだ。というか、オムニバス形式の本質を理解しようと思ったら、まずは眼鏡っ娘について理解しなければならない。眼鏡は全てに通ずる。今回紹介する2つのオムニバス形式の作品も、もちろん複数主人公のうち一人が眼鏡っ娘という作品だ。

085_03

池野恋は、1980年代半ばから90年代にかけて『りぼん』の看板を張った作家。そして代表作「ときめきトゥナイト」連載中に描いたオムニバス形式の作品が、この「ヒロインになりたい」だ。主人公は3人いて、そのうち一人が眼鏡っ娘の小園沙夜子ちゃん。高身長に悩む眼鏡っ娘だ(巨大眼鏡っ娘ファンのかたには悲報だが、公式身長は168cmと大台には届かず)。仲良し3人組の女の子が、それぞれ想像していたのとはちょっと違った形で恋に目覚めていく話だ。この作品のオムニバス効果は、「想像とちょっと違った形の恋」というところに顕れている。もしも主人公が一人だけだったら、この「想像とちょっと違った形の恋」という話は、作者が意図した主題だとは分からないだろう。しかし本作は3人の主人公が3人とも「想像とちょっと違った恋」によって幸せになっていく。こうなると、この短編連作の主題がここにあることが明確になる。一話読み切り形式の掲載が多い少女マンガだからこそ、こういった主題の見せ方が発展したと言えるだろう。

もう一作は、80年代半ばの『りぼん』のヒットリーダー柊あおい。代表作「星の瞳のシルエット」も主人公クラスが3人いる物語だったが、こちらはオムニバス形式ではなかった。「ペパーミント・グラフィティ」は、主人公が4人いるオムニバス形式だ。

085_04

本作では、映画製作を通じて4組のカップルが誕生していく。それぞれのカップル誕生の話が1話ずつ、全4話で構成されている。それぞれ個性的なヒロインたちが、その個性にマッチした相手を見つけていく。この作品から受ける「円満感」は、もしも主人公が一人だったら味わうことは難しいだろう。それぞれ個性の異なる4人のヒロインがそれぞれ違った形で幸せになるという結果を、バラバラに感じるのではなく、まとまった一つの世界として一挙に受け止めることができる。これが他の形式では味わえない、オムニバス形式の大きな特徴だ。この形式が少女マンガで独特な発展を遂げたのには、必然的な理由があるだろう。そしてヒロインの中にだいたい一人は眼鏡っ娘がいるという事実にも、なにか世界の真実が秘められているだろう。この事情については、さらに他の作品を見る中で考えていきたい。

 

■書誌情報

085_05両作とも電子書籍で読むことができる。
柊あおい『ペパーミント・グラフィティ』の眼鏡っ娘は、白黒だと分かりにくいが、カラーで見ると鼈甲ぶちであるように見える。マンガで鼈甲ぶちというのは極めてレアなので、ぜひ注目したい点だ。

Kindle版:池野恋『ヒロインになりたい』(りぼんマスコットコミックスDIGITAL)
Kindle版:柊あおい『ペパーミント・グラフィティ』(りぼんマスコットコミックスDIGITAL)

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第84回:CLAMP「魔法騎士レイアース」

CLAMP「魔法騎士レイアース」

講談社『なかよし』1993年11月号~96年4月号

084_01

鳳凰寺風ちゃんは、眼鏡っ娘の歴史を考える上で絶対に忘れてはならない、決定的に重要な役割を果たしたキャラクターだ。現代眼鏡っ娘はここから始まったと言っても過言ではない。その重要性は、客観的なデータに明らかだ。コミックマーケット「カタログ」のサークルカット調査の結果を見れば、眼鏡っ娘の飛躍が鳳凰寺風ちゃんの活躍から始まったことは、一目瞭然なのだ。

084_08右のグラフは、コミケカタログに掲載されたサークルカット全てに目を通して描かれている眼鏡キャラの数をカウントし、全体に占める割合を算出し、開催回順に並べてグラフ化したものだ。赤の線が眼鏡っ娘比率の推移を示している。80年代半ばから90年代前半まで、眼鏡っ娘の暗黒時代が続いていることが分かる。80年代初頭に眼鏡っ娘比率がまだ高かったのは、オリジナル作品に眼鏡っ娘がいたからだ。しかし80年代後半から高橋留美子作品のアニパロがコミケを席巻するようになると、眼鏡っ娘の姿を見かけることはほとんどなくなってしまう。暗黒期は1990年代前半の「セーラームーン」と「ストリートファイターⅡ」全盛期も続く。悔しい。その停滞期をようやく打破したのが1995年夏であり、その突破口になったのが本作「レイアース」の眼鏡っ娘、鳳凰寺風ちゃんだった。1995年にはサークルカット全体に占める眼鏡っ娘の割合は0.92%だが、その約半数は風ちゃんだった。アニメの放映が1994年10月に開始され、翌年夏開催のコミケサークルカットに風ちゃんが大量に描かれたのだ。ここで突破口が開かれたことによって、後の眼鏡っ娘躍進が可能となった。彼女の活躍がなかったらどうなっていたかを想像すると、心底ゾッとせずにはいられない。

本作の構成の特徴は、TRPG的想像力から派生した「キャラクター有機体構造」にある。本作では、主要登場人物が「光/海/風」と3人いて、それぞれがある価値観を代表している。本作の場合、「光=道徳的/海=主意的/風=理知的」というように価値が割り振られている。そうすると、光と風が対立するエピソードは、一人の人間の心の中の「道徳的判断」と「理知的判断」の葛藤と相似的に読むことができる。逆にいえば、目に見えない人間の心の動きと葛藤を分かりやすく描写することは難しいが、価値観を擬人化して物語の中でキャラクター間の葛藤を描くことで、人間の心の葛藤を目に見えるように描くことが可能となるのだ。

084_03

同じように、海と風の対立は、「主意的判断」と「理知的判断」の間の葛藤を表現している。

084_04

キャラクター間の対立が具体的なエピソードで描かれることによって、読者の心の中に葛藤が惹起される。そしてキャラクター同士の和解と問題の解決は、一人の人間の心の統合と安静を意味する。一人の人間の心の構造とキャラクターの構造を相似的に組み立てることによって、物語自体に大きな説得力が付与されるのだ。
084_02このようなアイデアは本作が初めて採用したわけではなく、既に2400年前のギリシア時代に哲学者プラトンが『国家』によって明らかにした原理だ。少女マンガにおいても、80年代半ばの柊あおい「星の瞳のシルエット」(第48回で言及)等に見ることができる。また1990年代前半の竹本泉作品やギャルゲーで独自な進化を遂げたことにも言及した(第83回)。しかし本作が特に成功した要因は、90年代前半に説得力を持ち始めた「TRPG的想像力」と「少女マンガ技法」を組み合わせた地点に「有機体構造」を構想した点にあると思う。
「TRPG的想像力」の創造的意義については、磨伸映一郎作品に言及するなかで触れた(第50回)。TRPGでは、個性ある能力を持つキャラクターが「パーティ」を組む。この「パーティ」という概念と、プラトン的な「有機体構造」の発想は、非常に親和的だ。プラトンの理屈なんか知らなくとも、「パーティ」という概念を理論的に推し進めていけば、必然的に「有機体構造」に行く着くと言ってもよい。本作の3人組がTRPGの「パーティ」に当たることは、敢えて説明するまでもなく一目瞭然だろう。この「パーティ」の中に「眼鏡っ娘が一人いる!」という構成の、なんという説得力。
084_07そして、「3人組のなかに眼鏡っ娘が一人いる」という様式は、柊あおい「星の瞳のシルエット」を見ればわかるように、実は少女マンガではよく見る様式だった。松苗あけみ「純情クレイジーフルーツ」なり、わかつきめぐみ「グレイテストな私達」などを想起してもよい。CLAMPが「3人組のうち一人が眼鏡っ娘」という様式を採用したのは、少女マンガ技法の伝統を踏まえれば、必然だ。そしてそれによって、麻宮騎亜が「サイレントメビウス」でできなかったことを、CLAMPはやってくれた。「ガルフォース」や「バブルガムクライシス」ができなかったことを、CLAMPはやってくれた。高橋留美子がしてくれなかったことを、CLAMPはやってくれた。この「パーティのなかに、眼鏡っ娘が一人いる!」という説得力は、実は少女マンガ技法を踏まえなければ出てこなかったのだ。そしていったん説得力を持った技術は、普遍化する。CLAMP後は、あらゆるパーティの中に眼鏡っ娘の姿を見ることになるだろう、ありがたや。
(そういう意味で、前回で触れたように、少女マンガ技法を踏まえた竹本泉がいち早く「パーティ」に眼鏡っ娘を組み入れていた事実はとても重要なのだ。また、「セーラームーン」のパーティに眼鏡っ娘がいなかったことの意味は、それがTRPG的パーティではなく「戦隊」であったということか。)

さてしかし。もしもキャラクターが単に価値観を代表しているだけだったら、キャラは作者の操り人形に過ぎず、独立した人格と呼ぶに値しない。もしもそういうキャラであったら、我々はこれほどの魅力を風ちゃんに感じることはなかっただろう。風ちゃんが個性ある人格だからこそ、我々は風ちゃんに惹きつけられる。キャラクターが単なる価値の代表であることを超えるのは、「恋」の場面だ。

084_05

084_06

うおお。めっちゃかわいい!
恋の瞬間、そこには価値観が擬人化されたキャラではなく、一人の人間がいる。我々はだからこそ、風ちゃんに惹かれる。CLAMPは、ちゃんとそのことも分かっていた。つくづく、すごいクリエイターだと思う。

■書誌情報

本編全3巻と、続編全3巻。新装版は新刊で手に入るし、旧版も人気があって大量に出回っているので、手に入れやすい。緑が風ちゃんの番。

新装版単行本全3巻セット:CLAMP『魔法騎士レイアース』完結セット
新装版単行本全3巻セット:CLAMP『魔法騎士レイアース2』完結セット

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第83回:竹本泉の眼鏡無双

竹本泉の眼鏡無双 1993年~2001年

083_01

竹本泉の眼鏡っ娘マンガについて、1982年「パイナップルみたい」(第81回)と1993年「トゥインクルスターのんのんじー」(第82回)を見てきた。そして1993年以降、竹本泉の眼鏡無双が始まる。爆発的に眼鏡っ娘キャラが増えるのだ。2001年までとそれ以降は質的な違いを感じるので、さしあたって私が把握している限りで2001年までの眼鏡っ娘キャラクターを一覧する。

1982「パイナップルみたい」山崎かおり、なかよし
1986「1+1=3ドイッチ」牧野すずめ、なかよしデラックス
1991「スウィート少女ライフ」カンノザキ・クララ・T、アップルミステリー
1993「アップル・パラダイス」西園寺京子、コミックマスターEX
1993「トゥインクルスターのんのんじー」テー・ノンノンジー・P、ヤングアニマル
1996「世の中なバランス」吉永善美、アップルミステリー
1997「乙女アトラス」ヒラタイ・イクシー、コミックノーラ
1997「くしゃくしゃのなかみ」小梅ひよみ、アップルミステリー
1999「かわいいや」河飯かなつ、まんがタイムオプショナル
2001「おんなじ感じW」高山美夏+真夏、月刊コミックビーム
2001「ゆれる100万ボルト」永浜忠子、月刊コミックビーム
2001「ブックスパラダイス」森永う子、コミックメガフリーク
2001「トランジスタにヴィーナスmission12少女の園」エイプリル先生、コミックフラッパー
2001「トランジスタにヴィーナスmission13リスボンのねずみ」イエン・マグ・オブラ、コミックフラッパー

083_03一覧するだけで、加速度的に眼鏡っ娘キャラの数が増大していることが分かる。特に「なかよし」時代には2例しかなかった眼鏡っ娘が、青年誌に進出した1993年以降に顕著に増えていることが分かる。作品数自体が増えて母数が増加したこともあるが、やはり掲載メディアの違いと、「萌え」そのものの出現という環境の変化による影響が大きいと思われる。
どの眼鏡っ娘もたいへん愛くるしく、特に三つ編みとの絶妙の相性についてはきちんと言及しておく必要を感じるが、今回は「乙女アトラス」と「アップル・パラダイス」に触れる。

「乙女アトラス」と「アップル・パラダイス」に共通する顕著な特徴は、「女の子3人組のうち、一人が眼鏡」という様式だ。この様式が担う理論的意味については第48回で触れたが、竹本泉作品に見られるものはかなり性格が異なる。竹本泉の3人組に見られるのは、有機体構造というより、RPGの「パーティ」と言った方が正確だろう。竹本泉の3人組には性格の役割分担というものは見当たらず、キャラクター間に葛藤が存在しない。となれば、竹本泉の「女の子3人組のうち、一人が眼鏡」という様式から、1990年代に急速に発展する「ギャルゲー」文化との親和性を想起することは、容易だ。
083_041980年代の美少女ゲームは、パーティ制ではなかった。「天使たちの午後」や「電脳学園」、「プリンセスメーカー」など、かつての美少女ゲームは、基本的には一人のヒロインを攻略する形式が主流だった。ところが1990年代に入り、急速にパーティ制が進化する。1992年「卒業」からパーティ制の流れが顕著になり、1994年「ときめきメモリアル」、1996年「サクラ大戦」、1997年「To Heart」に至って完全に確立したと言ってよい。このギャルゲーのパーティ制の進化過程が、竹本泉1993年「アップル・パラダイス」と1996年「乙女アトラス」とパラレルであったことは、もちろん偶然ではない。どちらかがどちらかを真似したということではない。同じような様式が同じような時期に説得力を持って登場したということは、それが受容される客観的条件が揃ったことを意味する。共通する客観的条件とは、おそらく「TRPG的想像力」の普遍化だ。1980年代にはごく一部の数寄者の愛好物に過ぎなかった「TRPG的想像力」は、1990年代に入って急速に一般化する。おそらく80年代に消費者だった若者が、90年代に情報発信者に回ったということだろう。竹本泉はもちろん80年代にクリエイターとしてのキャリアをスタートさせたが、その潜在能力すべてを世間が受け入れるには90年代を待たねばならなかったということだろう。
竹本泉にもともと眼鏡に対する極めて強い志向性があったことは「パイナップルみたい」を見るだけで確信できるが、そのポテンシャルが十全に花開くには客観的情勢の成熟を待つ必要があった。1990年以降の竹本泉の眼鏡無双は、そういう客観的情勢の転回を踏まえて考えるべきことだ。逆に言えば、「アップル・パラダイス」と「乙女アトラス」は、1990年代の情勢変化を説明する重要な証人と言える。未開の「萌え」フロンティアを先頭に立って切り開いてきた第一人者・竹本泉だからこそ、その作品群は時代の敏感な変化をダイレクトに映し出す一級の証人となるだろう。そして、それゆえに、この時期に竹本泉の眼鏡っ娘キャラの数が爆発的に増大することは、あまりにも重大な示唆を含んでいる。眼鏡を理解することは、そのまま時代を理解することを意味する。
そして2001年以降の展開は、「萌え」概念の定着と普遍化を踏まえて変化してくるように思われる。21世紀の展開については、また機会を改めて考えたい。

■書誌情報

「アップル・パラダイス」は同名単行本全3巻。話の舞台となっている聖林檎楽園学園は、他の眼鏡っ娘作品の舞台ともなっている。
「乙女アトラス」は同名単行本全2巻。眼鏡っ娘マンガ「トゥインクルスターのんのんじー」と世界観を共有している。

単行本:竹本泉『アップル・パラダイス』第一巻(ホビージャパン、1994年)
単行本:竹本泉『乙女アトラス』第一巻(ノーラコミックス、1998年)

083_02

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第82回:竹本泉「トゥインクルスターのんのんじー」

竹本泉「トゥインクルスターのんのんじー」

白泉社『ヤングアニマル』1993年17号~

082_01

1990年代初頭に竹本泉が男性向け媒体に進出したことは、個人的にはかなり衝撃だった。特に1993年に開始された本作のインパクトは、劇的に強烈だった。この1993年という年は、CLAMPが『なかよし』で「魔法戦士レイアース」の連載を始めた年でもある。『なかよし』でデビューした竹本泉が青年誌に進出したタイミングでほぼ同時にCLAMPが『なかよし』に侵入した事実は、少女マンガ技法と「萌え」の本質的な関係を考える上で、象徴的な意味を持つ。1993年の段階で、少女マンガ技法は一部の限られた数寄者の独占物を超え、広く一般化したのだ。少女マンガ技法の一般化は、「萌え」が一般化するための技術的前提となっていく。「萌え」というものを技術的に考える上で本作の持つ意味は計り知れないほど大きい。そしてもちろん、その重要性は本作のヒロインが眼鏡であることによって決定的になる。

082_02本作のヒロインは、眼鏡っ娘考古学者のノンノンジー18歳。舞台は西暦2264年だが、ちゃんと眼鏡は健在だ。ただノンノンジーは近眼というわけではなく、魔眼を封じるための暗示アイテムとして眼鏡を着用している。まあ、理由はどうでもよい。眼鏡っ娘であるという事実だけが決定的に重要だ。とにかく、この眼鏡っ娘が、かわいい。問答無用で、かわいい。作者が蓄積してきた少女マンガ技法が存分に発揮された、圧倒的なかわいさだ。これが、「萌え」だ。竹本泉の青年誌進出は、少女マンガ技法が決定的に「萌え」として定着した瞬間だった。少女マンガ技法の男性媒体への輸入が「萌え」の技術的前提となる。「萌え」という概念について様々な論者による様々な定義がなされてきたが、私から見ればそれは「少女マンガ技法が発する情報を処理しきれない男性視点が行う情報縮減」でファイナルアンサーであり、東浩紀が言うようなデータベース消費等の説明は残念ながらトンチンカンだ。東浩紀の言う「萌え要素」なるものの大半が少女マンガでは1970年代から既に存在していたことを視野に入れるだけで、物事の本質が見えやすくなる。

082_04さて、のんのんじーの潜在力は、10年後に出版された単行本の第2巻で遺憾なく発揮される。本編はいつもの竹本節なのだが、単行本に寄稿したゲストがものすごいメンツだった。50音順敬称略で、あさりよしとお、伊藤明弘、久米田康治、倉田英之、志村貴子、田丸浩史、鶴田謙二、中村博文、二宮ひかる、平野耕太、舛成孝二、陽気婢。一見して、眼鏡濃度の高い面子であることが分かるだろう。そして期待に違わず、眼鏡満足度はMAXだ。このゲストたちがノンノンジーを描き、竹本泉が各ゲストのリクエストにこたえてイラストを描く。この単行本2巻は、ノンノンジーという一つの作品であることを超え、眼鏡描画技術そのものを考察するうえで極めて示唆に富む貴重なカタログとなっている。のんのんじー2巻抜きでは眼鏡「萌え」というものを語ることは不可能だろうという、歴史的必須資料といってよい。扉絵の、のんのんじーコスプレ大集合とか、すごすぎる。指で目尻を下げて読子のマネをしているノンノンジーときたら、ああっ、もう!

ということで内容的にも形式的にも時期的にも「萌え」というものを考える上で極めて重要な作品であることは間違いない。そしてそんな作品のヒロインが眼鏡っ娘であるという事実について人々は真摯に受け止める必要があるだろう。

■書誌情報

いまのところ単行本2冊。初登場から20年経った今も完結していないが、今後どうなるのか?

単行本:竹本泉『トゥインクルスターのんのんじー』実質第1巻(白泉社、1994年)
単行本:竹本泉『トゥインクルスターのんのんじーEX』実質第2巻(白泉社、2004年)

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第81回:竹本泉「パイナップルみたい」

竹本泉「パイナップルみたい」

講談社『なかよし』1982年7月~12月号

081_02「パラダイム・シフト」という言葉がある。知識や技術が連続的に発達を続けていって、それがある水準に達した時に、知識や技術がそれまでの常識を超えて一気に「不連続」に展開する事態を、「パラダイム・シフト」と呼ぶ。「不連続の特異点」を説明した言葉だ。眼鏡を描画する技術の発展過程にも、いくつかの特異点があるように見える。私の見立てでは、重要な特異点の一つは1980年代前半にある。1970年代の「乙女ちっく」によって連続的な発達を続けていた眼鏡描画技術は、1980年代前半にパラダイム・シフトを起こしたように見えるのだ。前代の最終進化形態が太刀掛秀子「まりの君の声が」(第11回で触れた)で、新時代の幕開けが竹本泉・ひかわきょうこ・かがみ♪あきらの眼鏡描写に見えるように思う。前代と新時代の最大の違いは、敢えて「萌え」と言わせていただく。太刀掛秀子の眼鏡は「萌え」ではないが、竹本泉・ひかわきょうこ・かがみ♪あきらの眼鏡は「萌え」だ。

081_04さて、本作のヒロインは眼鏡っ娘女子高生かおり。恋というものがまったくわからない、色気なしの女の子が、友達に影響されながら、だんだん恋に目覚めていくお話し。恋愛話はアッサリしたもので、起承転結の盛り上がりというものは見られない。だが、それがいい。とにかく、きゃおりがかわいすぎる。後の竹本作品に見られる特有の不思議な世界というものはないが、竹本節の片鱗は随所に見られる。起承転結や話のメリハリなんてなくてもかまわない。ただただ、読んでいて心地いい。この空気感は、他の作家には出せない。

問題の眼鏡描画技術だが、客観的に比較した時には、太刀掛秀子の眼鏡との差異はそれほど大きくない。フレームの形、レンズの光、省略の仕方など、客観的に言葉にしようとしても上手く表現することはできない。だが、受け取る印象は、明らかに違う。客観的に言葉で表現することができなくとも、これまで私が積み重ねてきたオタク経験が教えてくれる。これは、「萌え」だ。そしてこの「萌え」の原因を言語化しようとすれば、前代までには存在しなかった「男性目線」による刺激を考えざるを得ない。少女マンガが積み重ねてきた技術に「男性目線」という要素が加わったときに、それまでにはなかった新しい眼鏡描写が生まれたのではないか。ただの男性目線だけでは、この萌え眼鏡は描けない。男性目線を維持したままの才能が「少女マンガ」の眼鏡技法を手に入れた時に、おそらく初めて萌え眼鏡が生み出される。そして同じ状況は、かがみ♪あきらの眼鏡にも当てはまる。(ただ、ひかわきょうこに同じ「萌え」を感じる理由は、よくわからない)。そして「男性目線+少女マンガ技法」というパラダイムにおける最終進化形態は、おそらくCLAMPで達成される。それについてはまた別の機会に。

ちなみに、きゃおりの母親の眼鏡も超萌え。

081_03

081_01

■書誌情報

同名単行本全1冊。SF(少し不思議)テイストがない竹本泉作品というのは、実はレアか。復刊した新刊でも手に入るし、古本でも比較的容易に手に入るので、世界平和のためにも一家に一冊そろえたい作品。

単行本:竹本泉『パイナップルみたい』(新刊=BEAM COMIC2009年、古本=講談社1983年)

 

 

 

 

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第80回:平野耕太「ヘルシング」

平野耕太「ヘルシング」

少年画報社『ヤングキング アワーズ』1998年No.27~2008年11月号

眼鏡っ娘が活躍するのは確かだけれども、客観的にはオッサン眼鏡たちの存在感の方が強烈ではある。客観的に見てオッサンたちのカッコよさは太陽の牙ダグラム並だが、とりあえず個人的にオッサンには興味と関心がないので、客観的な話はしない。

080_01

いやー、CV榊原良子は本当にいい。私には、CVを指定してもらえればその声を脳内で再生する能力があるのだが、榊原良子は本当にいい。特にこのシーンの再生が良かった。たまらない。榊原良子に褐色眼鏡っ娘を演らせるとは、天才か。

眼鏡っ娘v.s.メガネ君の最終決戦では「人間」の定義に関する勝負があった。ここは眼鏡的にも興味深い論点を含んでいる。

080_04

少佐が今際の際に発した「私は私だ」という言葉は、極めて大陸的な響きを持つ。フランスの合理論はドイツ観念論に昇華し、「私は私だ」という論理を精緻化していった。「即自的な私」と「対自的な私」の弁証法的同一。そしてそれは1970年代の眼鏡っ娘少女マンガにも「起承転結構造」の形で引き継がれ、「私は私だ」という近代的自我は高度経済成長後の日本で肥大化していく。「私は私だ」という少佐の主張は、基本的には1970年代乙女チック眼鏡っ娘たちの「私は私」という近代的自我と響きあう。
一方でインテグラの言う「義務」には、イギリス経験論的な響きを感じる。ヒュームやアダム・スミスの市民社会論の響きがある。独我論を拒否しても不可解な現実と対峙できる経験の蓄積がある。眼鏡っ娘とメガネくんの頂上決戦においては、二つの人間論が交わることなくすれ違っている。この理論的にも決着がついていない人間論の交錯は、しばらくは様々な論争の通奏低音として響き続けるだろう。

本作にはメインヒロインの他にも魅力的な眼鏡っ娘が登場する。特にリップバーン中尉は、たまらない。この眼鏡の描写は、すごい。

080_02

法外で無慈悲な暴力を前にして怯え震えていた小娘が、眼鏡をかけなおした途端、自分を取り戻す。これが眼鏡の力だ。
しかし残念ながら、彼我の力の差はいかんともしがたい。圧倒的な暴力の前に、眼鏡っ娘はなすすべもない。殴られ、吊り下げられ、体を貫かれ、血まみれになり、食われる。

080_03

この食われるシーンが、ものすごい。ものすごいのは、眼鏡の描写だ。「D⑧」で中尉は殴られて、その衝撃で眼鏡が吹っ飛んだ。続けて釣り下げられ、体を貫かれるシーンでも、もちろん吹っ飛んだ眼鏡は吹っ飛んだままだ。そして食われるのは次号になるのだが、月が替わって掲載された「D⑨」では、吹き飛んだはずの眼鏡が復活しているのだ。これを見た時、一瞬、私は作画エラーかと思った。しかし思い直す。これは意図的に眼鏡をかけなおしたのだ。アーカードが眼鏡を拾って、中尉を眼鏡っ娘にしてから食ったのだ。そうでなければ、最後の戦いの最中に中尉が復活するとき、中尉が眼鏡っ娘でなくなってしまう。というか、どうせ食うなら吸血鬼だって眼鏡っ娘のほうがいいよなってことだ。

もう一人。ヘルシング本編では眼鏡姿で登場しなかったが、別作品「CROSS FIRE」では主役を張っている眼鏡っ娘の「由美子」だ。まあ、ヘルシング本編では眼鏡をかけていないことが死亡フラグになってしまったけれど。

080_05

眼鏡の「ON/OFF」が人格の切り替わりの目印になるという眼鏡っ娘。眼鏡ONの人格が「由美子」で、OFFの人格が「由美江」だ。ところで、「由美子」という名前のマンガ家は、とても眼鏡に優しい。本blogでも取り上げた田渕由美子を筆頭に、鈴木由美子、川原由美子、前田由美子と、素晴らしい眼鏡っ娘を描く作家の名前がすぐに浮かぶ。渡辺由美子はマンガ家ではないが、もちろん眼鏡に優しい。ここで眼鏡っ娘キャラに「由美子」と名前がついているのは、なんの因果かと思ったね。

■書誌情報

単行本全10巻。セカイ系全盛のご時世の中でまっとうな作劇をしていた点でも普通に面白い作品で、ラストまでずっと興奮しっぱなしで読めるので、ぜひ単行本でまとめて読みたい。

単行本セット:平野耕太『ヘルシング』全10巻(ヤングキングコミックス)

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第79回:須田さぎり「メガギフト」

須田さぎり「メガギフト」

メディアワークス『電撃帝王』2004年Vol.1~3
エンターブレイン『comic B’s-LOG』2007年9~10号

眼鏡で世界を救うために活動する男、目々澤(めめさわ)。目々澤は、日々路上で少女たちに眼鏡をかけさせている。そんな眼鏡にすべてを賭ける男が、理想の眼鏡素体と出会うところから物語が始まる。その理想素体少女に眼鏡をかけさせることができれば、目々澤の野望が達成できるのだ。

079_01

理想素体少女の姉ミツルも、ひそかに眼鏡活動を続けていた。目々澤とミツルは「全人類に眼鏡を装着させる」という同じ理想を抱いていた。だがしかし、二人は眼鏡観が異なっていた。ミツルは、ズレ眼鏡が許せなかったのだ。眼鏡のジャスト・オンを断固主張するミツルに、目々澤が立ち向かう。

079_02

目々澤は叫ぶ。「メガネの可能性は我々が封じてしまってよいものではない。メガネはもっと自由であるべきだ!!メガネをびくびるなっっ!!!!」。目々澤の眼鏡オーラに圧倒されるミツル。理想の眼鏡素体少女が、目々澤に圧倒的な眼鏡力を与えたのだ。戦え目々澤!世界に平和が訪れるまで、少女たちに眼鏡をかけてかけてかけまくるのだ!

この目々澤の「メガネはもっと自由であるべきだ!!」というセリフ、読んだ当時は実はあまりピンと来ていなかったけど、10年経ってようやくその味わいが分かってきた気がする。私もかつては原理主義的に「眼鏡、かくあるべし!」と信じていたけれど、それは眼鏡が秘めたポテンシャルを小さく見積もることでもあった。単行本の後書きで著者も触れているけれど、この10年で眼鏡をとりまく環境は大きく変化した。20世紀からは想像できなかった世界が、いま、眼前に広がっている。私が思っていた以上に眼鏡のポテンシャルが凄まじかったということだ。この先も、きっとそうだろう。我々自身の思い込みだけで眼鏡の可能性を閉じ込めてはいけない。その思いが目々澤の言う「メガネはもっと自由であるべきだ!!」という言葉に込められている。

というわけで、目々澤の活躍は続く。

079_03

うむ。素晴らしい。

079_04

うむ。素晴らしい。
しかし理想の眼鏡素体少女に目々澤が告白されたときのエピソードには、ひっくり返った。本当に眼鏡かけてない女は眼中にないのな。目々澤には幸せになってもらいたいと、心の底から思う。

■書誌情報

079_05同名単行本に全話所収。男性向媒体の『電撃帝王』で連載が始まって、女性向媒体の『comic B’s-LOG』で連載終了するという他にあまりない掲載形態だが、媒体が変わっても目々澤の活躍ぶりは一緒。
著者は強烈なメガネ君マンガも描いている。タイトルが「ひざまずいてメガネをかけろ」だからなあ。初めて見た時は本当にびっくりした。

単行本:須田さぎり『メガギフト』(B’s LOG Comics、2007年)

以下はメガネくんマンガ。
単行本:須田さぎり「ひざまずいてメガネをかけろ」(B’s-LOG COMICS、2006年)
単行本:須田さぎり「きみのくちでメガネをたたえよ」(B’s LOG Comics、2008年)

御本人が凛々しい眼鏡美人さんで、お話しするときはいつも舞い上がっていたのだった。

■広告■


■広告■

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第78回:石本美穂「冬の虹を見にいこう」

石本美穂「冬の虹を見にいこう」

集英社『りぼん別冊』1996年2月号

054_hyou本作は「眼鏡っ娘起承転結構造」の教科書的な美しい展開を見せると同時に、ルッキズム(見た目主義)について難しい問題を我々に投げかけている。

「起」:眼鏡っ娘女子高生の陸は、17歳になっても彼氏がいない。本人は彼氏ができないのは超ブ厚い眼鏡のせいだと思っている。

078_02

「承」:陸の幼馴染で眼科医の息子の天才ハルくんが、なんと視力が良くなる目薬を偶然作ってしまう。その薬を浴びた陸の視力は奇跡的に回復し、眼鏡をはずしてしまう。その途端、モテモテに。

078_03

眼鏡を外した陸に近づいてきたのが、学園一のイケメンで有名な篠崎くん。突然のモテ期に舞い上がった陸は、篠崎の告白を受け入れ、付き合うことになる。しかし天才ハルくんは、それが偽りの愛であることをしっかり見抜いていた。世界の真実が見えているハルくんは陸に忠告するが、眼鏡を外して心まで近眼になってしまった陸は、その忠告に対して感情的に反発してしまう。

078_04

ハルくんは「そいつら君の「メガネのない顔」が気に入ったんだろ?結局は上べしか見てないってことだよな」と忠告する。まさにそのとおり。篠崎は、まさにルッキズム(見た目主義)の権化だ。人間を人格で扱わず、見た目だけで判断する最低男なのだ。しかし見た目を褒められて有頂天の陸には、ハルくんの言葉は届かない。

「転」:しかし偽りの愛は破綻する。陸は篠崎とデートを重ねるが、だんだん違和感が増幅していく。その一方で、ハルくんの存在が次第に大きなものとなっていく。どうするべきか悩んだ陸は、篠崎の本心を知ろうとして、眼鏡をかけた姿を見せる。そこで篠崎は最低のリアクションを見せた。陸は、篠崎がしょせんは上べしか見ていないクソ男だということを認識する。陸は眼鏡をかけることによって、正常な判断力を取り戻したのだ。

078_05

「結」:陸はハルくんの忠告が正しかったことを悟り、篠崎と別れる決意をする。フラれた篠崎は逆ギレしてハルくんに襲い掛かるが、実は腕の立つハルくんは最低男をあっさり撃退。ハルくんは見事に眼鏡っ娘を守り切ったのだ。よかった、よかった。

ん?

しかし、しかしだ。そもそも思い返してみれば、この天才ハルくんは視力が良くなる薬を開発していたのだった。もしもこの研究が成功してしまったら、この世界から眼鏡が消えることを意味する。恐ろしい男、ハル。この物語も、恐ろしい方向へ進んでいく。ハルは陸に「目薬が完成したら、メガネを外して雪の虹を見にいこう」などと恐ろしいことを口走る。ああ、このまま天才の手によって世界から眼鏡が消えてしまうのか!?

078_06

さらに恐ろしいのは、ハルくんの人間性が、篠崎だけでなく、我々にも反省を迫ってくるところだ。ハルくんは、陸がメガネのときも、しなくなってからも、同じように接していた。要するに、見た目に左右されず、陸の人格と真っ直ぐに向き合っているのだ。率直に申し上げて、私は眼鏡を外した女に対して同じように接する自信はない。見た目に左右されずに陸の人格を尊重するハルくんの姿勢を見てしまったとき。篠崎に対して放った「ルッキズム(見た目主義)」という批判は、我々に対してブーメランとなって帰ってきてしまうのだ。どうする俺!?
とりあえずこの難問は棚に上げて、本作の結末を恐る恐る確認しよう。はたしてハルくんの研究が成功して世界から眼鏡が失われてしまうのか? 陸は眼鏡を外してしまうのか!!???

078_07

やったくれたぜハルくん! ハルくんは超うす型の眼鏡を開発して、陸にプレゼントしたのだ! よかった! 眼鏡は救われたのだ!

ということで、ハルくんは一人の眼鏡っ娘を立派に救った。が、我々に対して重い課題を残していった。ルッキズム(見た目主義)批判に対して真剣に答えるのは我々の責務だが、残念ながら紙面が足りない。機会を改めて考えていきたい。

■書誌情報

本作は48頁の中品。同名単行本に所収。

単行本:石本美穂『冬の虹を見にいこう』(りぼんマスコットコミックス、1997年)

「まんが王国」で無料で読むことができるようだ。

■広告■


■広告■