この眼鏡っ娘マンガがすごい!第75回:環望+榊原瑞紀「ミス・マーベリックにはさからうな」

原作:環望+漫画:榊原瑞紀「ミス・マーベリックにはさからうな」

エモーション『YOMBAN』2009年2~8月号

075_02前回に引き続き、本作も戦う変身ヒロインの眼鏡っ娘作品だ。そして本格アメコミ作家として活躍していた著者らしく、きっちりスーパーマン・オマージュになっている。
他の作品と異なる大きな特徴は、変身ヒロイン眼鏡っ娘が新米の女教師という点にある。女教師だから眼鏡、そしてスーパーマン・オマージュだから眼鏡。残念ながらスーパーマン・オマージュなので変身後は眼鏡が外れてしまうのだが、女教師モードでは素晴らしい眼鏡だ。
そして倒すべき悪が、実はクラスの教え子3人組。オテンバ3人組は、科学の力を悪用して、街中に迷惑を振りまきながら大騒ぎ。このうち一人が眼鏡っ娘で、嬉しい。そして学校では教え子のイタズラに悩まされている女教師だが、変身した後は3人組をちゃちゃっと懲らしめるのだった。
しかし本当に倒すべき相手は、他の所にいた。めちゃめちゃ盛り上がる展開。生徒3人組のピンチに現れ、「私の生徒に手を出すな」と啖呵を切る女教師が、かっこいい。まあ、欲を言えば、眼鏡をかけてこのセリフを言ってほしかったけどね。

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075_01ところで「女教師だから眼鏡」と書いたわけだが。厳密に考えていくと、真実がもう少し興味深く見えてくる。1960年から70年代初頭のマンガ作品を見ると、女教師が眼鏡をかけているのはいいとして、他に看護婦もよく眼鏡をかけていることに気がつく。そして当時はまだ女性の社会進出が進んでおらず、女性が働く場所は限られていた。実は「女教師」と「看護婦」とは、当時の女性が社会進出する際の限られた選択肢だった。だから、「看護婦」がよく眼鏡をかけているという事実を踏まえれば、「女教師だから眼鏡をかけている」というよりは、「職業婦人だから眼鏡をかけている」といったほうが正確だということが分かる。アメリカの「スーパーガール」も、変身前はOLで眼鏡。つまり眼鏡は「教師」に限らず「職業婦人」全体の目印なのだ。となると、眼鏡を外そうとする圧力の意味も見えやすくなる。そこには、女性の社会進出を阻止し、全ての女性を娼婦化しようとするマッチョ的無意識が働いているのだ。

しかしもちろん本作は、そういったマッチョ的無意識とは無縁だ。本作は変身ヒロイン物語であると同時に、眼鏡っ娘が教師としての自覚と自信を強めていく成長物語でもある。教師として成長した眼鏡っ娘が眼鏡を外す理由は、何もない。

■書誌情報

電子書籍で読むことができる。

Kindle版:環望+榊原瑞紀『ミス・マーベリックにはさからうな』(Emotion Comics、2011年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第74回:井原裕士「雪乃すくらんぶる」

井原裕士「雪乃すくらんぶる」

学研『コミックNORA』1993年7月号~95年9月号

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前回に引き続き、スーパーマン・オマージュの眼鏡っ娘作品だ。本作はヒロインの苗字が「倉久」となっており、誰がどう見てもスーパーマン・オマージュと分かる作りになっている。というわけで、普段は眼鏡で三つ編みのヒロインが、眼鏡を外して三つ編みをほどくと怪力のスーパーヒロインとなるのだった。が、物語冒頭でいきなり主人公の広崎くんに、正体がバレてしまう。

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眼鏡っ娘の正体を知った広崎くんは、愛する眼鏡っ娘を守るために身体を張って頑張るのだった。この広崎くんが、非常によくできた男だ。世間のボンクラどもは目の前の眼鏡っ娘の魅力に気が付きもせずに変身後の「白雪仮面」に夢中になっているのだが、広崎くんだけは眼鏡っ娘の魅力にしっかり気が付いている。だからこそ、主人公にふさわしい。彼はスーパーヒロインの眼鏡っ娘に釣り合う強い男になるために、努力を惜しまない。正体がばれそうになったときに臨機応変なアイデアで眼鏡っ娘を守る、その機知と機転とド根性が見事で、惚れ惚れとする。ここまで人間がしっかりできた男は、めったに見ない。こういう男とくっつけば、きっと眼鏡っ娘も幸せになれるだろう。

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ああっ、もう、かわいいなあ。幸せにしてやってくれよ、広崎!

074_04眼鏡描写の見所は、やはり黒のセルフレームを丁寧に描いているところだろう。21世紀以降はさほどレア感がないので見落としがちではあるが、90年代前半にこのようにセルフレームをきちんと描く作品は、ほとんどない。そして、見事に眼鏡が似合っている。かわいい。
もうひとつの見所は、意識的に「貼り付き眼鏡」を利用しているところだ。普段の描写でも多少の貼り付きは確認できるが、ギャグ顔になったときの貼り付き加減はすさまじい。これがアクセントになって、本物の悪人が出てこない世界観に説得力が付与されているように思う。

実はスーパーマン・オマージュ系はシリアスとコメディのバランスが難しいように思うのだが、本作は最後まで安心して楽しめる。眼鏡っ娘の日常が丁寧に描かれているためだろう。

■書誌情報

単行本全3巻。古書で手に入る。

単行本セット:井原裕士『雪乃すくらんぶる』(学研、全3巻)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第73回:岡崎つぐお「どきどきハートビート」

岡崎つぐお「どきどきハートビート」

小学館『週刊少年サンデー』1986年~87年

手を挙げろ! 眼鏡警察だ! ムダな抵抗はやめて、いますぐ眼鏡っ娘にひれ伏すんだ!

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てなわけで、眼鏡っ娘の警察官が活躍する作品だ。ところがこの眼鏡っ娘刑事がド天然のドジっ娘で、いきなり第一話で殉職してしまった……ら話が終わってしまう。拳銃で胸を撃ち抜かれたはずの眼鏡っ娘は、生きていた。しかも、並外れたパワーを発揮し、あっという間に犯人をやっつける。眼鏡っ娘は、事件が発生した研究所で謎の液体を浴びたことから、超強力パワーを発揮する特異体質になってしまったのだった。その体質を活かして、次々と悪いやつらをやっつけて、みんなの幸せを守っていくことになるのだが。

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変身の引き金は、心拍数。興奮するなどして心拍数が上がると、爆発を起こしてスーパーレディに変身するのだ。そんなわけで、好きな国立さんの言動にドキドキして心拍数が上がると爆発しそうになってしまい、まともな恋もできないのだった。かわいそうな眼鏡っ娘。

073_03さて、眼鏡的な注目は、変身するときに眼鏡が外れてしまうところだ。これはもちろん、「スーパーマン」の伝統を引き継いでいる。改めて言うまでもなく、変身前にメガネくんだったクラーク・ケントは、スーパーマンに変身した後は眼鏡が外れている。この設定は女版スーパーマン「スーパーガール」でも引き継がれ、変身前に眼鏡っ娘だったクリプトン星の生き残りの少女は、変身すると眼鏡が外れる(2015年に公開されたトレーラームービー)。本作でも、普段は眼鏡をかけているのに、変身後は眼鏡が外れる。これは、第70回で指摘しておいたように、他のアイテムと決定的に異なる眼鏡の際立った性質を利用した描写だ。つまり「眼鏡の不連続性」を「キャラクターの不連続性」とリンクさせてストーリーに説得力を持たせているわけだ。同一人物であるというアイデンティティを成立させながら、しかも性質は完全に不連続という「変身」を描写するとき、この眼鏡というアイテムほど簡単に説得力を発揮するものは、他にない。確かに悟空であれば髪の色が金色になり、ケンシロウであれば服が破れ、覚醒したウォーズマンが素顔になるのも「キャラクターの不連続性」を視覚的にわかりやすく描写している例だが、眼鏡ほど簡単に「不連続性」を表現できるものは、他にない。それゆえに、「眼鏡を外したら○○」という描写が用いられる中で、例のアレも安易に使われてしまうわけではある。
ともあれ、本作も、眼鏡の脱着によってキャラクターの不連続性を表現している作品の一つだ。非日常で眼鏡が外れるのは少し残念なわけだが、日常の眼鏡姿がとてもかわいく描かれていて、とても楽しく読める。このようなスーパーマン・オマージュの眼鏡っ娘作品は他にもいくつかあるので、機会を改めて見ていくこととしよう。

073_01てところで、7/25「ゆるいいんちょ」で、「眼鏡警察」について話題となった。夜羽さんは真面目だから、けっこう深刻に受け止めていたけれど。そしてその危惧は、われわれ自身の言動を自らが戒め、さらに次のステップに進むための反省ということでは意味があるとは思うけれど。でもそれはそれとして、「艦これ」のアレは誰がどう見ても明らかにウンコであって、もはや眼鏡警察がどうこうという問題ではない。「キャラクターの連続性と不連続性」という作品のデキ自体を決定する極めて重要な基礎・基本が悲惨なほど低レベルであったことが本質的な問題なのであって、それがたまたま「連続性と不連続性」を極めて分かりやすく視覚的に示す眼鏡というアイテムに手を出してしまったことで誰の眼にも分かりやすく下劣さが見えやすくなったというだけのことだ。あれがなくとも、ウンコだったことは間違いない。デスノートを手に入れたら、鼻くそをほじりながら、監督と脚本の名前を書き込めばいいと思うよ。
とはいえ、それはそれとして、「眼鏡警察」という言葉が流通した背景については思想史的に言語化しておく必要があるのも確かだ。夜羽さんが危惧するように、そこそこ、根が深い問題であることは確かだと思う。が、同時にスルーしていい性質のものでもあるとも思う。つっこんだ考察は、また機会を改めて。

■書誌情報

単行本も手に入りやすいし、愛蔵版も出ている。80年代の少年マンガで眼鏡っ娘がヒロインということで、とても貴重な作品。

単行本全5巻:岡崎つぐお『どきどきハートビート』(少年サンデーコミックス、全5巻セット)
愛蔵版全4巻:岡崎つぐお『どきどきハートビート』(スコラ、全4巻セット)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第72回:幸月由永「ご相談はこちらへ」

幸月由永「ご相談はこちらへ」

集英社『別マスペシャル』1991年1月号

葉澄ちゃんは眼鏡っ娘女子高生。ショートカットに黒縁セルフレームが似合っている。そんな葉澄ちゃんは、他人の恋の仲を取り持つのは得意なのに、自分のことになると不器用。そして葉澄ちゃんが一目で恋に落ちた相手は、客観的には魅力的とは言い難い大男のオッサンだった。

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しかしめちゃめちゃな美人がオッサンにキスしているところを目撃したりして、大ショック。さらにオッサンが美人を連れてトンガに移住するという噂が流れたりと、弱り目に祟り目。でも幸運の女神は、前向きに頑張る眼鏡っ娘に微笑むのだ。

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結局、美人とのキスも誤解だったということがわかり、めでたしめでたし。

ということで、ガールmeetsオッサンという他愛もない話ではある。だが、それがいい。淡泊な絵柄なのに、眼鏡っ娘の微妙な表情の変化がよく描けている。嫌な人間が一人も出てこない世界の、ほんわかしたと雰囲気が心地よく、読後はぽかぽか幸せな気分に浸れる。こんなほんわか幸福感を醸し出せる作品ってあまりないよなあと思って改めて精読してみたら、ポイントはやはり眼鏡にあった。眼鏡の描き方が、ほんわかしていたのだ。小さい絵だと分かりにくいので、ちょっと拡大して見てみよう。(14インチの画面だと、実際のマンガの4倍くらいに拡大)

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黒縁のように見えていた眼鏡は、実は墨ベタではなかった。「網掛」という技術で表現されているのだ。眼鏡のフレームに光が当たるところは網掛の密度を低くして表現するなど、芸が細かい。画面全体から漂ってくる「ほんわか感」の源泉は、このきめ細かい眼鏡表現にあったのだ。この網掛と言う技術は、そこそこ面倒くさい。それでも墨ベタではなく網掛という表現を選択したところに、本作の見所がある。少女マンガならではの、繊細で温かみのある、とても個性的な表現だと思う。

■書誌情報

本作は40頁の中品。単行本『寒さはもうすぐ去っていく』に収録。独特の雰囲気を持つ個性的な作家なので、キャリアが単行本1冊で終わっているのはとても勿体ないと思う。

単行本:幸月由永『寒さはもうすぐ去っていく』(マーガレットレインボーコミックス、1992年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第71回:奥森晴生「たわわ」

奥森晴生「たわわ」

集英社『りぼんオリジナル』2002年6月号

071_01本作は、「傍観者」の眼鏡っ娘がヒロインへと躍り出る物語だ。
眼鏡っ娘に「傍観者」の役割を与える作品を、しばしば目にする。眼鏡とは「見る」ための道具なのだから、見るという行為に特化した傍観者キャラに眼鏡をかけさせたくなるということだろう。客観的に物事を分析できる傍観者は、物語を円滑に進行させるにあたって非常に使い勝手の良い存在だ。が、もちろん傍観者だから、基本的に脇役を超えることはない。しかし稀に、そのような傍観者眼鏡っ娘が主人公ポジションに躍り出ることがある。その尊い輝きについては、第48回『星の瞳のシルエット』で少し言及した。「傍観者」から「主人公」へと躍り出ることはとても勇気を要することであり、だからこそ他に代えがたいカタルシスを読者にもたらす。本作の見所も、跳躍するヒロインの心の動きにある。

浜子は眼鏡っ娘高校生17歳。過去に付き合っていた彼氏はいたが、二股をかけられた際の男のマヌけな言動に愛想が尽き、恋愛そのものに距離を置くようになってしまった。しかしそんな浜子をずっと見ている男、沖田くんがいた。しかし浜子は沖田くんの気持ちには気づいていないし、沖田くんも素直に「好き」と言うことができない。そんな沖田くんには、恋愛に関心を持たない浜子の眼鏡が「傍観者」の象徴のように見えていた。

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一人でいることがラクチンだと思っていた眼鏡っ娘だったが、家族が旅行に出かけて家に誰もいない日、体調を崩して倒れてしまう。そのとき、朦朧とする意識の中で、「傍観者」を決め込んでいた自分の態度が、結局は臆病の裏返しの強がりだったことを自覚する。そこに現れたのが、沖田くんだった。沖田くんがお粥を作ってくれたりして、浜子は無事に回復する。浜子は沖田くんの気持ちを察して、「傍観者」を卒業していく。
で、「傍観者」を卒業するのはいいとしても、同時に「傍観者」の象徴だった眼鏡が外されてしまうケースが多いので、ひそかに心配していたのだが、本作はちゃんと眼鏡をかけ続けてくれた。興味深いのは、眼鏡をかけつづけるのと同時に「傍観者」の能力も引き続き持ち続けているところだ。眼鏡をかけているということは、物事がよく見えることを意味する。物事を客観的に認識できるので、沖田くんが自分のことを好きだということを明瞭に認識することができる。

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071_04「傍観者」の客観的認識能力を引き継いだまま、つまり眼鏡をかけたまま、浜子は恋の物語の主人公に躍り出る。「好き」だと素直に言えない沖田くんを、しょうがないなあと思いつつフォローする眼鏡っ娘の笑顔が、とても爽やかだ。この恋はきっとうまくいく。

本作のもう一つの見所は、眼鏡の描写だ。少女マンガで眼鏡が描かれる場合、フレームのラインだけ描かれることが大半だ。が、本作はフレームを省略しないでしっかり描くうえに、鼻パッドや蝶番まで丁寧に描きこんでいる。『りぼん』系列にこのようなしっかりした眼鏡作品を描いてくれたことは、とてもありがたいことだと思う。

 

■書誌情報

本作は40頁の中編。単行本『林檎の木』に所収。しっかりした絵と芯のある物語を作る作家で、高い実力があるのは明らかなので、キャリアが単行本一冊だけなのはとても勿体ない気がする。

単行本:奥森晴生『林檎の木』(りぼんマスコットコミックス、2004年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第70回:西川魯介「dioptrisch!」

西川魯介「dioptrish!」

角川書店『エース桃組』2004Summer~05Winter

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ということで、徹頭徹尾、眼鏡っ娘の何たるかを追求している作品だ。そもそも西川魯介作品のすべてが何らかの形で眼鏡を追求していると言えるのだが、本作はその中でも「アジテーション」あるいは「プロパガンダ」として特化している。故に、人心を掴みやすいキャッチフレーズに満ちており、小野寺浩二「超時空眼鏡史メビウスジャンパー」と並んで、布教に用いやすい。積極的に使っていきたい。というか、実際に各所で目にする。ひょっとしたら本作と知らずに目にしていた人も多いかもしれない。

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この「メガネは皆のために!!皆はメガネのために!!」というワンフレーズは、その分かりやすさと普遍性のために、広く人口に膾炙した。原点が西川魯介ということは、今一度確認しておきたい事実だ。(まあこれ自体がパロディであることは、さておこう)
作品自体がアジテーションであるが、作中でも実際に繰り返し激しいアジテーションが展開される。我々としては、「異議なーし!」と声を張り上げるしかない。

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異議なーし! 激しく異議なーし!
とはいえ、単にアジテーションに終始している作品というわけではない。世界の真理を深く掴み取っている描写を各所に伺うことができる。第一話で提示された「見る意志と無限との合一」というテーマについては一度きちんと掘り下げたいと思っているが、今回は第三話の最後のエピソードで示されたテーマについて見てみよう。「眼鏡の不連続性」と「生の飛躍」の問題だ。

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本作は「メガネをかける/外す、その瞬間は不安定な魔の瞬間!特別なその状態」と言う。多くの人々(特に女性)が「眼鏡の脱着」にエロスを感じるという意味の発言をしているが、本作はその現象を意識的に切り取って言語化している。ここは、おそらく「世界の真理」に触れている。
070_05鏡の本質の一つは、「不連続」性にある。これが他の「萌え要素」とは決定的に異なる眼鏡の際立った特徴だ。眼鏡は「かけている」か「かけていない」か、そのどちらかの状態しかありえない。中間の状態があり得ない。そして眼鏡の「ON/OFF」という「不連続」なものが切り替わるところは、微分不可能で不連続な「特異点」に相当する。このような不連続な「特異点」のことを、フランスの思想家バタイユは「射精」と「死」として表現した。それは「生」の始まりと終わりの象徴だ。「生/死」は、眼鏡の「ON/OFF」と同様に、「不連続」なものだ。だからこそバタイユは不連続な生を連続させようとして、射精の瞬間の死を夢想した。不連続な「特異点」をどのように理解するかは、そのままそっくり「生」を理解することを意味する。つまり眼鏡の「ON/OFF」を理解することは、形式論理的には「生」を理解することと同値なのだ。ドイツの教育哲学者ボルノーは、「不連続」な生を繋げる概念として「跳躍」を構想した。繋がっていないのだから、ジャンプするしかない。そのジャンプは死を賭けた冒険であると同時に、連続的な成長では不可能なほどのパラダイムシフトを引き起こす決断でもある。そして眼鏡の脱着とは、まさにボルノーが言う「不連続の跳躍」を意味する。「眼鏡っ娘起承転結構造」の少女マンガにおいて、なぜ眼鏡を外したりかけたりすることで、少女たちの飛躍的な人格の成長が促されるのか。それは、眼鏡の脱着が「死を賭けた不連続の跳躍」を暗示しているからだ。たとえば「髪を切る」という行為も、「不連続の跳躍」を暗示する行為の一つではある。しかし、髪は脱着できない。眼鏡のような脱着できるアイテムこそ、「不連続の跳躍」を暗示するにふさわしい。またメガネ男子が眼鏡を脱着するときに腐女子がトキメキを感じるのは、そこに「不連続の跳躍」があり、そしてそれが「生」というものの本質を示しているからだ。
数年前、本作の「メガネをかける/外す、その瞬間は不安定な魔の瞬間!」というセリフを読んだ後、「ふーん」と思って風呂に入っていたとき、急に頭の中にバタイユとボルノーが出てきて、「眼鏡の不連続性」の持つ意味に思い至ったのだった。ちなみに風呂の中で「エウレーカ」とは叫んでいない。

■書誌情報

単行本『あぶない!図書委員長!』に全3話所収。表題作の「あぶない!図書委員長!」も、もちろん眼鏡っ娘マンガ。こちらはプロパガンダではなく、萌えとエロ成分が多め。ちなみに私が書いた解説文なぞも巻末に掲載されております。お目汚し、恐縮。

Kindle版:西川魯介『あぶない!図書委員長!』(白泉社、2008年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第69回:松本救助「メガネ画報」

松本救助「メガネ画報」

芳文社『週刊漫画TIMES』2013年8月~15年2月

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「2015年は、この一冊」と後世いわれるであろう、眼鏡でやりたい放題作品。眼鏡でやりたい放題という作品は、ゲームで2009年「ベヨネッタ」、小説で2012年「境界の彼方」と盛り上がってきたが、マンガ界でも進化を続ける。いま、進化の最先端に、本作がある。
特に本作が際立っているのは、「物体としての眼鏡」を追求する姿勢だ。本コラムはこれまで幾多のマンガを見てくるなかで「概念としての眼鏡」について過剰な言葉を吐いてきたが、実は「物体としての眼鏡」を語った言葉は少ない。あまつさえ「単なる視力矯正器具を超えた」などと言ったりして、形而下の存在を軽視するような姿勢さえ示してしまった。自己批判せねばなるまい。本作は、眼鏡がまず徹底的に「視力矯正器具」であることを再確認させてくれる。
しかしそれは眼鏡が単なる物体であることは意味しない。「道具」とは、人間と動物を峻別する一つの指標である。フランスの哲学者ベルクソンは、人間を「ホモ・ファーベル(工作人)」と規定した。ベルクソンは、人間の本質とはモノを作り上げることによって自分自身をも作り上げていくところにあると言う。そしてモノを作ることによって、「よりよいモノを作りたい」という意志を発展させると同時に、モノを作ることを通じて他人との協調関係を深めていくことだと言う。さらにベルクソンは、人間のモノづくりが動物のモノづくりと決定的に異なるのは、人間だけが自分のイメージを形成するためにモノを作るところだと言う。服やアクセサリーなどを考えればわかりやすい。モノに単なる「機能」を求めるのではなく、自己イメージを形成するためにこそモノを作るのだ。
本作を読み終えて、机に置いて、まず頭に浮かんだのが、このベルクソンの「ホモ・ファーベル」の議論だった。そして読み返して、自信が確信に変わる。本作ほど「ホモ・ファーベル」という人間の本質を直截に抉り出してくる作品は、他にないのではないか。

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眼鏡は、まずは徹底的に視力矯正器具であり、人間の能力を拡張する道具だ。だが同時に自己イメージを形成するモノでもある。このモノとしての眼鏡をとことん追求することによって、むしろ「人間」の本質が浮かび上がる。
昨日(2015.7.19)行われたイベント「メガネ区民の集い」に作者の松本救助が出演しており、私はその整った眼鏡顔を拝みつつ「でれっ」としていたのだが、一つの発言によって我に返った。松本救助は自分の作品のことを「ミステリー」ではなく、「眼鏡は全てに通じる」と思ってやっていると言ったのだ。モノとしての眼鏡を追求することによって人間の本質が浮き彫りになることを、ぜんぶ分かってやっていたのだ。刹那、背筋に冷たいものが走ったのは、阿佐ヶ谷ロフトAの空調のせいではあるまい。恐るべし。

069_04私事で恐縮であるが、私も「眼鏡は全てに通じる」と思っている。思っているというか、確かな手ごたえを伴った「実感」として、ある。眼鏡をとことん追求することで、世界の真理を掴めるような気がするのだ。たとえば西洋思想史の領域がもっとも分かりやすいのだが、プラトンのイデア論を理解しようと思たら、眼鏡について具体的に考えるのが一番わかりやすい。中世の唯名論と実在論の議論について理解しようと思ったら、眼鏡について具体的に考えると分かりやすい。ドイツ観念論を理解しようと思ったら、眼鏡について具体的に考えると分かりやすい。なにか複雑な問題に直面した時は、具体的には眼鏡について考えると分かりやすくなる。眼鏡が世界の真理とつながっているという手ごたえが、確かにあるのだ。それはおそらくこういう仕組みだ。西洋の哲学者は全て「神」というものを根底に据えて物事を考えているが、日本人にはその「神」というものがわからないから、西洋思想史の本質を掴めない。が、私が具体的に眼鏡について考えると、眼鏡が「神」と等質の機能を果たし、西洋思想史の見通しがいきなりクリアになるのだ。「神」が実在するとか、「眼鏡=神」というオカルトではない。眼鏡をとことんまで考えるという「思考様式」が、神をとことんまで考えるという「思考様式」と等価という、形式論理の問題だ。私にとって「眼鏡が全てに通じる」とは、形式論理として眼鏡が「神」と等質の機能を果たすという意味だ。
松本救助が昨日どういう意図を込めて「眼鏡が全てに通じる」と発言したのかは、伺うべくもない。しかし本作が眼鏡を追求することによって「人間の本質」や「世界の真理」に迫っていることは、間違いない。だから、本作の読後感は、「何かが腑に落ちた」ような感じになるはずだ。

■書誌情報

今年出版されたばかり。おもしろすぎるので、もりもり売れるべき。電子書籍でも読める。

単行本+Kindle版:松本救助『メガネ画報』(芳文社コミックス、2015年)

いちおう、「ホモ・ファーベル」については、こちら。
文庫本:ベルクソン『創造的進化』(岩波文庫)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第68回:桃森ミヨシ「トンガリルート」

桃森ミヨシ「トンガリルート」

集英社『マーガレット』2002年No.23~03年No.1

054_hyouとんでもない眼鏡傑作だ。表紙で眼鏡をかけていなかったので何気なく読み始めたのだが、途中から並々ならぬ眼鏡オーラを感じ始め、クライマックスでは全身が眼鏡オーラに包まれ、鳥肌が立ちっぱなしだった。最もすごい眼鏡少女マンガは何かといま聞かれたら、間違いなく本作を推す。

本作も「眼鏡っ娘起承転結構造」で構成されている。が、20世紀の乙女チック眼鏡マンガよりも、さらに認識論的に進化した美しい姿を見せてくれる。ストーリーを追いながら、構成の完成度の高さを確認しよう。
主人公の平方留羽は、ガリベン眼鏡っ娘。が、ガリベンにも関わらず成績は良くない。頑張ってもできない子なのだ。クラスメイトからは「ルート」とあだ名をつけられる。それは「平方(ひらかた)」という苗字が「平方根」とかかり、名前の「留羽(るう)」が「ルート」とかかっているのだが、要するにガリベンなことをバカにされているわけだ。が、バカにされていることにすら気が付かない、そんな浮いた娘だ。

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留羽がガリベンなのは、実はできすぎる兄に対するコンプレックスがあるからだ。兄は東大ストレートの英才で、留羽はそんな兄を目標にして頑張っている。が、頑張っても頑張ってもできない自分に劣等感を抱いている。頑張れば頑張るほど「みじめ」になると思い込んでいる。眼鏡は、留羽のコンプレックスを可視化したものだ。バリアーとしての眼鏡なのだ。
本作をここまで読みすすめて、私は不安に陥っていた。眼鏡をコンプレックスの象徴として描く作品は数多く、そしてそのような作品は、最後にはほぼ間違いなくコンプレックス解消の証として眼鏡を外してしまう。本作もそうなるだろうと、この時点では考えていた。その予感は「承」で現実のものとなってしまう。家庭教師としてやってきた二乗くんが、留羽の眼鏡をとりあげてしまうのだ。しかも、容姿が劣るという理由なんかではなく、兄へのコンプレックスを解消するために眼鏡をとりあげたのだ。容姿が劣るという理由で眼鏡がとりあげられた場合は、そのまま起承転結構造に入っていくケースが多く、最終的には眼鏡のままで幸せになることが多い。しかしコンプレックスの象徴である眼鏡がとりあげられてから逆転したケースは、見たことがない。この時点で、私は「終わった」と思った。

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二乗くんの「よけーなもの見えない方が勇気出るときもあるでしょ」というセリフ。まさに兄を追いかけすぎて劣等感をこじらせている眼鏡っ娘からコンプレックスを取り去ろうという意図の下で発せられている。ふつうは、このままコンプレックスが解消されて、終わる。実際、留羽は眼鏡を外したことで、「景色が違って見える」と感じる。このままコンプレックスから解き放たれて眼鏡なしでハッピーエンドだろうなーと思った矢先だった。いきなり、来た。「転」だ。

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二乗くんは、嘘をついて留羽に近づいていた。本当は高校生なのに大学生だと偽って、兄の差し金で留羽に優しく接していたのだった。眼鏡っ娘は思う。「ああ…そうですか。変だとは思いました。だってこんな私の相手なんてだれも。慣れてます。みじめなのは、いつものこと」と。そして思う。「よくみえないのはメガネがないからです」と。
いやー、読んでてビックリしてひっくり返った。まさかこの流れで「転」が来るとは。しかし驚くのはまだ早かった。ここから「結」までの展開が美しすぎた。
眼鏡っ娘は、自分を騙していた兄と二乗くんから、彼らの本心を聞く。これまで自分の劣等感の処理で精いっぱいだった留羽は、初めて他人と関わろうと思う。きちんと二乗くんの心に向き合おうと決意する。このシーンがまず美しい。

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留羽は自分の口から「眼鏡を返してほしい」と言う。そしてこう言う。「よけいなものだけでなく、ちゃんと見たいものまでぼやけてしまいます」と。留羽は、自分の眼で世界の真実と向き合うことを決意したのだ。そして「見る」ためのアイテムこそが、眼鏡なのだ。バリアーの象徴だった眼鏡が、見る意志の象徴としての眼鏡に変化したのだ! ここで鳥肌が立った。
そして、ここからがまた、美しい。「眼鏡を返せ」と言われた二乗くんは、きちんと手許に眼鏡を持っていて、留羽にかけてあげる。このときの、眼鏡のかけかたに注目してほしい。前からかけるのではなく、後ろからかけている。

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眼鏡を前からかけさせてあげると、男の視線は眼鏡っ娘の顔に注がれる。眼鏡っ娘のかわいい顔を観賞するためには、前からかけなくてはならない。しかし二乗くんは後ろからかけた。これではせっかくかわいい眼鏡っ娘の顔を観賞することはできない。その代わりに、二乗くんには眼鏡っ娘が見ている景色と同じものが見える。後ろから眼鏡をかけさせることは、視線を共有することを意味している。そこで眼鏡っ娘と二乗くんが見た光景とは。

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たくさんの笑顔。自分の兄が、単にパラメーターが高い男なのではなく、みんなを笑顔にする人間だと理解した眼鏡っ娘。自分がこれまで知らなかった兄の本当の魅力を、二乗くんが教えてくれたのだ。自分の眼で、眼鏡を通して真実を認識することで、コンプレックスが溶けていく。このときの眼鏡っ娘と二乗くんの笑顔が、まぶしい。劣等感のために人と関われなかった眼鏡っ娘が、視線を共有することによって、他人と世界観を共有することによって、自然な笑顔を見せる。このとき、私もものすごい笑顔だったと思う。眼鏡っ娘と二乗くんが見た光景を、私も共有していたのだから。
この感動は、眼鏡というアイテムによってキャラクターの視線と読者の視線を巧みにコントロールすることで生まれる。バリアーとしての眼鏡では、視線は常に内側に向いている。「見る意志」としての眼鏡では、視線は世界に向けられる。そしてそこに二乗くんの視線を加えることで、二乗くんの視線と読者の視線が眼鏡っ娘の視線と同化する。マンガでは、読者の視線をコントロールするために無数のテクニックが編み出されてきた。コマ割りの進化も、その一端だ。本作は、これを眼鏡で達成した。視線をコントロールするのに、「見るアイテム」としての眼鏡ほどふさわしいものはあるまい。

いやぁ、本当にいいものを見た。と思ったら、本作はまだすごかった。桁外れだ。このあと、なんと眼鏡っ娘をかばって二乗くんが交通事故に遭ってしまう。その場面の眼鏡描写が、すごい。

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この眼鏡描写。本作が眼鏡を中心に回っていることを明らかに示している。
二乗くんは一命をとりとめたが、しばらく入院することになってしまう。そこで眼鏡っ娘は、二乗くんの眼の代わりになろうと、学校で授業のノートをとろうとする。が、割れたメガネではよく見えない。そのときの留羽の行動に、仰天した。

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「水中メガネ」かよっ!!!
マンガに向かってツッコミを入れてしまったのは久しぶりだ。このあと、少女マンガなのに、ヒロインがずっと水中メガネ。ものすごいビジュアルだ。この水中メガネが極まるのが、最後の最後のクライマックスだ。

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病院のベッドで、水中メガネからの、キス。前代未聞だろう。
キスするときに眼鏡を「じゃまこれっ」とか言って外すようなら二乗くんもダメ男決定だったが、これ、水中メガネだからなあ……。大目にみてやろう。
そして最後の眼鏡っ娘のモノローグが、「見える」。最後まで「視線」にこだわって構成していることがわかる。

ということで、「眼鏡っ娘起承転結構造」を引き継ぎつつも、認識論のレベルでそれを乗り越えていくという、パラダイムシフトを起こした作品といってよいだろう。ブラボー!!

■書誌情報

同名単行本に所収。amazonのレビューも絶賛の嵐。うむ、そりゃそうだろう。傑作だ。

単行本:桃森ミヨシ『トンガリルート』(マーガレットコミックス、2003年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第67回:渡千枝「めがね色の恋わずらい」

渡千枝「めがね色の恋わずらい」

講談社『ラブリーフレンド』1982年4月号

067_02まず、タイトルがいい。話の内容は、それまで恋愛にまったく関心のなかったガリベン眼鏡っ娘が恋に目覚めるという、取るに足らない恋愛話だ。だが、それがいい。

所詮と言っては失礼ではあるが、恋愛少女マンガは男と女(あるいは男と男、女と女)がくっつくか離れるかを描いているに過ぎない。恋愛マンガを「形式」だけに注目してみれば、そのバリエーションは極めて貧弱だ。恋愛マンガをバカにする人々が世間にはそこそこ存在するが、彼らは形式の貧弱さを以てくだらないと判断している。顔がいいとか頭がいいとか運動ができるとか、なにがしかのパラメーターが高いという理由で恋愛が成就するとしたら、それはたしかにくだらない作品になりやすい。しかし恋愛マンガのおもしろさの源泉は、その形式ではなく、「キャラクターの個性」にある。丁寧なエピソードの積み重ねによって人物がしっかりと描かれて、「ああ、この人のこういうところを好きになったんだな」と読者が納得できたとき、初めて恋愛マンガがおもしろくなる。「マンガはキャラクターが勝負」という箴言が大昔から語り継がれている所以である。
その意味で、本作はとてもおもしろい。眼鏡っ娘の個性が、具体的なエピソードの積み重ねによって、丁寧に描かれているのだ。相手の男が眼鏡っ娘を好きになった理由もよく分かる。

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キャラクターの個性が丁寧に描かれていれば、読者の方は「この男はこの娘のそういうところを好きになったんだな」と、とても納得できる。
067_01逆に言えば、キャラクターの個性を描くことに失敗した時は、「なんでこいつはそんな女を好きになったんだ?」という疑問が読者に湧く。そういう時に、勢い余って、失敗した作家はモテる理由をパラメーターの高さに求めるという愚を犯す。スポーツができる奴はモテるだろうとか、金がある奴はモテるだろうとか、顔がいい奴はモテるだろうとかいうように、「個性」を描かずにパラメーターの高さに恋愛成就の理由を委ねてしまう。こういう作品は、たいていウンコだ。「眼鏡を外して美人」という例のウンコは、「どうしてこの女を好きになるのか?」という理由をキャラクターの個性で描写することができないウンコ作家が、パラメーターの高さで説明したつもりになるときに持ち出してくる苦し紛れのゴマカシなのだ。実力ある作家に「眼鏡を外して美人」という作品がほとんどなく、「眼鏡のまま幸せ」という作品が多いのは、ここに理由がある。「個性」をきちんと描ける作家には、眼鏡を外す必要なんてそもそもないのだ。本作は、その好例と言える。

■書誌情報

同名単行本に所収。引用画像の右側が色褪せているのは、保存状態が良くなかっただけで、もともとの発色は良いですよ。
著者は後にホラー・サスペンス系で活躍するようになるが、そこでも眼鏡キャラが多い。

単行本:渡千枝『めがね色の恋わずらい』(別フレKC、1983年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第66回:稲留正義「ヨガのプリンセス プリティ♥ヨーガ」

稲留正義「ヨガのプリンセス プリティ♥ヨーガ」

講談社『アフタヌーン』1996年9月~98年5月

前回は80年代にしか生まれえない作品を見たが、今回見るのは90年代後半でしか存在を許されなかっただろう作品だ。絵柄といい、ノリといい、ネタといい、画面全体から90年代後半の匂いを強烈に放っている。そして特に本作が歴史に名を刻まれるべき理由は、そのヒロインの名前にある。

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「眼牙熱子」というド直球の名前! このネーミングセンスは、90年代前半では早すぎるし、2000年代ではベタすぎる。キャラクターにこの名前をつけることは、90年代後半でしか許されなかっただろう。
066_03コミケサークルカット全調査を踏まえる限り、眼鏡っ娘が一般に認知されるのは1995年以降のことだ。そして同時期に、メイドやネコミミといった、いわゆる「萌え要素」と呼ばれる認識枠組みがオタク界で広く共有されるようになる。その象徴は、1998年に登場したデ・ジ・キャラットだろう。東浩紀のオタク論が最も勢いに乗っていたのもこの時期だ。論理的に考えて、「萌え要素」が一般化する前の90年代前半に、本作のノリが存在することはそうとう困難だ。
しかし2000年以降には、こういったノリは急速に萎んでいく。キャラクターを作るときに、眼鏡とかメイドとか巫女といった外面的な要素ではなく、「ツンデレ」や「素直クール」といった内面性を重視する流れが支持されるようになる。そういう流れの中で、ヒロインに「眼牙熱子」という名前をつけることは、選択肢としてありえない。90年代後半の萌え文化興隆期特有の熱い空気の中では本作のノリはイケるのだが、066_01現在の感覚で読んだら多くの人がおそらく「痛い」と感じてしまうだろうと推測する。
ちなみに眼牙熱子の性格は、眼鏡っ娘のステロタイプとはかけ離れている。眼鏡がストーリーに絡んでくることもない。概念としての眼鏡はいっさい存在せず、「萌え要素」としての眼鏡のあり方だけが純粋に浮かび上がる。あらゆる意味で、本作は、まさに90年代後半でしかありえないノリをストレートに表現した、時代の証言者と言える。眼鏡っ娘表現の歴史を考える上で、本作が里程標の一つとなることは間違いない。

■書誌情報

全2巻。古本でしか手に入らない。ちなみに本作は眼鏡作品としてだけではなく「百合」作品としても一定の評価があるが、ここでは言及しない。

単行本:稲留正義『ヨガのプリンセス プリティー♥ヨーガ』1巻(アフタヌーンKC、1997年)
単行本:稲留正義『ヨガのプリンセス プリティー♥ヨーガ』2巻 (アフタヌーンKC、1998年)

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