この眼鏡っ娘マンガがすごい!第106回:神谷悠「光る雪」

神谷悠「光る雪」

白泉社『花とゆめ』1990年15号

少女マンガの王道である「眼鏡っ娘起承転結構造」が美しい作品だ。「眼鏡っ娘起承転結構造」そのものについては第54回などを参照していただくとして、作品を見ていこう。

眼鏡っ娘ヒロイン高杉久美は、自分の容姿にコンプレックスを持っている。そんな久美は、一生懸命野球に取り組むクラスメイト西原くんの姿に共感して、野球部のマネージャーを務めている。弱小野球部を一人で切り盛りしてきた久美のことを、西原くんも頼りにしていた。

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が、弱小だった野球部が甲子園を狙えるポジションまで来たとき、ミーハーな女どもが騒ぎ始める。それまで見向きもされなかった西原くんがいきなりモテはじめて、野球部にミーハー女どもがどんどん入り込んでくるようになった。

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久美は容姿コンプレックスをひどく刺激される。密かに好意を寄せていた西原くんが、ちょっと顔がいいだけのミーハー女に取られてしまうと、恐れおののく。

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そんな久美の心に、悪魔のささやきが忍び込む。眼鏡を外せという悪魔の声。醜い容姿のせいでモテないと思い込んでいた久美は、その悪魔の誘いに飲み込まれてしまう。

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ガッデム。眼鏡を外してしまった。西原くん以外の野球部の雑魚どもは、キレイになった久美をチヤホヤする。久美もチヤホヤされて有頂天になる。西原くんも自分のことを好きになってくれると勘違いする。が、それはもちろん、ただの勘違いだ。真のヒーローは、眼鏡を外した女に騙されることなどない。

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見よ、この西原くんの姿を。これこそ男の中の男だ。外面ではなく、しっかり人格を見ることができるのが、真の男だ。眼鏡を外してキレイになったとふざけた勘違いをしている女には、西原くんのセリフをそのまま叩き付けよう。「これがおまえの言う美人ってやつかよ。俺にとっちゃ今のおまえの方がよっぽど醜いぜ!」 これだ。これが世界の真理だ。男の中の男にしか扱うことのできないセリフだ。かっこいいぜ!
西原くんの力で世界の真実に気がついた久美は、悪魔の誘惑から逃れ出る。

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悪魔の力から逃れた直後の最後のシーンで眼鏡をかけ直していないのはすこぶる残念だが、必ず西原くんは眼鏡を持っていて久美にかけてあげるはずだ。

054_hyouこの作品の構造を、「眼鏡っ娘起承転結構造」と呼ぶ。左の表を見ていただければ、この物語構造の美しさが分かるだろう。単に物語構造として美しいだけでなく、主人公の人格の弁証法的発展を描く手法として、きわめて優れている。そのため、多くの作品にこの構造を認めることができる。「眼鏡を外したら美人」などという言葉が愚かな間違いであることも、この構造を元にして論理的に明らかにすることができる。「眼鏡をかけたまま幸せになる」のが、世界の真理なのだ。

■書誌情報

本作は40頁の短編。単行本『闇の天子』に収録。古本で比較的容易に手に入れることができる。

単行本:神谷悠『闇の天子』白泉社、1991年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第105回:日向まひる「I miss you 後ろの席の厄介な男」

日向まひる「I miss you 後ろの席の厄介な男」

集英社『デラックスマーガレット』1996年5月号

不器用で意地っぱりな女の子が、眼鏡をきっかけに素敵な男子と知り合い、眼鏡をきっかけに仲良くなる、ハートフル恋愛マンガ。眼鏡っ娘の眼鏡を素直に褒めるといいことがあると教えてくれる道徳的教材として最適だ。

眼鏡っ娘のマリ子は高校2年生。新学期で学年がひとつ上がり、後ろの席になった男子に話しかけられるが、眼鏡をネタにされてしまう。

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まず、べっこう縁の眼鏡が丁寧に描かれていて、素晴らしい。描くのが大変だから、マンガでべっこう縁を見ることはめったにない。そしてマリ子が「このメガネ気に入ってんだからっ」と叫ぶのも素晴らしい。この時点で既に勝利の予感がするだろう。
後ろの席の手塚くんの眼鏡いじりは、さらに続く。クラス議員を決めるとき、颯爽と立候補した手塚くんは、相方としてマリ子を指名する。その指名の理由がすごい。

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うむ。見た目が委員長だから、委員長。『To Heart』で見たようなエピソードだが、おそらく本作では手塚くんの「方便」のような気がする。手塚くんはきっとマリ子と仲良くなりたくて、こんな手を使ったのだ。
そんなこんなで、ちょっかいをかけてくる手塚くんに対して、マリ子は当初はいい印象を持っていなかった。が、そんな悪い印象を大逆転させるきっかけを作ったのは、やはり眼鏡だ。

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手塚くんにイジられるのがイヤで眼鏡をはずして園芸部の活動に励むマリ子。眼鏡を外して美人になるなんてことはなく、やぶにらみになって怖い顔になっているというエピソードもちゃんと挟んであって素晴らしい。そこにやってきた手塚。またイジられるかとおもったマリ子だったが、手塚くんの台詞は予想外のものだった。「あのメガネは?」

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ここで炸裂する手塚くんの決め台詞を見ていただきたい。「よく似合ってるから」。これだ。眼鏡の女子にかけるべき言葉は、これだ。これ以外にない。マリ子の反応を見よ。眼鏡が似合っていることを褒められていやな気持ちになる女子がいるわけがない。
そして手塚くんは、マリ子が眼鏡のままでいてくれるよう、たたみかける。眼鏡の着脱を繰り返すと視力低下が進行することを理論武装として、眼鏡をかけ続けるよう説得するのだ。

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「ずっとかけてるほうがいいと思うなっ」と言われたときの、マリ子の気持ちの動き、この表情。一瞬で恋に落ちている。キュンキュンきている。眼鏡をかけ続けてほしいと言うと、女子はキュンとするのだ!

我々も手塚くんを見習って、眼鏡っ娘には「ずっとかけてるほうがいいと思うな」と積極的に声をかけていきたい。眼鏡をかけるよう女子を励ますことが、人としての正しい道なのだ。

■書誌情報

本作は60頁の短編で、単行本『むすんでひらいて』所収。なかなか素直になれない若者たちのハートフルな恋愛物語ばかりでキュンキュンするのだぜ。古本で比較的容易に手に入る。

日向まひる『むすんでひらいて』集英社マーガレットコミックス、1997年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第104回:高遠るい「SCAPE-GOD」

高遠るい「SCAPE-GOD」

メディアワークス『電撃帝王』2005年VOLUME5~11

今回はセカイ系と眼鏡の関係について考えてみよう。
本作は、眼鏡っ娘ヒロインのもとに神(すがたかたちは少女)がやってきたところから話が始まる。

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化け物をやっつけたり、アメリカが世界制覇を狙って案の定返り討ちにあったり、スペックオーバーの偽物が出たりと伝奇ものとしてスカッと読めるし、地球上のあらゆる神話を包括する過剰な設定が笑えるし、細かいギャグとパロディは満載だし、オマケの前田久の解説までもしっかり読ませて、全体としてふつうに娯楽作品として面白いのだけど、とりあえずそれはどうでもいい。問題は、眼鏡だ。

セカイ系は、主人公の生活圏の問題が、社会などの中間項をすっ飛ばして、世界全体の運命と直結するところに特徴がある。しかし単に日常生活を無際限に世界全体に拡大するだけなら荒唐無稽になるだけだが、世界全体の状況を日常思考の変革にフィードバックできたとき、セカイ系としての説得力が出る。世界と生活の間で往還が繰り返され、フィードバックによって互いに状況が変更され、次第に融合していくことでセカイ系作品が成立する。が、この往還を具体的なエピソードで成立させることが、きわめて難しい。成功しているセカイ系はこの具体的なエピソード描写が上手なわけだが、本作では眼鏡っ娘の「いま」を肯定する姿勢がきわどくそれを可能としているように見える。眼鏡っ娘は、自分の生活圏にあるもの全てに対する激しい愛憎の振幅にも関わらず、常に「いま」を肯定する強さを持つ。その眼鏡っ娘の強い意志が最後の最後まで貫徹されることが、この作品の肝だ。だから眼鏡は絶対に割れない。

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世界と日常を往還するのが眼鏡っ娘というのは、作者が意図したかどうかは作中から伺うことはできないが、作品的な必然性を持つ。なぜなら、中間項を持たない眼鏡というアイテムこそが、世界と日常を中間項なしに直結させることの象徴だからだ。本コラムでもしばしば指摘してきたように、眼鏡の現象学的本質は「排中律」にある。眼鏡は「かけている」か「かけていない」かどちらかの値しか持たず、中間値をとることが論理的にあり得ない。このような眼鏡の排中律という現象学的本質を用いて様々なマンガが様々なエピソードを描いてきたことは、すでに指摘してきたとおりである(たとえば「眼鏡を外したら○○」なんてのは、排中律が適用されたほんの一例に過ぎない)。世界と日常の間に中間値を持たないセカイ系という構造の中に、排中律を本質とする眼鏡っ娘が企投されるという「出来事」が、本作の原構造なのだ。

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だから、本作では眼鏡は割れない。どんなに激しいバトルシーンだろうが、眼鏡は割れない。注意深く読んでみると分かるのだが、眼鏡っ娘が激しい返り血を浴びるシーンで、顔面が血まみれになっているシーンで、眼鏡には一滴も血がついていない。作者が意図したかどうかはともかく、世界と生活を往還するものの象徴としての眼鏡が表現されている。世界と日常の往還的融合がセカイ系だとすれば、眼鏡と娘の往還的融合こそが眼鏡っ娘だ(だから単に眼鏡をかけただけの女を眼鏡っ娘とは呼ばない、決して)。この作品を通じて眼鏡に対する現象学的還元を遂行したときに、牧原綠が眼鏡っ娘であることの意味が見えてくるのだ。

ところで、この眼鏡っ娘、百合。

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いやまあ、百合というよりは、かなりガチ。アイドルビデオを見ながら女子にあるまじき衝撃的なマスターベーションシーンをする他に類を見ないシーンもあって、驚愕する。すげえな。

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■書誌情報

同名単行本全1巻。高遠るいの作品の中では、あまり読まれていないほうなのかな。せっかく眼鏡っ娘が主人公なので、広く読まれてほしい作品だ。とりあえず私は「著者による評論の操作」の試みに乗ってみた。

単行本:高遠るい『ScapeーGod』電撃コミックス、2007年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第103回:岡野小夏「HANZO」

岡野小夏「HANZO」

集英社『りぼん』2011年4月~6月号

これ、なんてエロゲ?という少女マンガ。こんなエロゲが『りぼん』で連載されるとは時代も変わったなあ……と思いつつ、振り返ってみれば、『りぼん』は昔から岡田あーみんとか一条ゆかりの発狂系とかを載せてしまうようなアグレッシブでアバンギャルドな雑誌ではあった。

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さて、ヒロインの眼鏡っ娘くるみは中学2年生貧乳。気合いの入った乙女ゲーマニアで、いつもポータブルゲーム機を持ち歩き、常にフェイバリット乙女ゲーム「戦国鬼」をプレイしている。一番のお気に入りは忍者の服部半蔵さまだ。要するにオタク。ある日、くるみは不良グループにゲーム機を取り上げられてしまうが、颯爽と現れた超美人の服部なでしこに助けられる。
超美人でスタイル抜群の服部なでしこだったが、なんとその正体は忍者の上に、くしゃみをすると性転換して男になってしまう特異体質の持ち主だった。そして男になったなでしこは、憧れの服部半蔵さまそっくり。くるみは、いけないと思いつつも、男になったなでしこに心を鷲掴みにされていくのだった。そして何回か性転換を繰り返すうちに、どんどん女でも良くなっていって、怒濤の百合展開がはじまる。

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二人が一緒に温泉に入るシーンなど、なでしこが少女マンガ誌には絶対に出てこない類のエロゲ的超巨乳グラマーで、辛抱たまらずに「これなんてエロゲ!?」と叫ぶこと必至。温泉シーンでは、くるみも眼鏡をかけたまま入浴するなど、よくわかってらっしゃる。『りぼん』掲載作品なのに、9ページに渡って温泉セクシーシーン。なんだこれは。ありがとう。
二人が海でデートするとき、くるみが結婚を妄想するシーンなども、とても秀逸。

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海で水着なのに眼鏡をかけたままなど、非常にすばらしい。妄想の中では眼鏡をかけたまま白無垢で、『りぼん』読者の大部分を占めるであろう小学生女子への啓蒙が期待される。結婚式は眼鏡をかけたままでいいんだぜ。
そんなわけで、一切の毒がなく、眼鏡+忍者+百合が最後まで楽しめる、心地よい作品だ。

思い返してみると、忍者はともかく、眼鏡と百合の相性はすこぶる良いような気がする。経験的には、優れた百合作品には眼鏡っ娘がよく出てくる印象が強いが、なにか理論的な根拠があるかもしれない。百合と眼鏡の関係理論については、具体的な作品レビューを積み重ねる過程で帰納的に明らかにしていきたい。

■書誌情報

同名単行本全1巻。単行本は容易に手に入るし、電子書籍で読むこともできる。単行本オマケのページのノリなど、少女誌ではなくエロマンガの匂いがぷんぷんするぜ。
Kindle版・単行本:岡野小夏『HANZO』りぼんマスコットコミックス、2011年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第102回:日坂水柯・春日旬・茉崎ミユキ+結城浩「数学ガール」

日坂水柯+結城浩「数学ガール」

MEDIA FACTORY『コミックフラッパー』2008年4月~09年6月号

春日旬+結城浩「数学ガール フェルマーの最終定理」

MEDIA FACTORY『コミックフラッパー』2010年10月~13年5月号

茉崎ミユキ+結城浩「数学ガール ゲーデルの不完全性定理」

MEDIA FACTORY『コミックアライブ』2010年11月~

102_03同じ原作者の小説から、絵描きが異なるコミックが3種類出ている。それぞれ登場人物はほぼ同じで、眼鏡っ娘ヒロインが2人。クールな眼鏡っ娘ミルカさんと、元気眼鏡っ娘ユーリ。やはり数学が好きな女の子には、圧倒的に眼鏡が似合う。ちなみに主人公もメガネくんで、画面が眼鏡だらけで嬉しい。ということで、数学をテーマとした、メガネくんと眼鏡っ娘の物語。
まずは日坂水柯に眼鏡っ娘を描かせるという、コミカライズ化に際してのチョイスが素晴らしい。論理的かつミステリアスという、眼鏡っ娘ミルカさんの掴みどころのないキャラクターを表現するのに、これほど相応しい絵柄はなかなかないだろう。
もちろん春日旬と茉崎ミユキが描く眼鏡っ娘も魅力的だ。「フェルマーの最終定理」編を担当した春日旬版は、眼鏡が外れた時のミルカさんの描写がとてもよかった。右に引用したシーンでは、プールで眼鏡が外れてしまう。が、もちろん美人になるなどという非論理的な現象はおこらなかった。グッドな仕事だ。
「ゲーデルの不完全性定理」編担当の茉崎ミユキ版では、「集合」の説明で眼鏡がうまく利用されている。「眼鏡っ娘」と「女子高生」によって「集合」を表現した扉絵は、とてもかわいく、わかりやすい。

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また、ところどころに眼鏡を大きくフィーチャーする表現が登場するところにも注目したい。たとえば日坂水柯版では、「構造を見抜く心の目」というキーワードが登場する。数式の表面だけを見るのではなく、数式の背後に隠れた構造の本質を見通すことが必要だというエピソード。このシーンでは、「見る意志」という眼鏡の象徴性が非常によく効いている。眼鏡っ娘が言うことで、セリフの重みが何倍にも増す。

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また、春日旬版では、眼鏡の「反射」がエピソードとして描かれている。お互いの眼鏡に自分の姿が映るのはメガネ人同士の間にしか起きない現象で、特にメガネくんと眼鏡っ娘の間で起こった現象が非常に艶めかしく描写されている。興奮する。

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ということで、数学が苦手だったり興味が無かったりする人も、眼鏡っ娘を愛でるという理由だけで読んで楽しめる作品だ。仮にわけのわからない数式を並べられても、眼鏡っ娘がやってるというだけで喜べばよい。そして、そこから少しでも数学に興味を持つ人々が増えるのなら、眼鏡っ娘もきっと喜んでくれるだろう。

■書誌情報

日坂水柯版は全2冊。春日旬版は全3冊。茉崎ミユキ版は2巻以下続刊。すべて電子書籍で読むことができる。

Kindle版:日坂水柯+結城浩『数学ガール』(MFコミックス、2008年)
Kindle版:春日旬+結城浩『数学ガール フェルマーの最終定理』(MFコミックス、2011年)
Kindle版:茉崎ミユキ『数学ガール ゲーデルの不完全性定理』(コミックアライブ、2011年)

 

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さて、学歴自慢で恐縮だが、私は東京大学理科Ⅰ類に現役合格しており、しかもほぼ数学の得点で合格できたようなもので、微積分や三角関数、複素数や行列など高校で扱う数学は完璧にマスターし、自分は数学が得意なんだと思っていた。が、それはもちろん勘違いだった。高校生の時分にしばしば「大学に入ると物理が数学に、数学が哲学になる」という言葉を聞いていたのだが、その本当の意味を痛感したのは、数学の講義ではなく、一般教養科目の「論理学」の講義だった。「集合論」で「集合の集合」を扱ったとき、冗談ではなく、眼から鱗が落ちた。
しかし高校までの「国語」が決して「文学」ではなく、「歴史」がちっとも「歴史学」ではないのと同様に、高校までの数学は「数学」ではなく「計算」とでも呼んだ方が適切だろうと思うのだが、それでもそれを「数学」と呼んでいるからには、なにかしらの合理的な理由があるのだろう。
で、「集合論」に触れてからずっと気になっているのが、「眼鏡の排中律」という性質について、数学を究めれば深く理解できるのかどうかということだ。眼鏡は、「かけている/かけていない」という不連続値しかもたない。あるいは「排中律」を完全に満たす。おそらくその特性が、眼鏡にまつわる様々なエピソードを生み出している。眼鏡が放つ魅力は、この排中律を完全に満たすという特質に理論的根拠があるのかもしれないとすら思う。集合論の解説書等を読んでいてしばしば気になったのは、そこで使用される論法が連続量(実数)には関わらず、排中律を縦横無尽に活用していたことだ。命題の論理的な「真/偽」は、眼鏡的に「かけている/かけていない」に相当する。眼鏡の最大の論理的特性が排中律を完全に満たすことにあるとすれば、排中律に関わる諸問題を集中的に扱うことによって眼鏡に関する理解も飛躍的に進むのではないか。本書の眼鏡っ娘を見ながらそんなことを思いつつ、基礎から集合論をしっかり勉強する時間はなかなか確保できないのだった。

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第101回:西川魯介「屈折リーベ」(後)

西川魯介「屈折リーベ」

徳間書店『月刊少年キャプテン』1996年1月~7月号

前回に続いて「屈折リーベ」について。「好き」という言葉と「愛してる」という言葉の違いについて考えながら見ていく。

本作で描かれた葛藤から見えるのは、「好き」と「愛してる」という言葉の意味の違いだ。物語冒頭、いきなり秋保は篠奈先輩に「好きです」と告白する。その告白に対して篠奈先輩が「何故私なのだ」と質問する。それに対して、秋保は満面の笑みで「そりゃあ大滝先輩がメガネっ娘だからっスよ」と宣言する。

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それに対して、篠奈先輩はすぐに次の質問を放っている。「眼鏡なら他にもいるだろう。何故私をつけねらう!」と。この質問は、問題の核心を鋭く突いている。が、秋保はそのことに気が付かない。秋保はさらに「ショートでスリム体型の胸はナシ」と条件を付け加えて、回答した気になっている。しかしそれはまったく篠奈先輩の質問に対する回答になっていない。なぜなら、篠奈先輩は「ショートでスリム体型で胸がない眼鏡なら、他にもいるだろう。何故私なのだ?」と、さらに質問することが可能だからだ。

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秋保の説明は、「篠奈先輩ただ一人を好きだ」という理由にはなっていない。もしも「ショートカット」+「スリム」+「微乳」+「眼鏡」という条件を満たす女性が現れれば、秋保は必ずその女性のことも好きになるに違いないからだ。秋保が篠奈先輩を好きな理由をどれだけ重ねようとも、条件をさらに付け加えようとも、「篠奈先輩ただ一人を好きだ」ということを説明することはできない。どれだけ条件が増えたとしても、必ず常に「代わりがいる」という状態を覆すことはできない。
この事態は、「好き」という日本語の構造に関わっている。「好き」という日本語は、常に「代わりがある」ものに対して使用する。「ミカンが好きだ」と言えば、和歌山のミカンだろうが愛媛のミカンだろうが輸入ミカンだろうが好きであることを意味する。八百屋で買ったミカンだろうが自分で収穫したミカンだろうが拾ったミカンだろうが、どのミカンも好きであることを意味する。「好き」という日本語は、「いま目の前にあるこのミカン」だけを特別に好きだということを表現できないのだ。だから秋保が「メガネっ娘が好き」と表明したとしても、それは篠奈先輩ただ一人を好きなこととはまったく無関係な事態に過ぎない。たとえ「ショートカット」やら「スリム」やら「微乳」という条件を付け加えていっても、篠奈先輩ただ一人を好きなこととまったく無関係であるという事態は変わらない。秋保はこのことに冒頭では気が付いていない。
また、「好き」という感情は、条件が変われば変化する。眼鏡をかけている今は篠奈先輩のことを好きかもしれないが、眼鏡を外した途端に好きでなくなる。篠奈先輩は最初からその事実に引っかかっていた。

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若いときの可愛い顔は好きかもしれないが、オバサンになったら好きでなくなる。スリムだったときは好きだったが、太ったら好きでなくなる。条件が変われば、「好き」という感情は変化する。「好き」という日本語が話者の主観的な「感情」を意味する言葉である以上、それが「変化する」ことは避けられない。秋保はこのことにも無自覚だった。
まとめると、日本語の「好き」という言葉には、「対象に常に代わりがある」と「感情だから変化する」という特徴がある。そして秋保の言葉と行動は、まさに「好き」という言葉の意味をそのままそっくり体現していた。メガネっ娘には常に「代わりがいる」し、眼鏡は「外すことができる」。篠奈先輩の不安の根源は、ここにある。

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「好き」という言葉に対して「愛してる」という日本語がある。「愛してる」という言葉は、しばしば単に「好き」の上位互換だと勘違いされる。しかし、「好き」と「愛してる」は言い表している事態がまったく異なっている。「好き」は話者の感情を表現している言葉だ。しかし「愛してる」は、話者の感情を表現する言葉ではない。「愛してる」という日本語は、「代わりがないもの」に対して使用する。というか、「代わりがない存在」であるということを「愛してる」という言葉で表現する。また、「愛してる」という日本語は、対象の条件がどのように変化しようとも「変わらない存在」であることを表現する。眼鏡をかけていようがいまいが、若かろうが年を取ろうが、痩せていようが太っていようが、そしてたとえ死んでしまったとしても、自分自身にとってそれがかけがえのない「ただ一つの存在」であるという時に、「愛してる」という日本語を使用する。つまり「愛してる」という言葉は、話者の主観的な感情とはまったく関係なく、「相手の存在様式」に向かって発せられている。だから言葉本来の使われ方からして、「愛してる」の対象は「代わりがない」ものであり「変わらない」ものだ。だからそれは「ミカン」とか「メガネっ娘」のような「常に代わりがある一般名詞」ではなく、この世にひとつしか存在しない固有名詞でなければならない。

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秋保の矛盾は、常に「一般名詞」で思考を組み立てていたところにある。「篠奈先輩」や「唐臼」といった固有名詞ではなく、「メガネ」という一般名詞で言葉を積み上げていったところに矛盾が生じる。一般名詞をいくら大量に積み上げたとしても、決して「愛」には辿り着かない。どれだけ条件を増やそうとも、常に必ず「代わり」が現れるし、条件は簡単に「変化」してしまう。秋保は、固有名詞を根底に据えて言葉を組み立てなければならない。それが「人格」と向き合うということだ。

ここまでくると、「眼鏡萌え」の自己否定の意味が思想史的に分かりやすく見えてくる。「萌え」という言葉は固有名詞ではなく、一般名詞によって組み立てられている。「眼鏡萌え」にしろ「ネコミミ萌え」にしろ「いもうと萌え」にしろ、なんでもよいが、それらは一般名詞だ。仮に「○○たん萌え」というように固有名詞が使用されているように見えても、それは「萌え要素の束」を表しているに過ぎない。「萌え」も、「好き」と同じく、話者の心の中に生じる「知覚」のカテゴリーに属している。「萌え」という言葉は、知覚の対象が「かけがえのない唯一の存在」であることを示す言葉ではない。もしも「精神」が自分の内面を超えて真の対象にたどり着こうとしたら、一般名詞に支配された「知覚」をいったん否定しなければならない。それを正面からテーマにしたのがドイツ観念論哲学者ヘーゲルの主著『精神現象学』だ。そこで中心的な課題にされたのが、「自己否定」の契機だ。屈折リーベにおける「眼鏡萌えの自己否定」は、単なる否定ではなく、真の対象に辿り着くために「精神」が必ず経験しなければならない弁証法的な否定だ。「メガネっ娘」という一般名詞を廃棄するのは、目の前に確かに存在する真のメガネっ娘を掴みとるために必要不可欠な「否定」だ。本書の展開全体が「精神の弁証法」を示している。

弁証法構造は、田渕由美子など「乙女ちっく眼鏡っ娘起承転結構造」にも典型的に見られるものだった。ただし、少女マンガではメガネスキーの視点が透明だったのに対し、「屈折リーベ」の弁証法構造はメガネスキーの立場から打ち立てられたところが決定的に斬新だった。メガネスキー自身のアイデンティティをダイレクトに揺さぶり、「眼鏡っ娘」という概念そのものを危険に曝すという、一歩間違えば総スカンになるチャレンジだ。しかし危険領域に大胆に踏み込んでいるにも関わらず、同時に皆から愛される作品になったという事実が、本作を金字塔の位置に押し上げている。

■書誌情報

Kindle版・単行本:西川魯介『屈折リーベ』(白泉社、2001年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第100回:西川魯介「屈折リーベ」(前)

西川魯介「屈折リーベ」

徳間書店『月刊少年キャプテン』1996年1月~7月号

本作抜きでは眼鏡っ娘マンガの歴史を語ることは不可能な、押しも押されぬ金字塔。本作の凄さについてはあらゆる機会に何度も主張してきたので、ここでは改めて2点に絞ってまとめてみよう。屈折リーベの画期的なところの一つ目は「眼鏡っ娘萌えの全面展開」にあり、二つ目は「萌えを自ら否定してみせたこと」にある。一つ目だけなら「よくできたおもしろい萌えマンガ」になっていたところだが、二つ目があることによって比類ない作品となっている。

(1)眼鏡っ娘萌えの全面展開

眼鏡っ娘のことが好きという主張自体は、本作が初めて試みたわけではない。作品が発表された1995年暮れの段階で、メガネスキーたちの存在自体は各所に確認されている。眼鏡っ娘の素晴らしいところを言語化する試みも既に行われていた。しかし本作が著しく画期的だったのは、「一つの作品のテーマ」として、様々な角度から眼鏡っ娘の素晴らしさをアグレッシブに言語化していったところにある。散発的な言語化も貴重なものではあるが、「一つの作品」としてまとまることによって、主張の純度と説得力が格段に上昇する。

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だいたい当時の少年マンガのラブコメというものは、高橋留美子作品を見れば分かりやすいのだが、男のほうがツンデレだったり鈍感だったりすることによって成り立っていた。あるいはBASTARD!やCITY HUNTERに分かりやすく示されているように、主人公が女好きのスケベだが実は一途というところでラブコメが成立することが普通だった。主人公が自分の特殊な一点集中的性癖をアグレッシブに繰り広げるラブコメというもの自体が画期的だったと言える。
100_05主人公・秋保によって言語化された「眼鏡っ娘の素晴らしさ」は、眼が覚めるような鋭さに満ち溢れていた。上に引用した図では、視覚上の素晴らしさが言語化されている。「柔肌と硬質なフレームの調和による至上の美」は、眼鏡っ娘を考える上でスタート地点に置くべき基本事項だ。どうして眼鏡同士のキスが興奮するかなど、この基本事項を踏まえていないと理解できるはずがない。しかしこの眼鏡っ娘の美に関する基礎・基本が明瞭に言語化されるのは、本作が最初だ。
また、眼鏡が単なる外見的な異化効果を発揮するだけでなく、人格にも深く関わってくるという見解が明瞭に示されているのも大きな成果だ。それまでにも眼鏡っ娘に共通して見られる性格(読書好き、大人しいなど)に対する言及は散発的に見られたが、もっと本質的に「人格そのもの」に関わることを言語化したのは著しく画期的な仕事だ。実は篠奈先輩は、よくある眼鏡っ娘の性格とは大きくズレている。大人しくないし、暴力的だし、本をたくさん読んでいるような感じもない。要するに、篠奈先輩はステロタイプ眼鏡っ娘ではない。だから眼鏡の内面性といったときも、それはステロタイプな眼鏡っ娘の性格を指して言っているわけではない。秋保が「かける人間の内面のさらなる延長」というのは、眼鏡っ娘のステロタイプを称揚しているのではなく、眼鏡が「人格性」と深く関わるアイテムであるということを主張している。ステロタイプとは無関係に眼鏡と人格性の関係を打ち出したのは、本作の極めて大きな成果だ。
また、こういうと若干失礼ではあるが、篠奈先輩が眼鏡を外した姿は、本当に「たいしたことがない」。秋保少年も「思ったほどじゃないや」と言っているが、本当に「なんともない」。これは、描写上、極めてものすごいことであることは、もっと注目されていい。最近では、『境界の彼方』のヒロイン栗山さんがそうだった。栗山さんは眼鏡をかけているとかわいいけれど、眼鏡を外すと単なるモブキャラになってしまう。京アニが敢えて狙ってそういうキャラデザにしたことが明らかになっている。主観的な感想から言えば、本作の篠奈先輩の造形は、京アニの仕事に匹敵していると思う。篠奈先輩は眼鏡をかけていると、とてもかわいい。とても目立つ。ヒロインとして輝いているように見える。しかし眼鏡を外した途端に、単なるモブキャラの顔になっている。かわいくもなければ、かといってブスでもない、「いてもいなくても変わらない、どうでもいい」ような顔。失礼な言い方で恐縮ではある。が、マンガにおいて、かわいい顔や、ブスの顔を描くことはそれほど難しくない。「どうでもいい顔」を描くのがいちばん難しい。しかもそれに眼鏡をかけたら輝くという造形美。この、眼鏡の時はヒロインの輝きを放っている篠奈先輩が、眼鏡を外したとたんに単なるモブキャラになる描写力は、当時も驚いたが、今見てもびっくりだ。同じ描写を見るためには、20年後の『境界の彼方』まで待たねばならない。これは単なる技術力の問題ではなく、眼鏡っ娘をどのように描写するかという意志の反映の問題と言える。

(2)萌えを自ら否定してみせたこと

しかし本作が凄いのは、そこまで力を込めて描いて積み上げてきた「眼鏡萌え」を、自ら否定してみせたことだ。これには心底、驚いた。魂の根幹が揺さぶられたと言っていい。雲行きが怪しくなるのは、非・眼鏡キャラの唐臼が登場して以降のことだ。主人公・秋保は、唐臼を「メガネじゃない」という理由で振っていた。

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この秋保の態度が、後に大きな問題となる。唐臼の「人格」を見ず、いや、見ようともせずに、単に眼鏡の「ON/OFF」だけで機械的に物事を判断する姿勢。ここで秋保が唐臼の「人格」と向き合ったうえで結論を出していれば、たとえ結果が同じであっても後の悲劇を招くことはなかっただろう。この「人格と向き合っていない」という事実が、唐臼だけでなく、秋保と篠奈先輩の関係にも影を落とす。秋保が唐臼の人格と向き合っていなかったのならば、篠奈先輩の人格とも向き合っていないのではないか。そして「人格と向き合う」かどうかという問題は、そのまま「眼鏡萌え」の問題と直結する。「眼鏡萌え」ということが、そのまま「人格と向き合ってない」ということを意味してしまうのだ。

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秋保は、篠奈先輩を「眼鏡」という理由で選んだ。篠奈先輩の「人格」としっかり向き合ったうえで、篠奈先輩を好きになったわけではなかった。唐臼の「あんたなんかたまたまメガネだっただけじゃない」というセリフは、その焦点を的確に突いている。うすうすそのことに気が付いていた篠奈先輩も、自覚せざるを得ない。秋保と篠奈先輩は、極めて「脆弱な基盤」の上に結び付いているに過ぎない。そしてそれは篠奈先輩だけでなく、秋保自身に跳ね返ってくる。

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この修羅場で篠奈先輩が叫ぶ「眼鏡掛けようが外そうが私は私なのに…」というセリフ。これは1970年代に乙女ちっく少女マンガが積み上げてきた「ほんとうのわたし」という概念だ。つまり、「人格」に関する意識だ。しかし少女マンガでは、「眼鏡をかけたほうが本当の私」という物語を繰り返してきた。本作がメガネスキーにとって極めて恐ろしいのは、「眼鏡を外しても本当の私」というテーマがマンガ史上に初めて登場したところにある。メガネスキーのお前は、眼鏡を外した女性としっかり向き合えるのかと、覚悟を突きつけられていのだ。本作では、秋保は眼をそむけてしまう。篠奈先輩の人格から眼を背けてしまう。もしも秋保がなにもないただの男であったら、そんなところで悩むはずがない。悩む理由がない。ただ篠奈先輩を取ればいいだけの話だ。しかし、ふつうの男には簡単に出せる結論を、秋保は出すことができなかった。彼は「メガネスキー」なのだ。「眼鏡を外した女」を受け入れることは、逆に秋保自身のアイデンティティを崩壊させるのだ。
ここに見えるのが、「人格」が問題となったときに露わになる、「眼鏡萌え」の限界と矛盾だ。ただの萌えマンガでは、ここまで描くことはない。ただの萌えマンガがこの領域に届かない理由は2つある。一つ目の理由は、危険領域にあえて踏み込んで「萌え」の限界と矛盾を露呈させることは、萌えマンガとして自殺行為だからだ。二つ目の理由は、そもそも凡百の萌えマンガでは、「萌え」を危険に曝すような「人格」をそもそも描けないからだ。本作がその限界領域に真っ直ぐに突き進んでいったということは、すなわち「人格」をしっかり描いており、そのうえで危険水域に突入する「覚悟」を兼ね備えていたということを意味する。
こうして、本作は自らが切り開いたはずの「眼鏡萌え」を、自ら危険に曝す。「自己否定」といってよい展開を見せるのだ。そしてこの「自己否定」という契機こそが、本作を眼鏡っ娘マンガの金字塔に押し上げている。それが思想的にどういう意味を持つかは、また改めて後編で。(第101回に続く)

■書誌情報

100_01同名単行本全1冊。本作が単行本になる経緯もなかなかに伝説的だ。本作が終了してから、本誌『月刊キャプテン』が休刊してしまい、本作は長らく単行本化されることがなかった。しかし全国のメガネスキーたちからの熱いリクエストによって、連載終了からしばらくたってようやく21世紀に入る頃に単行本化が実現する。こういう経緯で単行本化に至った作品は、他にほとんど類を見ないはずだ。本作がどれだけ人々の心に深い印象を残したかが、この単行本化のエピソードだけでもよくわかる。
現在はありがたいことにKindle版など電子書籍で読むこともできる。

Kindle版・単行本:西川魯介『屈折リーベ』(白泉社、2001年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第99回:山岸凉子「ミスめがねはお年ごろ」

山岸凉子「ミスめがねはお年ごろ」

集英社『りぼんコミック』1970年2月号

1970年発表作。眼鏡っ娘をヒロインとした、極めて早い時期の作品だ。しかしこの時点ですでに「乙女ちっく眼鏡っ娘」の原型が見えるところが興味深い。眼鏡っ娘が、歴史的登場時点から既に「眼鏡のまま愛される」という存在だったことは、世間にもっとよく知られてよい事実だ。

ヒロインの近藤咲子ちゃん(通称さっちゃん)は眼鏡っ娘。両親が亡くなり、父親の友人の家庭に引き取られることとなった。その家の息子・真一との恋愛物語だ。まずは絵に注目したい。

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しっかり観察すると、眼鏡の描写が実に素晴らしいことが分かるだろう。まず横顔を見ればわかるように、「貼り付き眼鏡」にはなっていない。さすが山岸凉子、正確なデッサンだ。そしてこの時点で既に「ズレ眼鏡」であることにも注目必至だ。少年・青年マンガでは「ズレ眼鏡」はほとんど描かれることがなかったが、1990年代半ば以降に少女マンガ技法が男性向メディアに採用されて以降、急速に「萌え」として認識されていく。しかし少女マンガにおいては、45年前から既に「ズレ眼鏡」だったのだ。推測するならば、少女マンガ特有の大きな瞳に似合う眼鏡を描こうと思うと、眼鏡をまんまるに大きく描くか、ズラすか、どちらかの選択肢しかない。山岸凉子はズラす方を選択したということか。

ストーリーも興味深い。まず注意したいのは、「眼鏡を外すと美人」というエピソードが露骨に描かれている点だ。

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いじわるなライバルに球技でボールをぶつけられたはずみに、さっちゃんの眼鏡が吹っ飛ぶ。しかしそれをきっかけとして、さっちゃんが美人だったことが発覚するのだ。眼鏡を外して美人になるなどとは物理的にはありえないのだが、マンガだから仕方がないと我慢しよう。問題は、「眼鏡を外して美人」になったとして、そのまま「幸せ」になるかどうかだ。そう、眼鏡を外して美人になったとしても、それがそのまま恋愛成就に結び付くことはない。結論から言えば、さっちゃんは眼鏡をかけて幸せになる。

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さっちゃんは誕生日プレゼントにコンタクトレンズをもらう。1970年時点のコンタクトレンズだから、宝石ほどに高価なものだっただろう。しかし我らがヒーロー真一は、コンタクトレンズを拒否し、さっちゃんに眼鏡をかけさせる。そして決め台詞で物語を見事に終わらせるのだ。「ぼくはミスめがねのそぼくなさっちゃんが大好きさ!!」
099_03これだ。外見にしか興味がない世間のボンクラ男どもがさっちゃんの眼鏡を外そうとするのに対し、真のヒーローである真一は「眼鏡ゆえの魅力」に気が付いている。眼鏡がさっちゃんの人格の一部であることをしっかり認識しているからこそ、眼鏡のままのさっちゃんを受け入れるのだ。眼鏡が人格の一部になっていることは、右の引用図に明らかなように、作中でもきちんと描かれている。さっちゃん本人は眼鏡をコンプレックスに思っているが、それこそが「自分自身の本質」と深く関わっている。「あたしとめがねとはきりはなせない」という、アイデンティティ認識。少女の人格性を可視化したものこそが、まさに眼鏡なのだ。だから、眼鏡をそのまま承認し、少女の人格性をそのまま包み込むことが、少女マンガのヒーローの条件となる。少女マンガは、実は当初からそういう眼鏡っ娘を描き続けてきている。「眼鏡を外して美人」になる描写が存在することも事実であるが、それがそのまま恋愛成就に直結せず、最終的に「眼鏡をかけて幸せになる」ことはしっかり認識されねばならない。

そんなわけで、本作は眼鏡っ娘の描かれ方を考える上で極めて重要な事実を示している歴史的な作品だ。しかも山岸凉子の作品ということで、たいへんな説得力を併せ持っている。いまでも「眼鏡を外して本当の私デビュー」などという愚か極まりない考えを持つ者がいるが、そんなものは1970年時点で完膚なきまでに否定されていることは声を大にして主張したい。眼鏡っ娘は眼鏡をかけたまま幸せになる。これが世界の真理だ。

■書誌情報

本作は39頁の短編。単行本『アラベスク第1部2巻』に所収。実は入手はそれほど困難ではない。「かってに改蔵」の第85話「めがねっ娘、世にはばかる。」にも本作が言及されている。

単行本:山岸凉子『アラベスク』第1部2巻(花とゆめCOMICS、1975年)

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第98回:coco「今日の早川さん」

coco「今日の早川さん」

2006年~web媒体発表

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098_03ビブリオマニア(度を越した本好き)たちが繰り広げる、捩じ曲がった面倒くさい自尊心と自虐の入り混じった、身につまされる物語。5人の主要登場人物のうち3人が眼鏡っ娘というところが、さすがビブリオマニアで、とても嬉しい。
メインヒロインは、SF好きの早川さん。セルフレームの黒縁眼鏡。高踏派の岩波さんは、黒のメタルフレーム。稀覯本好きの国生さんは、まんまるメタルフレーム眼鏡。それぞれ眼鏡に特徴があって、みんなかわいい。まあしかしホラーマニアの帆掛さんは視力が悪いにもかかわらずコンタクトであったことが発覚し、少々がっかりではある。

というわけで眼鏡っ娘たちがSFについて薀蓄を傾けたり、古本屋をハシゴ襲撃したり、古本屋の戦果を自慢したり、古本屋の品揃えについて不満をぶちまけたりする。特に本に対して思い入れのない人には何を言っているかさっぱりわからない内容だろうが、多少なりとも本というモノに思い入れがあれば、苦い思い出を伴いつつ共感してしまうような、そういう作品だ。だから、本作は客観的に共通した評価を得るような類の作品というよりは、読者自身の読書遍歴と読書観に応じて様々な読まれ方がされるだろう作品だ。「読む人を選ぶ」ような作品とも言える。多少なりともSFの知識がないと疎外感を味わってしまうかもしれない。逆に言えば、多少なりとも本というものに思い入れがあれば、どばどば言葉が溢れ出てくることになる。「語りたくなる」ような作品でもある。

本作はドラマCDにもなっており、キャストがなかなか豪華。早川さん=池澤春菜は、眼鏡っ娘らしくてとてもよかった。SF好きが集まったら、ランダムで「いろはかるた」を流してカルタ大会をすると楽しそうだ。(単行本3巻限定版にカルタ本体も付属しているので、合わせて遊びたい)

■書誌情報

単行本既刊3巻。2巻と3巻は限定版がある。3巻限定版には、ドラマCDとセットになった「いろはカルタ」が付属している。

単行本セット:coco『今日の早川さん』1-3巻セット
ドラマCD:『キャラアニ:ドラマCDシリーズ 今日の早川さん』

作者のblog:http://horror.g.hatena.ne.jp/COCO/

 

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098_02さて、というわけで、この作品について語ろうとすると、はからずも自分自身の読書遍歴に触れざるを得なくなってしまう。というか語りたくなる。以下は私の自分語りで、眼鏡っ娘とはあまり関係ないので、独り言として扱っていただければと。
私は今でこそマンガ以外のフィクションはほとんど読まなくなり、活字ではもっぱら人文社会科学の学術書だけを読んでいるわけだが、高校生のころはそこらへんによくいるラノベ読みだった。まあ私の高校生時分にはラノベという言葉はまだ存在せず、ソノラマ文庫を中心としたジュヴナイルSFがそれに該当する。当時は菊地秀行とか夢枕獏が流行っていた。他にはアニメージュ文庫がSFの入口で、『死人にシナチク』とか読んで喜んでいた。
が、高校生だけあって、ちょっと背伸びしようということで、いよいよ本格SFに手を出そうとしたわけだ。が、残念ながら周りに本格SF読みがおらず、手ほどきしてくれる先導者がいなかった。そして当時はまだインターネットもなかった。頼りは、当時定期購読していた『LOGiN』というパソコン雑誌だけだった。『LOGiN』にはSFのページが毎月あったのだが、ある月の特集で最先端のSF作品として『ニューロマンサー』がイチオシされていたのだ。私は『LOGiN』の特集を鵜呑みにして、さっそく『ニューロマンサー』を買ってきてしまった。私のハヤカワ文庫初体験は、『ニューロマンサー』だった。いやはや……。ということで、大学に入るまで、再びハヤカワ文庫に手を出すことはなかった。
まあ、10年後に読み直してみたところ、『ニューロマンサー』はとてもおもしろい作品だった。しかしそれをおもしろいと感じるに至ったのは、先導者たちの手ほどきのおかげだったと思う。「新月お茶の会」というSF・ミステリのサークルで出会った先輩たちは、ジュヴナイルしか読んでこなかったなまぬるい新参者を温かく迎えてくれた。サイコドクターとか、ディックのことはディック以上に知っている先輩とか、後に金田一少年の事件簿のブレーンになる人とか、たこしさんとか、いま思い返してもすげぇ先輩たちだった。本作を読んでいてしみじみと思い出すのは、このサークルが纏っていた空気だ。まあ、先輩たちには本作のキャラほどのひねくれた自尊心と自虐心はなかったけれども、私の立ち位置は本作で言うラノベちゃんに当たる。お勧めのSF作品として、いきなりノーマン・スピンラッド『鉄の夢』を与えられたのは、やはり通るべき道ということか。
まあ残念ながら、私はハヤカワ文庫や創元ミステリを読むようなキャラではなく、みすず書房とか勁草書房とか青土社の本を優先して読むようなキャラに育ってしまうわけだけれども。岩波文庫だったら緑背表紙はあまりなく、ほとんどが青と白で埋まるタイプだ。とはいえ、若いころに吸ったSF者の「ビブリオマニア」の空気は、得難い経験として、人格の一部になっているように思う。
そんなわけで本書を読んだ直後の第一感想は、「はー、岩波さんもしょせんフィクションしか読まないのね。岩波文庫は緑を読んでいるうちはまだまだヒヨッコで、黄色か青色のほうが圧倒的におもしろいだろ」っていう、とてつもない上から目線なものだったわけだが、これこそが私自身に色濃くしみついていたビブリオマニアのひねくれた自尊心というやつで、直後に「いやはやいやはや」と頭を掻くのだった。いやはや。

ところで他に書く機会がないからここに書いておくのだが、明治時代に犬養毅が編集した経済雑誌を読む必要があって慶応大学図書館の地下書庫にこもったとき、ふと何かを感じて右方にある本棚を見上げたら、視線の先にちょうどあったのが英語版の『NECRONOMICON』ということがあった。とても、恐ろしかった。

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第97回:吉田まゆみの眼鏡無双

吉田まゆみ「おはようポニーテール」講談社『週刊フレンド』1977年1号~4号
吉田まゆみ「からふるSTORY」講談社『週刊フレンド』1977年9号~23号
吉田まゆみ「センチメンタル」講談社『月刊ミミ』1978年3月号
吉田まゆみ「れもん白書」講談社『月刊ミミ』1979年1月~12月号
吉田まゆみ「ボーイハント」講談社『週刊フレンド』1980年13号~16号

さて、前回の吉田まゆみ「アイドルを探せ」でメインヒロインがカラッポであることを強調したが。実は吉田まゆみ作品の神髄は代表作だけ見ていてもわからない。まずは1970年代後半に吉田まゆみが眼鏡無双していたことをしっかり見ておきたい。
まず事実として指摘しておきたいことは、吉田まゆみは眼鏡っ娘とメガネくんのカップルを極めて大量に描いていることだ。そもそもメガネくんの登場率自体が非常に高いのだが、その相手が眼鏡っ娘であることが多いのは強い印象を与える。そしてそのメガネくんと眼鏡っ娘のカップルが、メインヒロイン絡みではなく「脇筋」であることも印象的な事実である。
たとえば「おはようポニーテール」の脇役眼鏡っ娘エンちゃんのエピソードは強く心に残る。メガネくんの「オワリくん」が眼鏡っ娘エンちゃんのことを大好きなのだが、クラスメイトにそれをからかわれて、エンちゃんはつい憎まれ口を叩いてしまう。

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097_05この「メガネをかけてる人はイヤよ」というセリフは、本当に衝撃的だ。あなたこそメガネじゃないかと即座にツッコミを入れたくなるわけだが、もちろん作中でもツッコまれている。このセリフにショックを受けたオワリくんは、自らメガネを壊してしまう。メガネを壊すことは、自らの目を潰すことの象徴である。オワリくんがどれほどのショックを受けたか。眼鏡っ娘から「メガネをかけてる人はイヤよ」なんて言われてたら、私でも自ら眼を潰してしまいそうだ。
しかしエンちゃんは反省して、オワリくんに謝罪する。そのときに自作の「メガネケース」を作ってプレゼントするところが素晴らしい。眼鏡っ娘から自作のメガネケースをプレゼントされた日には、昇天確実だ。メガネケースとは、眼鏡を包むものだ。自分の意志の分身である眼鏡を「包まれる」となれば、フロイトならずともその性的な意味を想起せざるを得ない。右に引用したプレゼントの場面を見ていただきたい。オワリくんは、もはや絶頂している。こうして二人は、眼鏡と眼鏡のナイスカップルになるのだった。

もうひとつ、吉田まゆみ眼鏡の具体的な例を見てみよう。「からふるSTORY」と、その続編「ぐりーん・かれんだあ」に登場する眼鏡っ娘エミちゃんのエピソードは、本当に素晴らしい。まずエミちゃんはショートカットで一人称が「ボク」のボーイッシュな眼鏡っ娘だ。この眼鏡っ娘がメインヒロインの兄と付き合っているのだが、この兄もメガネくん。ここでもやはりメガネくんと眼鏡っ娘のカップルなのだ。
「からふるSTORY」では、まずメインヒロインの視力が低下するエピソードが描かれる。ここでヒロインは眼鏡をかけるのを嫌がるのだが、メガネくんのお兄さんは、「おれ……メガネかけてる子すきだぜ」と言う。

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097_02このお兄さん、どこからどうみても完璧なメガネスキーだ。そして実際にお兄さんが家に連れてきて紹介した彼女が、眼鏡っ娘のエミちゃんだった。最初は眼鏡っ娘を受け入れることができなかった主人公だが、眼鏡っ娘の心温かさに触れて、お兄さんとの交際を認めるようになっていく。
続編では、エミちゃんとお兄さんの「キス」が話題となる。ヒロインは「おにいちゃんとのキス、メガネはじゃまにならなかったの?」と興味津々でエミちゃんに質問する。それに対するエミちゃんの答えがすごい。「じつをいうとカチッとぶつかりまして、以来……」と言って、唇を抑える。エロい。そして、キスのときに眼鏡と眼鏡カチッとぶつかって以来、いったいどうなったかは作中では何も描かれない。読者の想像にお任せという形になっている。となれば、キスをするときに一度カチッと眼鏡と眼鏡がぶつかってから、それ以来、キスするときは必ず眼鏡と眼鏡をぶつけているとしか思えないではないか!

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キスのときに眼鏡と眼鏡がぶつかることをエピソードにしているのは、竹本泉「アップルパラダイス」や岸虎次郎「マルスのキス」など眼鏡名作に多いわけだが、この眼鏡同士の接触を最初にエピソードにしたのは管見の限り吉田まゆみが最も早い。いかに吉田まゆみが眼鏡に対して意識的だったかが分かろうというものだ。

吉田まゆみはこのような眼鏡エピソードを、1970年代後半に立て続けに発表している。この時期は、集英社『りぼん』では乙女ちっくが大流行し、田渕由美子が「乙女ちっく眼鏡っ娘・起承転結構造」を集大成した時期と完全に一致する。しかし吉田まゆみは、それとは異なる様式の眼鏡を描き続けた。それは1978・79・80年に立て続けに発表された作品の表紙イラストに象徴的に示されている。

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78年「センチメンタル」、79年「れもん白書」、80年「ボーイハント」は、そのすべてにおいて表紙に複数の女の子が描かれ、そしてそのうちの一人が眼鏡っ娘だ。作品の中身も、「主要登場人物が3人以上いるときに、そのうち一人が眼鏡」という様式を採用している。これは柊あおい「星の瞳のシルエット」やCLAMP「魔法騎士レイアース」において見られる形式であることは既に指摘してきた。吉田まゆみは、りぼんで「乙女ちっく起承転結構造」が完成に向かう傍らで、実はこの「眼鏡っ娘有機体構造」を独自に展開させていたのだ。
このように吉田まゆみが70年代後半から「眼鏡っ娘有機体構造」を発展させていたことを踏まえて、初めて1984年「アイドルを探せ」の構造を見通すことが可能となる。「乙女ちっく起承転結構造」が近代的自我の物語である一方、「眼鏡っ娘有機体構造」はポストモダンの性格を色濃く示している。ポストモダンでは、近代的自我を必要とせずにシステムが自動進行する。主人公の自我がカラッポであっても、キャラクターの役割分担とシステム配置を適切に設計すれば、自動的に物語が紡ぎだされていく(ポストモダン概念でいうところの、オートポイエシスだ)。吉田まゆみ1970年代後半から試みていたのは、近代的自我を中核とする「眼鏡っ娘起承転結構造」とはまったく異なる眼鏡構造である「眼鏡っ娘有機体構造」だったのだ。「アイドルを探せ」のメインヒロインがカラッポであることは、ポストモダンと近代的自我の関係において理解するべき事態なのだ。
しかし一方で思い返してみれば、柊あおい「星の瞳のシルエット」のメインヒロインがちょっと顔がカワイイだけの極めてつまらない女であることと、吉田まゆみ「アイドルを探せ」のメインヒロインがちょっと顔がかわいいだけの極めてつまらない女であることは、両作が同じ構造であることを示している。そして「星の瞳のシルエット」が最終的には眼鏡っ娘の物語であったのと同様、「アイドルを探せ」は最終的に眼鏡っ娘の物語であった。ポストモダンが近代的自我を排除しようと、眼鏡は眼鏡そのものの力(見る意志)によって、物語を引き寄せているのだ。

■書誌情報

電子書籍で読むことができる作品が多い。また、脇筋でメガネくんと眼鏡っ娘がカップルになるのは、講談社『キャンディ・キャンディ』の伝統として理解するべき事態かどうか、検討事項だ。

Kindle版:吉田まゆみ『おはようポニーテール』
単行本:吉田まゆみ『からふるSTORY』(フレンドKC)
単行本:吉田まゆみ『センチメンタル』(MiMiKC)
Kindle版:吉田まゆみ『れもん白書』(1)
Kindle版:吉田まゆみ『ボーイハント』

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