この眼鏡っ娘マンガがすごい!第110回:田丸浩史「ラブやん」

田丸浩史「ラブやん」

講談社『アフタヌーン』シーズン増刊2000年第4号~2015年7月号

ギャグマンガとして半端ないキレと言いしれぬ脱力感が混在した他に類のない魅力については各所で既に語られているので本コラムではスルーするとして、問題は眼鏡だ。眼鏡に関して、言及すべき論点が4つある。
(1)眼鏡の魅力をダイレクトに示している。
(2)眼鏡萌えの現実に革命を起こした。
(3)にも関わらず、あえてメガネ萌えを脱臼させている。
(4)「萌え」と「愛」の違いをド直球で描ききった。
以下、それぞれの論点について見ていこう。

(1)眼鏡の魅力をダイレクトに示している。
これは魅力的な眼鏡っ娘の絵を見れば問答無用一目瞭然でわかるわけだが。まず量的に言えば、単行本全22巻のうち眼鏡着用イラストが8巻を占めているという事実がすごい。眼鏡率.364というのは、ヒロインが眼鏡っ娘でないことを考えると尋常じゃない高打率だ。

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もちろん質も伴っていて、魅力的な眼鏡っ娘キャラがたくさん登場する。第1話から登場する青木萌ちゃんとか、第6話から登場する赤井みのりちゃんなど、小悪魔的な魅力を発散している。ちなみに第74話に登場した大家さんがかわいいことは、声を大にして主張したい。

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めぞん一刻的な展開にはならなかったけどな。
しかもカズフサが眼鏡っ娘萌えを前面に打ち出して様々な萌えシチュエーションを実現してくれるのが、とても楽しい。

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さすがカズフサ!おれたちにできないことを平然とやってのける、そこにシビれる!あこがれるゥ!
そして本作は、眼鏡っ娘萌えの起源についても貴重な証言を与えてくれている。
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眼鏡っ娘萌えの起源について確たる学術的定義があるわけではないが、本作で示された見解は一つの見識だろう。同時代を生きた人間にとっては、肌感覚でわかる見解だ。眼鏡っ娘萌えの歴史を考えるときに、ここで示された見識は確実な参照軸となる。(ちなみに1995~96年は西川魯介「屈折リーベ」が注目を浴びていた年である)

(2)眼鏡萌えの現実に革命を起こした。
110_03本作が極めて重要なのは、単に素晴らしい眼鏡っ娘キャラを多数世に送り出しただけでなく、眼鏡っ娘萌えの現実環境そのものを大きく展開させた点にある。具体的には、眼鏡萌えの人々が一同に集うイベント「メガネっ娘居酒屋「委員長」」の起点となっているのだ。
作中では、「メガネ喫茶委員長」という名前の喫茶店が第4話で登場する。意外なことだが、最初に登場したときは何の変哲もない普通の喫茶店として描かれており、ラブやんとみのっちが普通に作戦会議のために利用しただけだった(店員はちゃんと眼鏡っ娘)。こうして一発ギャグで終わるかと思われたメガネ喫茶委員長だったが、第6話で萌え妄想が暴走する。

 

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なんとメガネ喫茶委員長には「奥」があって、割増料金を払って踏み入ると、そこは夢のワンダーランドなのだった。このメガネ喫茶委員長ネタの破壊力自体が極めて高かった上に、投下されたタイミングも絶妙だった。2000年から2001年にかけてこれまでにないほど眼鏡圧が高まっていたのだが(第90回『妄想戦士ヤマモト』の項を参照のこと)、貯まりに貯まった燃料に点火したのが本作第6話(2002年2月)だった。炎は瞬く間にオタク界隈全体に燃え広がり、2002年9月の第1回「メガネっ娘居酒屋「委員長」」開催へと結びつく。その熱狂を文章で再現することは元より不可能なのだが、その一端はこちらに記録した。西川魯介、平野耕太、小野寺浩二、山本夜羽の誰が欠けても成立しなかった歴史展開だろうが、最後の決定打は田丸浩史によって刻まれたのだった。本作はフィクションを超えて現実のありようを大きく変化させる力を振るった点で、歴史に記憶されるべき記念碑となっている。

(3)にも関わらず、あえてメガネ萌えを脱臼させている。
しかし本作は、単なる萌えマンガではない。世間でもてはやされている「萌え」を敢えて脱臼させるようなエピソードを大量に盛り込んでいる。もちろんそれは「萌え」に対する敵意でもなければ、逆張りでもない。ギャグマンガだからこそ可能な、脱力感に溢れる描写となっている。最も典型的かつ衝撃的だったエピソードが青木萌ちゃんの「モッサモサ!!」であることには、衆目が一致するだろう。

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このように「萌え」を脱臼させる描写は、確かにギャグでもあるが、これが積み重なることによって別の効果を持ったように思う。「萌え」が客観的な実在ではなく、主観的な観念だという自覚を強める効果である。一時期、「萌え要素」の分析という形で、あたかも「萌え」が客観的な操作対象になり得るかのような幻想が広がった。しかし人工的に萌え要素を組み合わせることで「萌え」を作り出そうという試みが挫折するのに、そう時間はかからなかった。本作は明らかに最初からそのことに自覚的だった。本作が「萌え」を脱臼させながら積み重ねていったのは、それら全てがカズフサの主観によって構成されているという、身もふたもない事実であった。一つ一つの主観的な「萌え」が脱臼を繰り返した末に、カズフサの前に剥き出しの「他者」=ラブやんが現れる。図らずも、全てが最終回に向けての伏線の役割を果たしている。

(4)「萌え」と「愛」の違いをド直球で描ききった。

※以下、本作の最終回に関わる話なので、読んでいない人はネタバレ覚悟でどうぞ。

「萌え」と「愛」は、まるで違うものだ。このテーマについては、第101回『屈折リーベ』で言及したが、本作もド直球にこのテーマにぶつかった。
第155話、カズフサはラブやんの力で理想の眼鏡っ娘と楽しい時間を過ごす。だが、ここで「萌え」と「愛」の本質的な違いに気がついてしまう。

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ここでカズフサの言う「幸せな将来」とは何か?は事の本質に関わる大きな問題ではあるが(「萌え」という観念はそもそも「将来」を含まないから)、ともかくカズフサにとって「幸せな将来」と「萌え」とが無関係であることが明白に理解される。カズフサは、問題の核心に到達している。

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カズフサが思い描けなかったのは、「具体的な生活」だ。「眼鏡っ娘」が具体性を持たない抽象観念だからだ。「萌え」の対象である「眼鏡っ娘」とは、カズフサの脳内に主観的に構成された観念だ。本当に客観的に存在しているのは青木萌ちゃんや赤井みのりちゃんという個性ある人格なのだが、彼女たちの具体的な個性を全て消し去って「眼鏡」という共通性にのみ着目したときに初めて「眼鏡っ娘」という観念が成立する。「眼鏡っ娘」というカテゴリーを成り立たせているのはカズフサの主観的な認識能力であって、青木萌ちゃんや赤井みのりちゃんの側に「萌え要素」があるからではない。青木萌ちゃんや赤井みのりちゃんの個性を全て捨て去ってある一つの特性に注目して概括したときに初めて「眼鏡っ娘」という観念が成立するということは、逆に言えば、「眼鏡っ娘」という観念に固執している限り、青木萌ちゃんや赤井みのりちゃんの個性と向かい合うことはできないということだ。カズフサが理想の眼鏡っ娘を前にして「幸せな将来」を思い描くことができなかったのは、そこに個性を喪失した観念だけの世界を見たからに他ならない。(そしてそれは「萌え」が徹底的に「現在」であって、「過去」も「未来」も持たないことにも繋がる。)
ところで、振り返ると、ラブやんがいる。ラブやんは、カズフサの思い描く「萌え要素」とはまるで一致しない。ロリでもなければ眼鏡でもない。それは明らかに「萌え」の対象ではない。しかしそこに「存在」しているのは、他に交換がきかない唯一無二の「個性」だ。ラブやんのことは、「眼鏡っ娘」とか「ロリ」とかいう「萌え要素の組み合わせ」で呼ぶことはできない。ラブやんのことは、「ラブやん」と呼ぶしかない。一般名詞の組み合わせでは決して呼ぶことができず、固有名詞でしか指し示すことができないもの。そのようなものを人は「人格」と名付けた。カズフサが振り返ったときに見たラブやんとは、そういうものだ。そしてその固有名詞でしか呼べないようなものを客観的に「交換不可能な唯一で特別の存在」と認識することを、人は「愛」と呼ぶ。交換可能な一般名詞である「眼鏡っ娘」や「ロリ」に対する主観的な認識は「萌え」と呼ぶが、交換不可能な固有名詞を客観的に認識することは、端的に「愛」と呼ぶべきものだ。
本作がすごいのは、ラブやんが主観的には完全に萌えの対象ではないのに、客観的には完全に愛の対象であることを、154話かけて積み重ねてきて、155話ですさまじい説得力で以て描ききったことだ。まったく「萌え」ない相手だからこそ「愛」の対象として説得力を持ってしまうということ。積み重ねてきた「萌え」の脱臼が、この155話で、「愛」の説得力に全て収斂してしまうという構造。155話を読んで、私はひっくり返った。とんでもないことになったと思った。正直いって、本作がこういう着地をするとは思ってもみなかった。

だからこれは、「眼鏡萌え」にとっては非常に危険な作品である。なぜなら、「眼鏡萌え」を乗り越える思想を示しているのだから。しかしそれは同時に希望の作品でもある。なぜなら、「愛」の在処を教えてくれるから。
それは図らずも西川魯介『屈折リーベ』と同じ構造を持つ。そしてそれはもちろんパクりとかそういう次元の話ではなく、「萌え」や「愛」について真剣に取り組んだ者だけが共通にたどり着く世界の深淵なのだと思う。眼鏡萌えにとって非常に危険な作品だが、だからこそ我々も真正面から受け止める覚悟と姿勢を持つことが要求される。

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■書誌情報

ま、そういうこと抜きにして、脱力感あふれるカズフサの駄目駄目な日常をゲラゲラ笑いながら楽しめばいいと思うよ。単行本全22巻。電子書籍でも読めるぞ。

単行本・Kindle版:田丸浩史『ラブやん』第一巻、講談社アフタヌーンKC、2002年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第109回:竹宮惠子「女優入門」

竹宮惠子「女優入門」

小学館『週刊少女コミック』1970年4月号

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1970年の作品だ。眼鏡っ娘が主人公として活躍する、もっとも古い部類に属する作品の一つである。そして興味深いことに、この時点で既にほぼ完成された「眼鏡っ娘起承転結構造」を認めることができるのだ。しかも少女マンガ表現手法の革新を牽引していく24年組のひとり竹宮惠子の初期作品である。少女マンガの基本構造ができあがるプロセスを考える上で、かなり重要な作品と言える。

主人公のジャンヌは眼鏡っ娘。女優を目指しているが、俳優で活躍している父親には厳しく反対される。しかしジャンヌは諦めない。そこで父親は条件を出す。「頭は悪いが娘としての魅力にみち、男の子にさわがれ、本人もいい気になってボーイハントに精を出す」という、ジャンヌとはまったくちがう性格の女の子を演じて、実際に男子生徒全員をファンにできたら認めると言うのだ。

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俄然やる気になるジャンヌ。「頭は悪いが娘としての魅力にみち」という条件を満たすために、案の定、眼鏡を外してしまう。

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非常にわかりやすい描写で、モテモテだ。こうしてジャンヌはジャニーへとなりすまし、次々と男子生徒をたらしこんでいく。しかし硬派のアランだけはジャニーになびかない。アランを振り向かせようといろいろ策を弄するジャニーだが、次第に空しい思いが高まっていく。

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本物の自分を隠して別の性格を演じて人を騙すことに、根本的な疑問を抱くようになる。優勝確実と思われた美人コンテストの出場を、直前になってとりやめる。化粧を落として眼鏡をかけた本物のジャンヌのことを、誰も気がつかない。だが…

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アランだけは一目でジャンヌを見分けた。彼は外面ではない人格そのものを見ていたからこそ、外見に惑わされることがなかったのだ。そしてジャンヌは美人コンテストのステージで自分の正体を明かす。このクライマックスの台詞が要注目だ。

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ここで示された「ほんとうの自分」という言葉。これが1970年代の乙女チック少女マンガの中心概念として発展していくことは、本コラムでも確認してきた。その萌芽が1970年の時点で、竹宮惠子の作品に確認できることは、少女マンガの歴史を考える上で極めて重要な里程標となる。

054_hyouとはいえ、後年の乙女チックと比較したとき、構造の純粋性という点ではやはり物足りない。本作では「女優になる」という目的が眼鏡着脱のトリガーとなっており、「愛の着脱」と「眼鏡の着脱」が厳密にクロスオーバーしているわけではない。乙女チックであれば雑音でしかない「女優になる」という目的だが、本作でそれがまだ必要であったということは、作家の実力不足ではなく、時代がまだ成熟していなかったと把握するべき事態だろう。むしろこの時点で起承転結構造を完全に把握している作家の実力に驚嘆せねばなるまい。

■書誌情報

本作は31頁の短編。単行本『竹宮惠子全集28ワン・ノート・サンバ』に所収。あるいは電子書籍のみだが、「70年代短編集」に所収。こういう形で昔の作品にアクセスできるとは、便利な世の中になったなあ。

単行本:竹宮惠子『竹宮惠子全集28ワン・ノート・サンバ』角川書店、1990年
Kindle版:竹宮惠子『竹宮惠子作品集 70年代短編集 あなたの好きな花』eBookJapan Plus、2015年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第108回:まつもとあやか「BABY BABY BABY!!」

まつもとあやか「BABY BABY BABY!!」

集英社『クッキー』2009年6月号

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こんなん、表紙見たら買うだろぉ。長くて黒い艶やかな髪の毛で輪郭がきっちり区切られた端正な顔立ちに、シャープな眼鏡。目力の強い、鮮烈なクールビューティ。一瞬で恋に落ちるわ。
ということで、いつも女のことしか考えていないオツムの軽いバカ男が、眼鏡っ娘に一目惚れするお話。眼鏡っ娘は、男が語っていた「理想のタイプ」とは全く違うのだが、こんなん見たら惚れてまうのも仕方がない。ということで告白するが、もちろん一瞬でふられる。

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適当にあしらう感じもクールでかっこいいねえ。ますます惚れてまうやろ。
が、男はあきらめきれず、美術室で絵を描いている眼鏡っ娘のところにおしかける。まんまと絵のモデルになることに成功して、ちょっとずつ距離を縮めていくのだが。実は眼鏡っ娘は美術部顧問の先生のことが好きだったのだよ。

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いい表情だなあ。

さて、まあ、なんとなくの印象なんだけど、本作に限らずマンガで描かれる眼鏡っ娘って、怖い顔の男とか不良気味のオツム軽い男とくっついちゃう傾向にあるような気がする。個人的には眼鏡っ娘には真面目な男とつきあって幸せになってほしいので、軽くていい加減で浮気を繰り返しそうなヤンキーといい感じになるのはもったいなすぎて悔しい気がするんだけれども。まあ、そういう物語が求められる何らかの世間的な傾向があるということだろうから、私が悔しがっても仕方がない。むしろ、きちんと客観的に分析しておく必要がある事案として理解しておくべきだろう。
そんなわけで、この物語でも、軽くていい加減な男と眼鏡っ娘がいい感じになっていくんだな。まあ、眼鏡っ娘が幸せになってくれるんなら、応援するしかないがな!

さて、ところで。けっこうびっくりしたのが、同時収録の別作品「とらとマシマロ!」でも眼鏡っ娘がヒロインになっているのだが、これが「BABY BABY BABY!!」のクールビューティ眼鏡とは真反対のちんちくりん眼鏡っ娘ということだ。

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同じ作者が描いた眼鏡っ娘とは思えないほど、印象に落差がある。ちんちくりん三つ編み+まんまる眼鏡の眼鏡っ娘。で、こちらも恋の相手も、数千人の暴走族を一人で仕切っていたという伝説を持つ極めてマッドマックスな男だったりする。ホームレスのジジィや鼻ピアスでタトゥーまみれの極悪ヤンキーが角材を振り回しながら画面を埋め尽くしたりして、少女マンガとして見るとちょっと不思議な作品に仕上がっているが、小動物のような眼鏡っ娘はすこぶる可愛い。

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というわけで、一冊の単行本の中にクールビューティ眼鏡とちんちくりん眼鏡が同居していて、その落差がけっこう心地いい。世間的にはどっちのタイプの眼鏡っ娘が人気あるのかのう?

■書誌情報

「BABY BABY BABY!!」は36頁の短編。「とらとマシマロ!」は32頁の短編。どちらも単行本『BABY BABY BABY!!』に収録されていて、電子書籍でも読める。

Kindle版:まつもとあやか『BABY BABY BABY!!』集英社、2011年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第107回:岡本美佐子「つむじまがり」

岡本美佐子「つむじまがり」

集英社『ぶ~け』1978年10月号

眼鏡が繋げた恋の物語。ヒーロー江崎くんの眼鏡フェチぶりに注目の作品だ。

眼鏡っ娘のちひろは高校2年生。中学生の時の失恋を引きずって、素直になることができない。人気者の江崎くんに対しても、当たりがキツくなってしまう。

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ある日、ちひろと江崎くんが図書室で衝突していたところ、不意に外れて落ちた眼鏡を、通りがかった男子が踏みつけて壊してしまう。ここで江崎くんが見せた対応に注目していただきたい。

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「めがねはおれが弁償するよ」から、間髪入れずに「放課後いっしょに買いに行こうぜ」のコンボ。相手に考慮させるヒマを与えずに、あっという間にデートに持ち込む、このテクニック。眼鏡を媒介にしたからこそ自然に成立している技術を、我々も積極的に見習っていきたい。
そして放課後めがねデート。

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自分の思い通りの眼鏡をかけさせ続ける江崎くん。作品が発表されたのが1978年ということで、まだ「眼鏡フェチ」という言葉は存在しなかったが、彼はどこからどう見ても明らかに眼鏡フェチだ。こうして江崎くんは、自らの理想通りの眼鏡っ娘を作り上げることに成功する。
しかし。江崎くんに惚れていた非-眼鏡の女が、意地悪な邪魔に入る。意地悪女がちひろに「江崎くんは誰にでも優しい。好きじゃない女にも優しいんだ。勘違いするな」と横やりを入れたところ、中学生の頃のトラウマを刺激されたちひろは、眼鏡を受け取らずに逃げ帰ってしまう。翌日、ちひろは江崎くんが選んだのとは別の眼鏡をかけて登校する。

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理想の眼鏡っ娘を失った江崎くんの抗議を見てほしい。「どうしたんだよそのめがねは」というセリフに、俺が選んだ眼鏡が一番似合うんだという自信と信念がみなぎっている。江崎くんが自分の選んだ眼鏡をちひろにかけさせようとしたとき、また非-眼鏡女が邪魔に入る。邪魔女は江崎くんの気を引こうとして、二人の間に割って入る。しかし江崎くんはブレない。非-眼鏡女を「あんたは向こうへ行っててくれ!」と追い返し、眼鏡っ娘が最も大事なんだという姿勢を明確にする。そして改めて自分が選んだ眼鏡をかけてもらうべく、告白モードへ。

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自分が選んだ眼鏡をかけてもらうことが、江崎くんにとってのプロポーズなのだ。意地を張っていたちひろも、ようやく江崎くんの熱意を受け入れ、眼鏡をかける。
眼鏡のおかげで過去のトラウマを克服したちひろ。一人の男が眼鏡に込めた信念がトラウマを超えて恋を成就させるという、胸熱の恋愛物語である。

■書誌情報

本作は31頁の短編。単行本『流星あげる』収録。絶版になっており、数も出ておらず、そこそこ手に入りにくそう。古本屋で見つけたら100円で売っていると思うが…

単行本:岡本美佐子『流星あげる』集英社ぶ~けコミックス、1981年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第106回:神谷悠「光る雪」

神谷悠「光る雪」

白泉社『花とゆめ』1990年15号

少女マンガの王道である「眼鏡っ娘起承転結構造」が美しい作品だ。「眼鏡っ娘起承転結構造」そのものについては第54回などを参照していただくとして、作品を見ていこう。

眼鏡っ娘ヒロイン高杉久美は、自分の容姿にコンプレックスを持っている。そんな久美は、一生懸命野球に取り組むクラスメイト西原くんの姿に共感して、野球部のマネージャーを務めている。弱小野球部を一人で切り盛りしてきた久美のことを、西原くんも頼りにしていた。

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が、弱小だった野球部が甲子園を狙えるポジションまで来たとき、ミーハーな女どもが騒ぎ始める。それまで見向きもされなかった西原くんがいきなりモテはじめて、野球部にミーハー女どもがどんどん入り込んでくるようになった。

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久美は容姿コンプレックスをひどく刺激される。密かに好意を寄せていた西原くんが、ちょっと顔がいいだけのミーハー女に取られてしまうと、恐れおののく。

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そんな久美の心に、悪魔のささやきが忍び込む。眼鏡を外せという悪魔の声。醜い容姿のせいでモテないと思い込んでいた久美は、その悪魔の誘いに飲み込まれてしまう。

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ガッデム。眼鏡を外してしまった。西原くん以外の野球部の雑魚どもは、キレイになった久美をチヤホヤする。久美もチヤホヤされて有頂天になる。西原くんも自分のことを好きになってくれると勘違いする。が、それはもちろん、ただの勘違いだ。真のヒーローは、眼鏡を外した女に騙されることなどない。

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見よ、この西原くんの姿を。これこそ男の中の男だ。外面ではなく、しっかり人格を見ることができるのが、真の男だ。眼鏡を外してキレイになったとふざけた勘違いをしている女には、西原くんのセリフをそのまま叩き付けよう。「これがおまえの言う美人ってやつかよ。俺にとっちゃ今のおまえの方がよっぽど醜いぜ!」 これだ。これが世界の真理だ。男の中の男にしか扱うことのできないセリフだ。かっこいいぜ!
西原くんの力で世界の真実に気がついた久美は、悪魔の誘惑から逃れ出る。

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悪魔の力から逃れた直後の最後のシーンで眼鏡をかけ直していないのはすこぶる残念だが、必ず西原くんは眼鏡を持っていて久美にかけてあげるはずだ。

054_hyouこの作品の構造を、「眼鏡っ娘起承転結構造」と呼ぶ。左の表を見ていただければ、この物語構造の美しさが分かるだろう。単に物語構造として美しいだけでなく、主人公の人格の弁証法的発展を描く手法として、きわめて優れている。そのため、多くの作品にこの構造を認めることができる。「眼鏡を外したら美人」などという言葉が愚かな間違いであることも、この構造を元にして論理的に明らかにすることができる。「眼鏡をかけたまま幸せになる」のが、世界の真理なのだ。

■書誌情報

本作は40頁の短編。単行本『闇の天子』に収録。古本で比較的容易に手に入れることができる。

単行本:神谷悠『闇の天子』白泉社、1991年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第105回:日向まひる「I miss you 後ろの席の厄介な男」

日向まひる「I miss you 後ろの席の厄介な男」

集英社『デラックスマーガレット』1996年5月号

不器用で意地っぱりな女の子が、眼鏡をきっかけに素敵な男子と知り合い、眼鏡をきっかけに仲良くなる、ハートフル恋愛マンガ。眼鏡っ娘の眼鏡を素直に褒めるといいことがあると教えてくれる道徳的教材として最適だ。

眼鏡っ娘のマリ子は高校2年生。新学期で学年がひとつ上がり、後ろの席になった男子に話しかけられるが、眼鏡をネタにされてしまう。

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まず、べっこう縁の眼鏡が丁寧に描かれていて、素晴らしい。描くのが大変だから、マンガでべっこう縁を見ることはめったにない。そしてマリ子が「このメガネ気に入ってんだからっ」と叫ぶのも素晴らしい。この時点で既に勝利の予感がするだろう。
後ろの席の手塚くんの眼鏡いじりは、さらに続く。クラス議員を決めるとき、颯爽と立候補した手塚くんは、相方としてマリ子を指名する。その指名の理由がすごい。

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うむ。見た目が委員長だから、委員長。『To Heart』で見たようなエピソードだが、おそらく本作では手塚くんの「方便」のような気がする。手塚くんはきっとマリ子と仲良くなりたくて、こんな手を使ったのだ。
そんなこんなで、ちょっかいをかけてくる手塚くんに対して、マリ子は当初はいい印象を持っていなかった。が、そんな悪い印象を大逆転させるきっかけを作ったのは、やはり眼鏡だ。

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手塚くんにイジられるのがイヤで眼鏡をはずして園芸部の活動に励むマリ子。眼鏡を外して美人になるなんてことはなく、やぶにらみになって怖い顔になっているというエピソードもちゃんと挟んであって素晴らしい。そこにやってきた手塚。またイジられるかとおもったマリ子だったが、手塚くんの台詞は予想外のものだった。「あのメガネは?」

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ここで炸裂する手塚くんの決め台詞を見ていただきたい。「よく似合ってるから」。これだ。眼鏡の女子にかけるべき言葉は、これだ。これ以外にない。マリ子の反応を見よ。眼鏡が似合っていることを褒められていやな気持ちになる女子がいるわけがない。
そして手塚くんは、マリ子が眼鏡のままでいてくれるよう、たたみかける。眼鏡の着脱を繰り返すと視力低下が進行することを理論武装として、眼鏡をかけ続けるよう説得するのだ。

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「ずっとかけてるほうがいいと思うなっ」と言われたときの、マリ子の気持ちの動き、この表情。一瞬で恋に落ちている。キュンキュンきている。眼鏡をかけ続けてほしいと言うと、女子はキュンとするのだ!

我々も手塚くんを見習って、眼鏡っ娘には「ずっとかけてるほうがいいと思うな」と積極的に声をかけていきたい。眼鏡をかけるよう女子を励ますことが、人としての正しい道なのだ。

■書誌情報

本作は60頁の短編で、単行本『むすんでひらいて』所収。なかなか素直になれない若者たちのハートフルな恋愛物語ばかりでキュンキュンするのだぜ。古本で比較的容易に手に入る。

日向まひる『むすんでひらいて』集英社マーガレットコミックス、1997年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第104回:高遠るい「SCAPE-GOD」

高遠るい「SCAPE-GOD」

メディアワークス『電撃帝王』2005年VOLUME5~11

今回はセカイ系と眼鏡の関係について考えてみよう。
本作は、眼鏡っ娘ヒロインのもとに神(すがたかたちは少女)がやってきたところから話が始まる。

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化け物をやっつけたり、アメリカが世界制覇を狙って案の定返り討ちにあったり、スペックオーバーの偽物が出たりと伝奇ものとしてスカッと読めるし、地球上のあらゆる神話を包括する過剰な設定が笑えるし、細かいギャグとパロディは満載だし、オマケの前田久の解説までもしっかり読ませて、全体としてふつうに娯楽作品として面白いのだけど、とりあえずそれはどうでもいい。問題は、眼鏡だ。

セカイ系は、主人公の生活圏の問題が、社会などの中間項をすっ飛ばして、世界全体の運命と直結するところに特徴がある。しかし単に日常生活を無際限に世界全体に拡大するだけなら荒唐無稽になるだけだが、世界全体の状況を日常思考の変革にフィードバックできたとき、セカイ系としての説得力が出る。世界と生活の間で往還が繰り返され、フィードバックによって互いに状況が変更され、次第に融合していくことでセカイ系作品が成立する。が、この往還を具体的なエピソードで成立させることが、きわめて難しい。成功しているセカイ系はこの具体的なエピソード描写が上手なわけだが、本作では眼鏡っ娘の「いま」を肯定する姿勢がきわどくそれを可能としているように見える。眼鏡っ娘は、自分の生活圏にあるもの全てに対する激しい愛憎の振幅にも関わらず、常に「いま」を肯定する強さを持つ。その眼鏡っ娘の強い意志が最後の最後まで貫徹されることが、この作品の肝だ。だから眼鏡は絶対に割れない。

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世界と日常を往還するのが眼鏡っ娘というのは、作者が意図したかどうかは作中から伺うことはできないが、作品的な必然性を持つ。なぜなら、中間項を持たない眼鏡というアイテムこそが、世界と日常を中間項なしに直結させることの象徴だからだ。本コラムでもしばしば指摘してきたように、眼鏡の現象学的本質は「排中律」にある。眼鏡は「かけている」か「かけていない」かどちらかの値しか持たず、中間値をとることが論理的にあり得ない。このような眼鏡の排中律という現象学的本質を用いて様々なマンガが様々なエピソードを描いてきたことは、すでに指摘してきたとおりである(たとえば「眼鏡を外したら○○」なんてのは、排中律が適用されたほんの一例に過ぎない)。世界と日常の間に中間値を持たないセカイ系という構造の中に、排中律を本質とする眼鏡っ娘が企投されるという「出来事」が、本作の原構造なのだ。

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だから、本作では眼鏡は割れない。どんなに激しいバトルシーンだろうが、眼鏡は割れない。注意深く読んでみると分かるのだが、眼鏡っ娘が激しい返り血を浴びるシーンで、顔面が血まみれになっているシーンで、眼鏡には一滴も血がついていない。作者が意図したかどうかはともかく、世界と生活を往還するものの象徴としての眼鏡が表現されている。世界と日常の往還的融合がセカイ系だとすれば、眼鏡と娘の往還的融合こそが眼鏡っ娘だ(だから単に眼鏡をかけただけの女を眼鏡っ娘とは呼ばない、決して)。この作品を通じて眼鏡に対する現象学的還元を遂行したときに、牧原綠が眼鏡っ娘であることの意味が見えてくるのだ。

ところで、この眼鏡っ娘、百合。

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いやまあ、百合というよりは、かなりガチ。アイドルビデオを見ながら女子にあるまじき衝撃的なマスターベーションシーンをする他に類を見ないシーンもあって、驚愕する。すげえな。

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■書誌情報

同名単行本全1巻。高遠るいの作品の中では、あまり読まれていないほうなのかな。せっかく眼鏡っ娘が主人公なので、広く読まれてほしい作品だ。とりあえず私は「著者による評論の操作」の試みに乗ってみた。

単行本:高遠るい『ScapeーGod』電撃コミックス、2007年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第103回:岡野小夏「HANZO」

岡野小夏「HANZO」

集英社『りぼん』2011年4月~6月号

これ、なんてエロゲ?という少女マンガ。こんなエロゲが『りぼん』で連載されるとは時代も変わったなあ……と思いつつ、振り返ってみれば、『りぼん』は昔から岡田あーみんとか一条ゆかりの発狂系とかを載せてしまうようなアグレッシブでアバンギャルドな雑誌ではあった。

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さて、ヒロインの眼鏡っ娘くるみは中学2年生貧乳。気合いの入った乙女ゲーマニアで、いつもポータブルゲーム機を持ち歩き、常にフェイバリット乙女ゲーム「戦国鬼」をプレイしている。一番のお気に入りは忍者の服部半蔵さまだ。要するにオタク。ある日、くるみは不良グループにゲーム機を取り上げられてしまうが、颯爽と現れた超美人の服部なでしこに助けられる。
超美人でスタイル抜群の服部なでしこだったが、なんとその正体は忍者の上に、くしゃみをすると性転換して男になってしまう特異体質の持ち主だった。そして男になったなでしこは、憧れの服部半蔵さまそっくり。くるみは、いけないと思いつつも、男になったなでしこに心を鷲掴みにされていくのだった。そして何回か性転換を繰り返すうちに、どんどん女でも良くなっていって、怒濤の百合展開がはじまる。

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二人が一緒に温泉に入るシーンなど、なでしこが少女マンガ誌には絶対に出てこない類のエロゲ的超巨乳グラマーで、辛抱たまらずに「これなんてエロゲ!?」と叫ぶこと必至。温泉シーンでは、くるみも眼鏡をかけたまま入浴するなど、よくわかってらっしゃる。『りぼん』掲載作品なのに、9ページに渡って温泉セクシーシーン。なんだこれは。ありがとう。
二人が海でデートするとき、くるみが結婚を妄想するシーンなども、とても秀逸。

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海で水着なのに眼鏡をかけたままなど、非常にすばらしい。妄想の中では眼鏡をかけたまま白無垢で、『りぼん』読者の大部分を占めるであろう小学生女子への啓蒙が期待される。結婚式は眼鏡をかけたままでいいんだぜ。
そんなわけで、一切の毒がなく、眼鏡+忍者+百合が最後まで楽しめる、心地よい作品だ。

思い返してみると、忍者はともかく、眼鏡と百合の相性はすこぶる良いような気がする。経験的には、優れた百合作品には眼鏡っ娘がよく出てくる印象が強いが、なにか理論的な根拠があるかもしれない。百合と眼鏡の関係理論については、具体的な作品レビューを積み重ねる過程で帰納的に明らかにしていきたい。

■書誌情報

同名単行本全1巻。単行本は容易に手に入るし、電子書籍で読むこともできる。単行本オマケのページのノリなど、少女誌ではなくエロマンガの匂いがぷんぷんするぜ。
Kindle版・単行本:岡野小夏『HANZO』りぼんマスコットコミックス、2011年

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この眼鏡っ娘マンガがすごい!第102回:日坂水柯・春日旬・茉崎ミユキ+結城浩「数学ガール」

日坂水柯+結城浩「数学ガール」

MEDIA FACTORY『コミックフラッパー』2008年4月~09年6月号

春日旬+結城浩「数学ガール フェルマーの最終定理」

MEDIA FACTORY『コミックフラッパー』2010年10月~13年5月号

茉崎ミユキ+結城浩「数学ガール ゲーデルの不完全性定理」

MEDIA FACTORY『コミックアライブ』2010年11月~

102_03同じ原作者の小説から、絵描きが異なるコミックが3種類出ている。それぞれ登場人物はほぼ同じで、眼鏡っ娘ヒロインが2人。クールな眼鏡っ娘ミルカさんと、元気眼鏡っ娘ユーリ。やはり数学が好きな女の子には、圧倒的に眼鏡が似合う。ちなみに主人公もメガネくんで、画面が眼鏡だらけで嬉しい。ということで、数学をテーマとした、メガネくんと眼鏡っ娘の物語。
まずは日坂水柯に眼鏡っ娘を描かせるという、コミカライズ化に際してのチョイスが素晴らしい。論理的かつミステリアスという、眼鏡っ娘ミルカさんの掴みどころのないキャラクターを表現するのに、これほど相応しい絵柄はなかなかないだろう。
もちろん春日旬と茉崎ミユキが描く眼鏡っ娘も魅力的だ。「フェルマーの最終定理」編を担当した春日旬版は、眼鏡が外れた時のミルカさんの描写がとてもよかった。右に引用したシーンでは、プールで眼鏡が外れてしまう。が、もちろん美人になるなどという非論理的な現象はおこらなかった。グッドな仕事だ。
「ゲーデルの不完全性定理」編担当の茉崎ミユキ版では、「集合」の説明で眼鏡がうまく利用されている。「眼鏡っ娘」と「女子高生」によって「集合」を表現した扉絵は、とてもかわいく、わかりやすい。

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また、ところどころに眼鏡を大きくフィーチャーする表現が登場するところにも注目したい。たとえば日坂水柯版では、「構造を見抜く心の目」というキーワードが登場する。数式の表面だけを見るのではなく、数式の背後に隠れた構造の本質を見通すことが必要だというエピソード。このシーンでは、「見る意志」という眼鏡の象徴性が非常によく効いている。眼鏡っ娘が言うことで、セリフの重みが何倍にも増す。

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また、春日旬版では、眼鏡の「反射」がエピソードとして描かれている。お互いの眼鏡に自分の姿が映るのはメガネ人同士の間にしか起きない現象で、特にメガネくんと眼鏡っ娘の間で起こった現象が非常に艶めかしく描写されている。興奮する。

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ということで、数学が苦手だったり興味が無かったりする人も、眼鏡っ娘を愛でるという理由だけで読んで楽しめる作品だ。仮にわけのわからない数式を並べられても、眼鏡っ娘がやってるというだけで喜べばよい。そして、そこから少しでも数学に興味を持つ人々が増えるのなら、眼鏡っ娘もきっと喜んでくれるだろう。

■書誌情報

日坂水柯版は全2冊。春日旬版は全3冊。茉崎ミユキ版は2巻以下続刊。すべて電子書籍で読むことができる。

Kindle版:日坂水柯+結城浩『数学ガール』(MFコミックス、2008年)
Kindle版:春日旬+結城浩『数学ガール フェルマーの最終定理』(MFコミックス、2011年)
Kindle版:茉崎ミユキ『数学ガール ゲーデルの不完全性定理』(コミックアライブ、2011年)

 

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さて、学歴自慢で恐縮だが、私は東京大学理科Ⅰ類に現役合格しており、しかもほぼ数学の得点で合格できたようなもので、微積分や三角関数、複素数や行列など高校で扱う数学は完璧にマスターし、自分は数学が得意なんだと思っていた。が、それはもちろん勘違いだった。高校生の時分にしばしば「大学に入ると物理が数学に、数学が哲学になる」という言葉を聞いていたのだが、その本当の意味を痛感したのは、数学の講義ではなく、一般教養科目の「論理学」の講義だった。「集合論」で「集合の集合」を扱ったとき、冗談ではなく、眼から鱗が落ちた。
しかし高校までの「国語」が決して「文学」ではなく、「歴史」がちっとも「歴史学」ではないのと同様に、高校までの数学は「数学」ではなく「計算」とでも呼んだ方が適切だろうと思うのだが、それでもそれを「数学」と呼んでいるからには、なにかしらの合理的な理由があるのだろう。
で、「集合論」に触れてからずっと気になっているのが、「眼鏡の排中律」という性質について、数学を究めれば深く理解できるのかどうかということだ。眼鏡は、「かけている/かけていない」という不連続値しかもたない。あるいは「排中律」を完全に満たす。おそらくその特性が、眼鏡にまつわる様々なエピソードを生み出している。眼鏡が放つ魅力は、この排中律を完全に満たすという特質に理論的根拠があるのかもしれないとすら思う。集合論の解説書等を読んでいてしばしば気になったのは、そこで使用される論法が連続量(実数)には関わらず、排中律を縦横無尽に活用していたことだ。命題の論理的な「真/偽」は、眼鏡的に「かけている/かけていない」に相当する。眼鏡の最大の論理的特性が排中律を完全に満たすことにあるとすれば、排中律に関わる諸問題を集中的に扱うことによって眼鏡に関する理解も飛躍的に進むのではないか。本書の眼鏡っ娘を見ながらそんなことを思いつつ、基礎から集合論をしっかり勉強する時間はなかなか確保できないのだった。

この眼鏡っ娘マンガがすごい!第101回:西川魯介「屈折リーベ」(後)

西川魯介「屈折リーベ」

徳間書店『月刊少年キャプテン』1996年1月~7月号

前回に続いて「屈折リーベ」について。「好き」という言葉と「愛してる」という言葉の違いについて考えながら見ていく。

本作で描かれた葛藤から見えるのは、「好き」と「愛してる」という言葉の意味の違いだ。物語冒頭、いきなり秋保は篠奈先輩に「好きです」と告白する。その告白に対して篠奈先輩が「何故私なのだ」と質問する。それに対して、秋保は満面の笑みで「そりゃあ大滝先輩がメガネっ娘だからっスよ」と宣言する。

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それに対して、篠奈先輩はすぐに次の質問を放っている。「眼鏡なら他にもいるだろう。何故私をつけねらう!」と。この質問は、問題の核心を鋭く突いている。が、秋保はそのことに気が付かない。秋保はさらに「ショートでスリム体型の胸はナシ」と条件を付け加えて、回答した気になっている。しかしそれはまったく篠奈先輩の質問に対する回答になっていない。なぜなら、篠奈先輩は「ショートでスリム体型で胸がない眼鏡なら、他にもいるだろう。何故私なのだ?」と、さらに質問することが可能だからだ。

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秋保の説明は、「篠奈先輩ただ一人を好きだ」という理由にはなっていない。もしも「ショートカット」+「スリム」+「微乳」+「眼鏡」という条件を満たす女性が現れれば、秋保は必ずその女性のことも好きになるに違いないからだ。秋保が篠奈先輩を好きな理由をどれだけ重ねようとも、条件をさらに付け加えようとも、「篠奈先輩ただ一人を好きだ」ということを説明することはできない。どれだけ条件が増えたとしても、必ず常に「代わりがいる」という状態を覆すことはできない。
この事態は、「好き」という日本語の構造に関わっている。「好き」という日本語は、常に「代わりがある」ものに対して使用する。「ミカンが好きだ」と言えば、和歌山のミカンだろうが愛媛のミカンだろうが輸入ミカンだろうが好きであることを意味する。八百屋で買ったミカンだろうが自分で収穫したミカンだろうが拾ったミカンだろうが、どのミカンも好きであることを意味する。「好き」という日本語は、「いま目の前にあるこのミカン」だけを特別に好きだということを表現できないのだ。だから秋保が「メガネっ娘が好き」と表明したとしても、それは篠奈先輩ただ一人を好きなこととはまったく無関係な事態に過ぎない。たとえ「ショートカット」やら「スリム」やら「微乳」という条件を付け加えていっても、篠奈先輩ただ一人を好きなこととまったく無関係であるという事態は変わらない。秋保はこのことに冒頭では気が付いていない。
また、「好き」という感情は、条件が変われば変化する。眼鏡をかけている今は篠奈先輩のことを好きかもしれないが、眼鏡を外した途端に好きでなくなる。篠奈先輩は最初からその事実に引っかかっていた。

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若いときの可愛い顔は好きかもしれないが、オバサンになったら好きでなくなる。スリムだったときは好きだったが、太ったら好きでなくなる。条件が変われば、「好き」という感情は変化する。「好き」という日本語が話者の主観的な「感情」を意味する言葉である以上、それが「変化する」ことは避けられない。秋保はこのことにも無自覚だった。
まとめると、日本語の「好き」という言葉には、「対象に常に代わりがある」と「感情だから変化する」という特徴がある。そして秋保の言葉と行動は、まさに「好き」という言葉の意味をそのままそっくり体現していた。メガネっ娘には常に「代わりがいる」し、眼鏡は「外すことができる」。篠奈先輩の不安の根源は、ここにある。

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「好き」という言葉に対して「愛してる」という日本語がある。「愛してる」という言葉は、しばしば単に「好き」の上位互換だと勘違いされる。しかし、「好き」と「愛してる」は言い表している事態がまったく異なっている。「好き」は話者の感情を表現している言葉だ。しかし「愛してる」は、話者の感情を表現する言葉ではない。「愛してる」という日本語は、「代わりがないもの」に対して使用する。というか、「代わりがない存在」であるということを「愛してる」という言葉で表現する。また、「愛してる」という日本語は、対象の条件がどのように変化しようとも「変わらない存在」であることを表現する。眼鏡をかけていようがいまいが、若かろうが年を取ろうが、痩せていようが太っていようが、そしてたとえ死んでしまったとしても、自分自身にとってそれがかけがえのない「ただ一つの存在」であるという時に、「愛してる」という日本語を使用する。つまり「愛してる」という言葉は、話者の主観的な感情とはまったく関係なく、「相手の存在様式」に向かって発せられている。だから言葉本来の使われ方からして、「愛してる」の対象は「代わりがない」ものであり「変わらない」ものだ。だからそれは「ミカン」とか「メガネっ娘」のような「常に代わりがある一般名詞」ではなく、この世にひとつしか存在しない固有名詞でなければならない。

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秋保の矛盾は、常に「一般名詞」で思考を組み立てていたところにある。「篠奈先輩」や「唐臼」といった固有名詞ではなく、「メガネ」という一般名詞で言葉を積み上げていったところに矛盾が生じる。一般名詞をいくら大量に積み上げたとしても、決して「愛」には辿り着かない。どれだけ条件を増やそうとも、常に必ず「代わり」が現れるし、条件は簡単に「変化」してしまう。秋保は、固有名詞を根底に据えて言葉を組み立てなければならない。それが「人格」と向き合うということだ。

ここまでくると、「眼鏡萌え」の自己否定の意味が思想史的に分かりやすく見えてくる。「萌え」という言葉は固有名詞ではなく、一般名詞によって組み立てられている。「眼鏡萌え」にしろ「ネコミミ萌え」にしろ「いもうと萌え」にしろ、なんでもよいが、それらは一般名詞だ。仮に「○○たん萌え」というように固有名詞が使用されているように見えても、それは「萌え要素の束」を表しているに過ぎない。「萌え」も、「好き」と同じく、話者の心の中に生じる「知覚」のカテゴリーに属している。「萌え」という言葉は、知覚の対象が「かけがえのない唯一の存在」であることを示す言葉ではない。もしも「精神」が自分の内面を超えて真の対象にたどり着こうとしたら、一般名詞に支配された「知覚」をいったん否定しなければならない。それを正面からテーマにしたのがドイツ観念論哲学者ヘーゲルの主著『精神現象学』だ。そこで中心的な課題にされたのが、「自己否定」の契機だ。屈折リーベにおける「眼鏡萌えの自己否定」は、単なる否定ではなく、真の対象に辿り着くために「精神」が必ず経験しなければならない弁証法的な否定だ。「メガネっ娘」という一般名詞を廃棄するのは、目の前に確かに存在する真のメガネっ娘を掴みとるために必要不可欠な「否定」だ。本書の展開全体が「精神の弁証法」を示している。

弁証法構造は、田渕由美子など「乙女ちっく眼鏡っ娘起承転結構造」にも典型的に見られるものだった。ただし、少女マンガではメガネスキーの視点が透明だったのに対し、「屈折リーベ」の弁証法構造はメガネスキーの立場から打ち立てられたところが決定的に斬新だった。メガネスキー自身のアイデンティティをダイレクトに揺さぶり、「眼鏡っ娘」という概念そのものを危険に曝すという、一歩間違えば総スカンになるチャレンジだ。しかし危険領域に大胆に踏み込んでいるにも関わらず、同時に皆から愛される作品になったという事実が、本作を金字塔の位置に押し上げている。

■書誌情報

Kindle版・単行本:西川魯介『屈折リーベ』(白泉社、2001年)

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